3 八十パーセント
寂れた商店街のファストフード店は、思いのほか賑わっていた。理由として考えられるのは、まず昼食時だということ。次に、ここ数年で閉店の相次いだ商店街では、まともに食事をとる場所は他にないということ。
「そういうわけだ。悪いな」
運良く空いていた隅の席に座って、町田美佳子に言った。彼女は席に着くなり、片手で運んできたトレイの巨大ハンバーガーの包装を開け始める。
「え? 何か言いました?」
食いながら。
「いや、いい」……満足しているなら。
俺には時間と、金しかない。力もなければ度胸もない男が、せめて彼女の役に立てたらと思い昼食を奢ろうとしたのだが、生憎、夜からが活気付く陰気な町だ。上等な食事処など近辺にはありもしない。
「すいませんね、ほんと。これたべてみたかったんですよ」
巨大バーガーは彼女の顔ほどもある。
「俺もそれを食べる奴を見てみたかった」
「あはは。美味しいですよ。食べますか?」
間接キス以前に、思いきり歯型のついた部分を向けられては口を開く気にもならない。俺は拒否した。
彼女はそれを認めると、童顔からは想像もつかないような大口を開けて一気に半分ほどを齧った。本当に無頓着だ。あらゆることに。
ちなみに俺の方のトレイはというと、至って普通のハンバーガーとポテトのセットだ。ポテトのみでよかったのだが、相手との注文の差があると気を遣われると思い無理をした。他人との食事は慣れない。世の連中はよくやっていると思う。
包装を開け、食しはじめる。なかなか美味い。いつも頼むワンコインのものより上等だからか。
「時間が空いちゃいましたね」
巨大バーガーは消えていた。ポテトをつまみながら美佳子は言う。
現在正午、三十分過ぎ。行動開始が早かったのもあるが、もうミストを一体倒した。このままいけば、一日二体。何と言えばいいのか、物凄い敏腕営業マンの仕事を見ているようだ。
「でも好都合です」
ほらきた。
「次のミストは上手く会えるか怪しいですからね。今日で倒すために、夕方までの時間でできることは全部やります」
ということは、急ぐということだ。悠長に食べすぎていた俺は、慌ててハンバーガーを口に詰め込んだ。
「あ、大丈夫ですよ、急がなくて。私も食べるの手伝いまふから」
言う間にポテトを奪い食い始めている。
「おい、足らなかったなら言えよ」
「いえ、これ以上は太りますから」
なら手を止めろ。食うな。ポテトが俺の本命なんだよ。
芋争奪戦ののち店を出て、お世辞にも可愛いとは言えないゲップをした美佳子は、またも市街上空を仰ぎ見ていた。
「ご馳走さまでした。本当に、お兄さんにはお世話になって、面倒につき合わせてしまって本当に」
空にそのお兄さんとやらがいるのだろうか。感謝の言葉が完全にうわ言だ。
「あ、携帯」
発言に脈絡がない。傍目に見ると随分おかしな子だが、彼女はこれから人命を救うべく行動をするのだ。俺だけはわかっていなくては。その偉大さを。
肩までの髪の幼顔が俺に向いて、口を開いた。
「携帯を借りていいてすか。ネットを使いたいので、ネットで最寄りのネットカフェを探します」
…………。
「なんか、おかしくないか」
「あ、だめでしたか。すみません」
「いや、ネットを使いたいなら俺の携帯でやっていいぞ」
何故わざわざそんな遠回りをする必要がある。
しかし彼女は可笑しそうに体を揺らして、「だめなんですよ。私、携帯は」
よくわからない。だが話が進まないので、とにかく二つ折りの携帯を渡した。
だめなんですと言ったくせに難なく彼女は商店街出口付近のネットカフェを探してみせ、移動を促す。あったんだな、そんな大層なものがこの雛川にも。ひょっとすれば飲食店も検索で見つかったかもしれない。今となっては遅いが。
古い電気屋、八百屋、あとはシャッターの下りた店舗のみ。人も疎らな中を歩く。数分してたどり着いたのは、健全な印象を全く与えない細長いビルだ。丸々ネットカフェとなっている。……なるほど、ここは裏の繁華街にも少しかかった場所だ。調和性はある。
