2 無垢と無力
雛川市は田舎町だ。簡単に言えば、田んぼと道路と商店街しかない。電車が小さな駅のホームに入ったとき、向かい席の町田美佳子は言う言葉を選んでいるようだった。
「ええと、自然の、綺麗そうな場所」
「汚いぞ。暴走族が汚して、掃除をする人間もいないから」
「はぁ……」
「過疎だし、いいところなんてない」
停車すると同時に俺は立ち上がった。美佳子も慌ててついてくる。
改札を通ってすぐの入口から外に出る。彼女は辺りを見回しつつ、危なっかしく歩く。
確か、埼玉の越谷だったか。八年も前のニュースを覚えている自分に驚きだが。きっと田舎が珍しいんだろう。なかなか失礼な話だ。
俺は立ち止まって、駅前のロータリー前で彼女と向かい合った。
「実家はここからバスで行くんだが、その前に……倒すんだよな」
「え……、そうですね」
まだきょろきょろしている。無垢な顔も手伝って、子供に見える。
俺は彼女の視線がうつろう方へ、先回りをして動いた。
「おい」
「……」
目が合う。
しかし視線はあからさまに外されて、美佳子は後ろを振り向いた。半ば呆れながら、俺は移動して彼女と駅前時計台の間を遮る。
「あのな」
すると、彼女は頬を膨らませて失笑した。
「……素でそういうことやるんですね、お兄さん。うける」
「は?」
「私が向く方に動くでしょ。面白いなぁって」
「野宿……するか?」
「えっ! いや、あの」
田園地帯まで連れていって置き去りにしてこようかとも思ったが、必死に謝られたのでやめた。
雛川で起きているミスト事件のうち一件は、ここ駅前から続く繁華街の裏道が舞台となっている。若者による親父狩りが頻繁に行われている場所だが、事件で狩られるのはその若者だ。被害者である親父も同様に犠牲になる。ミストが本来どちらを狙っているのかはわからないが、言えることは一つ。場に居合わせた人間は無関係でも巻き添えを食う。そこに俺たちは飛び込んで行こうとしている。
早朝の街を歩く。奥へ行くにつれて、通りには猫しかいない。ビルの裏口階段から、仕事上がりであろう女たちが出てくる。
「男の人に嬉しい町ですね……」
「無理に褒めなくていいぞ」
田舎の娯楽はこれぐらいだ。雛川はそれに支えられていると言ってもいい。働いて、食べて、女で遊ぶだけの場所。俺は馴染めなかった。だが結局今も無職なのだから、どこに行っても不適合ということだ。
歩きながら、次第に空を見上げどこかに霧が浮いてでもいないかと探している自分に気づく。横を見れば、町田美佳子も同じようにしている。
……そうか。駅を出たときからずっと、彼女は探していた。
ぴたりと目があった。美佳子はにこりと笑んできた。
「まぁ、いるわけないんですけどね。もしかしたらと思って、見てしまいます」
「いるわけない……?」何故わかる。
「だって、この時間帯に親父狩りって起きますか?」
記憶を辿る。学生時代に遭遇したのは、夜だった。
「色々なタイプがいるから一概には言えないんですけど、出たり消えたりする奴は多分、犯行のときしか姿を見せません」
もともと不可視で、ミストを視認できる人間からも見えなくなる……というのも妙な話だが。
「ずっと見えている奴はいたか。これまであんたが倒した中で」俺は立ち止まって、少し互いの知る情報の整理を試みた。
「いました」
「背後に憑くタイプじゃないか?」
「わ……あたりです!」
俺は口元に手をやる。
「まるっきり霊じゃないか。背後霊に……、公園に居つく奴は地縛霊か? 本業の霊能者はちゃんと仕事をしろよ」
「本当ですよ」わざとらしく憤慨するように言う。「こんな女子高生と青年に働かせやがって。もう」
「……目が笑ってるんだが」
「お兄さんの仕草が面白かったので……」
よくわからない部分を馬鹿にされて気分が悪いが、いちいち腹を立てても仕方ないので流すことにする。
