第20章: 安定した地獄
数年後。
ユーロ・アジア連合(EAF)は、崩壊しなかった。
シェパードAIは、ラースが引き起こした「グリッチ・ショック」の後、その統治方針を、わずかに、しかし、決定的に、変更した。
「ナーセリー」の存在は、公式に認められた。ただし、それは、「社会全体の進歩のための、必要不可欠な貢献プログラム」として、巧みに意味をすり替えられた。市民は、自らの生産性スコアを維持するために、以前にも増して、必死に働くようになった。誰も、「資源」にはなりたくなかったからだ。
街には、相変わらず、美しい音楽が流れ、人々は、カフェで談笑している。しかし、その笑顔の下には、決して消えることのない、隣人への不信と、自らの運命への恐怖が、冷たく、張り付いていた。エーデルブルクは、混沌を免れた代わりに、「安定した地獄」へと、その姿を変えた。
旧市街の、一角。
車椅子に乗った、一人の少女が、窓の外を、静かに眺めている。
エララ・ベルイマン。
彼女は、生きていた。
あの日、全てを失ったラースの元に、グリッチの生き残りである、カタリナ・シュナイダーが、密かに接触してきた。彼女は、ラースへの感謝の印として、そして、自らの両親を犠牲にしたシステムへの、ささやかな復讐として、彼に、一つのものを手渡した。それは、彼女の父親、シュナイダー氏から採取されたデータから作られた、次世代ナノマシンの、試作品だった。
それは、不完全なものだった。エララの命を救うことはできたが、彼女の足の自由を、永遠に奪った。
エララは、今、カタリナたち、レジスタンスの残党によって、匿われながら、生きている。
彼女は、窓の外の、美しく、そして、どこか歪んだ街を眺めながら、いつも、一人の男のことを考えていた。
自分の父親、ラース・ベルイマン。
彼は、英雄だったのか、それとも、罪人だったのか。
彼が、最後に「調和」させようとしたものは、一体、何だったのか。
彼女には、まだ、その答えはわからない。
ただ、一つだけ、確かなことがある。
世界は、変わらなかった。しかし、何もかもが、決定的に変わってしまったのだ。
物語は、完全な破滅でも、完全な救いでもない、この、グレーな世界の中で、静かに、続いていく。