入店して、カウンターへ。慣れた様子で美佳子が前に出る。どうやら利用にあたり会員登録の類は不要らしい。寝泊まりに使う人間が多いわけだ。
「……ちょっと待て」
三時間コースを指差していた美佳子は振り返る。
「泊まるところがないって、あんた最初に言ったよな」
終わったことを掘り返すのは女々しいと思う。だが興味も兼ねて俺は訊く。
「ネカフェに泊まれよ」
彼女は、げっという顔をした。
数秒の沈黙。
「三時間コース二名様、二千円になります」
店員の声を受け、美佳子は制服の内ポケットから小さな財布を取り出した。片手で器用に開いて、中身を見せてくる。
空。
涙目で、更に障害者手帳も取り出した。
「ああ! 俺が払う。払うから仕舞え」
支払いを終えて伝票を受け取り、客の少ない店内のネットコーナーへと移動する。
「お金がないんです」
「どうするつもりだったんだ。宿もそうだが、それじゃあ県を出れない。埼玉にだって帰れないだろ」
「そこは、……まぁ、女の子ですから。本気になればどうとでも」
「……」
身体かよ。今時珍しいことじゃないが、俺は少なからずショックを受けた。こんな清純そうな奴が、たかが紙切れ数枚で身体を売る気でいる。それも、わけのわからん殺人霧をたった一人で倒す目的のために。
「二万やる」
何故か怒り口調で札を突き出した。美佳子は驚いて、
「ええっ、いいですよ。ていうかお金とかまずいですって」
「これしかできないんだよ、俺は」
「ええ~」
と言いながら彼女は開いた財布をたまたま横にあった雑誌棚に置くと、一切無駄のない動きで受け取った二万を入れた。そして制服に仕舞った。
「……」
「本当に、親切が身に染みます……」
彼女の言った本気は、恐らく〝今〟も発揮されたのだろう。
店内奥、隣同士のPC席に座る。仕切りがあるが、必要に応じて取っ払える仕組みだ。俺はそうして美佳子の動作を注視する。
マウスというものは形状、機能共に右手用に作られている。彼女は当然の如く左手で扱い、ブラウザを起動。
そこからが早い。
キーに手が触れたと思えば、検索欄に見慣れない語句が打ち込まれている。検索結果から開かれたのは、出会い系サイトだ。
「ここが最大手です。お兄さんは使ったこと」
「ない」
「私も初めてです。わくわくしますね」
会員登録画面、ちょくちょく入れる場所を間違えながらも高速で必要事項を入力していく。
美佳子は『中村ゆうこ』という名で登録した。中村祐一、すまん。
「雛川市街で起こる殺人は、一年おきだったり数ヶ月おきだったり周期に規則性がありません。私はミストの専門家でも何でもないですが、客観的予測でこれは親父狩りの現場を狙っているんだと考えます」
高速タイプ。中村ゆうこが掲示板に書き込む。『45以上のおじさん限定。3で本番OK。夕方ぐらいに来れる人』
「過去の被害者中年の年齢は四十五、五十一、四十九など。一緒に犠牲になる若者は十九から二十代前半です。で、三万というのが一番手出ししやすい相場みたいですよ。あまり安すぎても怖いんだとか。私なら十万貰っても嫌ですけどね」
やっぱり好きな人じゃないとねー、とか言いながら、援助交際を求める文を投稿した。
「親父狩りを再現するのか」
「ん、親父狩りをするんですよ。本気でやらないと意味ないです」
別タブ起動。今度は別の出会い系サイトを開く。「業界二番手。ここは若い人向けです」中村ゆうこの名で会員登録。
『15歳♀タダエッチします。19〜25でケンカつよい人限定。午後4時ぐらい。まってます』
待て……おい。
「問題はこっちですよね。呼び出したときにうまく親父狩りに乗せられるか。ケンカ強い人ですから、正直不安ですね」
カーソルが投稿ボタンへと動く。俺は彼女の手を押さえてそれを制した。
目を丸くして彼女は顔を上げた。
