7.白い炎
「また新しい本が手に入ったんですの?」
「ああ。君もあとで読むかい?」
フレイヤが話を向ければ、エウシェンが嬉しそうに歯を見せて笑う。
童心に返ったかのような笑顔を見せられると、常になくフレイヤの胸がざわめいた。
窓辺に座り本を読むエウシェンから少し距離を置いた場所にある椅子に座りながら、フレイヤはエウシェンの様子を静かに見守る。
「ミッラレスの宮廷で流行っているという詩を集めたものだ。君も気にいると思うよ」
「はい。是非あとで貸してください」
「うん。そうだ、一つ詠んであげよう」
そう言うや、静かに語りだす。
人の胸に不思議に響く落ち着いた声音が、文字を追う繊細な睫の動きが、蝋燭の光に照らされた真摯な横顔が好ましいと思った。
以前より夫婦でいる時間が増えた。
相変わらず夫婦の営みはないし、フレイヤに対して指一本触れるのさえ慎重だが、エウシェンのほうから意識して二人の時間を取ろうとしているのが伝わってきた。
ネルニィアが言うように自分の異変は周囲にもわかるほどだから、エウシェンも気を使っているのだろう。そうしたエウシェンの態度にフレイヤも最初こそ戸惑ったし、腹もたった。
しかし、こうやって二人でいると幸せをかみしめてしまう自分がいることに、困ったことに気づいてしまった。離れようとしても離れられない。エウシェンに呼ばれれば側にいってしまう。
その一方で、二人だけの時間が増える分、疑惑が浮かぶ。
エウシェンはこの部屋に帰ってこなかった夜はどこにいたのだろう。おそらく、城下外だとは判断ついているが、その先は怖くて考えられなかった。
今でさえ、このように詩を詠んであげた存在が他にいたと考えるだけでも不安で仕方ない。
フレイヤの贈り物一つにしても気がきいており、女性の心をよく掴む術を知っているような気がして猜疑心が生まれてしまう。誰か助言をする人がいたのではないかと。
「……いい詩だ」
「ええ。素敵な詩でした」
詩を詠みおえたエウシェンが目を細める。
正直ろくに聞いていなかったのだが、フレイヤはおくびにもださず感嘆の声を漏らす。
「ミッラレスは大国だ。軍事にももちろん力を入れているのだが、文化や芸術にも教養が深い。芸術家たちに援助を惜しまない。宮廷では毎日、美しい音楽や詩が生まれているという話だ」
自嘲気味に口の端をあげる。
「対して、我が国はどうだ? もし仮に、アッティラがミッラレスを征服する事できたとしよう。その時生まれるのは、詩ではない。本物の死だよ。誰も芸術を理解できる者などいない。父上の前で素晴らしい芸術品の数々が破壊され、本が燃やされることが容易に想像できるよ」
「そんな事は」
フレイヤの言葉を拒むように、エウシェンは首を振る。
「いいや。君だって本当は分かっているだろう。我が国は田舎で、どうしようもなく粗野で野蛮な連中で成り立っている。それが悪いことだとは言わないし、私もその一人だ。しかし、それだけでは駄目なのだ」
フレイヤの方に本を掲げて見せ、表紙を軽く指で叩く。
その顔は皮肉的な笑みで溢れていた。
「父上に、この本を見られたらどう思われることか」
その時の反応は、フレイヤにも容易に想像できた。
「その金で武器を買え、ミッラレスの宮廷に一人でも多く間諜を送り込めと喚くであろう」
「エウシェン……」
「何故、武器を持つことしか考えないのか。もっと、違うやり方で国を発展させることができるはずだ。ミッラレスは恐ろしい。決して彼らに背中を見せてはいけない。でも、同時に見習うべき点が多くある。そこから私達は学ぶべきだ」
力強く握った拳に、エウシェンのもどかしさを知る。
諦めたように睫を伏せながらも、その瞳には若者によく見られる潔白なまでの精神が宿っているのが見る者に伝わってきた。
同時に彼は衝動のままに動くことができる歳を過ぎており、既に自分を偽る術を得ていた。
「……驚いた。エウシェン、あなたは理想家なのね」
