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1 世界を変えるのは誰?

 小学校の頃に他県で起こった、一家惨殺事件の犯人を知っていた。

 俺がこうして二十歳になるまで事件は未解決のままで、当初は平和な街で起きた不可解かつ凄惨な事件として大きく騒がれていたものの、次第に飽きられ、誰もが他の新しい明るい話題に移っていった。もう既に人々の興味がなくなった事件だ。

 あとは、中学の頃失踪した不良男子生徒の行方。高校の頃、街で流行った親父狩り殺傷事件の真犯人。

 最近では、公園で遊ぶ幼児を狙って出現する殺人鬼の正体。

 俺は全て知っていた。


 小綺麗な装飾のされたドアを閉め、鍵を挿して回す。1Kの一人暮らし用マンションの部屋は施錠される。

 やる気が出ない。我ながらダラダラとした歩調で狭い階段を下りる。階段の踊り場は開放型で、マンション隣の工場の壁が接し、間にはフェンスと狭い隙間がある。

 オートロックのマンション玄関を出る。無意味だと俺は思う。ここは女性の一人暮らしでも安心を売りにした築三年の真新しい物件だが、外部の人間が侵入しようと思えば、工場との隙間から容易くそれができる。ましてや、女性の一人暮らしで売っている小綺麗なマンションだ。暴漢となり得る奴なら、まず先に狙いをつけたがるだろう。中に入りさえしてしまえば、標的は無防備な若い女性がたった一人なのだから。

 そんな事を考えながら日暮れの道を歩く中で、向かいからやってくる女に目がいく。ショートの髪に軽いパーマをかけた、若い女。向かいの部屋の住人だ。日中は学校か何かに行っていて、今マンションに帰るところなんだろう。

 女は俺に目を合わせ、軽く笑って会釈をした。俺も会釈で返し、すれ違う。

 確か、日向ひなたと表札にあった。名前通りの明るさを持った女だと感じた。

 明るくいられるというのは、暗いことを何も知らないからだ。例えば向かいに住むこの俺が変質者的思考で彼女のことを見ているならどうだ。それに、さっきのマンションのセキュリティの穴だってそうだ。人生が順風満帆に運ばれて何事にも無知でいられるから、あんな笑顔ができる。

 俺だって小さな頃は優秀だった。神童とまで呼ばれていた。もし何も知らずに、挫折もせずに順調に生きてこれたなら、今もああして笑えていたんだ。

 マンションから間近のコンビニに入る。建物の二階は学習塾となっていて、学生の姿が店内には圧倒的に多い。どいつもこいつも、踏まれずに育った草ばかり。並んで立ち読みをする男子達の声がでかい。耳触りなくらいに。

 うるさい学生の間を抜けて選んだパンを三つ、購入する。

「いらっしゃいませ……」

 レジを打つ二十代半ばくらいの男は目が死んでいる。それでもこうして働いているだけで、俺のことはいくらでも見下せる。こいつも、決定的な傷はついていない。まだ自分を誇ることができる。

 袋をぶら下げて、店を出る。向かい部屋の日向のように、この時間帯はマンション住人が次々に帰宅を始める。女が多い。男もいるが、いずれも若々しく、将来の展望がある、大学生や専門生とかだ。馬鹿なことをした。こうなるとわかっていれば、もっと古くて住み辛くても別の場所を選んだ。

 住人とは顔を合わせたくない。滅多に挨拶もされないだろうが、あの人生の充実感のような空気に近づきたくない。向こう側から俺を見られたくない。そう思い、マンションと逆方向に足を向ける。

 大きな交差点をスーツの人間達が渡る。人はそれなりに多い。ここが駅や街中心部に近いのが良くない。トレーナーに上着にジーパンの、まるで目的のない俺の格好が目立つ。堪らず逃げるように足を動かした。

