魚になった姉
ホラー作品です。苦手な方は、ご注意ください。
タイトルの書と表紙のイラストは、IDECCHI51様主催、怪談朗読youtuberのヤミツキテレビ様を審査員にお招きした企画「ヤミツキ×なろうコン」の準優勝特典です。タイトルの書は、コハ様@KnjTsの作品になります。表紙のイラストは、だがしや様の作品になります。ありがとうございました!
……僕には、美しい姉がいた。十五の歳に自殺をした姉だった。だけど、僕だけは、姉が自殺ではなかったことを知っている。
これから話すことは、僕が中学一年生の頃の話だ。その頃、姉は中学三年生だった。
僕の祖父の家は長野県の山奥にあった。そこはうら寂しいところで、集落からも大分外れていて、近くには竹林と墓地と川があるばかりだった。祖父も祖母も、僕がまだ幼い頃に亡くなってしまったため、今ではその家に住むものはいない。だから、広い家ばかり、山の中に、ぽつりと取り残されているのだった。
夏休みのある日、父は、家族四人でその家に泊まりに行こうと話し出した。僕も、たった一人の姉も、その家に泊まったことはおろか、赴いたこともなかったから、この素晴らしい提案にすぐに飛びついたのだった。
今思えば、止めておけば良かったのにと思う。
父が運転する車は、山道を登った。うねるような道をぐんぐん進むと、川が見えてきた。その清流にかかった橋を越えると、ようやく、その家が見えてきた。なんだか、ひどく大きな日本家屋だった。寂れているものと思っていたが、案外、立派な建物だったので、僕は期待に胸が膨らんだ。父が、玄関の扉を開けると、中は真っ暗で、とても冷え切っていた。それに、土くさい匂いがした。
「さあ、中へお入り」
と、父が優しく言って、僕と姉はその家の中へと足を踏み入れた。
遅れて、電灯をつける。白っぽい明かりが灯った。その時、はじめて僕は、その家の中を見た。
土間がある。土くさいのはこのせいだった。そこから、一段上がったところに畳の間が広がっていた。その向こうには、薄汚れた襖がずらりと並んでいる。壁には太い柱があって、その上に振り子の付いた古時計がかかっていた。
父は、仏壇に線香を供えると、すぐに土産物を持って、地元の人に挨拶に出かけた。母親は、夜ご飯を作りに台所へと向かった。そして、僕と姉は、ふたりだけでその畳の上に転がっていた。
「とても広い部屋ね」
と姉は嬉しそうに呟いて、綺麗な足をばたばたと震わせた。
「魚みたいだね」
僕は笑って、そのばた足を見つめた。
「ここに着くまでに、川があったでしょう」
「あったね」
「あの川で泳ごうかな」
「お姉ちゃん、水着持ってきたの?」
「持ってきてないけど、街に出れば、買えるでしょう」
「この辺に街はないよ」
「じゃあ、私が魚になればいいね」
「どうして?」
「魚になれば、水着なんかなくても、川で泳げるでしょう」
そう言って、微笑む姉はとても綺麗だった。
……それでも、今から思えば、その言葉はどこか不吉だった。
それから、あっという間に時が過ぎ、日が傾き、地平が赤らんで、空が紫色に染まり、暗闇が山を包み込むように押し迫ってきた。
午後七時。ちゃぶ台の上に、カレーライスがよそられた皿が並んでいる。それを囲うようにして、四人家族は座っていた。
僕は、母のつくったカレーライスの味を堪能しながら、昼間、姉が口走ったあのことについて、父に話した。
「お姉ちゃんがね、明日、そこの川で泳ぎたいって言うんだ」
ところが、不思議なことに、父は僕の言葉を聞くと、突然、声を荒げた。
「駄目だ! あの川に近付くんじゃない!」
僕と姉は、驚いて父の顔を見つめた。父は、はっとして顔を背けた。そして、父は、食べ途中だったカレーライスも、もう喉を通らない様子で、しばらくして、その場を離れてしまった。
「どうしたのかな、お父さん……」
姉が、心配そうに母親の顔を見ると、母親は声をひそめて、
「お父さんの妹の妙子さんはね、十五の時に、あの川に身を投げたのよ」
と呟いた。
その時に、母親が話したことを要約するとこういうことだった。父の妹の妙子さんは十五歳の時に、ずっと想っていた男子生徒に騙されて、さんざん弄ばれた挙句、捨てられてしまったらしい。そのせいで妙子さんはノイローゼになり、もう人を信じられなくなった。あの川は、有名な自殺のスポットで、それまでも多くの人が身を投げたのだという。妙子さんはそれを知っていて、自ら、あの川に身を投げたのだという……。