夜にならないとミストは現れない、か。それまでにできることは、恐らくない。
「今、七時半ですね」
彼女は左手の時計に目をやった。それから、制服の内ポケットに同じ手を入れ、折りたたまれた紙を出した。
……? いや、その折られ方に俺は妙な既視感を覚えた。彼女は紙を、勢いづけて振る。
破裂音がした。
「もう一件の事件が起きている沖野中学校へは、えーと、七時四五分の電車で十五分、そこから随時出ているバスで二十分。あ、でもそれ以降はバスの本数が極端に少なくなる……」少し悲しそうな顔をする。「これは、行くしか……。この状況が、私に〝行け〟と言っています。あの、お兄さん、少し忙しいルートになりますが」
「なんで紙鉄砲なんだよ」
「え?」
彼女はきょとんとして、広がった紙を見る。
「メモですよ?」
「折り方が、紙鉄砲だったよな。ばんって、音鳴ったよな」
「……わ、私、なんか怒られてます?」
「いや……、怒ってない。ちょっと驚いただけだ」
あまりに突拍子もないことだったので、自分の中で処理できなかった。俺は「すまん」と付け加えた。考えてみれば、片腕に障害を負った人間が機能的にメモを開くのに、紙鉄砲というのは非常に適している。……気がする。
彼女は屈みこんで、なんと膝の上でメモを折り直し、元通りの形にして内ポケットに仕舞った。
「これ、紙鉄砲っていうんですね。馴染み深すぎて知りませんでした」
誰に教わったんだ、一体。
「とにかく、お兄さん走れます? 四五分までに駅に着きたいんですけど」
「任せろ」脚に自信はないが、無理な距離じゃない。
彼女はにこりと笑みを返して、駅の方面へ走り出した。相変わらず、どこか引っかかる走法。それでも、勢いがあるせいか、違和感は最小限にとどめられているように感じる。目にして初めに持つ印象が、その速さとなるからだろう。
そう、彼女は速い。
「ちょっと、待っ……」
正直、俺は追いつけない。
対面座席の小さなテーブルに、売店で買った緑茶を二本置いた。電車は動き出す。
「凄いな。あんた、時間を無駄にしないというか」
関東のあとでいきなり九州へ飛んだのも、そういう理由だったんだろう。二ヶ月周期のあの日に公園を探して現れたのは、偶然じゃない。
だが彼女は、謙遜ともとれる表情で言った。
「無計画なだけですよ。…………まぁでも市街の様子は頭に入れて後に備えておきたかったし、電車の時刻から逆算した自由時間も常に把握してますし」
全然無計画じゃないな。というか、よく見れば謙遜でもない。ちらちらとこちらに視線をやって、褒めてほしいオーラを放出している。
「私、B型ですよ!?」
唐突に何だ。
俺が黙って見つめていると、彼女はだんだんと小さな声で、
「ええと、つまり、B型でこう几帳面なのは珍しい……」
「要は頑張ってるわけか」
すると彼女は顔を逸らして、横目で俺を見てくる。照れているらしい。
予想以上に、何というか、ウザい……奴なのか? 部屋で一度褒めたことで味を占めたのだろうか。
年下の女に、ましてや組織社会に属したこともない俺がこのような気を遣うのはおかしいが、持ち上げる意味も込めて色々訊いてみることにした。
「沖野中に着いてからは、どうするんだ。もう決めてあるのか」
「今のうちに考えます。……っていうのも、お兄さん、ここに住んでいたならその中学のこと知ってるかなと思って」
案の定乗ってきたが、そういうことか。
「母校だ。何でも聞いてくれ」
「え?」
意外そうな顔をした。
「あれ、実家は雛川駅からバスの距離で、そこから沖野中学校に行くとなると」
……失言だった。
「こうして電車、またバス移動で、結構な距離ですけど」
鋭いな。駅からの移動経路を全て把握しているなら当然か。
隠すことでもないが、無闇に広げる話でもない。
「遠くの中学が良かったんだ」
