友人の義母の遺した手紙が怖かった。
「まあお久しぶりリーシャ! さあ入って入って」
「……ええ」
そう言って取った手が妙に冷たい。
いつになく、自身で少し大きめのバッグを持っているせいだろうか。
通常そういうものは侍女に持たせるものだが、どうやら一人の様だ。
居間に通して、メイドにすぐに温かいお茶を用意させた。
リーシャは学校時代の友人だ。
物静かで常に穏やかな彼女のことが私は大好きだった。
なので、お互い結婚してからもよく行き来していた。
同じくらいの家格、付き合っていて損は無い、という判断が婚家からもあったので、私達は娘時代同様、いやそれ以上に仲良くやっていたのだ。
だがそのリーシャの婚家、リリパット子爵家の義父母が数年前、突然同時に亡くなった。
事故だった。
何でも雨の日に馬車を走らせていて、崖から落ちたのだという。
リーシャは婚家ではずいぶん可愛がられていた。
私も参列した葬儀の場では泣き崩れる彼女の姿が印象的だった。
それからというもの、しばらくは黒いドレスをまとい、日々故人を悼んでいたという。
だがそれでも時間薬は効くのだろう。
夫が子爵位を継いだことで、彼女も子爵夫人としての務めを果たさなくてはならない。
子作りも――その一環だったか。
それまで「ゆっくりでいいよ」と言われていた彼女も、夫に対し積極的に出たそうだ。
それと同時に、愛する人が消えた悲しみを癒やすのは、新たな愛する対象なのかとも思った。
さておかげで、というか彼女は何と男女の双子を授かった。
私もまた、そんな姿を見ていたせいか、自分の方も励んだせいか、二年立て続けに子供を授かった。
それにはリーシャも喜び、もう少し大きくなったらお互いに遊びに行かせましょうね、という約束もしていた。
子供の存在は大きい。
我が家もそうだが、新たな子爵家も親戚一同も大喜びで、しばらく滅入っていたあの界隈はぱっと明るくなった。
リーシャは信頼できる乳母に子育てを任せ、本格的に子爵夫人としての仕事を再開させた――はずだった。
なのに何なんだろう。
この顔色は。
私はお茶の位置を変え、横に座り直して彼女の手を取る。
「ねえ、本当にどうしたの? わざわざうちに来るくらいだから、私に話したい用件があるのでしょう?」
「そ…… そうねアイダ。そうだったわ」
彼女は抱え込んでいたバッグを開くと、黒いリボンで締め付けられた手紙の束を取り出した。
「手紙?」
「ええ。やっとお義母様の細々とした遺品整理をするだけの時間が取れたから」
細々としないもの。
分かり易い宝石だの、作りの良いドレスだのといったものの形見分けは前子爵と夫人の遺言書の開封の際に行われた。
特に彼女の義母のものは、子爵の姉妹にもあれこれと分配された。
リーシャ自身には同じ趣味を持っていた手芸材料や遠くの地方独自の織物などが譲られた。
「お義母様はもともと南東の出でね、向こうの薄手の素材が好きで、それを生かしたスカーフをよく仕入れていたの。私もその模様が気に入っていて」
南東。
私達の住む帝都から相当遠いのだが、それでも独自の文化を持ち栄えている属国が点在している地域だ。
「ああ、向こうの絹はとても肌理が細かくて素敵だって、貴女前に言っていたわね」
「ええ。だからそういうものは先にあっさり処理できたのだけど、それ以外の、故人の日記とか手紙とかそういうものに関してはやはりなかなか手がつけられなくて」
「確かにそうよね」
特に貴族の夫人の遺したものとなると、きちんと調べた上でないとどんな醜聞の発端にもなりかねない。
中身を確認した上で焼却するなり、思い出として保管するなり、その判断は家人がするべきなのだ。
「で、彼はお義父様のものを執事と一緒に担当して、私は家政婦のムルサと一緒にその作業をしていたのよ」
ムルサというのは向こうの家政を取り仕切る女性で、前夫人との付き合いは確かにリーシャより長い。
日記に出てくる様々な名前に関しても。
「で、格別に問題があるとは思えない内容だったので、日記は残しておくことにしたのね。何かと今後私にとって子爵夫人としてやっていく上での参考にもなるし。ただ手紙がね」
「手紙…… これ?」
彼女は黙って頷いた。
「お義母様は大切にしていた手紙は実家から持ってきた手箱に入れていたの。とても綺麗な細工がされていたから、私も向こうに一つ注文しようかな、と思った程。で、開けてみて、色んな友達との手紙が美しい色のリボンで差出人別に括られていたのね。ただ、その箱の厚みに対して少しだけ底が浮いている感じがしたのね。そうしたら」
「そうしたら?」
「二重底になっていたの。鍵がついていたとかそういうものではなかったけど…… で、箱には申し訳ない気がしたけど、ぽん、と裏返して叩いてみたら、中底と一緒に落ちてきたのがこれ」
黒リボンの束があったのだという。
「で、これが怖くって」
「怖い?」
彼女は黙ってうなだれた。
「だから貴女の判断も聞いてみたいと思ったの。貴女は昔からとてもそういうところは聡明だったでしょう? この手紙をどうしていいものなのか、あのひとに見せて判断を仰いだほうがいいのか、その辺りも判らなくて……」
