10.冬の王
その夜、ようやくゾーイに出会えた。
僅か半日足らずだったが懐かしくて仕方がない。
一方、衛兵に挟まれて部屋に入ってきたゾーイは、フレイヤの姿を見た途端、顔をしわくちゃにさせる。
「……フレイヤ様」
料理を乗せたお盆をカタカタと震えさせるのを見て、フレイヤは落ち着いた足取りで近寄ると、ゾーイの前に立ち涙が伝う頬をそっと撫でる。
「私なら大丈夫よ。ゾーイ」
ぼろぼろと涙を流す心優しい少女に向かって繰り返す。
「大丈夫。何の心配もいらないわ」
「フレイヤ様……」
ゾーイはしばらく茫然とした様子で立ち尽くしていが、やがて鼻を鳴らしながら、なんとか笑みらしきものを作った。
「申し訳ありません。取り乱してしまってお恥ずかしい」
恥じ入るようにまつ毛を伏せると、机の上に一つ一つ料理のお皿を乗せていく。
衛兵に見張られながら自室で食べる以外は、いつも通りの食事だ。傷つけないというハリエスの言葉に嘘はないのだろう。
「姫様。本当に大丈夫ですか? お身体のご様子は……」
ゾーイが扉の前にいる衛兵を気にしながら、椅子に座るフレイヤへそっと囁く。
「私なら大丈夫」
フレイヤは相変わらず落ち着いた態度で頷くと、逆に問いかける。
「あなたは? ゾーイ。傷つけられてない?」
「……大丈夫です。私は」
そう言いながらも全て用意が整うと、ゾーイは落ち着かないようにエプロンを両手で握っては離し、唇をかみしめて動かない。
二人が捕えられたのが午前中の事。
ようやく夜になって再会を許されたが、その間ゾーイは泣き通しだったのだろう。真っ赤な目を見て、フレイヤは心が痛む。
「あなたの家族もきっと無事よ」
自分の家族同様その希望は薄いだろうと分かりつつも、慰められずにはいられない。
こうなったのも、ひとえに自分の責任だ。ネルニィアとの軽率な情事を己に許してしまった。言いわけなど何も出来はしない。
再び、衛兵に挟まれて部屋を出ていく細い背中を見送りながら、フレイヤはその姿にまだ年若い弟達を重ねる。せめて、安らかな最後であったことを願うばかりだった。
終始おとなしくしているフレイヤに抵抗する気も、自殺する兆しもないと取ったのか、ハリエスはようやく就寝前に部屋から衛兵達を出してくれた。
だが、部屋の外にも窓の下にも大勢の者達がつめ、自分の動向を見張っていると考えると眠れるわけもなく、フレイヤは暗い天井をただ見つめ続ける。
自分でも驚くほど落ち着いていた。
まるで野生動物かのように、神経が冴えわたっているようだ。だから、僅かな空気の流れさえ敏感に感じ取れることができた。もしかしたら、無意識の内に予期していたのかもしれない。
「……エウシェン」
フレイヤは身を起し、暗がりに声をかける。
闇が一瞬揺れた。影が動き、冬の王のように音もなくその姿を見せる。
「フレイヤ」
引き寄せられるように手を伸ばせば、思いがけずすぐ近くで男の顔を見ることが出来た。
「……フレイヤ、すまない」
寝台の側に跪きながら伸ばされた手を取って痛いほど力強く握ると、エウシェンはその甲に口づけを落とす。
「許してくれ。君の家族を巻き込むつもりはなかったんだ」
フレイヤの眼差しを避けるように、そのまま顔を落とすと彼女の手を両手で握りしめ、額を押しつける。
「完璧に私の誤りだ。父上の考えを見通すことができなかった」
押し殺したような低くしわがれた声は、男を一気に何十歳も年老いさせたかのように聞こえた。
フレイヤはその頭を胸にかき抱くと、エウシェンが驚くほどやわらかな声を漏らす。
「あなたが無事でよかった。エウシェン」
深い愛情さえ感じさせるその声音に、信じられないように顔をあげたエウシェンだが、上げた先にある春の息吹を知らせる女神のように美しい顔を目の当たりにして、ただ目尻を濡らした。
「あなたが無事だったら私はそれでいいのよ」
顔を包み込んで撫で、その額に唇を寄せる。
「怪我は? あなたは大丈夫なの?」
「……フレイヤ」
初めて見せる涙を一筋だけ流すと、エウシェンは顔を伏せて声を震わせた。
「それは私の台詞のはずだ」
「逆になってしまったわね」
微かな笑い声を立てながら頭を撫でてやると、涙の跡が残る顔でようやく笑ってくれた。