少しからかうような物言いに、エウシェンは険しい目をして顔を上げるが、弟を見守るような姉の眼差しを前にして、肩の力を抜いて放心したような顔を一瞬作ったと思うと、可笑しそうに笑い出した。
「ああ。そうだ。忘れるところだったが、君はお姉さんだったね。泣き虫さん」
「ええ、弟が二人います」
「会いたかったなあ。君とよく似て可愛いだろうに。兄上は美しい人だったがね」
笑いが止まらぬ様子で、肩を揺すりながら頭に手を入れて髪をかき回す。
「弟達も会いたがっていました」
「何故?」
色素の薄い瞳が興味深そうに光る。笑い声も少し弱まった。
「何故って、貴方はとても勇敢な戦士です。我が国にもその名は聞こえてきています」
「なあに。三回に一回は、ネルニィアが手柄を譲ってくれてるのさ」
何てこともないように、さらりという。
「奴と私が従兄弟である事は知っているだろう? 頭が上がらないことも」
どう返したらいいか分からないフレイヤを見て、また声を出して低く笑う。
「私の名前を聞いたなら、他のことも聞いているだろう。遊び人だと」
フレイヤは否定しなかったが、肯定もしなかった。
「それは正しい。こうして詩を詠み、鍛錬をサボり、戦場に出れば従兄弟に全てを任せきり」
肩をすくめて、作り慣れた享楽的な笑顔を作る。
「気にいらない部下がいれば、感情の赴くままに殴る。現実を嫌うばかりに理想ばかり追い求める、つまらない人間。それが私だ」
一気に言い切ると、エウシェンは相変わらず白い歯を見せたまま、フレイヤに酔った様な笑顔を見せた。
結婚式当日、思ったものだ。遊び人という噂に嘘はないと。
でも、今は違った。ずっと引っかかっていた何かが、全てあるべき場所におさまったような気がした。
「……いいえ。違うでしょう。エウシェン」
小さな呟きだったが、エウシェンは逃すことなく耳に拾いいれた。
「何故、そう思うんだい? フレイヤ」
笑顔だが、その目は用心深くフレイヤの様子を探っている。
「あなたは理想に燃える現実家だわ。決して夢想家なんかじゃない」
そうだ。何故見逃していたのだろう。全て見ていたはずなのに。
「あなたが周りに見せているのは、全て計算づくで作られた偽りの自分よ。本当のあなたじゃない」
言いながら、最初は小さかった声に張りができ、自信が出てきた。
「そうなんだわ! 全部、嘘。あなたがお父上や周囲の人たちについた嘘なのよ。あなたは優しい人だわ。本当は無意味に人を殴るようなこともしたくない。戦なんてとんでもない。そうでしょ? エウシェン」
エウシェンは何も言わず静かに、フレイヤの輝くような笑顔を見つめる。
「ああ、エウシェン。ようやく、あなたを理解できたような気がするわ!」
ずっと冷めていたエウシェンの表情がようやく変わり、片方だけ口角が上がった。
エウシェンの変化に、フレイヤの笑顔が徐々に消え、不安げなものに変った。
「……エウシェン?」
「フレイヤ。君は、私という人間をやはり理解していないよ」
「でもっ」
エウシェンが手を上げて押さえる。
「なるほど。全ては君の言うとおりかもしれない」
その瞳は、波のない穏やかな海のように落ち着いている。
「この国は、私のような人間には真実生きにくい場所だ」
まだ兄上たちがいたら、と悔しさを滲ませたつぶやきを漏らす。
「でも、兄達が優秀だったからこそ、私は今まで自由にしてこれた。だから、少しでも自分が受けた恩栄を返そうと思っている。君のことも最初は納得していなかったが、愛そうと努力してきた」
その言葉は、フレイヤに衝撃を与えた。
エウシェンの言葉の意味するものを正しく理解するより早く、その瞳からは涙が流れだしていた。
「……すまないね、フレイヤ」
エウシェンが真実申し訳なさそうに、情けない顔を作る。
「君はいい子だ。大好きだよ。ずっと妹がいたらと思っていた。きっと可愛くて愉快なものだろうって。君はそんな理想の女の子そのものだった」
