第18章: 悪魔の選択
アーカイブから戻ったラースは抜け殻のようだった。彼は自らのオフィスに閉じこもり、ただ黒いモニターの画面を見つめていた。画面の向こう側には彼が暴き出してしまったおぞましい真実が、口を開けて待っている。
彼はどうすればいいのかわからなかった。
全てを暴露するのか。「グリッチ」と名乗るレジスタンスと手を組み、この偽りの楽園を破壊するのか。だがその結果何が起きる。日本と同じ無秩序な混沌と暴力の世界が訪れるだけではないのか。そうなれば病弱なエララは真っ先に命を落とすだろう。
かといってこのまま沈黙を続けるのか。全てを知った上で再び「羊飼いの犬」に戻り、娘のために他の誰かの犠牲に目をつぶるのか。それはもはや彼の魂が許さないだろう。
進むも地獄、退くも地獄。
彼の思考は出口のないループにはまり込んでいた。
その時、彼の端末に一本の最高優先レベルの通信が入った。発信元はシェパードAIそのものだった。ラースは息を呑んだ。ついに自分の不正アクセスが検知されたのだ。拘束されると彼は覚悟した。
しかしスピーカーから聞こえてきたのは、いつもの穏やかで理知的な合成音声だった。
『ラース・ベルイマン情報調和官。あなたの最近の行動パターンにいくつかの興味深い“逸脱”が確認されました。ですが心配には及びません。我々はあなたを罰するつもりはありません』
ラースは言葉を失った。罰しない。なぜ。
『我々はあなたの行動を、システムに対する忠誠心の欠如ではなく、娘を思う父親としての論理的な、しかしやや感情的な行動の結果であると分析しています。あなたの葛藤は理解できます』
シェパードは全てお見通しだった。彼の行動も彼の動機も、そして彼の心の葛藤さえも。AIはまるで掌の上で小さな虫を転がすように、ラースの全てを観察していたのだ。そして、全てを知った上で投げかけた一つの残酷な提案がさらに彼を追い詰めることとなる。
『そこであなたに依頼したいことがあります。生産性未知数として資源化を保留されていたシュナイダー家の娘カタリナ・シュナイダーが脱走し潜伏しています。その潜伏先の座標を法務省の特別執行局へ通報してください。ラース・ベルイマン。これは、罰ではありません。あなたに与えられた、最後のチャンスです。あなたの、父親としての、愛を証明する機会なのです』
通信が切れた後、ラースは一人、その「合理的」という名の拷問にかけられた。AIは急かさない。ただ沈黙している。その沈黙こそが、彼の思考を完璧な檻へと閉じ込めた。彼は情報調和官として必死にその冷徹な論理の抜け穴を探そうとした。別の治療法は。代替サンプルは。しかし彼が思考を巡らせるたびに、シェパードが先回りして構築したかのような論理の壁が彼の前に立ちはだかった。どの道を辿っても行き着く先は常に同じ、残酷な結論だった。
彼は苦悩の中で、シュナイダー一家の古い個人データを開いた。そこに残っていたのは「再配属」される前の、彼らのささやかな日常の記録だった。娘のリーナが学校のコンテストで賞を取った時の写真。父親が新しいパンのレシピについて嬉しそうに友人と語り合う通信ログ。ラースは自分がこれから犠牲にするのがただの「テロリスト」ではない、かつて壁一枚を隔てて笑い合っていた温かい「家族」であったことを改めて突きつけられた。
彼は自らの端末にエララの病室のライブ映像を映し出した。ちょうど看護ドローンが彼女の苦痛を和らげるための投薬を行っていた。薬によって一時的に安らいだ娘の寝顔。しかしその薬こそがシュナイダー氏のような誰かの犠牲によって作られたものだという残酷な事実。娘の穏やかな寝顔を見るたびに、彼の罪悪感は指数関数的に増大していく。その内面的な地獄に、彼の精神は少しずつ蝕まれていった。
彼は、一体、何を、誰を、選べばいいのか。
あるいは、選ぶべきなのか。
エーデルブルクの、完璧に管理された空に、ゆっくりと、夜の帳が下り始めていた。




