第三話 バイト先にて 〜前編〜
一日一日の過ぎ方が大学が始まった途端に早まった。大学生活は何事も無く過ぎて行き、結局サークルに興味を持てなかった僕は直ぐにダイニングバーのバイトを始めた。
小洒落た客席八十程の店は落ち着いていて、ピークの時以外それほど忙しくなかった。最初のころは声も酒を持って行く手も震えていたが、一ヶ月ほどすると次第に慣れ、暇な時は客の簡単な話し相手が出来るくらいになった。大抵の話はどうでも良かったし、大抵の僕の笑いは愛想で作り出したものだった。特に楽しいというわけでもなかったけれど、暇つぶしにはなっていた。
そんな時、たまに学食の彼女のことを考えた。もしも彼女とだったならどんな会話をするのだろうか。彼女の名前は千穂子といい、イギリスに一年留学していたこと、サークルに入っていないこと、バイトもしていないこと、お酒はワインが好きなのだということを陽樹が教えてくれた。それがどう。というわけでもなかったけれど、その情報は色褪せなかった。大学やバイトには慣れてきたがのに大学のレポートとバイトの人手不足で日常が少しずつ忙しくなってきた。だから彼女のことを考える頻度は少なくなり、学食へも行かなくなっていった。
その日は静かに雨が降り、いつも以上に客入りは少なかった。六月に降る雨は少ししつこいがこの日の雨は湿気た空気を浄化しているようだった。
そんな日に、
彼女はバイト先に来た。
いらっしゃいませという案内係りの木村さんに答えたのはスーツを着た男で、二人です。という丁寧で太い声だった。彼女とスーツを着た男の二人はそのまま木村さんに連れられ僕の担当テーブルにやってきた。少し後ろを歩く彼女は、いらっしゃいませと言う僕の言葉を素通りした。雨と香水の混ざった匂いだけを微かに留まらせて。
心の中で舌打ちをしてから少し遅れてテーブル担当の挨拶をすると、ファーストドリンクを受けた。スーツ姿の男の人はこの店で二番目に高い白いワインを頼み、同時にアンチョビのサラダも頼んだ。その間彼女は一度もこちらを見ることなく、唯メニューを眺めていた。
食堂での読書のように。
そんな彼女にちりちりとした怒りが込み上げる。この人は店員の顔すら見ないのか。そう思いながら戻ろうした瞬間、ふと顔を上げた彼女と僕の目が合った。
一瞬、
動きが止まる。
勝手に期待する自分がいる。
何を期待しているのかさえよくわからなかったけれど。
「しりあいか?」
スーツ男の声は無駄にでかくて低い。
「いえ」
静かに答える彼女とは対照的に。
「あの、グラスは二つでよろしいですか?」
取り繕うように当たり前の質問をする。
「はい、お願いします」
スーツ男はさわやかな笑顔で返したから、僕も営業スマイルで応えるとその場を去った。名残惜しいように彼女を気にしながら。