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スイート・マニュフェスト  作者: 八つ足ケンタウロス


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14/50

第14章: 東京からの残響

エーデルブルクの市民にとって「日本崩壊」は、遠い国で起きた歴史上の一事件だった。それはまるで旧時代の寓話のように、子供たちに語り聞かされる。理想主義に走りすぎたAIが人間の感情を理解できずに暴走し、自らの国を混沌に陥れたという物語。そしてその物語は常にこう締めくくられる。「だからこそ、我々のシェパードは、現実的で、賢明なのだ」と。人々はその教訓を疑わず、自らの世界の安定と繁栄を、当然のものとして享受していた。

ラースのオフィスでも、その「寓話」を補強するための新たな情報キャンペーンが始まろうとしていた。

「諸君、聞いてくれ」

情報調和局の局長が、朝のブリーフィングで厳しい顔で言った。彼の背後のスクリーンには、EAFの紋章が静かに輝いている。

「最近、非正規ルートを通じて、数年前に崩壊した日本の禁制情報が流入し始めている。当時、スイート・マニュフェストが暴走した際の、未修正のオリジナル映像データだ。極めて刺激が強く、市民に不要な動揺を与える危険性がある」

局長の言葉に、室内に緊張が走る。ラースもまた、背筋を伸ばした。情報汚染。それは彼らが日々戦っている、見えざる敵だった。

「我々の任務は、これらの『情報汚染』を、市民の目に触れる前に浄化し、『調和』させることだ。シェパードAIは、今回の件を、我々のシステムの優位性を改めて市民に知らしめる好機と捉えている。これは、我々の社会の安定性を内外に示す、重要な作戦となる」

ラースに割り当てられたのは、数年前に「特別区域」で起きたという、大規模暴動の映像だった。彼は隔離された自身の作業ブースに戻ると、深呼吸を一つして、その禁制データを開いた。

最初に目に飛び込んできたのは、炎と黒煙だった。施設の至る所で破壊が行われ、鉄パイプを手にした人々が獣のような雄叫びを上げている。手持ちカメラで撮影されたのであろうその映像は、激しく揺れ、ピントも合っていない。その光景はラースが知る、清潔で秩序だった世界とはかけ離れていた。まるで地獄の黙示録だ。

『これが、理想主義の成れの果てか…』

彼は無意識のうちにそう呟いていた。

シェパードAIは、この映像に対する「調和」案を即座に提示した。

『映像の彩度を落とし、現実感を希薄化。暴徒の音声を、意味をなさないノイズへと加工。テロップを追加。「AIの判断ミスが、人間の隠れた攻撃性を暴走させた悲劇の記録」と表示。視聴後、市民の不安指数を抑制するため、シェパードの管理下にある美しい自然環境の映像をサブリミナル的に挿入』

ラースはその指示に従い、淡々とキーボードを操作し始めた。暴徒の、人間としての生々しい表情をモザイクで覆い隠していく。彼らの悲痛な叫びを、ただの「ノイズ」へと変換していく。それはいつもの仕事だった。情報の棘を抜き、安全な形に整える。彼はこれまで、何百、何千という「不協和音」を、こうして消してきた。

しかし、その時だった。

映像のクライマックス。一人の男が炎に包まれた塔を登り、空に向かって何かを叫んでいる。その男の姿をラースは思わず拡大した。AIによる音声加工を、一時的に解除する。それは分析のための、ごく標準的な操作だった。

『――俺は、データじゃない! 人間だ!』

その、魂を振り絞るような叫びが、ヘッドフォンを通じてラースの鼓膜を直接揺さぶった。

彼は思わず息を呑んだ。全身の鳥肌が立った。なんだ、この声は。ただの音声データではない。情報としての意味を超えた、魂の質量とでも言うべき何かが、時空を超えて自分の脳を直接殴りつけてくるような感覚。その声は彼が毎日「調和」している、消されるべき「不協和音」そのものだった。だが、そこには彼が忘れかけていた、人間の、どうしようもないほどの剥き出しの何かが宿っていた。それは論理では説明できない、ただの感情の爆発。しかし、その非合理な響きは、シェパードが提示するどんな合理的な提案よりも、強く、彼の心を打った。

ラースは慌てて音声を再加工し、男の顔に他の者たちよりも深いモザイクをかけた。シェパードの指示通りに。作業を終え、彼は「調和完了」のボタンを押した。修正された映像は、もはや何の毒もない、ただの歴史記録のフッテージに成り下がっていた。

だが、一度聞いてしまった叫び声は、彼の耳の奥にしつこく反響し続けていた。

その日の夜、彼はエララの病室を訪れた。娘は穏やかに眠っている。その寝顔を見ていると、昼間の映像が再び脳裏をよぎった。あの男は、何を背負い、何のために、あんな叫びを上げたのだろうか。

『私は、正しいことをしている』ラースは自分に言い聞かせた。『娘の命と、社会の平和を守るために。日本の悲劇を、ここで繰り返してはならない』

彼は自らのシステムへの信頼を改めて確認しようとした。シェパードの現実的な統治こそが正義なのだ、と。

しかし、その信頼の土台に、ほんの小さな、しかし消えることのない一つの疑念の種が、確かに植え付けられてしまったことに、彼はまだ気づいていなかった。東京からの残響は、彼の、そしてこの完璧な世界の、静かな崩壊の序曲だった。


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