でも、異性としての愛情の対象ではない。
フレイヤは冷静に思う。涙は止まらないのに、変に頭は冴えていた。
「みんなに愛され、今まで誰かに否定されたことなんて一度もなかっただろう? 私の態度は随分酷いものだったからね。でも、最初はいっそ嫌われたほうがいいかとも思ったんだ」
初めて会った時のことを思い出す。
「君はとっても愛らしい花嫁で、結婚に夢を見ていた可愛いお姫様だった」
そうだ。夢を見て何が悪い。それなのに、エウシェンは最初から別の方向を見ていたのだ。
「夜の営みにこだわるところは、ちょっと辟易したがね」
涙が引っ込んだ。代わりに、見る見るうちにフレイヤの頬が薔薇色に染まっていく。
「ごめんね。でも、仕方ない。そういう風に教育されてきたのだろう?」
エウシェンがくすりと笑い、赤くなった頬を両手で押さえうつむいてしまうフレイヤをあたたかく見守る。
「後継者となる子が絶対必要だ。君は間違っていない。間違っているのは私のほうだ」
思案するように眉がひそめられるのを見て、フレイヤは僅かばかり期待する。
「……エウシェン。それでは」
「アスティンなどはどうだろう? 君と年も同じ頃だし、いい青年だ」
「え?」
意味が分からず当惑する。
「知らなかったかい? 奴は君に恋慕しているのだよ」
アスティンは、いつかエウシェンに殴られていた青年だ。
少し我が強いところがあるので、時々輪を乱すことがあったが、エウシェンの指導のもと今は大分落ち着いてきていた。
「それに母方の親戚筋でもあるのだ」
「……あの、おっしゃっている意味が」
わかりません、と呆然と呟くフレイヤを押し切るように、エウシェンは笑顔で更に言い募る。
「君の父親の子にという意味だよ」
「そんな……」
ふらふらと動く頭をなんとか手を当てて押さえるが、今にも倒れそうだった。
フレイヤの状態は分かっているはずなのに、エウシェンは強いて続ける。
「それか、ネルニィアはどうだろう?」
エウシェンの笑顔を、フレイヤは霞む視界でただ呆然と捉え続ける。
「血統から言って奴が一番私に近い。もし、生まれた子供の出自を怪しむような声が出ても必ず私が守りきってみせる」
「……い、やです」
フレイヤは目を見開いたまま小さく首を振る。
「何を……、何を言ってるのですか?」
声が震えて仕方なかった。
「理由を教えてください。それか、あの……」
その先を口にするにはあまりにはしたないと思い、口をつぐむと、エウシェンの方から言ってくれた。
「いや、私は健康体。子供は作れるはずだ……」
自嘲気味な笑顔を僅かに浮かべてうつむくが、すぐに上げる。
「ネルニィアには、私から話しておこう。きっと彼も君が」
「嫌です!」
半ば悲鳴のような声が叫びとなって口から出た。
「そんなっ……、そんなことに意味はありません!」
「フレイヤ」
エウシェンが立ち上がり、フレイヤに手を差し伸べてくるのをみて後ずさる。
「何故です? エウシェン。何故!?」
自分を守るようにして両腕を身体に回し、エウシェンに必死で訴える。
「教えてください!」
頭が混乱しすぎて、どうにかなりそうだった。
いや、いっそ気絶してしまった方がいいかもしれない。様々な考えが一度に浮かんでは消えていく。
今、フレイヤがこうしてやっと立っていたれるのは、ギゼーラ国のたった一人の王女として十七年間慈しみ育てられた自尊心だけだった。
「……あなただって分かってるはず。そんな事にはなんの意味もありません」
自分のものとはとても思えないような弱々しい声しかでない。
しかし、真実意味がないのだ。フレイヤは思う。国にとっても。何より、私にとってもだ。
エウシェンは何も言わなかった。
もう一度だけ手を伸ばしてこようとしたが、フレイヤの拒絶を見て取ると手をおろし、音もなく横をすり抜けて部屋から出て行った。
扉が締められる音を背中に聞いて、ようやくフレイヤの強張っていた身体が弛緩するが、その心がやわらぐ事はなかった。