「いい? お父さんの前であの川の話をしては駄目よ」
僕と姉は、頷いた。
それから、姉と僕は、同じ畳みの間に布団を敷いて、寝ることになった。父と母はそこから少しばかり離れた畳の間に寝ている。その二つの間の間には、仏壇のある畳みの間があった。母は、この部屋で寝るのを拒み、僕と姉もあまり心地よい気がしなかったから、こうして、二つの間に分かれたのだった。
深夜。どれほど、時間が経っただろう。僕は、深い眠りについていた。その時、どこか遠くから姉の声がした。
「起きて」
僕は、目を開いた。
「また鳴ったわ」
「なにが?」
姉が突然、呟いたので、僕は姉の顔を見た。窓から差し込んだ光のせいだろうか、姉の顔が青白く、浮かび上がって見えた。
「古時計が……ほら、また一つ」
僕は、はっとして古時計を見つめた。振り子が左右に動いて、あの鈍い音を鳴らしている。
……ボーン……ボーン……ボーン……
「おかしいね。何時だろう……」
「何時でもないわ。知らせに来たのよ」
「何を言っているの?」
姉は、汗をびっしょりとかいていた。
「私を連れに来たんだ。私を……」
「何が……お姉ちゃんを連れて行こうとしているの?」
「妙子さんを魚にしてしまった、あのおぞましいもの……」
姉はそう言うと突然、布団を払いのけて、立ち上がった。
「逃げなくちゃ……」
……その時。
ガチャリ……。
窓ガラスが変な音を立てた。何かが触ったような音だった。姉は、はっとして窓を見た。僕もつられて、窓を見たが、寝ている僕からは何も見えなかった。しかし、姉は、あっと驚きの声を出すと、見る見るうちに顔を青くさせ、終いには、血も凍るような鋭い叫び声を上げた。
「あの化け物が来た! あの化け物が来た! 私を連れて行ってしまう!」
「どうしたの、お姉ちゃん、しっかりして!」
「来ている! 来ている!」
姉は、けたたましい叫び声をあげながら、どこかへ逃げようとしている。畳みをどたどたと踏み鳴らす。しかし、姉は、足がよろめいて、床に崩れると、慌てて、まだらの斑点を帯びた襖にすがりついた。そのまま、目を見開いて、がたがたと震え、叫び続けた。
「助けて! 助けて! ……アアアア……アアアアア……アアアアア……」
僕は、もはや自分ではどうすることもできず、慌てて、父と母の寝ている部屋に走り込んだ。ところが、そこには、誰もいなかった。敷かれているはずの布団すらもなく、ただ薄汚れた畳みが冷たく敷かれているだけだった。
「お父さん、お母さん、どこへ行ったの……」
僕は、あまりの恐ろしさに、泣きそうになった。はっと見ると、姉がふらふらと廊下を歩いてきていた。その時、僕はぞっとした。あれほど、怖がっていた姉が、今では放心したように、無表情のまま、どこかへ歩いて行こうとしているのだ。
「お姉ちゃん、どこへ行くの……」
「これから、川へ向かうの」
「なんだって……」
「私、魚になるのよ」
「えっ……?」
「魚になるの……」
そう言って、姉は、瞳孔の開いた瞼を裂けそうなほど開き、口を大きく開けると、さも、おかしそうにけらけらと笑った。
「魚になるの……冷たい魚になって、泳ぐのよ……あの川の底で」
「やめて!」
「魚になるの……アハハハハ……」
姉は、狂ったように笑いながら、裸足で土間に降りた。そして、玄関の扉を開けて、外に飛び出そうとした。僕は慌てて、飛びつくと、姉の手を掴んだ。そして、室内に引っ張り戻そうとした。ところが、姉の体はなかなか室内に戻ってこなかった。それどころか、姉はこんな叫び声を上げた。
「痛い! 痛い! 引っ張らないで、左右で……!」
僕は、その言葉の意味が分からず、もう一度、姉の体を見て、わあっと叫び声を上げた。
真っ白な手があった。姉の体を、扉の外から伸びた何本もの白い手が掴んで、外に引っ張り出そうとしているのだ。
「やめてぇ……ゆるしてぇ……! アアアア……アアアアアア………魚にされる………魚にされる………魚にされる……」
姉は、また正気に戻ったのか、それとも狂ったのか、恐ろしげに叫びながら、無理矢理、外に引きずり出されていった。
その間も、古時計のボーンボーンという鈍い音は、暗い室内に響いていた。
「お姉ちゃん!」
僕は、居ても立っても居られず、外へ飛び出すと、あの川へと走った。姉がいるのではと思った。ところが、姉の姿は川の外にはなかった。そんなはずはないと思って、橋を降り、思い切って、川の底を見ると、そこに姉の笑ったまま動かない顔があった。