冬の凍った湖水のようだった、瞳が涙でにじみやわらかくなる。雪解けのようなその瞳がとても美しくて、硝子で出来た宝箱に大切に仕舞えたらいいのにと思った。
「フレイヤ、君は変ったね」
「変わりもするわ」
エウシェンはそれには何も言わず、こころもち顔をかしげると、フレイヤの顔に見入った。
「そして美しい」
今度は、フレイヤが黙った。
「私の女神」
部屋は冬の深海のように静かで、窓から差し込む月明りだけが見つめあう二人を見守っていた。
この時間を永遠に閉じ込めて出たくないとフレイヤは強く思ったが、それが許されないことが分かっていた。
「……外に、アスティンを待たせている」
フレイヤの手を離さないまま、エウシェンが立ち上がりながら言った。
「彼も無事なのね?」
「ああ。いち早く、父上の企みに気づいて二人で逃げた」
優しく手を引っ張られて、フレイヤは寝台から出ると、エウシェンの側に立って彼の顔を見上げると、苦しげな声が漏れた。
「何か計画があるんだろうとは思ってはいたが……」
その後の言葉は言わず、エウシェンは瞼を深く閉じる。
疲労と後悔が滲むその表情だけで許せる気がした。よくよく見れば、衣服が汚れ、腕に巻いた布地には血がにじんでいるのが暗がりでも分かった。
彼も裏切られた。そして殺されそうになった。
それだけで、フレイヤにとって、イーヴァルは憎むべき敵であった。
「君の家族は」
「いいのよ」
フレイヤは断固たる口調で首を振る。
「仕方なかった。この先の事を考えましょう」
「……やはり変わったね」
苦い笑みを浮かべると、自分のマントを脱いでフレイヤに羽織わせる。
「私の部屋に地下通路への入り口があるんだよ。そこから入ってきたんだ」
エウシェンは自室へ視線を走らせながら、フレイヤの顔を覗き込む。
「すぐに、ネルニィアを向かわせる。君達は、そのまま逃げろ」
「でも……、あなたは?」
訝しげに眉を寄せるフレイヤの頬をひと撫ですると、父親にも似た強かな笑みを見せる。
「私にはまだやるべきことがある。でも、君は逃げろ。フレイヤ。全てを忘れて幸せになるんだ」
フレイヤにとっては信じられないことに、エウシェンは実に満足そうな顔をしていた。
「二人で幸せにおなり」
「……エウシェン。違うわ」
フレイヤの強張った表情に気付き、今度はエウシェンが不思議そうにする。
「あなたがいない幸せなんて私にはないのよ」
「フレイヤ、でも……」
「ネルニィアなんて関係ない。私にはあなただけなの」
エウシェンの胸に手を当て、己の声が未来のない薄暗い部屋にむなしく響くのを感じながらも訴える。
「あなただけなのよ、エウシェン」
戸惑いの波紋で揺れる眼差しを必死でとらえ、フレイヤは祈るような気持ちでその瞳を見つめ続ける。
そこには、彼女の過去と未来があった。
エウシェン以外にそれを与えてくれる者がいないことを、フレイヤだけが知っていた。
「――お取り込み中申し訳ないが」
しかし、招からざる客が二人の沈黙を無情にも打ち破る。
弾かれたようにエウシェンとともに振り返れば、イーヴァルが暗がりのなかでも分かる異様な存在感をまといながら立っていた。
その背後には、彼の忠実な兵士たちが控えており、彼らが手に持つ松明の明かりのおかげで、背後の壁にはぽっかりと穴が空いているのが見えた。
それは、元は本棚が置いてあった場所だったが、今は隠し通路への出入り口となっていた。
エウシェンが微かな溜息をついたのは、見つかってしまったからか、それとも長年集め続けてきた本のコレクションが無残にも打ち捨てられ、踏まれているせいかは分からなかった。
「二人とも、我々と一緒に来てもらおうか」
イーヴァルがもはや己の残忍さを隠そうともせず、二人に一歩詰め寄る。
それと共に、フレイヤは再び剣を持った兵士たちに囲まれた。
昨日今日で随分自分には敵が増えたと自嘲する。父親が知れば青ざめるだろうが、もうその父はいない。そして、フレイヤはまだ自分の足で立っていられることができた。
そっと手を握られたので横を見る。暗く険しい道筋の中一筋の光を見つけた巡礼者のようにフレイヤの表情がやわらいだ。エウシェンの励ますような笑みだけが今は支えだった。
――幸せだ。
フレイヤはその朝に感じたことを、もう一度、今度は夜にも思えることが出来た。心から。
◇◇◇
二人は武器を取り上げられた状態で、イーヴァルの自室へ連れて行かれた。