「……ああ、エッチするって書くと確実に食いつくんですよ。残念な話ですけど」
「違う。暴行をするのか、実際に」
「しますよ?」こともなげに言う。
画面上のカーソルが徐々に動く。マウスを握る彼女の手は、俺の制止を物ともしていない。
「お兄さんは、近くにいなくても平気です。私と、呼び出した人ですべて済ませますから」
「あんたな……」
「無関係の人間を巻き込むのはよくないですか? でもね、今から関わる二人はミストの被害者予備軍なんです。こういう書き込みに乗ってくる人は、遅かれ早かれこの類のトラブルに関係します。そこをミストが狙うのなら」
「何も起こらないかもしれないだろ」
「……」
……馬鹿か俺は。何かが起こる想定で動かないと、全てを見過ごすことになる。今俺がしていることは、傍観者の単なる野次だ。
揺るがない彼女の目は、そんな俺の矮小さまで見抜いているのだろうか。
やがて小さな唇が動く。
「私は、逮捕される気満々です」
カーソルが強引に動き、投稿ボタンを押した。
「刑務所で慎ましく過ごして、すぐに出てきて、またこれを再開しますよ。……お兄さん、無理に一緒にいることないです。お兄さんの実家も、もう平気です。お金があるので、ちゃんと寝床は確保できます。ごめんなさい、あなたのお金ですけど」
先程の掲示板への返信がないのを確認したのち、彼女はブラウザをもう一タブ開く。ニュースサイトの事件の項を表示。さらに別タブで別ニュースサイトを開く。さらに別サイト。もう一サイト。順々に高速スクロール、目についたらしい記事を開く、合間に別サイトをスクロールする。
「これが携帯だとできないんですよね。私、昔やろうとして壊しちゃいましたし」
ぱん、と音が鳴った。広げた紙鉄砲を手元に置いて、ペンも出して記入を始める。丸文字で既に書かれた事件概要日時のあとに追加されるもの、又は新規で書かれるもの。
合間合間に、出会い系掲示板をチェック。
「お」
返信有り。中年が二人釣れていた。
「すけべおやじどもー」美佳子はプロフィールを吟味して、両方に返信を書き始める。「片方は予備です。直前で行けなくなったと言って切ります。心が痛みますけど、来た方は来た方で殴られますしね。……と、顔文字、顔文字」
検索して出てきた可愛い顔文字を駆使して、メッセージフォームに、先程の簡潔なものとは一転フレンドリーな文体の長文が出来上がった。それを送信。
「このメールのやりとりで惹きつければ、相手の来る確率が上がります。一応画像も可愛い娘のを送りますけど、誰でも好みがありますもんね。その壁を越えられるかどうかは、私の文章能力にかかっているんです。あ、顔文字ですけど、馬鹿にしちゃいけませんよ。あざといぐらいが丁度いいんです。どんなにベタベタが嫌いな人でも、見知らぬ相手に直に好意を示されたら……」
俺は何も言えない。
彼女は画像収集に入った。今利用している二つよりアングラなサイトから、タイプの違う数名、一人につき数枚あるものを選び、保存していく。同時に個人用アップローダーを開き、そこに溜めていたらしい画像からもチョイスする。
町田美佳子自身のものもある。
「ケンカの強いお兄さんにはこれを送ります。信用を得る必要があるので」
そこまでするのかよ……。
俺の中に、何に対してかわからない怒りがあった。彼女の滅茶苦茶さ、それがミストを倒すために妥当な方法であるということ、……そもそも、今回の標的はそうまでして守る相手なのかということ。
「……」
何も言えない。何か一つも行動を起こさない俺に、口出しをする権利はない。
「親戚とかは……いるんだろ」
数十分作業を見つめて、ようやく出た言葉がそれだった。毒にも薬にもならない世間話だ。
「いますよ」
画面から目を離して、微笑む。
「連絡はもう随分ないけど。まぁ仕方ないです」
「……ない?」
想像がすでに理解の空白を埋めつつあったが、俺は訊いた。
