同一と相違の紙一重
沼と泥だけだった地面は姿を消し、大理石のような乳白色の石が敷き詰められている。綺麗な正方形に切り取られた石たちは、寸分の狂いもなく整然と並べられており王家の宮殿を思わせた。迷宮の薄暗さはどこへやら、天井部には果てしなく青い空が広がっている。
明らかに先程までいたのとは違う場所だった。
どうやってレイをこの場所まで連れてきたのか見当もつかなかったが、レイをこのステージに招待した犯人だけは明白だ。
――ラヴィリンス。
どうやら此処は、彼の言う「ゲーム」の会場であるらしいとはレイにも理解できていた。空があったから外の空間ではないかと一瞬期待したが、迷宮から出る条件がゲームに勝つことであるのだから、迷宮内の空間である可能性が高い。
レイは戸惑いながらも周囲をつぶさに観察した。
彼が立っている場所は凹凸の無い平地だ。四方を見渡しても障害物は見当たらなかった。ただ、よく見ていくと此処がかなり高地であることがわかる。
彼のすぐ横を流れていく雲に、冷たい風。ぽっかりと空に浮いているような、不思議な空間だった。
てっきりラヴィリンスもいるものだと思って探したのに、人影はおろか石ころひとつ転がっていないようだと気付く。ラヴィリンスが提示するゲームの内容もルールも聞かされていないレイは、次第に不安を募らせていった。
「ここで、何をさせるつもりなんだろ」
終わりが見えない平地をしばらく歩いてみることにした。とりあえずラヴィリンスを探そうと、辺りに視線を彷徨わせながら進む。
レイは山と森に囲まれた村で生きてきた。そこは複雑で多様な生命の住まう騒がしい場所だ。ここまで何もない空間は迷宮にも存在していなかった。
完全なる静寂とは、このことを言うのかもしれない。
レイは落ち着かない様子で、そわそわと体を揺らしている。初めて感じる不気味な静けさに、彼はわざと大きく息を吐いた。
今ここには、レイの呼吸音と心音以外の音はない。大げさに足音を立ててみても、びっくりするほど音が響くものだから気が引けてしまった。
しばらくの間、あてもなく歩いていた。いくら歩いても景色は変わらず、終わりも見えない。レイの戸惑いはだんだんと不安へと変わっていった。太陽は中天から動く気配はなかった。
この場所がどんなところなのか。レイは薄々感じ取っていた。どこまでも続く同じ景色と不動の太陽。ここは閉じられた空間だ。
「異界の一種とか? それとも亜空間かな。夢世界もありうるのか……」
思考をめぐらしながら歩いていると、レイの前方に青いドアが現れた。一枚の板がたてられているだけのように見えるが、ちゃんとドアノブもついている。ドアの向こう側にも同じ景色が続いているものだから、だたのオブジェのように見えて仕方がない。
「……くぐれってこと?」
警戒心も露わにドアへと近づき、恐る恐るノックしてみた。返答はない。コンコンと乾いた音がするだけで、いたって普通のドアだった。
変化のない状況に不安がつのっていたとはいえ、そのドアを開けるにはなかなか勇気がいる。じっとりと手のひらに汗をかいていることを自覚しつつ、レイはドアノブに手をかけた。
ギギィと木の軋む音を出しながらドアはゆっくりと開く。
覚悟を決めて足を踏み入れたそこは、なぜか、よく見慣れた場所に通じていた。質素な家が並び、森と山に囲まれた小さな村。見慣れていて当たり前だ。なぜならそこはレイが育った村なのだから。
「ナイゼ村――!? まさか……」
三年前の記憶。追われるようにして森へと入り、迷宮へ迷い込んだ。レイが狭い箱庭から出ていかざるを得なくなった、その時に、何もかも壊されてしまったはず。
レイは呆然として村を眺めていた。
――もしかして、思い違いだった?
――村はまだ、変わらずにそこにある?
