1.日常からの非日常
カタカタとキーボードを叩く音が、オフィスに無数にこだまする。
眉間に深い皺を寄せ、画面に映るデータと格闘する男性に、若い女性がおずおずと話しかけた。
「部長ー……」
「ん?あぁ、そうだったな、もうこんな時間か……。うん、気にせず帰って構わないよ。息子さんが待ってるんだから」
声をかけられ画面から顔を上げた男性は、女性の顔を見てすぐに合点が行き、時計を確認したのち転じて柔らかい表情でそういった。
「この忙しい時期に申し訳ありません……。お先に失礼します……」
「はいはい、お疲れ様〜」
緩いあいさつと共に手を振ると、女性は心から申し訳なさそうに、ペコペコと四方の同僚達にも頭を下げながら、足早にオフィスを後にした。
「部長ー、本当によかったんですかぁ〜?」
「お前、そんなんだから前職クビにされたんだぞ……」
「えぇ〜⁇」
同学年の部下が不満の声を上げた。
俺の名前は早川聡。
今月30の大台に乗った妻子なしの童貞で、ある大手企業のデジタル推進課の課長を任されている。
現在、社内きっての重要案件が大詰めを迎えていた。
これが成功すれば業績はさらに軌道に乗る事になるが、失敗すれば大損もいい所。
準一流の大学を卒業後、運良く大手に就職できたと思ったら、入社1年目で容赦なく要の部門に入れられてしまった。初めの頃は精神的にも参っていたが、数年もすれば重荷にも慣れてくる。
当時の採用担当である上司に話を聞く機会も幾度となくあったが、しかし、返ってくるのはいつも、「お前ならやれると思ったから」と言う、なんとも判断し難い答えであった。
抜きん出たものはこれと言ってないと堂々と自らを評価していた俺だが、過剰とも言える期待に更にストレスを感じたのは言うまでもない。
「お人好しは、損するっすよー?」
「モラハラで訴えられて損してる奴に言われたくないな」
「ひどいなー。俺、無罪っすよー」
「最初の言葉に反省の色が見られないからギルティーだよ……」
前職、他の会社でモラハラで訴えられた部下に呆れた声を出す。
どうにか器用に裁判沙汰を交わしたようだが、その代償として前職をクビになっている。
能力だけを買われてこの会社に転職してきたトラブルメーカーは、何故か俺の下に置かれた。解せぬ。
能力だけを見てコイツを昇格なんてさせたら、その部署は忽ちブラックと化すだろう。人の上に立たせたらダメな奴だが、歯車として扱えば相当有能な奴である。
別に上昇志向の強い奴でもないので、今の所は問題なし。
「酷いと駅のホームで突き落とされるから気を付けろよホント」
「ぎぇー、幾らかかるんすかそれぇー」
「この辺りだと、俺らにとっては天文学的数字になるだろうな、はははっ」
利用客の足を止めるのだから、その代償は刺されるよりも酷い事になるだろう。
犯人が見つからなければ自殺としてその全額を、見つかったとしても過失アリと見られそれなりに被るだろう。恐ろしい事である。
そして、この数時間後、俺は晴れてそのフラグを身を持って回収する事となった。
***
「ーー何故?!」
身に起きた事象を理解した途端、その理不尽さを打つける様に、クワッと開眼する。
「きゃっっ!?……もうッ、脅かさないでよ、もうッ」
そして真っ白の視界には、この世の物とは思えない、絶世の美少女がいた。
ぷんぷんと頭の上に効果音を立てながら、頬を膨らまして立っている。
「???」
ただ白い空間に人が1人という視界の情報は至ってシンプルなのに、その1人に与えられた情報量が莫大過ぎて思考が完結しない。
背景に宇宙が書かれる登場人物の心情がようやっと分かった。
「もうッもうッ」
そして暫くの間、彼女の怒りが落ち着くまで、俺は文字通り空白の時間を過ごした。
「ごほんッ、あなたは死にました。覚えていますか?」
率直なその言葉は、驚くほどすんなりと入ってくる。
「えぇまぁ。しかしその事について、理解はできましたが納得はできません」
「それはそうでしょうね。あなた、人違いで殺されたのですから」
「……、……。……、まさか……」
「えぇ、そのまさかですよ。犯人が狙っていたのは、あなたの部下です」
「はぁぁぁぁぁぁ〜〜……」
特大のため息が出た。
この際、ここがどこで、目の前の少女が誰なのか、なんて問おうとは思わない。
あなたは死にましたと淡々と言われ、そしてそれを口にしたのが、圧倒的と言う言葉では足りないほどの美少女なのだから、答えは目に見えている。
「落胆するのは尤もですね。私も人違いで殺されるのはごめんですから。しかし、あなたが間違いで殺された事によって、彼の意識は大幅に確変され、世の中はより良い方向に進んでいます」
前半で人間臭い言葉を口にする割に、後半で人間離れした考えを当たり前のように言われ、一周回って冷静になる。
まあそもそも、俺自身、感情の起伏は激しい方ではないのだが。
「まぁ別に問題ないなら良いんですけどね……」
恋人もいない童貞に未練なんて烏滸がましい。
強いて言えば両親と弟についてが心残りだが、葬式で泣いてくれはしただろうが、割と切り替えの早い家族なので、犯人への恨みもそこそこに、すぐに通常運行に戻るはずだ。
慰謝料は犯人からたんまりとせしめただろうし、両親は優雅な老後を過ごす事だろう。
「一番引きずっているのがご実家にいる柴犬のまろ助ですね。今も仏壇の前でじっとあなたの写真を見つめいてますよ」
「途端に未練を感じ始めたんですが、それ言う必要ありました??」
寂しげな表情で座布団の上に静かに座っているまろ助の姿がありありと思い浮かび、自分史上最大と言っていいほどに心が痛くなる。
「ふむ。ではこのまろ助を人質に、いえ、犬質に取りましょうか」
しゅんとした俺の反応を見るや否や、彼女はあくまで淡々と不穏な言葉を口にした。
「まろ助が天寿を全うした後、あなたに会わせて差し上げましょう。その代わりに、私からのお願いを聞いてほしいのです」
「お願い、ですか」
目の前の存在からのお願いなんて、レベルの想像がつかないのだが……。
「ある世界の行く末を変えてほしいのです」
完璧な形をした綺麗な唇から、壮大なお願いが紡がれた。