「事件後引き取ってもらえなかったので。私、養護施設育ちなんです」
自分が写った画像を添付して、返信してきた若者に送った。
「普通に面倒ですよね。いきなり片腕が動かない子なんて。でも都合良かったんです。私、あの頃ずっと、あの霧にまた襲われると思ってましたから。一人になりたかったんですね」
おかしい。
「あんたを捨てた人たちだろ」
「……? よくわかんないです」
首を傾げる彼女。俺はまくし立てるように言う。
「今から守ろうとしてる奴らだって、はっきり言って不道徳な連中だ。社会のゴミって呼んでもいい。俺は……、殺されたのが親父狩りだって知ったときいい気味だったよ。ああいう人種のせいで、どれだけの不幸が生まれているかを知っていたからだ」
驚いた彼女の目に、俺はどう映っている。連中と同じ社会のゴミか? 迷惑な人種? なんでもいい。
「そんな奴らのために、あんたがなんでそこまでしなきゃいけないんだ」
少し大きすぎた声に気づいて口を噤むと、店内の静寂の中にタイプ音が聞こえる。彼女の左手は休んでいない。
「……お兄さん」
一言それだけ言って、うーんと唸った。
時間の経過につれて自責の念が俺の中に湧いてきた。気に入らないならここにいなければいい。彼女もそう言っていた。言葉は容易すぎる。俺のような奴は口を開くべきじゃない。
キーボードを叩いていた手が止まった。……止めたのは俺なのか。
「私、難しいことはちょっと……。そういうの考え出したら、行動にどこで線引きしたらいいかわからなくなっちゃうし」
「……悪かった。もういい」
「それにね」ぱっと手を広げて言う。「偶然居合わせた無関係の人が被害を受ける可能性だってゼロじゃないんですよ。あと、親父狩りだって中年おじさんだって家族はいますし、もし子供がいたりしたら親なしです」
こいつは正しい。
何より優先すべきことを知っている。
「確かに今から会うのは尊敬できない人かもしれないですけど、私だって習った空手で人を殴るようなやつですし、……だからおあいこ、許してね、みたいな……」
下らない感情や、一瞬だけの痛みに囚われず、人の、命しか見ていない。
朗らかな笑顔を見ながら、俺はもう少しだけ、彼女についていきたいと思っていた。
午後四時半、雛川市街裏通り。準備中の札のかかった居酒屋前に殴打の音が響き、金髪ピアスの男が倒れる。
「ばーか、死んじゃえ! 社会のゴミ!」
美佳子は涙目で彼に罵声を浴びせた。俺は数メートル離れた位置から、その一部始終を目撃していた。
待ち合わせをした場所に、出会い系の若い男はすでに来ていた。その時点で俺は他人を装い、美佳子は彼の元へ。言葉を交わして数秒で飛んだ怒声に、話がこじれたのだとわかった。これはまずいと思い、自分の中の男を奮い立たせて踏み込もうとした矢先の出来事がこれだ。
「メールではホテルは後って言ってたのに。嘘つき! エロ男!」
俺は出ていって彼女を宥めた。とにかくこの場から逃げなくてはならない。通行人もそれなりにいる。騒ぎが大きくなる前に早く。
「あいつ触ってきたんですよ……!」
「いいから、急げ」
なかなか動かない美佳子の肩を掴んで、殴られないかとヒヤヒヤしつつ移動させる。煤けたビル階段の陰に背をつけさせると、彼女は徐々に平静を取り戻していった。
「……大丈夫、予備はいます。またネットカフェに入って……。ああ、こういうとき携帯がないと不便なんですよね。けどまた契約するにも施設の許可が要りますし……。まぁ、とにかくネットカフェに」
「思うんだが」
俺は彼女を制止して、ずっと引っかかっていた考えを述べた。
「親父狩りに賛同するほど好戦的な奴が、身体を提供する確約のある女を目の前にして、そもそも紳士的に協力をするのか」
「う……」
途轍もない矛盾を孕んだ計画であったことに、彼女も気づいたらしい。
「そこは上手く、こちらが優位に立って……」危うい笑みで、拳を握った。
「優位に立たれた時点で、関係崩れないか?」