混乱する思考は、三年前の事件の方を夢だと認識しはじめていた。迷宮という異常な空間で、ラヴィリンスという異常な存在と遭遇した。これまでの三年間の方がすべて夢の出来事だと言われれば、納得できてしまう。
「あはっ」
自然に笑みがこぼれ、レイは村の外れへと走った。そこはレイの家があるはずの場所で、カテンダがいるはずの場所。記憶と寸分たがわぬ家が見えてくると、レイは叫んだ。
「父さん!」
育ての父を呼び、走っていた勢いもそのままに家のドアを開けようとした。
しかし、レイの手は取っ手を掴むことは出来なかった。
「…………え?」
目標を捉えられずにバランスを崩す。間違いなく壁に激突していたはずの体には、何の衝撃も与えられなかった。彼の身体の半分が、溶けるように壁の中に消えた。
レイは勢いよくのけ反った。今の、形容しがたい奇妙な現象に理解が追い付いていないのだ。
だが、レイに追い打ちをかけるようにそれは現れた。
家のドアが中から開けられた。
出てきたのは五歳くらいの幼い子ども。
レイの頭は真っ白になった。彼はその子どもを知っている。黒髪に黒の瞳。村ではただ一人しかいない色彩を持つ者は、
「僕……?」
立っているレイをすり抜けて、子どもは村の中心部へと走って行ってしまった。反射的に子どもの後を追う。あの子どもがレイ自身なのか、確かめなければならないと思った。
辿り着いた先は村にひとつしかない雑貨屋。本当に最低限の物しか売っていないので、ナイゼ村の住人たちは家具をはじめとして大抵のものは自分で作っている。雑多に並べられた商品のひとつを指差し、お金を店主に差し出した。
いたって普通の、日常の風景だ。
しかし、レイの耳は大人たちの囁きを拾った。
『カテンダも一体何を考えているんだか。あんな役立たずを拾ってきてよ』
『親にも捨てられるような子だ。育てた所で良いことなんかありゃしないのに』
『見ろよ、あの黒髪。辺境に住むと聞く蛮族の色だぜ』
よほど耳をそば立たせていなければ聞こえそうにない、ひそひそとした声であるのに、まるで太鼓の音のようにレイの鼓膜を激しく叩く。
雑貨屋で用を済ませた子どもに対し、店主は犬を追い払うようにしっしと手を振った。子どもは小さな体をさらに小さくして家の方へと戻っていった。
レイはその場に立ちつくした。
悪い夢でも見ているような気分だ。心の奥底にしまっておいたものを、無理やり引きずり出された。そんな気持ち悪さを感じた。
ぼうっと子どもの後姿を見送っていると、ふっと視界がぶれた。
シーンが切り替わる。
レイの前に立っているのは八歳を過ぎたばかりの少年だ。彼もまた黒髪に黒の瞳。顔はあえてじっくりと見なかった。いや、見なくても分かった。レイを少し幼くした感じで、身長も他の子供達よりも小柄だった。
村の子供達は黒髪の少年を囲うように立っている。彼らは各々手に武器を持ち、その切っ先を少年の方へ向けていた。
リーダー格らしい金髪の少年が口を開く。
『お前、まだスキル使えないんだって?』
『ドークさんとこのリオなんか、三才なのにスキル発言したらしいぞ』
『マジかよ。おい、三歳児にも負けてんぞ、お前』
『もしかしてコイツ、能無しなんじゃねえの?』
金髪の少年が模擬剣の先で黒髪の少年を小突いた。黒髪の少年は何も言わずにじっと地面を見つめている。
それからレイはいくつかの場面を見せられたが、そのいずれも黒髪の少年が身を小さく地締めていた。
もう、レイ自身感づいていた。これは彼の記憶で、黒髪の少年は過去のレイだ。
再びシーンが切り替わる。
現れたのはサギ、レイが唯一心を許している友人だった。彼の後を過去のレイがついて行く。森の中を探索している時の記憶だ。
サギが後ろを振り返った。覚束ない足取りで歩くレイを見て、ひとつ溜息をついた。
