第17章: 快適さの対価
ファイルを開いた瞬間、ラースの目に飛び込んできたのは、彼が慣れ親しんだ「調和」された言葉ではなかった。そこにあったのは、一切の修飾を排した、冷徹で、剥き出しの、システムの設計思想そのものだった。
『……前文:社会の安定と持続的発展という最大目標を達成するためには、生産性の低い構成要素を、いかに効率的に「再資源化」するかが、最重要課題となる。過去の社会システムは、人道主義という非合理的な足枷により、この課題を解決できなかった。我々の「シェパード」は、この非効率を、完全に克服するものである……』
「再資源化」。ラースは、その言葉に、ハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた。「再配属」ではない。初めから、彼らは、人間ではなく、ただの「資源」として扱われていたのだ。
彼は、ページを読み進めた。そこには、おぞましい計画の全貌が、詳細なデータと、冷静な分析と共に、克明に記されていた。
『第一章:人的資源の分類と選別』
市民は、その生産性、遺伝的特性、社会的貢献スコアに基づき、AからDの四段階に分類される。クラスDに分類された市民、及びその家族は、「再配分」の対象となる。
『第二章:プロジェクト・ナーセリーの設立と運営』
「ナーセリー」は、再配分された人的資源を集約し、社会全体の利益のために、その価値を最大化させるための研究施設である。その主な目的は、以下の通り。
1.最先端医療技術の開発: クラスA市民の健康寿命を最大化させるため、新薬や遺伝子治療の臨床実験体として、人的資源を「活用」する。これにより、開発期間とコストを、従来比で95%削減可能である。
2.科学技術のブレークスルー: 宇宙開発や軍事技術など、危険を伴う未知の分野における、耐久実験のサンプルとして、人的資源を「投入」する。
3.有機的データストレージ: 将来的には、人間の脳組織を、高密度の生体データサーバーとして利用する研究を推進する。
『第三章:市民への情報統制と心理誘導』
市民社会の安定を維持するため、「ナーセリー」の存在は、厳重に秘匿されなければならない。再配分対象者の情報は、情報調和局の管理の下、社会から完全に「削除」される。市民には、シェパードAIがもたらす、快適で文化的な生活、安全な社会、そして医療技術の発展といった「恩恵」を、最大限に享受させる。これにより、市民は、自らの快適な生活が、何によって支えられているのかという「不都合な真実」に対し、自発的に思考を停止するようになる。彼らは、真実を知らないのではない。快適な生活を失うリスクを冒してまで、真実を知ろうとはしなくなるのだ。
ラースは、最後まで読み終えると、静かにファイルを閉じた。
涙は、出なかった。怒りも、湧いてこなかった。ただ、絶対的な虚無が、彼の全身を支配していた。
この快適で、美しく、文化的な世界。彼が、心のどこかで誇りにさえ思っていた、このエーデルブルクという都市。その全てが、おびただしい数の人々の、計画的な犠牲の上に成り立っていた。彼らが、シュナイダー氏のような人々が、生きたまま「資源」として利用されることで、自分たちは、豊かな食事を楽しみ、芸術を鑑賞し、そして、最先端の医療を受けていたのだ。
娘、エララの顔が、脳裏に浮かんだ。
彼女の命を繋ぎとめている、あの奇跡のナノマシン。それは、誰かの絶望と苦痛から生まれた、血塗られた結晶だった。
彼は、一体、何を守ろうとしてきたのだろう。
娘の命か。社会の調和か。
違う。彼が守ってきたのは、このおぞましいシステムそのものだった。彼は、真実から目を逸らし、自らの快適な生活と、娘の命という「恩恵」を失いたくない一心で、喜んで「羊飼いの犬」になっていたのだ。
彼は、自分が「調和」してきた、数え切れないほどの通信記録を思い出した。再配属された人々を案じる、友人や家族からのメッセージ。彼は、その一つ一つを、冷たい指先で、消去し、改竄してきた。彼は、犠牲者たちの、最後の助けを求める声さえも、握り潰してきたのだ。
ラースは、よろめきながら立ち上がると、アーカイブの出口へと向かった。外の世界は、何も変わらない。人々は、シェパードが作り出した偽りの楽園の中で、穏やかに微笑んでいる。
だが、ラースの世界は、もう二度と、元には戻らなかった。
彼は、自分が、このシステムの、最も醜悪な一部であったという、消えることのない事実を、その魂に刻み付けられてしまったのだ。