 少し歩いて、大通りから奥に入った先の公園で、俺は買ったパンを開けた。ベンチに座って、砂場で遊ぶ小学生の男子達を眺めながら、ジャムパン、クリームパンと次々に開け食していく。

 小学生はいい。俺は思う。それは別に小学生の持つ快活さなどを認めているのではなく、小学生なら狙われないという意味だ。

 この横崎市で発生している、公園の幼児を狙った連続殺人。標的となるのは決まって小学校就学前の小さな子供だ。幼児が狙われると言うと、連れ去られ遊ばれる類の事件を連想しがちだが、これは違う。ただ殺されて、切り刻まれた死体だけがそこにある。

 犯行は夕方、夜半にかけて行われ、有力な目撃情報はない。凶器の特定もされていない。昨年の今頃、秋から始まって、大体二ヶ月間隔で繰り返されている。この二ヶ月というのがミソだ。事件を受けて高まった住民や警察の警戒心が薄れる時期。毎度発生直後は人が一切寄り付かなくなる公園も、ある程度ほとぼりが冷めればこうだ。

「おい帰ろうぜ」

「殺人鬼がでる」

「達也殺されろ!」

「うひゃ」

 小学生達は放り投げていたランドセルをそれぞれ背負い、その背中をどつき合いながら駆けていった。夕暮れの迫った公園には俺一人が残される。

 どうせ、小学生は狙われない。俺は袋から最後のくるみパンを取り出して、包装を開けて一口囓った。仄かな甘みと、くるみの微かな苦味のバランスが絶妙だ。やはり数種のパンの中でもこれだけが群を抜いて美味い。

 足元の小石を蹴る。コンクリートの地面に、公園入口に敷き詰められているのと同種の砂利がいくつも転がっている。子供が遊びでここまで持ってきたのだろう。俺は律儀に一つ一つ蹴って、ベンチの先の砂地へと飛ばしてやる。そこにやるのも間違っているが。

「お……」

 軽い力で蹴った小石が、思わぬ方向に飛んだ。顔を上げ、行き先を目で追う。石は二、三度低く跳ね、小さな赤い靴の先に当たった。

 女の子がいた。赤いチェックの服にフリルの付いたスカートの、歳は五歳かそれくらいの小さな子が、砂地と休憩場の境に立って俺を見ていた。

「ごめんな」咄嗟に言った。怪我はないだろうが、人に当たるとは考えずに石を飛ばしていた。

「痛くなかったか?」

 女の子はすると真顔で首肯して、逃げるように砂場へと行ってしまった。

 ほっとした後、俺は空を見上げる。風景の向こうから迫ってくる夕闇。

 少し焦燥する。

 あの子の親は何をやっているんだ? 放任されて近場の公園で遅くまで遊ぶ子供はたまに見かけることもあったが、例の事件が起こるようになってからは流石に減った。

 ましてや丁度二ヶ月周期のこの時期、この時間帯に子供をここにやるなんて、奴に殺してくれと言っているようなものだ。

 俺はベンチから腰を浮かせ、立ち上がった。ともかく、公園でなければいい。こんなことをしたら不審者扱いされそうでそれも怖いが、あの子をここからまず連れ出さなくてはいけない。