『なあレイ。悪いことは言わねえ、お前は村を出た方がいい』
『……え?』
『街に行けば、お前にも出来る仕事があんだろ。レイには村の暮らしは厳しいと思うぜ』
サギにしてみれば、きっと不出来な友人を案じて忠告したつもりだったのだろう。
しかし、当の本人は、まるで死刑を宣告された罪人のような面持ちでサギの話を聞いていた。なぜそんなことを言われるのか分からず、彼の心は絶望に染まった。
レイは呆然として二人を見ていた。
はたと気が付くとサギの姿が消えていた。過去のレイの姿もない。代わりに彼の前に立っていたのは、育ての父たるカテンダであった。
カテンダが問う。
『お前はどうしたい?』
剣術を教えるときの厳しい表情だった。
『ここに留まるか、外へ出るか』
レイは答える。
「僕は、村に帰りたい」
『村はもうどこにもないのにか?』
「でも僕の帰る場所は、あの村しかないよ」
『村にはお前の居場所などなかっただろう』
カテンダの言葉はどんな鋭利なナイフよりも深く、鋭くレイの心に突き刺さる。
レイはナイゼ村にとってよそ者だった。レイよりも後に村へと入ってきた者だっていたのに、彼らはあっという間に村に馴染み、村の一員になってしまった。でもレイはよそ者のままだった。
レイの中に芽生えた感情が外への渇望であったなら、彼も救われたのかもしれない。だがレイはナイゼ村に居場所を求めてしまった。
何が足りなかったんだろう。僕の何がダメで、みんなは認めてくれなかったんだろう。
幼き日の嘆きと苦悩がよみがえる。
「だって……他に僕の居場所なんて……ないよ」
『いや、お前は外に出るべきだった。そのための力もつけてやったはずだ。お前はあの村に留まるべきではなかった。居場所なら、自ずと見出せただろう』
「なんでそんなこと言うのさ」
『……それはお前が知る必要のないことだ。知ればいらぬ業まで背負うことになる。今は、自分自身の望みと向き合え』
「望み……?」
『そうだ。お前は何がしたい? どこに行きたい? 小さな息苦しい箱庭はもうない。お前はすでに自由だ。……それがお前の望みであろうとなかろうと、な』
「僕は……父さんたちが、殺された理由を知りたい……」
『知ってどうする? 復讐でもするか?』
レイはカテンダの鋭い視線にたじろいだ。
――復讐? どうやって?
村のだれよりも強かった父でさえあっさりと殺せるような相手を、どうしてレイのような役立たずが倒せるだろう。憎しみよりも恐怖が先に立つ。そんな相手とまともに渡り合えるはずがない。
レイは悔しさに唇を噛みしめた。
「それは……でも、このままじゃ」
『一つ訊こう。お前はあの赤髪の男を憎いと思うか?』
「あ、当たり前だろ!」
『では、あの男を殺したいと思うか?』
「は?」
呆気にとられたレイは、真意を探るようにカテンダの顔を覗きこむ。
『やはりな。お前は故郷を焼いた男を、殺したいと思うほど憎んではいない。村人を殺した男に対して、激情を抱いていない。お前が理由を知りたいと言ったのは、お前自身を納得させるためのものではなく、死んだ者たちへの言い訳と自己満足が欲しかっただけだろう? 村人の、故郷のためにここまでやった、というな』
「なにを、何を言ってるんだよ父さん! 僕は……」
『お前が赤髪の男を憎むのは、お前の居場所を……いや、居場所にしたかった場所を壊したからだ』
「違う! 違う違う違う違うちがうちがう!!」
『違わない。レイ、お前の望み……根源的衝動をさらけ出せ。答は自ずと見えてくる』
「だまれ! そんなこと言うお前は父さんなんかじゃない!」
カテンダの幻想は悲しげに笑った。自分をただの幻だと自覚して、それでもなおレイの父として彼の前に立っている。
レイが自分自身に巻き付けた、重い楔をはずすために。そのためだけにここにいる。
『レイ。もう言葉は必要ないだろう? 剣を抜け』