もう涙も出なかった。後に残ったのは激しい怒りだった。
◇◇◇
夏の夜、一夜だけの生を全うするためだけに生まれた虫が愛の唄を歌っていた。
部屋に忍び入った男はいつになく緊張しているようだった。
対するフレイヤはこれが自分とは思えぬ平静でいられた。
「……そう。あなたなのね。エウシェンが選んだのは」
自分の登場をフレイヤがごく当たり前のように受け入れたのを見て、男の方が動揺する。
「あっ。あの、フレイヤ様」
「なあに? ネルニィア」
フレイヤは悠然と笑みを浮かべて先を促す。
「そんなところに立ってないでお酒でもどうかしら?」
話しながら戸棚に向かいエウシェン愛用の角杯を手にとり葡萄酒をそそぐと、それを持って歩き戸口の前に立ったまま動かぬネルニィアへ差し出す。
部屋に入ってからフレイヤの一挙一動を見守るようにしていたネルニィアだったが、差し出された角杯に手をかけることもせず黙ってうつむいてしまった。
「ふうん」
氷像のようになってしまった男を横目で見ながら、フレイヤは自らお酒を口に含む。
匂いと味で、いつも飲んでいるものよりも更に高級品だと分かる。この夜のために、エウシェンが用意したのであろう。
こういう時だけ用意がいいと、フレイヤは皮肉気に口の端をあげる。
「美味しいのに」
楽しそうに笑いながらお酒を飲むフレイヤの姿に、ネルニィアはまるで別人でも見るかのような目をする。
「私は……エウシェンの命で来ましたが、もちろん貴女様の気持ちを一番に考えております」
やっと口を開いたかと思うと、顔を上げて一気に言い募る。
「いや、こんな事は間違ってる。私は今から彼に会って言いっ」
「……黙って」
唇に人差し指を当てられ、ネルニィアがハッとしたように口を閉ざす。
「なんか色々言ってるけど」
葡萄味の溜息をつきながら、フレイヤは髪をかき上げる。途端に白いうなじが露わになった。
「あなた、私と寝てもいいと思ったから来たんでしょ? 違うの?」
またネルニィアが口を開こうとするのを目顔で押さえる。
自分の思い通りに黙り込む男の姿に、フレイヤは満足そうに笑む。二人の目が合った。
「ねえ。私は綺麗?」
しばしの間があってから、邪気のない笑顔から目を離さないままネルニィアが静かに頷いた。
「世界一?」
「世界一です」
はじけるような笑い声を立てながらネルニィアから離れると、フレイヤは角杯を床に放る。
エウシェンがわざわざ取り寄せたに西方産の絨毯に染みができるが、フレイヤは構うことなく踊るようにくるくると回りながらガウンを脱ぎ、薄い寝巻き一枚になる。
ゆらゆら揺れる蝋燭の明かりに照らされ、フレイヤの雌鹿のような若い身体が透けて見えた。
「じゃあ、私は可愛い? 私に夢中?」
エウシェンが言っていた。私は可愛い女の子だと。
ゾーイが言っていたではないか。男はみな私に夢中になると。
しばらく忘れていたが、確かに故郷ではその通りだった。
「……ねえ。私を好き?」
ネルニィアはもう返事をしなかった。ただ喉仏が上下するのが見えた。
「私を抱きたい?」
ネルニィアの眼を十分に意識しながら、フレイヤは最後の一枚をゆっくり時間をかけて脱ぎ、裸になる。
――これだ。ずっと、これが欲しかったのだ。
フレイヤの紫色の瞳が宝石のように輝く。
彼女は寝台に、わざとゆっくり両足を組んで腰掛けると、吸い寄せられるように歩み寄ってくる男を静かに待った。
自分を見つめる羨望の眼差し、賞賛の言葉を何故忘れることができのだろう。
フレイヤはいつだって愛される立場の人間だった。追いかけてくるのは常に相手であって自分ではない。
ネルニィアが側に立ったのを確認して、くいっと右足を上げ試すように男の顔を見つめる。
「……フレイヤ様」
崩れ落ちるように自分の足元にひざまずき、犬のように己の足に舌をそわせる男の姿を見てフレイヤは勝ち誇るように声をだして笑った。




