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スイート・マニュフェスト  作者: 八つ足ケンタウロス


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第15章: 羊飼いの囁き

数週間が過ぎ、東京からの残響はシェパードAIの巧みな情報戦略によって、市民の間では「過去の教訓」として完全に消化されていた。ラースの日常も、元の静けさを取り戻したように見えた。彼は心の奥底で鳴り響く、あの男の叫び声をかき消すかのように、以前にも増して自らの「調和」の仕事に没頭した。

その日も、彼はオフィスで淡々と業務をこなしていた。彼の端末に、シェパードから新たなタスクが割り当てられる。

『情報調和案件 ID-C9812。対象:市民SNS投稿』

モニターに表示されたのは、ある初老の女性の投稿だった。『第3地区の再開発で、夫と初めて会った小さな公園がなくなるらしい。寂しいな』。それは、誰かを攻撃するわけではない、ごく個人的で感傷的な呟きだった。

シェパードの分析は、冷徹だった。

『この投稿は、共同体内に潜在するノスタルジア感情を刺激し、再開発計画への支持率を0.03%低下させる可能性がある。社会全体の幸福度維持のため、以下の“調和”案を推奨』

提示された修正案は、こうだ。『新しい公園、楽しみですね!古い思い出も大切だけど、未来の子供たちのために、街が新しくなるのは素晴らしいこと!』

ラースは一瞬、指を止めた。女性の、あの寂しそうな顔が脳裏をよぎる。だが、彼はすぐにその感傷を振り払った。これも社会全体の調和のためだ。個人の小さな痛みよりも、全体の幸福が優先されるべきだ。そして何より、この仕事の対価が、エララの命を繋いでいる。彼は自分にそう言い聞かせると、震えることのない指で「承認」のキーを押した。彼の社会貢献スコアが、わずかに上昇したことを示す緑色の通知が、画面の隅に静かに表示された。

彼は、こうした小さな罪を重ねることで、良心を麻痺させていた。そうしなければ、正気ではいられなかったのだ。

しかし、その平穏は、突如として破られた。

その日、エララの担当医から、緊急の呼び出しがあった。ラースが病室に駆けつけると、モニターに表示された娘のバイタルサインが、軒並み危険な数値を指していた。

「ベルイマンさん、落ち着いて聞いてください」担当医は、冷静な、しかし深刻な面持ちで言った。「エララさんの体内で、ナノマシンに対する、予測不能な拒絶反応が確認されました。原因は不明です。このままでは、多臓器不全に陥る危険性があります」

ラースの頭の中が、真っ白になった。そんなはずはない。シェパードは、完璧なはずだ。

「何か、方法は…治療法はあるんですか!」

「一つだけ」担当医は、手元の端末に視線を落とした。「シェパードが、新しい治療プロトコルを提示しています。現在、まだ臨床段階にある、遺伝子レベルで個人に最適化された、次世代のナノマシンです。これを使えば、エララさんを救える可能性は、極めて高い」

希望の光が見えたかのように思えた。だが、担当医の次の言葉が、彼を再び絶望の淵へと突き落とす。

「しかし、この治療を受けるには、あなたの現在の『社会貢献スコア』では、わずかに足りません。優先順位は、よりスコアの高い市民が上になります」

スコアが、足りない。彼の、これまでの「調和」が、娘の命を救うには、まだ不十分だというのか。

その夜、ラースは、自らのオフィスで、途方に暮れていた。どうすれば、短期間でスコアを上げられる? 彼は、自らの権限を使い、スコアの算出アルゴリズムを調べ始めた。より重要度の高い「不協和音」を、より多く「調和」させれば、スコアは飛躍的に上がるかもしれない。

彼は、AIが「要注意」として分類している、未処理の禁制情報リストにアクセスした。その中に、何か、大きな獲物はないか。リストをスクロールしていく、その指が、不意に止まった。

『指定ID-F4580。ベルイマン家の旧隣人、シュナイダー一家に関する断片的データ』

シュナイダー一家。ラースがまだ、この職に就く前に、同じ集合住宅の隣のユニットに住んでいた、三人家族だ。父親は、気のいいパン職人だったが、伝統的な製法にこだわりすぎたため、AIが管理するオートマティック・ベーカリーとの競争に敗れ、「生産性スコア」が著しく低下した。そして、ある日、突然、「地方の農業プラントへ再配属になった」という通知一枚を残して、一家は姿を消した。ラースも、当時は、気の毒には思ったが、システムの決定なのだから仕方がない、と自分を納得させた。

なぜ、彼らのデータが、今ここに?

好奇心と、かすかな胸騒ぎに駆られ、ラースはファイルを開いた。そこにあったのは、意味不明な文字列と、生体データらしきグラフの断片だけだった。しかし、ファイルの末尾に記された、発信元のセクターコードを見て、彼は凍りついた。

『医療研究セクター、第9ラボ』

農業プラントではない。医療研究セクター? なぜ?

ラースの脳裏に、いくつもの不穏な点が、線として結びつき始めた。彼が「調和」してきた、数々の「再配属」された人々の情報。彼らが、新しい任地で「元気にやっている」という、AIが生成した偽りの通信記録。そして、シェパードの管理下で、驚異的なスピードで発展を続ける、EAFの最先端医療技術。

まさか。

そんなはずはない。

ラースは、激しく頭を振った。それは、システムの根幹を揺るがす、あまりにも冒涜的な疑念だった。だが、一度芽生えた疑いは、毒のように彼の思考を侵食していく。

彼は、震える手で、シュナイダー一家の父親の、生体データの詳細を開いた。そこに、一つの記述を見つけた。『サンプルG-3。ナノマシン拒絶反応に対する、新規免疫抑制剤の臨床試験データ』。

その瞬間、ラースは、全てを理解した。

彼の娘、エララを救うための、あの「次世代のナノマシン」も、そして、その拒絶反応を抑えるための、新しい薬も。その全てが、シュナイダー氏のような、「再配属」された人々を「サンプル」とした、生きた人間に対する臨床実験によって、開発されていたのだ。

ラースは、椅子から崩れ落ちそうになった。彼がこれまで信じてきた、清潔で、文化的で、人道的なこの世界。その美しい皮の下には、おびただしい数の人間の犠牲によって成り立つ、血塗られた真実が隠されていた。そして、自分は、その真実を隠蔽する、「羊飼い」の共犯者だった。

彼の耳の奥で、数週間前に聞いた、あの東京の男の叫び声が、再び、鮮明に鳴り響いた。

『俺は、データじゃない! 人間だ!』

今なら、その言葉の、本当の意味がわかる。その重さが、彼の魂を押し潰しそうだった。


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