夏もじき終わる。
しかし部屋がとても寒く感じられたのは、ただ天候の問題だけではなく、絶望的な状況に自分が立っているかもしれなかった。その場にいる全ての人間の息遣いが感じられそうなほど静かな室内で、イーヴァルの存在感だけが際立っていた。
「さて」
イーヴァルは椅子に座ると、軽くて片手をあげて部屋の中まで付いてきた衛兵を外に出して、フレイヤとともに部屋の真ん中に立つエウシェンへ微笑みかける。
「もう邪魔者はいない。積もる話でもしようではないか。我が息子よ」
「話などありませんよ。父上」
エウシェンが酷く平坦な声を出す。
「我々の間で一度としてまともな会話が成立したことがあったでしょうか?」
それには答えず、イーヴァルは太い眉を上下に動かすと、今度はフレイヤに微笑を向ける。
「困ったことだ。これが最後の親子の会話になろうとは実に悲しいことだよ」
イーヴァルを見習うことにしたフレイヤは口を閉ざしたまま、くっきりとした弧を描く眉を上下に動かすと、恐れることなく見つめ返してみせた。
「……おやおや、我らの可愛らしい姫君は変わったようだね」
イーヴァルは一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐに分厚い唇を指でさすりながらにやりとする。
「だが、これも悪くない」
値踏みするような目つきに背筋が嫌悪で震えたが、フレイヤは人形のような表情を崩さない。
「フレイヤ、私は常に君と親しくなりたいと思ってたんだよ」
背もたれに背中を預けて椅子に深く座りなおしながらも、フレイヤから目を離さず話し続ける。
「お父上の事は残念だった」
「よくも……そんな白々しいことが言えたものね」
胸の内から押し寄せてくるような例えようもない感情が渦巻き、声が震えた。
「よき人だったが軟弱だった」
フレイヤの様子を気にすることなく、イーヴァルは肩をすくめてみせる。
「ミッラレスへすり寄る気配さえ見せていた。危険な人物だった」
「父上は勇敢な方でした。あなたはただの卑怯者よ」
「だが、もういない」
何本もの杭で胸を打ちつけられた気がした。
実際、血が流れないのが不思議だった。こんなにも自分は傷ついているというのに。
「妻と子供たちとともに仲良く並んで自分の城の塀から首をぶら下げている」
「……フレイヤ」
エウシェンが名を呼び、切れ切れに押し殺した悲鳴を上げ、胸を押さえながら喘ぐフレイヤの背中をさする。
「突然家族を失った君が寂しかろうと思ってね。兄上達の御子は首だけ切って連れてきたよ。後でお見せしよう。君の甥と姪たちだ。とても愛らしい子どもたちだった。君も、さぞかし可愛いがっていたことだろう」
「父上!」
「その母親達は、兵たちの慰めに与えたら後で隙を見て自害したとか。どの姫も美しかったのに残念だ」
「父上、お止めください!!」
エウシェンが叫びながら机を乗り越えて飛びかかり、イーヴァルを椅子から引きずりおろす。
「……お前がっ!」
床に引き倒された時の反動を利用して、イーヴァルがエウシェンの上にのしかかると、顔を殴りつける。
「お前ごときが、この父に逆らうつもりか!?」
胸元を激しく揺さぶり、また殴る。
苦痛の声を漏らすエウシェンの姿に、フレイヤは壁際により冷たい石の壁に背中をつけて凍りつくこと以外何もできなかった。
「何事か企んでいたことは分かってるぞ! 私を誤魔化せるとでも!?」
互いの鼻が付きそうなほど顔を近づけ凄むイーヴァルに対して、エウシェンは歯を食いしばって耐える。
「やはりお前もあの女の子供だ。人の恩を忘れてすぐにたてつく」
「……だから殺したのか?」
エウシェンは落ち着いて見えたが、その瞳に宿る狂気に父親と同じものを見て、フレイヤは戦慄する。
「何も知らないとでも?」
胸元を押さえつけられたままエウシェンは顎先をあげ、鼻で笑う。
「アーヴァスの刺客からあなたを庇った? その復讐のため、あなたはアーヴァスを攻め入った?」
なんたる美談か!? と更に高い笑い声をあげる。
「全てあなたが仕組んだことでしょうが! アーヴァスへ攻め入る理由を作るために自分の妻すら利用したのだ!!」
「……だから、どうだというのだ?」
イーヴァルが口角をあげ、残忍な笑みを浮かべる。