「眼の前で現場を見るなんて、もう俺は……」

 思わず口にしたとき、肌に感じる空気が一変する。砂場に向かおうとしていた足が止まる。

 現れる。そう思った瞬間、隣に、黒い霧の影がいる。

 俺は、戦慄する。

 影が、ゆっくりと砂場に向かって踏み出す。人の形をした、黒い霧の集合体。粒子を僅かに残しながら、前進する。

 待ってくれ、身を乗り出し、そう口にしようとした途端、猛烈な意思の風がそれを阻んだ。

 黒い霧は歩くのを止め、振り返るような動きをした。

 意思は止んでいる。

 きっと、ここで黙認しなければ、俺が殺される。

 俺は弱い笑みを作った。卑しい、最低の行動だった。

 霧は再び歩き出す。踵は返さなかった。奴には裏も表もないのかもしれない。

「は……」押し込められていた息を吐いた。

 この世界には、絶対に抗えない力が存在する。俺が小学校で受けた集団のいじめのように。あるいは社会に出たなら、もっと顕著な圧力があるだろう。

 そして、人全体が抗えない自然の力も存在する。地震、津波、台風、洪水――。

 あの霧の幽霊を、俺は〝ミスト〟と名付けた。奴らも、この世界の自然災害に類するものだと俺は思っている。

 十年前に他県で起きた一家惨殺事件の、現場の家前を映したニュース映像の中に、いた。家の玄関から出て、女性キャスターの後ろを通って画面外に去っていった。直後、貼られていた封鎖テープが一斉に切れた。

 中学の同級生の不良の背後に、いた。半年ほどそんな状態を維持していたが、ある日突然、彼は失踪した。失踪の直前、背後の霧が妙に痩せ細っていたのを憶えている。後日、別の不良に取り付く肥えた霧を見て、彼は食われたのだろうと解釈した。

 高校の時に街で流行った親父狩りの、被害者含む当事者数名が、刃物のような傷を受け死傷した。偶然通りかかった現場で、見た。膨らみ蠢きながら路地から出てくる霧の影を。

 そして昨年の秋から続く幼児殺害事件。舞台となる公園で、就学前の子供に近づくミストを何度も見た。俺は早足で帰宅し、後日事件発生のニュースを見る度、もう決して他に行く場所がなくても公園にだけは近づくまいと思ったが、どうやら、緊張が解けていたのは俺も同じだったらしい。こうしてまた、現場に居合わせてしまった。

 ミストは砂場の前に立ち、女児を見下ろしている。標的をしばらく観察してから手にかけるという謎の習性だった。

 俺はパンの袋をぶら下げて、公園を後にする。決して振り返りはしない。

 抗えない力というものがある。直視してはいけない事実が、どこにだってある。この世界では、様々な悪が黙認されている。

 関わらなくたって、生きていける。

 大通りの交差点まで帰ってきた。もう帰宅ラッシュは終わっただろう。これでマンションに戻れる。

 信号待ちの間、食べかけのくるみパンの、最後の一口を囓る。

「……」

 味がしない。

 丸めた袋を、上着のポケットに入れた。

 信号が変わる。俺は歩き出す。

「すみません」

 声をかけられて気づいた。俺は相当ぼうっと歩いていたらしい。目の前に女がいた。横断歩道の中腹で俺は立ち止まった。

「あの、この付近に……」

 制服を着た、女子高生らしい女だ。しかしこの辺で見るものじゃない。別に制服マニアでもないが。

「公園ってありませんか」

 女子高生は言った。

「は、公園……?」何故か青ざめた。

 信号が終わりかける中、女子高生をよく見る。小柄で、無垢そうな顔をしている。肩ぐらいの黒髪。あと、何か……。何かがおかしい。だが、信号が変わる。俺は急いで彼女の手を引いて、元の歩道に戻る。

「あっ、すいまっ、すいません」走りながら謝られた。「渡ろうとしてたのに、私のせいで」

 握っていた手を離す。離してから、それが異様に冷たかったことに気づいた。

「あの、公園なんですが。この辺りで……どこかありませんか」そこまで言い、ハッとして左手の時計を見る。「急がなきゃ。あの、知らなかったら、いいです。本当にすみませんでした」

 そう言って駆け出そうとする。

「おい」

 俺は彼女を止めていた。何を思ってそうしたのか、自分でもよくわからない。口をついたように言葉が出た。

「公園なら、知ってる。一番近い所まで……、案内するから、ついてこい」

 俺は走り出した。「はいっ」と返事の後、女子高生はついてきた。

 公園内、砂場の前に、ミストはいた。女児もいた。砂山を作って遊ぶ女児を、奴はまだ見下ろしていた。それが何を意味するのかはやはりわからないが、恐らくあと数分もすればあの子の命はない。