下品だが、女子高生の身体をタダで望む連中だ。それが来てみれば一発殴られ、強引に親父狩りをさせられる。連中からしてみれば、確かに話が違うのだ。それにそこで力関係が決定してしまえば、ホテルに行く段になっていくらでも暴力解決が可能ということも知れてしまう。事実、美佳子はそうやって切り抜ける気だったろう。完全に損な取引だ。彼女が損を一つもしないように持ちかけているのだから当然だが。
「ぐぅ……」
美佳子は悔しそうに呻きを漏らした。というか、一応喧嘩が強いと自負する相手を一撃で倒すような彼女自身が、この計画の最大のイレギュラーだったように思える……。
左手の腕時計を見て、美佳子は顔に焦りを浮かべる。中年との待ち合わせは五時だ。もう二十分ほどしかない。こうなれば道行く若者を捕まえて、例の交渉をし、そのまま親父狩りに向かうか。咄嗟の思いつきだが、案外成功しそうな気もする。
彼女にそれを伝えると、一気に表情が輝きを取り戻した。
「お兄さん!」
手を握られる。感謝される覚えはない。所詮他人にしか害のないことでそうやって一喜一憂できるあんたの方がずっと凄い。
ビルを出て、ほとんど走るような調子で裏通りをまわった。だが時間帯がよくないのか、若者はおろか人自体が少ない。表通りに出るも、結果は同じだ。人生を軽く見ていて、都合よく犯罪に加担してくれるような人間はいない。
残り十分。このあたりが限界か。交渉、移動を含め、協力者を探していられる最低のライン。
「いきます……」
焦りを通り越したのか、この土壇場で冷静に呟いた美佳子は、表通り入口からやってきた一人の若者に狙いを定めた。徐々に増えてきた学校帰りの高校生の中で私服を着こなしている様は明らかに十九以上と取れ、さらに表情や肌のツヤからは加齢を感じない、年齢条件に合う外見を備えた男。
だが……、きっちりとした中分けの黒髪、眼鏡の奥の濁りのない瞳……。
どう見ても好青年風の男に、美佳子は近づいていく。
「あの、すみません。一緒に来てくれませんか。……これから中年のおじさんに会うんですが、そいつを、その、殴ってほしいんです」
み、美佳子、無茶だ……。
冷静に見えたのは間違いだ。彼女は相当のパニックを起こしている。
「お礼は、身体でします。もちろんタダです。ホテル代も、私が」
「僕、そういうのはちょっと」
それまで元気に身振り手振りをしていた女子高生の動きが、ぴたりと止まる。
眼鏡の彼は、哀れなものを見るような目で言った。
「高校生だよね。もう少し、自分を大事にした方がいいよ」
知らないというのは残酷だ。俺が今日一日、彼女にずっと言いたかった、それでも取り巻く事情や本人の気持ちを汲んで言えなかったことを、彼はさらりと言い放ち、立ち尽くす美佳子の横を抜けて去っていった。当然これは、交渉相手の人選を派手に間違えた美佳子自身がもたらした悲劇でもあるが。
俺は後ろからそっと近づき、彼女の様子を伺う。怒りを覚えてあの眼鏡を殴るかと思いきやそこ最低限の分別はあったらしいが、俺が顔を合わせた拍子に拳が飛ぶ可能性も考えられたので、できるだけ慎重に正面に回り込んだ。
「……」
呆然と、ショックを隠しきれない様子の彼女がそこにいた。
俺は躊躇いながらも、「あ、あと、七分しかないぞ」気の効かない時間の話などをしてしまう。
「……」
彼女の瞳から涙がこぼれた。
「わっ、おい、待て」
無言のままで、ぼろぼろと涙だけが落ちる。俺は慌てた。何か拭くものはないか。いや阿呆か。ここは優しい言葉だろう。彼女を元気付けるような言葉。
「あ、あんたは凄い。強いし……。自分を大事にも、してる」性交渉させると言っておいて実際は触らせもしないくらいだ。
すると彼女は涙いっぱいの目を、左手の時計にやった。そうだ。彼女にとって本当に重要なのは自尊心なんかじゃない。ミストを倒す目的だ。
「今日は充分頑張った。また、明日にすれば……」
「……」
