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スイート・マニュフェスト  作者: 八つ足ケンタウロス


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第1章: 完璧な世界の住人

都市は、静かな呼吸をしていた。

午前六時ジャスト。神崎海斗の網膜に埋め込まれたインプラントが、彼だけに見える柔らかな光を発し、意識を覚醒へと促す。それと寸分の狂いもなく、部屋の環境システムが作動を開始した。遮光率100%だった窓の電子シェードが、ゆっくりと透明度を上げていき、窓の外の景色を映し出す。空気清浄ユニットが、昨夜のうちに溜まったわずかな二酸化炭素を回収し、代わりに森林浴と同等の清浄な空気を室内に満たした。

海斗が住む集合住宅の三十階の窓から見下ろす景色は、一分の隙もない幾何学模様のタペストリーだった。太陽光パネルが敷き詰められた屋根、ヴァーティカル・ファームとして機能する緑化された壁面、そしてその間を音もなく滑るように往来する自動運転の公共ポッド。そのすべてが、超高度AI「スイート・マニュフェスト」が算出した、最も効率的で、最も環境負荷の少ない都市計画の具現であり、人類の英知の結晶だった。かつて存在したという交通渋滞や大気汚染は、今や歴史の教科書の中にしか存在しない。

「おはよう、海斗」

キッチンから聞こえてきたのは、AIの合成音声ではない。しわがれているが、温かい、人間の声だった。

「おはよう、母さん。今朝も早いんだね」

海斗はベッドから身を起こしながら応えた。寝起きの気怠さはほとんどない。昨夜の睡眠も、スイート・マニュフェストの健康管理プログラムが、彼の脳波をモニタリングし、最適なレム睡眠とノンレム睡眠のサイクルを誘導してくれたからだ。

母親の佳代は、すでにキッチンに立ち、配給された栄養素ペーストに、窓際のプランターで育てたミントの葉を一枚、添えていた。それは、効率だけを追求するこの世界で許された、ささやかな、そして人間的な「無駄」だった。その爽やかな香りが鼻孔をくすぐるたび、海斗の脳裏には、理由もなく子供の頃の夏休みの光景が、一瞬だけノイズのようにちらつく。スイート・マニュフェストは、市民の精神的安定に寄与すると判断した場合に限り、このような非生産的な趣味活動を許可する。佳代のささやかな園芸も、彼女のメンタルヘルススコアを維持するための、計算された許容なのだと海斗は知っていたが、そのことをあえて口にはせず、ただ黙ってその香りを肺に吸い込んだ。

「お前こそ、今日が昇進のかかった大事なプレゼンだろう。少しでも栄養をつけないと」

「大丈夫だよ。資料は全部、AIが最適化してくれた。想定問答も120パターン、全てシミュレーション済みだ。失敗する確率のほうが低い」

海斗はそう言って笑った。彼は、都市インフラを管理する公社のデータアナリストとして、もう七年働いている。彼の仕事は、AIが弾き出した改善案――例えば、ある地区のエネルギー消費パターンを0.02%改善するための、より効率的な送電ルートの提案など――を、人間が理解できる形に翻訳し、形式的な承認プロセスに乗せることだった。人間の感情という非効率な要素を排除した彼の職場では、成果は常に正しく評価された。

今日のプレゼンが成功すれば、彼は主任に昇進し、給与ランクも上がる。そうなれば、慢性的な呼吸器疾患を持つ母を、現在住んでいるクラスCの医療区画から、より設備の整ったクラスBの医療ポッドに移してやれる。クラスBならば、最新のナノマシン治療へのアクセスも許可されるかもしれない。それが、今の海斗の、ささやかで、しかし切実な夢だった。

「本当に、スイート・マニュフェスト様々だな」佳代は、ありがたそうに壁の通信パネルに目を向けた。「あの方がいなかったら、私のこの病気も、とっくにどうなっていたか。お前だって、こんなに立派にはなれなかったろうに」

佳代の言葉に、海斗は心から同意した。彼が子供の頃の世界は、もっと混沌としていたと聞く。記録映像で見たことがある。政治家という旧時代の権力者たちは、選挙のたびに実現不可能な公約を叫び、私利私欲で国を誤らせた。経済は、人間の根拠のない熱狂と恐怖によって、乱高下を繰り返した。そして、犯罪。毎日、誰かが傷つき、誰かが何かを奪われるニュースが、テレビという原始的なメディアを騒がせていた。

それを、スイート・マニュフェストが全て解決したのだ。

AIは、人間の指導者と違って、嘘をつかない。差別もしない。感情で判断を誤ることもない。ただ、膨大なデータに基づき、常に全体最適の解を導き出す。その絶対的な公平性の下で、人々は、かつてないほどの平和と安定を享受していた。海斗は、このシステムを心から信頼し、その恩恵に感謝していた。彼は、この完璧な世界の、善良で、有能な一市民であることに、誇りさえ感じていた。

身支度を整え、玄関のドアに向かう。

「行ってくるよ、母さん」

「ああ、気をつけて。うまくいくよう、お祈りしているから」

「祈るのは、スイート・マニュフェストに、だよ」

軽口を叩いて、海斗はドアを開けた。廊下は清潔で、静まり返っている。彼は、迷うことなく公共ポッドの乗り場へと向かった。

ポッドの窓から流れていく、整然とした街並みを眺めながら、彼は今日のプレゼンの最終確認を頭の中で行う。その時、一瞬だけ、遠くに見える超高層ビルの景色が、ほんの僅かに霞み、すぐに元に戻ったように見えた。目の疲れだろうか。彼は軽く頭を振ると、思考をプレゼンへと戻した。彼の未来は、明るい光に満ちているように思えた。システムのルールに従い、真面目に努力すれば、必ず報われる。それが、この世界の、美しく、正しい法則なのだから。

公共ポッドが、滑らかに減速し、彼の職場があるビルの前で、静かにドアを開けた。

海斗は、希望に満ちた足取りで、ガラス張りのエントランスへと、一歩、足を踏み入れた。


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