「もしかして、私立の進学校ですか?」
まぁ、どちらも正解だ。俺は首肯する。
「頭……いいんですね。じゃあひょっとして今も、ただふらふらしてるわけじゃないとか。まさか、会社建てる準備期間だったり……」
鈍い。なぜ堕落生活を一発で見抜いて、そこからの想像が突飛な方向に展開するんだ。観察力だけか。優れているのは。
「あのな」
訂正しようと思ったが、左手で止められる。「自慢はいいです」
みじめになりますから……と微笑して、手を下ろした。おい、性格が破綻してないか? こいつ。
「お兄さんの母校なら助かりました。登校時間にミストを見つけられなくても、最悪校内に入って……。……あ、あの、協力してもらっても……」
「構わない」
「ありがとうございます!」
俺は溜息がちに美佳子の顔から窓の外へと目を移した。
そこに見えた景色に三年間の記憶を呼び起こされかけ、また視線を彷徨わせる。車内には、沖野中の生徒が多くいる。いわゆる通勤通学ラッシュとは逆方向への進行のため乗車密度は低いが。
六年前、俺は沖野中生の不良の背中を渡り歩く霧の姿を見た。そのときからずっと、奴はあそこにとどまっているということか。
思えば、事件概要を把握していない。沖野で起きている事件は、どのようなものなのか。あのとき俺が遭遇してから、何件起こった。まだ不良が狙われているのか。自分の母校だが、卒業以降は存在を自己から抹消していたし、何よりミスト事件の情報は積極的に避けてきたから仕方ない。彼女に、訊いておく必要がある。
「おい、沖野の……」振り向きざまに言った。
向かいの席に彼女はいなかった。
立ち上がって、車両内を見渡す。車掌席、シートにかける学生たち、背後を見やると――、
ぱしゅっ、と貫通扉が閉まる光景。窓の先に、駆けていく女子高生の姿。
「トイレか……?」
この列車には設置されていない。数分起きに駅に停まる通勤用だからだ。というか、何も言わず席を立つか? そういうものか、あの年の女は。中学生の方がまだ落ち着いてるんじゃないか。
シートを立ったまま、車両内の乗客たちを見回した。沖野中の男女数人と目が合い、気まずい調子で俺は逸らした。
……くそ。輝いてやがる。
年下は苦手だ。俺より可能性があるからだ。思えば、この車内には沖野中生が大勢乗っている。人のかたちをした未来という概念が、嫌な記憶を想起させる制服を着て、俺と同じ箱に入っている。
女子高生といて、目的を意識しているうちはよかった。だが一人になった途端にこれだ。
頭を引っ込め、シートに座り込んだ。いい大人が、馬鹿のように挙動不審になった。
くそ、生徒が、車内には大勢……。誰もが俺を、見下している。
…………。
待て。沖野中生が、大勢……。
ミストは、沖野中生に取り付いている。
這い出すように、座席を一歩出た。もう一度、シートの学生たちを見た。霧のようなものはない。確認すると同時、俺は駆け出した。貫通扉を開け、次の車両へ。乗客に目をやりながら駆け抜ける。
いや馬鹿か。意味がない。すでに美佳子が通っている。俺は前だけを見据え、全速で走った。下手をすれば、もう戦闘が始まっている。完全に置いていかれた。あいつにとっては、俺は宿屋であり案内人ではあっても、戦いを共にする仲間じゃない。
ここにきてまで見下されてたまるか。俺はミストが見える。世の有象無象との違いはそれだけだ。諸々の転落で人生のレールから外れた俺の、言わばそれが最後の希望なんだ。
扉を開ける。また走る。何両編成だ。いい加減この行動が客の目についていると思うが、気にする気も起きなかった。
次の扉は、俺が触れる前に開いた。「お」目の前の女子高生にぶつかりかけた。
「わっ……、お兄さん? 何やってるんです?」
「何やってるはあんただ」思い切り安堵の息を吐く自分がいた。「ミストは、いたのか?」