 そこで地を蹴る音。横を風が過ぎ去る。

 女子高生が前に出ている。

「おい」

 近づけば巻き添えを食う。親父狩り殺人のように、周囲にいる者も巻き込まれる。邪魔をしようとすれば尚更だ。

「馬鹿、やめろ」俺は叫んだ。

 しかし彼女は聞こえないかの如く一直線に砂場へ。ミストの眼前に転がり込み、大きくUターン。何かを片手で引きずって走り戻って来る。

「うえええん」後ろ襟を掴まれ、泣きながら、女児。

「お……」

 おいおいおい。なんて事を。

 背後では、砂場の砂が高く巻き上げられている。ミストが膨張している。標的を奪われて怒っているのか。

 女子高生がまた俺の横を風のように駆けて、公園を出た。「逃げてください」叫ぶ。「説明が難しいですが、とにかく逃げて。危ないです!」

 彼女にも奴が見えているのか。俺は考える間もなく、踵を返して彼女の後ろを駆け出す。

「ああああん」尻を引きずられ泣きじゃくる女児を、「貸せ」走りながら、上手く抱き上げる。

「どうも」女子高生は言った。何か、おかしい。走り方が……。

 そのとき、背後で凄まじい音がした。公園の樹木が一斉に道側に倒れるのを見た。間を抜け、黒い影が走る。不定形の靄となって、向かってくる。

「ヤバい……。お前、なんて事してくれたんだ」

 言う間に、ミストは近づく。黒の気体となって。公園のフェンス、民家の塀が切断されていく。

 恐ろしく速い。追いつかれる。

 すると、彼女は立ち止まっている。

「私がどうにかします」

 俺は混乱した。あれは現象だ。どうにかなるもんじゃない。一瞬で、バラバラになるだけだ。

「振り返らず逃げてください」彼女の背中が言った。

 ミストが広がる。立ち塞がる彼女を飲み込む。その一瞬、足が地を蹴った。

 鉄杭を打ち込むような音がした。天面から、球状となったミストが割れた。

 霧は分散して、跡形もなく消え去った。そこに、彼女が立っていた。

 俺の足は、止まっていた。

「何……、倒したのか」

 ミストって、倒せたのか。そもそも触れられたのか? 幽霊のようなものとばかり思っていた。

 彼女は振り返ると、小走りでこちらに向かってきた。「ごめんなさい。引きずってしまって」女児に言った。涙を溜めた顔で女児は頷く。

 彼女は俺に向いて「お兄さんも、あれが見えるんですね」

「ああ……。まぁ」

 見えるだけだ。何も知らない方がずっといい。

「勝手に俺は、ミストって呼んでる」

「……」

 言ったことを後悔した。彼女はあからさまに微妙そうな顔をした。

「……やっぱり今のなしだ」

「い、いえ、何か呼び名がある方がいいですもんね!」フォローまでされた。

 俺は半ば強引に話を戻す。「どうやって倒したんだ。お札か何か貼ったのか。お清め的な……」

「お清め……」口許を押さえて笑われた。「お兄さん、面白いですね。言うことが」

 そうして彼女は、左手で、身振り手振りで説明を始めた。

「あれって……、ああ、〝ミスト〟ですね、人を飲み込もうとする一瞬だけ、中の固い部分が現れるんです。私はそれを――」

 あ……。今ようやく気づいた。

「殴る」

 堅く握った左拳が、俺の眼前にあった。

 違和感は〝右〟だ。右手の方はさっきからピクリとも動かしていない。おかしな走り方の正体もこれか。

 彼女はハッとして、拳を引っ込めた。

「すみません。私、すこし攻撃的で」

「いや、いいんだが」

 俺は腕のことを訊こうとしたが、思い留まった。無粋な気がする。彼女自身が意識していないことだ。わざわざ表面化してやる問題じゃない。

「おねえさん、おてて」

 うっ……!

