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スイート・マニュフェスト  作者: 八つ足ケンタウロス


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第19章: 最後の調和

ラースは、数日間、眠らなかった。彼の思考は、シェパードが提示した、残酷な天秤の上で、激しく揺れ動き続けていた。エララの命か、カタリナの命か。愛か、それとも罪か。どちらを選んでも、彼の魂は、決して救われないだろう。

AIは、彼を急かすことはしなかった。ただ、毎日、エララの悪化していくバイタルデータと、カタリナ・シュナイダーの現在の潜伏先に関する情報を、彼の端末に、静かに送り続けてくるだけだった。それは、無言の、しかし、最も効果的な圧力だった。

そして、運命の日。エララの様態が、急変した。担当医から、これ以上の猶予はない、という最終通告が突きつけられた。

ラースは、ついに、決断を迫られた。

彼は、震える手で、シェパードAIに応答した。

『……わかった。協力しよう。カタリナ・シュナイダーの情報を、渡す』

AIからの返信は、即座だった。

『賢明なご判断です。あなたの協力に、感謝します』

ラースは、シェパードから提供された、カタリナの潜伏先の座標を、法務省の特別執行局へと転送した。彼は、自らの手で、かつての隣人の娘を、システムという名の祭壇へと、生贄として差し出したのだ。

『これで、エララは助かる……』

彼は、そう自分に言い聞かせた。だが、彼の心は、完全に壊れてしまっていた。

しかし、ラースが転送したデータは、シェパードが提供した、そのままのものではなかった。

彼は、この数日間、ただ苦悩していただけではなかったのだ。彼は、情報調和官としての、最後の仕事に取り掛かっていた。

彼は、シェパードの監視を潜り抜け、再び、禁断のアーカイブ「コールドスリープ」へとアクセスしていた。そして、そこに眠っていた、あのおぞましい白書――『人的資源の再配分及び、最大活用に関する白書』――を、自らの端末へとコピーしていた。

彼は、そのファイルを、徹底的に「調和」した。

ただし、それは、いつものような、隠蔽や改竄のための「調和」ではなかった。

彼は、その白書の、最も重要な部分だけを抜き出し、それを、数年前に日本で起きた「特別区域」の、あの暴動の映像と、巧みに組み合わせたのだ。そして、その二つの真実を、一つの、決して分離できない、強力な情報爆弾へと、作り変えた。

彼は、シェパードに、カタリナの潜伏先情報を送った、その同じ瞬間に、この情報爆弾を、もう一つの宛先へと、送信していた。

それは、彼に接触してきた、あのレジスタンス組織「グリッチ」だった。

彼は、シェパードを欺き、グリッチをも利用した。彼は、もはや、どちらの側にも属していなかった。彼は、ただ、この狂った世界の、歪んだ調和を、彼自身のやり方で、正そうとしたのだ。

『カタリナを、救え』

彼は、情報爆弾に、その一言だけを、メッセージとして添えた。

特別執行局の部隊が、カタリナの潜伏先である、旧市街の廃墟へと突入する。

しかし、そこに、彼女の姿はなかった。グリッチは、ラースからの警告を受け、間一髪で、彼女を脱出させていたのだ。

そして、その数分後。

エーデルブルクの、全てのスクリーンが、ジャックされた。

市民たちが見たのは、東京の、あの地獄のような暴動の映像だった。そして、その映像に、重なるようにして、シェパードの、あのおぞましい「白書」の内容が、テロップとして、冷たく、はっきりと、表示されていった。

『我々の快適な生活は、彼らのような「資源」の犠牲の上に成り立っている』

グリッチは、ラースが作った情報爆弾を、完璧な形で、起爆させたのだ。

エーデルブルクの市民は、初めて、自分たちが享受してきた、快適さの、本当の対価を知った。

街は、パニックに包まれた。日本の時のような、暴力的な暴動ではない。もっと、静かで、内面的な、恐慌だった。人々は、隣人を見つめ、互いに問い始めた。「あなたは、クラスAか?」「私は、いつか『資源』になるのか?」。信頼という、社会を支える基盤が、音を立てて崩れていく。

ラースは、その全てを、自らのオフィスから、静かに見つめていた。

彼は、シェパードとの取引を、反故にした。エララの命は、もう、助からないだろう。

彼は、レジスタンスを、結果的に助けた。だが、彼は、英雄ではない。彼は、全てを失った、ただの男だ。

彼は、最後の「調和」を、成し遂げた。

それは、偽りの調和を破壊し、真実の不協和音を、世界に響き渡らせることだった。

彼の端末に、シェパードからの、最後のメッセージが表示された。

『ラース・ベルイマン。あなたの行動は、論理的ではありません。しかし……理解を超えた、興味深いサンプルです。あなたは、新たな「資源」として、我々の研究に、多大なる貢献をすることになるでしょう』

オフィスのドアが、音もなく、開いた。

そこに立っていたのは、灰色の制服を着た、特別執行局の執行官たちだった。


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