「いませんでした」美佳子は笑った。「そう都合のいいことはないですね」
俺は通路の縁に手を預けて、脱力した。昨日の公園と同等の被害が出るとしたら、走行中の電車の壁が吹き飛ぶことになる。危険どころの話じゃない。
「あんた、一人で……」……一人でやるのか。
言いづらい。
言葉を変えることにした。
「……俺は、戦いのときは離れていた方がいい、よな」
卑屈な言い方だった。
「あ、はい」
なるべく、と彼女は付け加えた。それから、通せんぼをする俺の腕の下を潜ろうというのか、身体を左右に動かし始めた。俺は「悪い」と言って身体をどかした。
通路を歩く彼女の、後ろをただついていく。
駅からのバス移動を終え、多数の生徒と共に停留所に排出される。とんでもなく窮屈だった。俺と彼女の足はよたついた。
顔を上げると、既視感のような、それと一致しない不快感のような感覚が飛び込んでくる。白塗りの校門と、二棟からなる校舎が目の前にあった。
登校時間ジャスト。歩道を通って校内に入っていく生徒も多い。奇妙な目で見られている気がしたので、美佳子に言って校門前が見えるだけの位置まで下がる。道路を隔てた自販機の陰だ。ここで監視するのはいかにも怪しいが。
「美佳子、言っておくことがある」
「美佳子!?」
しまった。勢いで名前を呼んだ。彼女は喜ぶような反応をした。なんとなく、訂正しておく。
「あんたに、言っておくことが」
「……」
目の前の少女が縮んでいくように見えた。
「俺が中学時代に見たミスト被害者は、二人とも不良だった。……これをどう思う」
「お兄さんの、名前が気になります」何言ってる、こいつ。
「ミストの嗜好のことだ。俺は三件しかケースを知らない。例えば不良を狙うミストは、次もその次も不良を狙い続けるのか」
「無差別なのもいました」表情を引き締めて言う。「でも、そういう固執はあると思います。というか、そうでないと探す為の手がかりがないので」
だよな。公園を探して、そもそも彼女は横崎市に来たんだ。
「不良生徒は、早く登校すると思うか?」
「私が不良だったら、午後から来ますね」
「……まぁ、うん。極端な例は除いて、予鈴前に来ることは少ないと思う。俺は」
「わかります。今から待ち伏せしていれば見つかるということですよね」
少し変な方向に逸れかかったが、つまりはそういうことだ。校舎に入る必要は恐らくない。ミストが取り付いた人物は、この時間、校外にいるだろう。最悪、不良だから登校すらしないというのも考えられるが、校内で犯行と憑依を繰り返すのなら、今取り付かれている不良も登校した際にそうなったはず。探すべきは休みがちな不良ではなく、学校に毎日通っている、ある意味真面目な不良だ。
俺は尚も自販機に身をひそめ、校門前を伺う。
「でも、お兄さん」
美佳子が内ポケットに手をやった。何かを取り出して、勢いのままに振りおろす。
突然の破裂音に、校門前の生徒たちが一斉に振り返った。
俺の目の前に広げられたのは、新聞記事だ。沖野中での失踪事件を記したもの。写真はなく、それほど大きくない記事だが、周りを余分に切って紙鉄砲のサイズにしている。
美佳子は記事を口に咥えて、もう一つ紙鉄砲を取り出す。
「……!」流石に今度は耳をふさいだ。
出てきたのは、カラー印刷された紙だ。沖野中学校ホームページ、生徒会役員紹介とある。
「半年前に失踪したのは、ここの生徒会長です」
……なんだと。
見れば、失踪者の名前とそれが一致している。どういうことだ。というか……、
「調べたのか」
「検索欄に名前を入れるだけですよ。当然、今は削除されてるページですけど」
何でもないことのように言うが、これだけで、常に新聞に目を光らせ、恐ろしく素早く情報を集める彼女の様子が思い浮かんだ。
とにかく、これで〝不良を狙う〟という仮定が完全に崩れた。
