今こそ 別れめ
卒業生の皆様、おめでとうございます。
卒業を来年以降に控えた方、数年前、数十年前に終えられた方も、お読み頂ければ幸せです。
「先生」
いつもと同じ時間、同じようにからかうような声がして、君がやって来た。
「何してるの?」
見なくても分かる。長い黒髪を揺らしながら、君は廊下から僕を覗いているんだ。しっとりと濡れたような艶のある髪からは、雨の香りが漂っていて君のイメージは雨そのものと言ったところか。
「テストの採点だ。それ以上近づくなよ」
僕は君を牽制するように、僕の城、つまりこの滅多に人が現れない視聴覚室への侵入をやめさせようと試みた。
だが君は意に介さない。僕の思惑など鼻で笑うように、やすやすと入って来る。
「またこんな薄暗い所でするなんて。どうして職員室でしないの?」
「……あそこは苦手だ」
「変な先生。教師のくせに」
君は笑いながら、扉に手をかけあっさりと閉めた。二人きりの視聴覚室は、ただっ広い空間を持て余している筈なのに、息苦しさを感じてしまうのは何故なのか。
「ねえ、先生」
「近寄るなと言ったろう?」
「覚えてる? 初めてここで会った時のこと」
いつの間にかすぐ側で声がしている。あれほど言っても僕の言うことを聞かないのは、舐めているからに他ならないだろう。
この年頃の女子生徒にとって、教師に成りたてのただ若いだけの『先生』など怖くもなんともない筈だ。
「あの日よ。先生がわたしを見つけてくれた日のこと」
背中までの真っ直ぐの黒髪を垂らして、僕のすぐ横で腰を屈めた君は、驚くほど近くに顔を寄せこちらを見ていた。
「覚えてるさ」
覚えてるともーー。
あの日は雨が降っていた。
なかなか職員室に馴染めなかった僕は、会議までの空いた時間を過ごす隠れ場所を探して、放課後の校内をぶらついていた。
その時、ここを見つけたんだ。雨のせいで普段よりじめっとした雰囲気が、その時の自分にピッタリだと思った。勇んで部屋に入った僕の前に、先客がいた。
びしょびしょに濡れてうずくまっていた君を見た時、最初は幽霊かと思った。
奇声を発した僕を、君は濡れた前髪の隙間から覗く黒目がちな瞳で食い入るように見つめ、そして小さく笑ったんだ。
「わたし、あの時ね、先生のお陰で救われたの。先生は何も言わずわたしの側にいてくれた。わたしの側で淡々と本を読んでいたよね?」
「それだけじゃないだろう? 保健室からタオルやら着替えやら借りてきてやったし、コーヒーも奢ってやっただろう」
僕は答案用紙を片付けて君から隠した。違う学年のものだが、生徒に見せるのは不味い筈だ。
「そうだった。お返ししなきゃ」
「いいよ、別に」
餞別だと思えよーー言えない台詞を飲み込む。
フフと笑って君は首を傾げた。
「先生って優しいね。本当に優しいと思う。いつもいつも邪魔ばかりしにくるわたしを、追い払ったりなんかせずにここで相手してくれた」
それは君が、僕の遠回しの拒絶に気がつかなかったからだろう。と言うより、気づいていても入り込んでたのかもしれない。
「先生がいてくれたから……、放課後ここに来たら先生に会えたから、だからわたし、辛いことがあっても耐えられたんだと思う。学校を辞めたりしないで、明日の卒業式を迎えられるんだと思う」
顔を上げた僕の目に、雨に濡れた君が見えた。
いや、雨じゃない。
君の黒い瞳からとめどめもなく流れていく涙が、伝い落ちる雨の滴のように映った。美しい涙に頬を濡らす君が、あの日濡れそぼって震えていた君と重なったんだ。
「ねえ、先生。気づいてた? 三年生はとっくに休みに入ってたこと。わたしが休みなのに、わざわざ先生に会いに学校へ来ていたこと」
「気づいてたよ」
そしてそれは、今日が最後だということもーー。
君はくしゃりと顔を歪めて、しばらく黙っていた。俯く君の震える肩を、僕は静かに見つめるしかなかった。
二人きりの室内に、君の嗚咽と時計の音だけが響いている。
やがて君が顔を上げた。泣き顔は相変わらずだが、口元が弛んでいる。
「先生、『仰げば尊し』って歌知ってる?」
知ってるさ、勿論。僕はその歌を何回歌ったと思うんだ。
「あの歌の中に出てくる『我が師』って、……わたしにとっては先生のことだった。だから絶対卒業までにお礼が言いたかったの。今日まで言い出せずにいてごめんなさい。それどころか採点や読書の邪魔ばかりしてごめんなさい。先生、本当にありがとう。今まで本当にありがとう」
君の泣き笑いの顔がよく見えない。何故だろう。僕の目はどうしてしまったのかな。
すぐ側で僕を見下ろしていた君は、体を起こすとそっと離れて行った。それから背筋を正して振り向き、涙でぐちゃぐちゃになってしまった顔を綻ばせ穏やかな笑顔になる。
「先生、広川貴仁先生。本当にありがとう。それから……、お元気で」
だから僕も椅子から立ち上がり、彼女の方に向き直って精一杯の言葉をかけようとした。
僕の方こそ、そうさ、僕の方こそ君に救われた。
人付き合いが苦手で、いまだに職員室が苦手で、教師なんてガラじゃないと思うんだけど。それでもこの仕事から逃げ出さずに今日までこれたのは、僕と同じように、いや、僕なんかよりずっと苛酷な人間関係の中で、必死に生きている君に知らず知らず励まされていたからなんだ。
なのに何も手助けすることもなく、側にいることしか出来なかった頼りない『先生』でごめん。
君に感謝されるような人間でなくて、本当にすまなかった……。
だけど僕は、結局言いたいことの十分の一も言えなかった。
いつの間にか、僕の顔にも止まらない雨が降っていたから、うまく話すことが出来なくなっていたんだ。
それでも何とか声を絞り出して、君にはなむけの言葉を贈ることに成功した。
「川辺梓さん、僕の方こそ今日までありがとう。君の……君の明るい未来を、心から祈っている。卒業おめでとう」
君は嬉しそうに笑って、教室を出て行った。一人になった僕の元へ、いつまでも名残を惜しむかのように、雨の匂いが香っていた。
僕はこれからも、君の輝かしい未来を心より祈っている。
おめでとう、そしてありがとうーー。
お読み下さり、ありがとうございました。