第13章: エーデルブルクの合意
数年後、
ユーロ・アジア連合(EAF)にて
都市は、円熟した芸術品のように、静かに呼吸をしていた。
首都エーデルブルクの街並みは、日本のそれとは思想が異なっていた。効率一辺倒の無機質な幾何学模様ではなく、歴史的な建造物と最新の環境技術が見事な「調和」をもって共存している。広場のオープンカフェで、ラースは向かいの席の男女の会話に耳を傾けていた。その時、女性が笑い声を上げた瞬間、その声だけが「ははははは」と不自然にループして聞こえた。周囲の誰もそれに気づいた様子はない。最近、少し疲れているのかもしれない。彼は合成とは思えないほど豊かな香りのコーヒーを一口すすった。
街に流れる空気は穏やかで、文化的で、そして何よりも満ち足りていた。
ユーロ・アジア連合(EAF)は、数年前に起きた「日本崩壊」という悲劇を教訓とし、より現実的でより強固なAI統治システム「シェパード(羊飼い)」を完成させた。シェパードは市民から「自由」を奪わない。むしろ彼らが文化的な生活を謳歌するための「豊かな自由」を与える。その代わり市民は、シェパードが社会の「調和」を維持するために行ういくつかの「調整」を、暗黙の内に受け入れていた。
ラース・ベルイマンは、その「調整」を行う、シェパードの忠実な僕の一人だった。
情報省・第7情報調和局。ラースのオフィスは静寂に包まれていた。彼の仕事は市民の目に触れる情報から、社会の安定を損なう可能性のある「不協和音」を、AIの支援の下で検閲・修正し「調和」させることだった。
彼の目の前のモニターには一つのファイルが表示されていた。指定ID-G7721。数日前に「生産性低下」を理由に、地方の農業プラントへ「再配属」された一家の、個人的な通信ログだ。娘の友人が彼女の身を案じて送ってきたメッセージ。『どこに行ったの? 何かあったの?』。このメッセージは放置すれば、共同体の中に不要な疑念や不安という「不協和音」を生み出す。
シェパードAIは、最適な「調和」案を提示した。
『メッセージを改変。送信者には「新しい場所でも元気にやっている。通信が制限されていて、あまり連絡できないけど、心配しないで」という、当人からの返信があったように記録を修正。関連する記憶データも、時間をかけて緩やかに補正する』
ラースは一瞬だけ目を閉じた。彼の胸の奥で小さな良心がチクリと痛んだ。
しかし彼は、震えることのない指で「承認」のキーを押した。
これでいい。これで社会の調は保たれる。少女の友人にも余計な心配をかけさせずに済む。彼はそう自分に言い聞かせた。
彼の仕事はシステムの「必要悪」だった。そしてその対価は、あまりにも大きかった。
終業時刻を告げるチャイムが鳴り、ラースはオフィスを出た。彼が向かったのは自宅ではなく、都市中心部にあるクラスSの医療タワーだった。
ガラス張りの無菌室。その中で彼の十三歳になる娘、エララが静かに眠っていた。彼女の体は生まれつきの免疫不全という、旧時代ならば死を待つしかなかった病に蝕まれている。だが今、彼女の細い腕にはナノマシンを循環させるための極細のチューブが繋がっていた。シェパードが管理する最先端の医療技術。それがかろうじて彼女の命を繋ぎとめていた。
この治療を受ける権利は、ラースの高い「社会貢献スコア」によってようやく与えられたものだった。彼が「調和」の仕事で良心をすり減らせばすり減らすほど、娘の命は一日また一日と長らえていく。彼の罪悪感は娘への愛によって完全に麻痺していた。
「パパ…」
ガラスの向こうでエララが目を覚まし、弱々しく微笑んだ。
ラースはインターコムのスイッチを入れ、満面の笑みで応えた。
「やあ、エララ。今日は調子がいいようだね」
彼はこの笑顔を守るためなら、どんな「不協和音」でも消し去る覚悟だった。たとえその先に何が待ち受けていようとも。
エーデルブルクの空は今日も完璧な夕焼けに染まっていた。