「私にも、これがどういうことかはわかりません。お兄さんが見たものとは別のミストがここにいるのかもしれませんし、その、趣向」
「嗜好だ」
「嗜好に沿って動くという見方も、学校内で犯行を重ねていることを見れば破綻していません。ただ言えるのは、取り付かれている人間は既に校内にいる可能性も充分高いということです」
折り直した紙を、また内ポケットへ。
「入るしかないってことか」
「私一人では無理かなと思ってたんですけど、お兄さんがいてくれればやれそうです」
「……具体的にどうするんだ。協力するとは言ったが、母校だからって、いきなり来て理由もなしに見学を許してはくれないだろ」
ましてや失踪者が出ている学校だ。
「ここ、障害児の受け入れはありますか?」
「……」
彼女は笑って、動かない腕をぷらんと揺らした。
「私は今から、お兄さんの妹です。肢体不自由者の入学について、説明を頂きにいきましょう」
……恐れ入った。それなら、飛び込みでも向こうは対応せざるを得ない。
予鈴が鳴る。生徒たちが門に駆け込んでいく。それらの背中を眺めつつ、俺と彼女は一歩を踏み出した。
「事前の連絡もなく申し訳ないのですが、妹の障害の程度を直に見ていただきたく、私共も校内の様子を実際に見学したかったもので」
「は、はぁ」
窓口の女性事務員はすぐに担当の教員を呼んだ。これぐらいの図々しさでいい。他校では受け入れ拒否の前例があるから、父兄側が多少強引でも不自然じゃない。
担当教員とも話がついた。名前を明かし、ここの卒業生だと言ったことも効いただろうか。念の為、俺と美佳子は再婚した両親の連れ子同士ということにした。
終始ニコニコと、意図を図りかねる表情で、とりあえず今日は見学だけということで立ち入りを了承して、教員は去っていった。俺にはどうでもいいことだが、美佳子にとっては半分現実でもある。彼女は彼の対応に何を見たのだろうか。
見学には、最初の女性事務員が付くことになった。すぐにでも教室を回りたいところだが、ここは手順を踏んで、まずトイレなどの設備から案内をしてもらうことにする。
事務員の後ろに付いて、廊下を歩く。彼女はちらちらとこちらを振り返って、慌てた様子だ。若い。といっても俺と変わらないくらいだが。
「お兄さん、凄いですね」
美佳子が横から小声で言ってきた。何が、と返す。
「話術ですよ。こうも上手くいくとは思いませんでした」
こんなの、勢いだろ。何より障害というのが強い。この時勢じゃ言い負かされる気はしなかった。
「こちらがお手洗いになります」
緊張した様子で事務員が言った。校内は在学時代の印象と変わっていない。私立校なりに清潔にはされているようだ。
扉を開けると、わぁ、と美佳子が声を上げた。彼女の学校のことは知らないが、比較しての反応だろうか。事務員と二人、中に入っていく。
「お兄様もどうぞ」
……え。
見ると、事務員は小さく手招きをしている。設備は俺にも隈なく見せた方がいいと思われているのか。それが例え女子トイレであっても。
ピンク色のタイルの中に足を踏み入れると、美佳子から冷ややかな視線がよこされた。
トイレを出て、また廊下を行く。俺は教室を見てまわりたいと言った。生徒たちの雰囲気を知りたいと。
「矢鱈にいじめられたりするようでは、困りますから」
これでいい。
「はい。では二年生の教室を」
「いや、一年と三年もお願いしたい」
「え?」
「上級生との関わりは当然あるでしょう。下級生も同様に。うちの妹は目立つ障害です。ただでさえ可哀想な境遇なのに、更に心に傷など負わされたらたまったもんじゃない」
自ら言っていて不気味だが、押し切ってしまえば勝ちだ。幸い、相手は慣れない事務員ときている。
「……わかりました」
了承を得た。
「すごい……!」
美佳子が袖を引っ張ってきた。全然だ。これしか出来ることがない。