 予想以上に子供は無邪気だった。ある意味さっきの修羅場より戦慄する俺がいた。

「おてて、どうしたの」

 気まずい思いをしながら、彼女に目をやった。すると、こちらも予想外だった。「おて?」思い当たらないような顔をしている。きょろきょろと見回し、上を見て考え、ようやく、

「ああ、これ?」右手の先を、左手で掴んで持ち上げる。物を持つように。明らかに健常な様子じゃない。

「これ、ついてるだけなんです」

「……怪我か」堪らず訊いた。

「そうです」表情を崩さない。

「ミストか?」

「はい」

 女児は、納得しているのかしていないのか。ぼんやりと軟体のような腕を見つめている。

「いたい?」ふと訊いた。

 いやきっと、君の引きずられた尻の方が痛いと思う。

「いたくないよ」笑って彼女が答えた。

「なおる?」

 無垢な顔をしていた。

 まだこの世は綺麗で、完全なものだと信じているんだろう。

 幻想だ。

「なおりません」

 悲しいふりのような表情。「ごめんね」と何故か謝っていた。


 空はもう闇に落ちていた。女児に家を聞いて、送り届けた。頭を下げる若い母親。玄関の明かりの中から女児に手を振られた。

 女子高生が振り返す。俺も軽く手を上げた。

 全てが終わり、俺は男女ペアに生まれる社会的信用というやつを痛いほどに味わっていた。あれは、二十歳の男性個人が今までに浴びてきた視線のどれとも違った。

 並んで歩き、なんとなく、最初に彼女に会った交差点へと戻ってきていた。会話がない。彼女は飄々とした様子だ。街をきょろきょろと見回している。

 横断歩道を渡る。コンビニの横を通って、マンションへ。彼女の素性を推察する考えが止まない。しかし訊くというのも気が引ける。俺にとって他人とはそういうものだった。

 ルームナンバーを押し、鍵を挿してエントランスへ。階段を上っていく。開放された踊り場……「意味がないよな。ここから侵入できる」とでも言っておくか。どちらかと言えばその会話内容の方が無意味だが。