何を言ってる俺は。ここで後ろ向きの提案をしてどうする。
言ってやるべきだ。可能性は薄いが、今日ずっと頭の隅にあった案を。彼女も思いついてはいただろうが、言い出せるわけがなかった一つの方法を。
どんなに無茶でも。望みがなくても。
「……俺がやる。親父狩りの若者の役を」
美佳子の手を取る。「行くぞ。顔を拭けよ、早く」
駆け足で裏通りに入った。袖で瞼を拭う彼女を後ろ目に、冷たい手を引いて俺は走った。
欲……、特に性欲が絡むと、人は行動が早くなるらしい。待ち合わせをした小さなコインパーキングに、中年親父はやはり既に来て待っていた。遠目に伺った印象では、中肉中背のごく普通のサラリーマンだ。
ビル陰に身を隠してから俺が手を離すと、美佳子は鼻をすすりながらとぼとぼと歩いていった。車両入場用バーの横を通って、駐車場内に入る。中年が彼女に気づき、駆け寄った。俯く彼女を慰めるような仕草が見て取れた。
……泣きすぎだ。そんなにショックだったのか。自分の提案でああなったとも言えるから、少し罪悪感もある。終わったら、何か喜ぶ物を与えるべきかもしれない。
周囲を伺い、またパーキング内に目をやる。人通りは無い。最悪、裏路地に誘導して事を起こすという話だったが、今なら誰かが来る前にやれる。
ビルの陰を出る。勢いのままパーキングに向かう。一度やると言ったことだ、迷いすらも許されない。現場に近づくにつれて頭の中が真っ白になっていくが、足を止めるわけにはいかない。場内に入る。よし……彼女が泣いていることも利用できる。
「おいオッサン、何してくれてんだよ」
状況とプレッシャーが、俺とはまったく対極の存在である不良青年の人格を憑依させた。嬉しい皮肉だ。学生時代に虐められた経験が活きた。
言葉によって加速した流れは止まらない。俺は中年に詰め寄る。「俺の女に何してんだ? 泣かせたろ? 金渡して、卑猥なことしようとして泣かせたんだろ? ええ?」
胸倉を掴む。そして、殴らなければいけない。拳を握って振りかぶる。恐怖に引き攣る中年の顔が目の前にある。
殴る……、殴るんだ。思えば一度も人を殴ったことなどないが、ここでやらなければ美佳子の半日の苦労が水の泡になる。本来ならこうして考えることも駄目だ。ただでさえ本物の親父狩りではないのに、ミストが出現する条件から更に離れてしまう。
なりきれ。俺は日常的に人を殴る人間だ。遊ぶために、この中年の金が欲しい。殴って、奪い取れ。
「最低だろう……」
怯えながら中年は言った。一瞬の躊躇が、彼に発言する隙を与えてしまっていた。
「女の子を泣かせて、無理矢理こんなことをさせて」
「お……」
お前が言うな……。その女の子を買春しようとした奴が。
「今時の若者は本当に……。君の親がこれを知ったら泣くぞ」
美佳子の涙が要らぬ誤解を招いていた。俺は一から全て説明して弁明したい気持ちを抑え、半ば彼を黙らすために、拳を振った。
さっきの美佳子の気持ちがよくわかった。理解をされないというのは辛く、そのせいか、力がいい具合に入ってしまったらしい。気づけば倒れた中年が目の前にいた。
「よしっ!」
美佳子が快活な声を上げる。涙を乱暴に拭うと、喜々として中年に馬乗りになった。「財布も獲りますよ!」
「は? おい?」
見る見るうちに中年は脱がされる。
まさか、俺は乗せられたのか。親父狩り役を引き受けてから、中年に侮辱を受けて本気で殴るところまで、彼女にコントロールされていた? いや、まさかとは思うが、だが彼女が今予想以上に元気なことだけは間違いない。
美佳子は下着一丁になった中年を、駐車された車列と隣接ビルの間に片手で引きずって運ぶ。素早く周囲に目を走らせて言った。
「まだ……、痛めつけます」
俺も周囲と、空を見やった。霧の姿はない。
通行人の死角となる狭い空間に、平手打ちの音が響いた。