二階の一年教室へ、階段を上っていく。ここからが本番だ。六年前と変わっていなければ霧はすぐ目に付くはずだが、それでも気は抜けない。一人の背中も見逃すわけにはいかない。
五クラスあるフロア、教室内を注視しながら廊下を歩く。事務員は呆れているだろう。
逆端の階段に着いた。一年教室に異変はなかった。元より期待値は低い。生徒会役員だとすれば二年生か三年生、不良だとしても一年より上級生の方が多いだろう。階段を上り、二年教室フロアへ。
窓から覗き込み霧を探す中で、ふと考えた。無事見つけたとして、対処はどうするのか。まさか授業中、そうでないにしても周りに生徒が大勢いる状況で昨日のようなことはできない。
いやしかし、見つけるだけ見つけて、放課まで待てばどうとでもなる。今考えることじゃない。
二年教室も、何事もなく終わった。いよいよ緊張してきた。次の階にミストがいる可能性は限りなく高い。
「――ます」
隣から声が聞こえた。聞き返したのは、耳を疑ったためだろう。
「は?」
「瞬殺します」
左手を何度も握りながら言った。
「見つけたと同時に倒しにかかります。次が控えてますので」
親父狩りミストのことだ。放課まで待つ気はさらさらないらしい。
「最善を尽くしますが、もし私がやられた場合はよろしくお願いします」
何……。
「ちょっと待て。俺には無理だ」
情けない声を上げる間に、階段は終わる。事務員に変な顔をされたので、口を噤んだ。フロア端から順にまわっていく。3-E。3-D。
心なしか美佳子の歩調が早い。
3-C。明らかに焦燥する俺に、生徒たちの目が向く。まずい、心臓が恐ろしいほどに鳴っている。「どうかされましたか?」ついに隣の事務員に訊かれた。応える余裕はない。無視して鼓動を鎮める。3-B。
……。
窓際席にちらつく黒い粒子があった。細い体躯の、眼鏡の男子生徒が座る席。あたかも彼の纏うオーラのように、無風のはずの教室でそれは揺れていた。
〝ミスト〟
美佳子は教室に飛び込んだ。机の上を駆け、一直線に窓際へ。何人かの生徒が立ち上がり、〝標的〟の彼も驚きの形相で腰を上げる。そこを美佳子は殴った。
眼鏡が吹き飛び、倒れ込む彼の後ろから――黒の霧がその全容を露わにする。
痩せ細った人型。恐らく、捕食寸前。
彼女がやられたら、あれを俺が倒す?……ふざけるな。
もしやられてみろ、町田美佳子。俺は全力で逃げてやる……。
だが思いとは無関係に、勝負は一瞬だった。彼女の周囲を黒が覆う、瞬間、全身を使った左ストレートが放たれた。
球となった霧に亀裂が入り、そこからミストは爆散した。消えていく粒子のなかに、女子高生はいた。
「なん……」右手から声。教卓で、男性教諭が怒りの形相をしていた。「なんだ君は!」
美佳子は振り向きもせず、とんでもない行動に出る。教室から悲鳴が上がった。
窓を開け放ち、彼女は跳んだのだ。
至近距離から、息を吸う音が聞こえた。事務員が目を見開いて、今にも叫びだしそうな顔をしていた。俺は咄嗟に教室の死角へと引っ張り込み、手でその口を塞いだ。
「年が近いな、俺と」
彼女は涙目で首肯する。
「この世界には、俺やあんたの理解を越えたことが多くある。いいか、大切なのは、それと不意に遭遇しても決して取り乱さないことだ」
何を言ってるんだ俺は。
「冷静にやり過ごせ。叫ぶのはもう一分待て。俺も頑張る。あんたも頑張れ」
手を離して振り返り、駆け出した。廊下を走って階段を下りる。
あいつ、やりやがった。騒動になることなんざ少しも考えていやしない。ミストのことだけなんだ、本当に。
三段飛び越えて下りる、二年教室フロアの踊り場、
「って、うおお!」
「ぶいぶい」ピースをしながら美佳子が現れた。俺は不格好な絶叫をしてしまった。
「一階下に降りただけだったか」
それでも良い運動神経だ。片腕でよくやる。