 二階の部屋前。洒落た装飾のドア。鍵を挿し、開錠したところで、

「……ん?」

 振り返る。女子高生がいる。

 ほぼ無意識にここまで連れてきていた。

「ええと……」どうしよう。

「私、強引ですか」

「は?」

 彼女は少しためらう様子を見せる。

「こういうのって、ずるいかな」

「な、なにが」

「泊まるところがないんです」

「……なんだって?」

 意味がわからない。俺の部屋に泊めろってことか。

「私、お金ないし、社会的には凄く非力な女子高生なんです。ほら……」右手をぷらぷらさせる。

 つまり働けないと言っている。

「これ、あまり見せたくないけど……」制服の内ポケットに手を入れ、手帳を差し出す。「障害者手帳」

 見せたくないと言いつつ、やけに迅速だった。

「あのな……」ここまで会話がなかったのが響いた。今から何もかもを訊かなければならない。「まず、どこから来たんだ、お前は」

「お前……」悲しそうに胸を押さえる。

「君は」言い直した。「どこから来たんだ。制服もこの辺では見たことがない」

 彼女は言う。「埼玉から、鈍行列車で」

「何故」推測でほぼわかりきっていたが、訊いた。

「ミスト、を倒しにですよ」

 九州だぞ、ここは。こいつはヒーローか何かなのか。

 ふと見ると、彼女の口の端がヒクついている。「ミ、ミスト……」

 不愉快極まりない。

 ここで感情的になるのもおかしいが、俺は後ろ手にドアを開け、素早く中に入り込む。「あっ――」ドアを閉めさせてもらった。

「ご、ごめんなさい。すごくいいネーミングだと思います」鉄扉越しに哀願するような声。

「ただ……すこし恥ずかしいかも」

 鍵をかけた。

「あああっ」

 玄関を上がり、洗面所へ。

「嘘です、嘘です」

 手洗い、うがいをする。

「ごめんなさい。私も実は、ご、ゴーストって呼んでいたことあるんです。だから、おあいこですよね?」

 女子高生を泊めるなんて危険すぎる。俺の自制が効くかどうかもわからないし、何もなかったとしても強引な手段はいくらだって取れる。泊めたという事実が効くのだ。

「ごめんなさい……」

 だが、この夜中にそれを外に放り出すのも、危険なのには違いない。俺には無関係だと言えばそれまでだが。

「ごめんなさい。もう、いいんで……」

 涙声だった。

「ごめんなさい……、最後に……、挨拶だけ……」

 あとは何も聞こえなかった。俺は手を拭きながら、玄関を見やった。

 思えば、ミストが見える他者に会ったのは初めてだった。彼女もひょっとして、そうだったのだろうか。

 埼玉からここまで、恐らくニュースを見て、一人でやってきた。その動機が理解できなかった。いや、ある意味明らかなのだが、リアルじゃなかった。

 危険を冒してまで霧の中に飛び込んだ姿が、信じられなかった。

 動かない右腕。俺にはわからなかった。

 触発されたのか、それとも、単に女子高生と接する危険を冒したくなったのか、わからない。俺は声のしなくなった廊下を戻った。

 ドアを開けると、彼女はいた。目に涙を溜めていた。少し心が痛くなった。

「いいよ、入れば」声をかけた。

 そのとき、向かいのドアが開く。小綺麗なショートパーマの女が顔を出す。

「……」彼女はあからさまに驚いた顔をする。「こんばんは……」

「どうも……」

 その一瞬、女子高生が素早く脇下に滑り込む。「あっ」という間に部屋内に進入。どたどたと廊下を駆ける音。

 向かいの女、日向は絶句していた。

「他人です」

 それだけ言ってドアを閉めた。何がしたいのか自分でもよくわからない。下を見る。靴だけが揃えて置かれている。足場のサンダルを蹴り出して、後を追う。

「――うっ」

 風呂場へ続く脱衣所の扉が閉まっていた。立ち竦んでいると、シャワーの音が聞こえてくる。

「女子の入浴中です。別に鍵はかけませんけど」

「かけろ」

「すみません」施錠の音。「……あの、私は、卑怯だと思います。ごめんなさい」

「好きに利用しろ」壁を背に、廊下に座り込んだ。

 皮肉を言われた気分だった。

 卑怯とは、どう考えても俺のことだ。ずっと見捨ててきた。

 こいつは恐らく、ずっと戦ってきたんだ。見苦しくても、不格好でも。

「傷、見ます?」浴室内で反響した声。

「ふざけんな」

「千切れかけた傷ですからね。痛々しいですよぉ」子供を怖がらせるような口調。

 俺は立ち上がって、廊下奥のキッチンスペースへ。冷蔵庫を開ける。飲料しかない。棚にはカップ麺が数種ある。

 禄に飯も食わず、趣味もない。親の仕送りは溜まる一方だった。

「……ごめんなさい。不快にさせましたか」

 違う。自分が惨めになるんだよ。

「私、みかこっていいます。町田美佳子」

 黙っていると自己紹介を始めた。

「埼玉の、高校一年生。十六歳です」

