8.すれ違う愛
ほぼ一年の半分以上雪に閉ざされる北国にもようやく夏が訪れた。
生粋の南方人の感覚から考えれば、肌寒く感じるだろうが、これがフレイヤたちにとっての夏だった。
雪に閉ざされた生活は時に重苦しく辛いが、この険しい気候こそが大国からの脅威を妨げている一番の要因といえた。
木々の合間からこぼれる日差しを受けて、可憐に咲き誇る花々を眺めるフレイヤの眼差しも自然優しくなる。そんな自分をあたたかく見守っている人物に気づき、フレイヤは頬を可憐に染めて微笑みかける。
「ネルニィア、ありがとう。連れ出してくれて」
「あなたが望むならどこへでもお連れしますよ」
夏の輝きにも負けぬフレイヤを前にして、ネルニィアが眩しそうに目を細める。
フレイヤの歩幅にあわせて歩き、石に足先をとられてけつまずく様子を見せれば素早く手を差しのべてくれる。
荒々しい北の戦士にしては、その態度は実直そのもので、自分を見つめるフレイヤの視線に気づけば、礼儀正しい微笑を返してくれる。まるで、幼い頃に読んだ物語の中の騎士そのものだ。
それなのに、何故この空のように私の心が晴れることがないのだろう。
誰よりも愛されている自信があるのに、フレイヤが満足することはなかった。
背の高い木々を抜けて川の岸辺まで出ると、二人は休憩をとることにした。ネルニィアが自分の上着を脱いで広げてくれた上に、フレイヤは座る。
「……私が口を挟むものでないことは承知していますが」
フレイヤの背後の木立に寄りかかる形で彼女を見守っていたネルニィアが、ためらいがちに口を開く。
「あまり、彼のことを悪くとらないでください」
無言のままのフレイヤの様子を気にしながら、先を続ける。
「心の優しい奴です。少しもろく感じるほど……。いや、決して悪い意味ではなく」
今の三人の関係性を考えると、エウシェンとネルニィアは奇妙なほどに仲がよかった。
二人の様子を見ていると本当の兄弟のようだし、今もその仲に変わりがないことにフレイヤは秘かに驚いていた。
「兄上たちが相次いで亡くなってからは、陛下に過度な期待をされて」
どこまで話していいか迷うようだったが、心を閉ざしたフレイヤの様子を見るにつけ、口が滑らかになるようだった。
「逆にお母上は過保護な方で……。両者の間に挟まれて、奴は常に迷っているようでした」
必死でエウシェンを庇う姿は実の兄のようだ。
エウシェンを責めるような言葉すら口にしないどころか、こうやって庇いすらする。
ネルニィアが自分を抱くのは、フレイヤを本当に愛しているからか、それともエウシェンの命令にただ従っているだけなのか、時に判断つかなかった。
「お母上が亡くなった時はずいぶん気落ちしてました」
「……確か、アーヴァスの刺客に」
かつての敵国であり、今はアッティラの属国となった国の名をフレイヤはあげる。
それは、ジアスが間諜ではないかと怪しんでいたハリエスの故国でもあった。
「はい。陛下を庇おうとして自分の身を盾にしたそうです。……立派なことです。イーヴァル様の怒りは激しく、アーヴァスとはミッラレスの脅威を前に、一時的な休戦状態が続いていたのですが、それを切っ掛けに攻めいったのです」
「立派な事ね」
その声音には、皮肉的な響きが入っていたが、ネルニィアは特に咎めなかった。
「エウシェンも一緒についていき、陛下の横で戦いました。それまでは、どちらかというと剣を持つより、本を読んだりすることが好きな奴だったんですが、それからは剣一本です。立派な戦士です。立派な王に、夫にもなるでしょう」
フレイヤは何も言わない。ただ、薄い唇をかみしめる。
「不器用な奴です。それだけはわかってください」
ネルニィアの真摯な訴えも、夏の日差しの中、空しく胸に響いた。
◇◇◇
「ネルニィアとは上手くいっているようだね」
