表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/8

誘う洞窟

 魔物が棲むという森は深かった。レイは自分がどちらから走ってきたのかもわからなくなるほど、がむしゃらに進んだ。だが、もはや体力の限界がせまっていた。全身を滴る滝のような汗が、余計にのどの渇きを意識させた。身体は水を欲している。なのに、森は静寂なままで水音は聞こえない。疲労と恐怖に足が笑いながらも、レイは水を求めて亡霊のように森をさまよった。

 日はとうに暮れている。わずかに射しこむ月明かりを頼りに、レイは水場を探していた。森の散策を日課としているレイも、狩人であった村人も、こんなに奥までは入り込むことはない。魔物と遭遇する危険度は増すし、なにより帰り道が分からなくなるからだ。


「……う、うええ。かはっ」


 びしゃびしゃと胃液を吐いた。村の凄惨な光景が頭をよぎる。肉の焼けた臭いに、渦巻く炎、そして、鮮血の赤髪に炎の瞳。それまで逃げることに集中してきたが、ついにプツリと緊張の糸が切れた。レイはふいに込み上げてきた嘔吐感を我慢でなかった。胃の内容物はもう胃液ぐらいしか残っていないだろうに、嘔吐感は止まってくれない。ふらふらと森を彷徨う道すがら、何度も村を思い出しては吐いていた。


「父さん。とう、さん……」


 あの襲撃者が追ってくる様子はない。森を捜索する労を考えて獲物を追うのを諦めたのだろうが、レイには確信が持てない。あれほどの腕を持つなら気配を絶つのも容易いだろうし、レイのような未熟者を見つけるのも難しいことではないはずだ。追ってこないということは、襲撃者にとってレイの存在などその程度でしかなかったということだ。


「サギ……村長……だれか、たすけて」


 もういないとは知りながらも、彼らを呼ぶ声は止まらなかった。レイがこれまで頼りにしていた者たちは、一人残らず殺されてしまった。これから、己の身を頼りにして生きていかなければならないのだ。大海原に一人放り出されてしまったような、先の見えない恐怖と孤独感がが、狭い箱庭の世界しか知らないレイの前に立ちはだかった。

 なおも覚束ない足取りで森の中を歩いていると、次第に霧が出はじめた。這寄るようにたちこめる霧はしだいに濃くなってゆき、両手の届く範囲の視界さえも塞いでしまう。遂には月明かりも意味をなさなくなって、レイは完全に立ち往生してしまった。


「どうしよう……これじゃ、森を抜けられない」


 森は東西に長く、北に上れば一年中吹雪が続いているような雪山に出てしまう。森をぬけようと思うなら、南に下るしか道はない。

 とはいえ、すでに日は落ちていて、頼りにしていた月明かりも霧のせいで足元を照らすには不足している。薄っすらと雲がかかった夜空には、ぼうっとおぼろげに光る星がいくつか見て取れた。一等明るい星だけははっきりと視認できるから、おおまかな方角は確認できる。

 だが、問題はこの霧だ。魔物が住む森で、しかも夜に動き回るのは自殺行為に等しい。足音を殺して獲物に近寄る魔物だっているというのに、五感がまともに働かない状況下では食われるのを待つだけの身だ。

 途方に暮れていたレイは、視界の隅にほのかに光るものを見つけた。白に埋め尽くされた視界の中で、その光だけが異様に浮かび上がっている。自然のものではない、人工的な光だ。レイの直感はそう告げていた。


「……行ってみるか」


 もしかしたら魔物狩りの連中かもしれない。レイの希望的観測は、ひとつの可能性を導き出した。

 魔物の森は、人に忌避されるのと同時に人々が熱望する宝の山でもあった。魔物は意志を持つ生き物を優先的に襲う。つまり、ただの動物よりも人の方を好んで襲うために、魔物の領域に人は近づかないのが鉄則となっている。ただし、力ある人間たちは魔物を狩ることで様々な「特典」を得ようと、魔物の領域に挑んでゆくのだ。魔物の身体そのもの、あるいは魔物が溜め込んでいる財宝、それらは人に莫大な富と名声を与えてくれる。

 魔物の森に人がいるとすれば、それはほとんどの場合魔物を狩るためにやって来た者たちであり、ごく稀にレイのように意図せずして彷徨いこんでしまった者がいるだけだ。

 レイは前者の存在に賭けた。今の状況から助かる可能性があるとすれば、魔物狩りの一群に森の外まで送り届けてもらうことだけだ。戦士としては未熟で、まともに装備も持ち合わせていないレイ一人だけでは、とてもではないが魔物に遭遇して生き延びられるとは思わない。たとえ運よく魔物と遭遇せずにすんだとしても、食料がない状態でどこまで進めるだろうか。