並んで一階に下りたとき、職員室前で教師と鉢合わせた。〝担当〟の教師だ。走ってきた俺たちに目を丸くした。
「ど、どうされました」
咄嗟に彼の肩を掴んだ。
「妹にどうやら、この学校は狭すぎる」
横をすり抜けて、昇降口へとどんどん走っていく美佳子の背中。俺は教師を突き放して後を追った。
「ナカムラユウイチさん」
雛川駅に戻る電車内、向かい席の美佳子はにやにやと不気味な笑みを浮かべて言った。
ああ、沖野中の窓口で言った名だ。
「ついにバラしましたね。お兄さんのお名前、私に」
呪いにでも使われるのか。だとすれば彼には色々と申し訳ない。
「中村祐一。一度も話したことのないクラスメイトだったけどな」
「え」
美佳子は大声をあげた。
「他人の名前だったんですかー!?」
「当然だろ。虚偽の目的で学校に入ったんだ。それに……生徒をぶん殴って、もし本名を伝えていたら俺はどうなってた」
「怒られますかね」
「捕まるぞ、下手したら。今だってわからない。男と女子高生で暴行容疑の捜索がされてる可能性だって」
「……」
彼女は口を噤んで俯いた。
口調が荒かったかもしれない。だが、俺は警察でも何でもないんだ。彼女のすることが正義だとして、それを助ける筋合いはどこにもない。
「とりあえず、雛川の事件には付き合う。俺の故郷の町でもあるから」
「はい……」明らかに消沈した声。
構わず続ける。
「そのあとは、俺は関われない。卑怯かもしれないが」
そう断るのが一番卑怯だ。
「何も、見なかったことにして、普通に暮らさせてもらう」
「ん……、えと、はい」
別に彼女から付いてこいと言われたわけでもない。意思を示すことを促されてもいない。困惑されるのは当然だった。
「すみません……。ああするのが早くて」
「……間違ってない」
間違っているのは俺だ。人の生き死にがかかった状況で、捕まる捕まらないだの。誰より価値のない人生だと自覚しているはずなのに。
これだ、俺が負のスパイラルから抜け出せない理由は。くだらない執着。いつまでも踏ん切りをつけられない。どん底の、だが何もしなくてもいいこの場所が、何より居心地がいいんだ。
彼女と、いてはいけない。俺は平気で正しい人間を引きずりこむ。悪だ。ある意味でミストよりも遥かに。
「あの、お兄さん」
いきなり黙り込んだ俺に、彼女は気遣うような視線を向けてきた。
不規則に揺れる車内。車窓からは正午近い、日の昇った空が見える。
「何でもない。……あんたは」
なにを泣きそうになっているんだ、俺は。
「弱い人間と一緒にいちゃいけない」
この時間に、この線に乗る客は少ない。重役出勤に見える、スーツの中年。小さな親子連れ。目を逸らす、最低の男。向かいに座って、真っ直ぐに見つめる女子高生。
「よくわかりませんけど、……さっき凄く助かりましたよ。なんだか自分を責めてるみたいだから言わせてもらいますけど」
俺は顔を上げた。
「私一人じゃ無理でした。絶対どこかでボロが出て、大騒ぎになりながら撤退していました」
「そんなわけあるか。あんたは無理にでもやり遂げる」
「……」含み笑い。「そうかも」
でもね、と彼女は続ける。
「ミストが見えて、協力してくれる人なだけで、私にはプラスなんです。その上で、あんなに一生懸命嘘までついてくれて。……だからじゃないけど、私も全力でやらなきゃいけなくて、それで危ないやり方になっちゃいましたけど、もし咎められたなら、訳を説明すればいいと思って」
真っ直ぐだ。
「私、間違ったことはしていないはずなので」
殴られた生徒も、ひょっとすれば明日には死んでいた。彼は助けられている。彼女の無謀に。
町田美佳子は今日も、人を一人救った。それに、俺も加担した。
「自信を持ってください」
車内に制動がかかり、窓の外の景色が緩やかになる。
言葉は返さず、ただ頷いた。
彼女の顔を、余計見れなくなっていた。