ネルニィアと別れ、少し頬を上気させて部屋に帰ってきたフレイヤに気付き、窓辺に腰掛けていたエウシェンが読んでいた本から顔をあげて微笑みかけてきた。
「……ええ」
頬から赤味が消えるのを感じながら、フレイヤは硬い声を出す。
そんなフレイヤの様子を気にする素振りも見せず、エウシェンは薄い笑みを残したまま、フレイヤから目を離さない。
きっと、窓辺に座って二人が少し時間をおいて別々に森から出てきたのを見ていたのだろう。
「彼、私をとても愛してくれています」
意図せず、挑発的な物言いになる。
「私の選択は正しかったわけだ」
エウシェンは自分を睨みつけてくるフレイヤを、まるで駄々っ子でも見守るかのような眼差しで受け止める。
窓から見える外は明るいが、夏の日没は遅く、とても澄み切った色をしている。
フレイヤはその空を見て、エウシェンのようだと思った。瞳の色と同じで飄々としていて、何にも染まらない。
「幸せかい?」
「……幸せです」
エウシェンの眼を見つめたまま、フレイヤは一歩一歩歩みを進めていく。
膝の上に読みかけの詩集を置いたまま、エウシェンもまたフレイヤから眼を離さなかった。詩集は、エウシェンお気に入りの詩人のものだ。
フレイヤは心底思う。
この人は生まれた場所を間違えた。あるいは時代を。そして、もしかしたら愛する人も。
「……彼は、どう君を愛してくれる?」
窓辺に座ったままのエウシェンの傍に立つと、ちょうど眼の高さが同じぐらいになる。
フレイヤが手を伸ばせば、その手をとって、エウシェンが手の平に優しく口づけを落とす。そのまま滑るように両腕をフレイヤの腰にまわすと、肩に顔をうずめてくる。
「教えて、フレイヤ。彼はどう君を愛してくれるんだい?」
吐息のような甘い声が耳元に囁かれる。
フレイヤは泣きそうな気分になりながら、広い背中に腕をまわし、もう片方の手で幼子にしてやるように頭を撫でてあげながら、一つ一つ教えてあげる。事細かに丁寧に。
先程、川のほとりで夏の日差しを浴びながら、どう愛してくれたかもすべて。すべてひとつ残らず。
「……フレイヤ。君が嫌ながら言わなくてもいいんだよ」
すべて言いきった後、放心したようにエウシェンの頭を撫で続けていると、ずっと黙っていたエウシェンが顔をあげた。
あの夜の翌日からはじまった二人の習慣に、はじめてエウシェンが言及する。
色素の薄い瞳に映りこんでいる己の姿は、これが自分かと思えるほど憔悴しきって見えた。
「でも……、あなたは聞きたいんでしょう?」
エウシェンは一睡もしていないような笑みを浮かべて頷いた。
「困ったことに」
フレイヤの顔を両手で包みこんで覗きこむ。
「もう泣かないんだね」
「泣けないの」
弱々しく返すフレイヤの頭を引き寄せ、今度は自分がフレイヤを抱きしめる。
花々に命を分け与える太陽のようなネルニィアの熱とは相反する、冷たく沈んだ冬の湖のような身体に抱かれながら、フレイヤはその耳元にそっと囁く。
「あなたが好きなのはネルニィアなのね?」
フレイヤを包み込む強張った腕の力が答えだった。
「……酷い人」
絶望的な思いに反して涙は出てこなかった。
「本当に、酷い人」
もう一度繰り返した時、自然と口角が上がり、わずかな笑い声さえ出た。
フレイヤは理解する。悲しい時にも笑えるのだ。逆もあるように。そして、もう一つ気付いたことがあった。
「ごめんよ」
すがるように抱きついてくる男を振り払うことなど自分には出来ない。
「……私たち、二人とも似たもの同士ね」
フレイヤは他の男を通して彼に抱かれる幻想を抱き、エウシェンは自分の妻をあてがうことで想い人に愛される夢を見た。なんて滑稽ではしたないのか。
でも、自分はこの腕を振り払うことなど出来ないのだ。
フレイヤは気付かれぬよう、エウシェンの頭にそっと口づけを落とす。ようやく分かった真実に、フレイヤは打ちのめされる。
なんてこと。私はこの人を愛しているんだわ。