 犯罪だ。

「家族は?」連絡をしておけば免罪符になり得る。

「いません」

 いやに慣れた語調だった。

「父と母と祖母と兄。私が六歳のときに、みんな死にました」

 ……おい、待て。まさか。

「埼玉、町田……」頭の中で、小学校当時のニュースと結びつく。「一家惨殺事件……」

「私は生き残りです」

 俺が知る限りで、最古のミスト事件。……思い出した。一家全滅とはならず、長女一人が重体で生き残った。プライバシーに配慮したのか、その後の報道は一切されなかったが。

「ミストも見ましたよ」シャワーが止まり、浴室扉の開く音がした。声が鮮明になった。「目にくっきりと焼き付いています」

 面白半分でミストと名付けた自分を思い出した。

「あの、タオル」

「どれでも使っていい」

「……ありがとうございます」

 今更だ。ここまで無遠慮できて。

「私、中学までは堕落人間だったんですよ」笑いながら言った。「お兄さんと一緒です。あは」

 無遠慮……。俺のことは何も聞いてこなかったが、やはり察していたか。それでも、あんたの経験した堕落と比べるのはおかしい。

「でもずっと、くすぶっていたんです。テレビで報道を見て、犯人すら見えなくて振り回される人たちがいて……。それで、私は一念発起をして――」

 扉が開いた。髪を濡らして制服を着た彼女がいた。

「空手を習ったんです」

 目の前に拳が放たれていた。

「あっ」すぐに慌てて手を引く。「また……ごめんなさい」

「別にいい。ドライヤーとか……女はよくわからんが、諸々そっちの部屋にあるから」リビング兼寝室のワンルームを指した。彼女は明るく返事をして部屋に向かった。


 テーブルに向かい正座する彼女の前に、出来上がったカップ蕎麦とうどんを置いた。

「わぁ、いただきます」蕎麦を取る。

 俺は必然的にうどんとなる。

「それでですね……」

 食べながらまだ話を続けるらしい。受容されていると饒舌になるのか。

「その、兄が殺されてしまった時に、霧の中に硬質の球体を見てるんですね、私」

「……」俺は箸を止めて彼女を見た。

「あ……」彼女も止める。「ごめんなさい……食べながらする話じゃ……」

「いや、いい。続けてくれ」

 頓着がないんだなと思った。食事も確かにそうだが、家族の死について語ることに抵抗が見られない。傷についてもそうだ。ついでに、男の部屋でのこの振る舞いも。

「えと、兄の後に、同じ部屋にいた私が狙われたんですけど、私、助かってるじゃないですか」

 俺は無言で頷く。

「霧に飲まれた時に、球体を引っ掻いたんです。そうしたら、ミストは凄い勢いで逃げてしまって……。私も無事ではなかったんですけど」右腕を見やった。

「なるほど、それで……」

「はい。ずっと病院で、もどかしい思いで、ニュースばかり見てました。私はミストが見えるのに、私なら倒せるのに、って」本当に悔しそうな顔をした。

 俺にだって、ミストは見えていた。もし俺もあれを倒せる可能性を見つけていたなら、彼女のようになれたのか。

 いや、なれない。第一、何の意味がある。命を張って、あの超自然的脅威に挑んで、何が得られるんだ。

「今日だけ、泊めてください……ね」

 彼女は言った。

「ここまで話したのも、お兄さんが初めてです……。ミストが見える人、滅多にいないんですよ。たまにいても、話せる雰囲気じゃなくて」

 霊能者とかだろうか。想像だが、見えることを商売にするような連中なら、そんな反応かもしれない。

「だから、仲間のよしみで、今日だけ……」照れくさそうに笑って言った。「明日はもう、雛川市に行きますので」

 雛川……隣町だ。俺が高校までを過ごした場所。まさか。

「二件の雛川での事件……」

「はい。把握してます」

「……こんな風に、あんた、もしかして全国まわってるのか」

「はい」不敵に笑う。「関東圏はもう全滅させましたよ」

 なんとなく想像はついていたが、規模が違った。

 箸を置いた。

「何でだ」

 ずっと彼女に向いていた疑問を口にした。

「なんでそんな……。そうなれる?」

 情けないと思った。四つも上の成人男性が、こんな物言いとは。

「復讐か……?」

 情けなかった。

 俺が見つめる中で、彼女は視線を落とした。

「……私も、意味あるのかなって思ったことはあります。正直、死んだ家族のこと、どうでもよくなったりもしましたし……。だけど――」

 彼女も箸を置いた。完食していた。

「それだと、ご飯がおいしくなかったんですね」

 にっこり笑って言った。「ご馳走さまでした」


 彼女――町田美佳子は九時には寝てしまった。「男の人のベッドは初めてです」俺の寝床を勧めると、そう言って遠慮なく制服のまま入り込み、「きゃぁー」とか言いながら、数分後には静かになっていた。