「過去の事件では女性の犠牲者もいました。彼女たちが親父狩りにどのように加担したかは知りませんが、もし女性が積極的に暴力を行う事例をミストが避けるならお手上げです。そこまでの選り好みはしていないことに賭けて――」
甲での平手が中年の頬を打った。
「言葉や感情をミストが判別できるのなら、とっくにアウト。これが虚偽の行為だとバレているでしょう。でも、感じ取ることはできても、判別の為の思考をすることが彼らにはできないと私は思います。だから――」
美佳子は頭を大きく振って、頭突きを食らわせた。
「私は、鬼になります」
拳が握られ、彼の顔面に勢いよく振り下ろされた。
続けてもう一撃。鈍い音がした。
秋の肌寒い風。ビルを染める夕焼け。周囲に変化はない。殴打の音が休まず鳴る。
俺は動けなかった。呆然と、親ほどの年の男に拳を振るう少女の姿を見下ろしていた。
若い男性が一発殴った、それだけで、彼女にとっての俺の役割は終わったのだろう。厳密にその条件でミストが呼べるのかは怪しい。生じた不安を、彼女は徹底的な暴力によって埋めていた。
「ごめんなさい」
生々しい音が続く。
「終わったら、私、何でもします」
俺は直視できない。
今日一日でわかったことがある。
彼女は、人間を憎めない。どんなに欠陥を抱えた者でも、対等に守るし、必要とあらば欺く。そこに悪意はない。
誰もを守りたい意思が、行動を飛躍させる。憎んでもいない相手を、躊躇なく傷つける。
「ごめんなさい……」
彼女の正義が、彼女を縛っている。
一歩前に出て、振り上げられた拳を掴んだ。血まみれだった。
「もういい」
ミストは来ない。
条件が半端過ぎた。彼女は似た方法でこれまでやってきたのかもしれないが、相手はその生体も存在目的もよくわかっていない霧だ、この結果がむしろ自然なんだ。
潤んだ瞳が俺を見つめた。一つも手を汚したくないと考えていた自分が、情けなくなった。
陽が傾いて、駐車場内はビルの影に覆われた。急な空気の冷えを感じた。帰ろう、そう思った。今日は実家に泊まって、また明日、今度はより確実な方法で。なんにせよ、この場は離れなくてはいけない。……もしかしたら何日か空ける必要が出てくるかもしれない。
美佳子は立ちあがった。俺に正対して、俯いていた。
「実家に、連泊できるように言う。あんたが嫌なら、他の寝床を用意してもいい。……俺はもう余計なことは言わない。何日かかってもいい、ミストを」
彼女の左手がゆっくりと動く。
それは不意に突き出され、俺の胸を押した。滅茶苦茶な力だった。半ば吹き飛ぶような格好で、俺は背後のフェンスにぶちあたった。
影が――、俺たちの影だと思っていたものが、地面から急速に浮き立った。それは人の形をつくり、構えた美佳子を飲み込もうと広がる。
「やっぱり、最後まで諦めないことですね。途中躓いても」
全てを予感していたような彼女の笑み。粒子の中、透明な球体越しに放たれる蹴りを見た。
ガラスが砕けるような音。空気に溶けていく黒の霧。彼女の靴の裏が、俺の目の前にある。
「っと、すみません」
脚は下ろされた。……かなり見えていた。
彼女は溜息をついて、ぐだっと力を抜いた。
「よかったぁ……。今回は本当に無理かと思いましたよ」
途中途中折れかかっていたのは本音だったのか。それにしてはいざ遭遇した際の手際が良すぎた。きっと彼女の中でも半々だったんだろう。
俺は立ち上がろうとして、思わず呻いた。胸だ。突き飛ばされた衝撃が強すぎた。彼女は細身だが、俺なんかよりずっと力がある。
と、そこまで考えて気づく。この力で何発も殴られたあの中年は、ただじゃ済まないはず。誇張なしに死ぬだろ。
よろよろと美佳子の横を抜けて、倒れた彼に近づいた。「……あ、さっき押したせいで……。ごめんなさい」謝る声が聞こえたが、心配する相手が違う。どうする、救急車を呼ぶべきか。
恐る恐る暗がりの中見た中年の顔は、しかし、鼻から血を流しただけの拍子抜けなものだった。……しかもこれは、俺が殴ったぶんじゃないか?