「あいつも私の役に立てて、さぞ喜んでいることだろう」
獣のような唸り声をあげ、エウシェンがイーヴァルを殴りつける。
「やはりお前は失敗作だ。あいつが余所から異教の教師などを呼んで、余計なことばかり吹き込みおった!」
今度は自分が馬乗りになって殴られているというのに、イーヴァルは痛みを感じる様子すら見せなかった。彼の身体は度重なる戦で鍛え上げられた鋼鉄のように頑丈で、その意思は感心するほど強かった。
「母上からの贈り物だ!」
対するエウシェンは体格こそイーヴァルを凌ぎ、健康で何よりも若かったが、ただそれだけにも見えた。
十代の少年にも見える傷つきやすい横顔を見て、未だに突然母親を失い、父親の裏切りを知った時の傷が癒えていないことを知ることができた。
「あいつも、とんでもないものを最後に残してくれたものだ。戦嫌いの愚かで、男色狂いの末息子とは」
その先は、エウシェンの力強い拳のせいで言えなかった。
骨と骨がぶつかりあう音に、フレイヤは身をすくませる。
「……お前のような男は私の息子と認められない。女を孕ませることさえ出来ないではないか」
部屋の隅で震えているフレイヤを横目で見て、鼻から血を流しながらおかしそうに肩を揺する。
「私は確かに愚かだ」
喉の奥から笑い声を出すイーヴァルをまた殴って黙らせると、エウシェンは上体を起こす。
「だが、戦い方はあなたから教わった」
閉ざされた扉へ顔をひねると、ただ一言こう言った。
「ハリエス」
イーヴァルの瞳から今日初めて余裕が消えた。そして、単純な疑問が湧き起った。
それは、扉が音もなく静かに開き、ハリエスが背後に一人の男を伴って現れてからは更に顕著になった。
「……ハリエス、どういうことだ?」
エウシェンに床にねじ伏せられた体制のまま、イーヴァルは威厳を失わなかった。
だが、常にまとう覇気が一瞬揺れた。
「その男を早く牢へ戻せ!」
ハリエスとともに部屋に入ってきたネルニィアを見て声を荒げる。
扉の隙間から衛兵たちが動き、ネルニィアの後ろに控えていたアスティンがそれを制するのが見えた時、ネルニィアが後ろ手に扉を閉めた。
扉の向こうから激しい言葉の応酬とものがぶつかり合う音が聞こえる中、ネルニィアが扉に錠を掛ける音が妙に響いた。
部屋にいる三人の男が顔を見合わせた後、そろって自分へと無言の眼差しを送るのを見て、イーヴァルが更に声を張り上げた。
「お前達どういうつもりだ! 兵を……。誰かいないか!?」
「おりますよ」
エウシェンが静かに立ち上がり、冷ややかな目で父親を見下ろす。
「だが、もうあなたの命は聞きますまい」
ネルニィアから剣を受け取ると、杭を討つかのように両手で構える。
「今日新たに、この国では王が生まれるのだ」
身を起こそうとするイーヴァルにさっと影が近づく。ハリエスだ。
背後から腕を取り、イーヴァルの身体を無理やり床に押さえつける。
「ハリエス……。お前っ! この裏切り者が!」
更に聞くに堪えない罵倒の言葉をイーヴァルがあげるが、ハリエスは口を閉ざしたままだ。
その冴えた表情からは彼が何を考えているか分からなかったし、腕を解くつもりもないようだった。
イーヴァルはそれが分かると驚愕で目を見開き、誰か助ける者はいないかと顔をめぐらし、震えながらも彼を睨むフレイヤに視線を走らせ、次にネルニィアと目があうと愕然とした表情を作る。
この部屋には、誰も彼を助ける者はいなかった。
「国王陛下、私があなたを助けるとでも? 父の敵を?」
ネルニィアが優しさすら感じさせる声で問う。
「母親代わりだったウルリカ様を殺したあなたを?」
とんでもない、と首を振ると相変わらず優しい表情をしたまま微笑む。
「ずっと、この日を待っていた」
イーヴァルの喉が上下し、唾を飲み込む音がフレイヤにも聞こえた。
「衛兵! 誰か! ここへ!! 王を助けるのだ!!」
張り裂けんばかりの声に、フレイヤは耳を両手で塞ぐ。
今ここで一人の男が殺される。とても耐えきれないと思ったが、憎しみの方が勝った。
フレイヤは自分の心が歓喜しているのを意識せずにはいられなかった。舌舐めずりせんばかりに血に飢えていた。そして、そのことに驚いていなかった。
「……王はいない。今日ここで死ぬのだ」
厳かに言うと、エウシェンが静かに剣を下ろした。