 俺は外へ歩きに出た。昼夜逆転している。どうせ寝れない。

 何もしてないのは俺だけだ。仕事も、学業もしていない。なのに生きていける。夢を追っているわけでもない。入学早々に大学を辞めて、二年が過ぎていた。

 ただ、見ているだけ。とかく家に金だけはあったから、俺には全ての傍観が許されていた。こうして何もできない奴になったのは、自業自得だ。転落人生も、霧の幽霊が見えるのも、何かの罰かもしれない。

 コンビニ前まで歩いて立ち止まり、携帯を出した。

 町田美佳子に、悔しい気持ちすら湧かなかった。彼女は圧倒的に先を行っていた。動かない腕も、死んだ家族も置き去りにして走っている存在だった。自身の状況や、ミストの脅威、何一つ顧みない。俺も置いて行かれる。

 携帯のコールボタンを押す。

 空を見上げた。満天の星空だった。


 早朝四時に帰ると、美佳子はテーブル前に正座で待っていた。

「すみません。なんだか気を遣ってもらっちゃった」

 俺は返事をせず、テーブルにコンビニの朝の焼きたてパンを並べていく。チョコパン、くるみパン、カステラパン。辛いものも半分買ってきた。ピザパン、カレーパン、たまごパン。

「三つでも四つでも取っていけ」

「あの、私、ほんと何もお返しできなくて、申し訳ないんですけど」

 困惑している。こいつは何というか悩みの次元が違う。

「街からミストが消えた。全部その礼だ」

 俺が言うと、彼女は面食らったような顔をして、「ぁぅ」と変な声を漏らした。少し目が潤んでいた。

 誰にも見えず、褒められない戦い。幽霊のような自然現象のような敵……関東にまた新たなミストが発生する可能性もゼロじゃない。最悪、無意味との戦いとなる。

「……それじゃ」顔を背けて、パンを二つ取って立ち上がり、彼女はお辞儀をした。「親切をありがとう。体で払えないのが本当に残念……。なんちゃって」泣き笑い。

 滅茶苦茶だ。

 玄関先で、彼女は何度も頭を下げた。

 俺は靴を履き、部屋を出る。

「そんな、ここまででいいですよ」

 ドアに施錠をする。

「雛川には俺の実家がある」

「え、実家……」

 キイ、と向かいのドアが開いた。恐る恐る顔を出す女がいた。「……おはようございます」

「あ、どうも……」二人で頭を下げる。

 向かいの日向は鍵を閉め、会釈をしながら階段を下りていった。「実家……すごいな……」と呟くのが聞こえた。

 妙な誤解をされたが、気を取り直して続けた。

「連絡入れておいたから、そこに泊まれ。まぁ、俺もついて行くことになるが」


 徒歩数分の駅から始発に乗る。

 人も疎らな車内で、彼女と向かい合って座った。「中学でよく食べてました」パンを頬張っている。

 こいつに対しては、劣等感、というのが正しいだろう。単に上手い奴、成功している奴なら、いくらでも見下せる。だが真に必死になれる人間は、俺には眩しすぎた。

 それでもこうして後を追い、彼女の姿を目に焼き付けることで、自分の何かが変われるんじゃないかと、やはり卑怯者なりの、秘かな期待があった。

 窓の外の景色が流れていく。懐かしい田園風景が広がる。

 俺は一口、パンを囓る。

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