 そして、レイは意を決して白靄の中を歩き出した。手さぐりで障害物をよけながら、暗い森に浮かぶ光の方へと進んでゆく。森を歩くのには慣れている。他の村人たちほどではないが、危なげない足取りで光を目指した。

 光源はレイが思っていたよりも近くにあったらしかった。だんだんと明るさを増す光に、レイの心はいくらか軽くなった。まさに希望の光であったそれに、レイも自然と歩みを速くした。


「すみません! 魔物狩りの方ですか?」


 人影が見えるくらいにまで接近すると、レイは明かりの方向にむけて声を張り上げた。呼びかける声に気が付かなかったのか、影は動く気配はない。


「迷ってしまったんです! だれか!!」


 聞こえなかったのだろうと思って、レイはもう一度大声で人を呼ぶ。しかし、いっこうに返事はなかった。しびれを切らしたレイが、光に照らされてちらちらと揺れている影の方へと駆けよる。

 希望を逃がすまいとした焦りゆえか、目前に迫っているはずの光になかなか届かない。レイの頭の中には人影のことしかなかった。おかしいと状況を省みる余裕も失い、レイは知らず知らずにうちに森の深部へと入り込んでいってしまった。

 --影を追うことしばし。

 ようやくレイは自分の失策を悟った。魔物の中には幻を見せる種類もあって、彼らは幻影を擬餌のように利用して獲物をおびき寄せる。まさに現在レイが置かれている状況がそれだ。自分に都合のいい幻を見せられて、まんまと敵の巣に飛び込んでしまった。

 今、レイの前に立ちはだかるのは絶壁だ。ほんのりと白い岩肌が剥き出しになり、草ひとつ生えてはいなかった。崖の頂上まで二十ギドくらい。レイの身長が1.5ギドほどであるから、とてもではないが登ってゆける高さではないだろう。彼にその体力が残っていないのは、荒い呼吸と吹き出る汗を見れば明白である。

 来た道を引き返すにしても、だいぶ森の深部に来てしまった後では難しいだろう。レイの体力は底を尽きかけている。せめて休息を取った後でなければ、まともに歩ける気がしなかった。

 レイはもう一度崖を見上げた。上にあがれそうな所はなく、レイの立っている場所からは崖の終わりが見えない。前に進むすべがないことを確認すると、レイは幻を見せていた魔物から身を隠せるところを探した。おそらくは近くに潜んでいるのだろうが、いまだ襲いかかってこないことから察するに、魔物はレイの居場所を把握していない。目が悪いのか、夜行性ではないからか、どちらにせよまだ見つかっていないのなら僥倖である。

 光が目の前で突然消えてしまったときは絶望感に打ちひしがれそうになったが、彼の悪運は尽きていないらしかった。

 崖沿いに歩いていると、ちょうど大人一人が入れそうな洞穴を見つけた。穴はかなり深いようだが、奥から吹き出してくる風の音以外は何も聞こえてこない。生き物の気配も感じられず、レイは魔物の巣になっている訳ではなさそうだと判断した。


「……しかたがないよね。今日はここで休もう」


 洞穴の中へと入り、外から見つからないくらいの深さの所で腰を下ろす。ガサゴソと荷物を探ると、出てきたのはわずかな水と食料に、愛用のナイフと父に貰った短剣だけだった。傷薬もあるにはあったが気休め程度でしかなく、ないよりはマシ、といった感じである。レイは食料の入った袋から二つだけ木の実を取り出した。森を探索した帰りに見つけてもぎ取っていたもので、他の保存食とは違ってすぐに腐る。食べるなら今だろうと口に運んだ。

 口の中に広がる甘酸っぱい果肉に、レイは再び涙がにじむのを堪えられそうになかった。生きていることへの安堵なのか、それとも一人だけ生き延びてしまったことへの罪悪感なのか。レイ自身にも涙の理由はわからない。

 こうして夜は更けていった。

 ぽっかりと開いた洞窟の穴を、もし昼に見ていたなら、彼はこう言ったことだろう。「まるで地獄の口みたいだ」と。その禍々しさに近寄ることさえためらい、その中に突入しようなどと考えもしなかっただろう。しかし、ひっそりと息を殺し、獲物に食いつくときを待つ魔物がいた。レイはついぞ魔物の存在に気づけないままであった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