はっとして振り返る。美佳子の左手から落ちる赤い雫。
「まさか」
彼女の額を、すうっと血液が伝った。
「あ……」あわてて押さえるが、血の筋は頬まで垂れてくる。ハンカチを取り出して拭き始めた。
ずっとアスファルトを殴っていたのか。頭突きも、地面にかました。ビンタは当てていたのだろうが。
「お兄さんのお陰ですよ」
美佳子は言った。
「お兄さんの演技を見て、ああこれは駄目だ、って思ったんです。だから私も殴るふりでいいやぁ、って」
……。
演技が、駄目……?
「もしあそこで躓いてなかったら、本気で殴っていましたよ。完璧にするために。だから、お兄さんの棒演技に感謝です。やっぱり不良の役なんて似合いませんね」
「おい……」色々いいたかったが、全て飲み込んで俺は言った。「手は大丈夫なのか」
「こうやって鍛えるんですもん」笑顔で血まみれの拳を握った。
「頭は」
俺が指差すと、また前髪の間から血がつうーっと垂れてくる。彼女は「まぁ平気です」と言いながらふらついた。
パーキングを出て、商店街の薬局へ。美佳子は顔を洗いにトイレへ行き、俺は消毒液やガーゼを買った。店前で髪を上げさせ、処置をする。生え際のあたりが少し切れた程度だった。一応、拳の方も同様にやった。
「よし。これで」
立ち上がり見下ろすと、女子高生は俺に微笑んでいる。
「ありがとう。とても助かりました」
一歩引いて、改まった形で頭を下げた。……怪我のことじゃない。俺の協力全部含めての礼。
つまり、次に行くということだ。
雛川のミストは全て倒した。彼女は、休むことなく他県へと発つ。
礼を言うのはこちらのはずだ。俺はミストの存在を知っていたのに、何もしようとしなかった。明確な悪と認めながら、黙過していた。無関係と言えばそれまでだ。殺されていたのは、不良や親父狩りだったから。だが、あの公園の件は違った。ニュースを見ながら、ずっと胸糞悪い思いをしていた。霧の殺人鬼にも、自分にも。
お門違いな感謝を受けて、俺は狼狽えたような反応をしてしまった。
「一泊と、食事が三度、それと、色々なご協力。……ご実家の方、せっかく連絡して頂いたのにすみません」
「別にいい」女を連れて行ったりしたら、実際何を言われるかわからない。
数秒の沈黙が降りる。
無駄に引き止めるわけにはいかない。俺は最後に言いたいことを、ああでもないこうでもないと、頭から絞り出す。
「あの、な……」
〝次はどこに行くんだ〟〝連絡先を教えろ〟……ナンパかよ。大体携帯を持っていないんだから、連絡手段と言ってもこちらの番号を教えるぐらいしかない。それも億劫だ。ミストを倒すために一秒と無駄にしない彼女と、何を話すことがある。
「あ、そうだ、携帯の番号教えてください」
「……」
あっさりと、番号の通知が終わった。彼女は『お兄さんの携帯』と紙に書いていた。
「金がなくなったら電話しろ。五万までなら貸す」
「え゛っ、貸し!?」
「……百万でも二百万でもいい。無茶して稼ごうとする前に、言ってこい」
「……ええと」
彼女は俯くが、内心の嬉しさが顔に出てしまっている。「すごい人脈ができちゃった……」
引き止めない気でいたのに、既にだいぶ彼女の出立を遅らせていた。
言いたいこと……。最後に、言いたいことだ。
急速に過ぎていく彼女が纏う空気に、手を伸ばすように言葉をかける。
「今……楽しいか?」
彼女は首を傾げた。
そして意味を咀嚼するような間のあと、ああ、と納得し、少し宙に目をやって、
「うーん、微妙」
非常に半端な答えが返ってきた。訊いておいて我ながら苦笑いする。
同じように笑って、彼女は続けた。
「まだまだ、全国にミストが沢山いますからね。八十パーセントってとこです」
夕闇の落ちた商店街は人の脚も早い。もう理由のない俺は、ここで立ち止まる。察したらしい彼女は、一歩後ろに下がって、もう一度礼をした。手を振りながら、駅の方へと小走りに去って行く。
俺も手を振りかけて、やめた。
代わりに息を吸った。
「秋山修介だ!」
一帯に響いた声に、通行人が一斉に振り返った。
美佳子は満足そうに笑って、増え始めた人波の中へと消えていった。