「わかったわ。さあ、手紙を私が見ている間、貴女はうちの料理人が腕を振るった焼き菓子を食べていて」
「そうね。……そう言えば、最近あまりこういう甘いものも食べてなかった……」
それほど気がかりだったのだろう。
私は黒いリボンを解いてまず外を確かめた。
差出人…… は一応ある。
ただ、その住所が気になる。
投函されたであろう場所の消印と、差出人の住所がまるで違う。
そもそもその住所――帝都内のものだが、ありえないものなのだ。
だって私はその住所を知っている。
夫も勤務している帝室直属の特別高等警察のある場所なのだ。
消印の順番に積んであったので、順番に開けてみる。
中には一枚のレターペーパー。
開いてみる。
「サブリュートは施設に入りました」
そう一行だけ。
思わず彼女の方を見る。
黙って頷く。
確かにぞっとした。
サブリュートって誰だ。
そもそも何で一行だけ。
ともかく二通目を開けた。
「わかりません」
いや、こっちがわからない。
そして三通目。
「シロースは亡くなりました
シロースは亡くなりました
シロースは亡くなりました
シロースは亡くなりました
シロースは亡くなりました
シロースは亡くなりました
シロースは亡くなりました
シロースは亡くなりました
シロースは亡くなりました
シロースは亡くなりました
シロースは亡くなりました
シロースは亡くなりました
シロースは亡くなりました
シロースは亡くなりました
シロースは亡くなりました
シロースは亡くなりました……」
紙の上から下まで同じその文が書き綴られている。
別に血文字とかそういうのでなく、ただの普通のペンとインク。
手紙は全部で九通あった。
それぞれ一行ずつ、
「ゴローリンはみえなくなりました」
「ロクシタナをさがしてください」
「どこにいますか」
「どこにいますか」
「どこにいますか」
「行きます」
全身に冷水をぶっかけられた様な寒気が全身を襲った。
「いやこれ、消印とか色々、ともかく子爵に相談しなさいって!」
「でも」
「でもも何でもないでしょ、ただでさえあの方々、普通だったら転落なんかしないところで事故に遭ってるんだし!」
そうなのだ。
子爵家の御者は優秀で、常に事故どころか、無駄に馬車を揺らせる様なこともない様な者だった。
だから余計にそんな事故が、と皆思ったものだが……
「駄目よこれは、貴女の手に負えない。これは貴女の夫が負うべきものよ」
「そうなの?」
「そう。もし前夫人に何かあったにせよ、事件性があったならあったで、どうして黒リボンでわざわざ括ってあったのかもわからないし」
そうね、と彼女は大きくため息をつき、お茶をようやく口にした。
*
それから数週間。
夫は仕事上この件に関わりができたので、私は進捗を話せる範囲で聞いていた。
「元々子爵夫妻の事故には疑問があったんだが、おかげで目星がついたよ」
「よかった……」
夫は特別高等警察の捜査官をしている。
実働隊はどのくらい居るのか判らないが、その小隊を任されている感じらしい。
「私に言える範囲のことってある?」
「そうだね。そもそもうちに捜査権限が移ったことを考えてみたらどうなる?」
夫は私に問う。
彼は元々私に対しては、女らしいどうのではなく、知的遊戯的な会話をするのが好きなのだ。
「貴方の捜査範疇ということは、国家反逆系よね」
「そう。そもそもわざわざうちの住所を書いてきて、それでも消印が夫人の故郷だったということ。考えられるのは、何かしらの連絡手段だったということ」
「それは…… 前夫人が何かしらに加担していたということ?」
「それを今詳しく捜査中なんだがね。ただその流れで消されたのだとしたら、夫人は裏切った、と見なされたのかもしれない。ただあの手紙を受け取っただけでは、夫人がそこに関わっていた、という証拠にはならない」
「中に書いてあった名前は?」
「あれは向こうの方言での数をもじったものだから、そういう名前の人物が本当に居たのかどうか判らない。そういう暗号なのかもしれないが、暗号ならば、対応する解き方等もあるんだろうが――」
彼は首を振った。
「前夫人は罪に問われるのかしら」
「現行の法では『死者は鞭打たない』のが原則だ。まあ『死人に口無し』もあるから、難しいところだがね。そもそももう亡くなってから数年経っている。今としてはもう古い情報になっているだろうな」
「そう。ありがとう。そのこと、リーシャをはじめとした子爵家の人々にも話した?」
「子爵自身には今君に言った程度のことは話したよ。そして夫人の日記等は資料として引き取らせてもらった。リーシャさんはそれで察したのではないかな。まあ現夫妻はこれから監視がややつくかもしれないが、気付かれる様なものではないから、君も居ないと思ってくれ」
「判ったわ」
はあ、と私は大きくため息をついた。
「帝国は広いから、色々なところで色々あるのね、きっと」
「まあな。だからこそ、僕等の様な職務があるんだ。で、そんな仕事を一つ何とかした男に、我が奥様はご褒美をくれないのかな?」
そう言って夫は私を引き寄せた。
「短いぶんだけ濃く、ね」