表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

流された思い出

作者: 白米ナオ

 2011年 3月11日 昼


 突然の揺れに、学校中がどよめいていた。決して大きくは無いけれど、やたらと長く続く横揺れの地震。

 トイレの掃除をしていた俺も例外ではなく、長い揺れが収まるのをじっと待っていた。

 三分くらいで収まった揺れに安堵の息を吐き、丁度掃除も終わったところなので俺は足早に教室へと戻った。

 がやがやと騒がしい教室は地震の話題で持ちきり。『さっきの揺れヤバくね?』だの、『大きい地震の前触れかもよ』だの、好奇と不安の空気が一緒くたになっていた。

 そんな中、隣のクラスの友達がスマートフォンを片手に俺を訪ねてきた。どうせみんな自由にしているし、何の違和感も無く彼と言葉を交わす。

 彼の話曰く、『三陸沖で震度7だってさ』とのこと。当時の俺は地名がピンとこなくて、新潟辺りの話だろうと思っていた。前回の中越地震に続き、災難だな……他人事のような心配が先に出てきた。

 しかし、彼のスマートフォンの画面を見た俺は絶句した。東北地方一帯が震度7、地図が真っ赤に染まっていたのだから。

 自分でも血の気が引いていくのが分かった。宮城県石巻市には、俺の母方の家族が住んでいるのだ。慌てて携帯を取り出すと、1番を押して家へと電話をかける。

 長い呼び出し音の後、ガチャリと相手側が通話に出る。俺は慌てて実家のことを尋ねると、母は涙声で『電話が通じない』と答えた。

 明らかに狼狽している母をなだめると、部活の顧問に事情を説明し、昼の稽古を休んで足早に帰宅。すぐにテレビの前に居座って速報を待つ。

 昼間にもかかわらず父も帰宅していて、その日はずっとテレビの前に座っていた。何度も何度も電話をかけるが、混線しているのか呼び出しすらままならない。

 次第に流れてくるニュースも被害の拡大を報じ、未だ音信不通の祖父母のことを思うと胸が苦しくなった。あの映像の中に、確認された死体の中に、もし祖父母がいたとしたら……不の感情は連鎖し、次第に涙となって目から零れ落ちた。

 内心ではご本尊様に祈っていても、どうしても最悪の結末が頭から離れない。今の俺に出来ることは、ただ遠く離れた家族の無事を祈ることだけ。それが、とても歯がゆかった。

 結局、その日は祖父母の安否を確認できずに終わった。夜もなかなか寝付けなかった。


 翌朝、なんとも言えぬ目覚めの悪さだった。理由は言うまでもなく、地震の所為だ。

 ずっと繰り返される地震や津波の速報に、公共広告機構のCM、そして増え続ける身元不明の死者の人数。それらの情報が否応無く耳に入り、気分はどん底に落ちていった。

 けれど、卒業式を終えても下級生の学校はまだ終わっていない。寝不足と心労で重い体に鞭を打ち、俺は部活へと向かった。

 その日はどんな稽古をしたか、俺はよく覚えていなかった。ずっと祖父母のことを考えていて、稽古に身が入っていなかったのだろう。当然、コーチにも結構怒られた。

 追い討ちをかけるかのように心は沈んでいくが、それでも俺は何かをしたかった。じっとしているだけでは、後悔してしまいそうだったから。

 俺は親の提案でtwitterのアカウントを作り、実名を晒して情報提供を呼びかけた。他にも情報を共有するサイトを巡っては、避難所の名簿などを洗いざらい探し回った。

 そうして精力的に探すようになると、少しだけ心に希望が沸いた。きっと生きている、また会える、と。


 三日の時が経った。相変わらず音信不通だけど、叔母さん夫婦の無事は確認できた。どうやら仕事で遠出していたらしく、地震の影響をあまり受けなかったらしい。

 とりあえず無事だったことを喜び、この調子ですぐに祖父母が見つかるとひたすらに信じた。

 その日の稽古は今までの憂鬱を晴らすかのように声を上げ、熱心に取り組んだ。そのおかげもあってか、いつもよりもいい稽古が出来た気がする。

 割と満足したまま部活が終わり、俺はふと携帯を開く。新着メール一件、母からだった。

 母が俺にメールで伝える用件は基本的に買い物の依頼。俺は何の違和感も無くいつものようにメールを開いた。



 件名 無題


 ばあさんと連絡付いた。安心されたし。



 いつも以上に素っ気無く短い文章。けれど、俺は目を疑って何度も文字を目で追った。

 間違いない! ばあさんは生きている! そう確信するとともに、俺の目からは熱い涙が溢れ出した。

 俺は道着が汚れることも気にせず、石畳の上で泣きながらのた打ち回った。幸い俺の奇行を見ている者は居なかったが、そんなことは関係ない。俺のこの胸に溢れる喜びは、何人たりとも侵させはしない。

 しばらく滂沱し続け、やっとのことで涙が枯れた俺は部活のメンバーに報告した。ついでに、コーチに迷惑をかけたことも謝った。

 感謝の気持ち忘れるべからず。剣道を通して学んだことがこれほど身に染みたことは、おそらくないだろう。


 数日後、電話の回線が安定し始めた時期を見計らって俺は祖父母に電話をかけた。

 携帯の電池が無く連絡が取れなかったとのことで、じいさんは町の避難所に、ばあさんに至っては船での作業中に地震や津波に襲われたらしく、ヘリで救出されたとの事。

 笑いながら話す二人だったけれど、俺はその話だけでまた涙が出そうになった。一歩間違えればこうして話すことが出来なかったかもしれない……そう思うと、一緒に笑うことは出来なかった。

 短い間の会話だったけれど、とりあえず声が聞けて安心した。元気そうで何よりだった。

 それでも、俺はやはりこの運命を呪わずにはいられなかった。何で母さんの誕生日に、これほどの大震災に見舞われなければならないんだ。ぶつけようの無い憤りを感じた。




 時は流れ、俺は高校を卒業した。もう、あの震災から一年が経過したんだな。

 俺の卒業式には被災した祖父母も出席してくれた。遠路はるばるフェリーで来てくれて……それが震災のあった三月なだけに、俺はどうしても胸を締め付けられる。

 久しく見る祖父母。以前あった頃(多分高校一年生の時が最後か)はもっと大きかった気がするのに、なんだか小さくなってしまった気がした。

 それは単に俺が成長したのか、はたまた震災で祖父母の方が小さくなってしまったのか……俺は考えるのをやめた。後者であって欲しくなかったから。

 本当は抱きしめたかった。無事でよかったと心の内を曝け出したかった。けれど、対面すると何故か気恥ずかしくなって、そうすることは叶わなかった。

 だから、俺ははにかみながらただ一言、『ありがとう』と言った。

 母さんを産んでくれてありがとう。小さい頃は面倒を見てくれてありがとう。こうして俺の晴れ姿を見に来てくれてありがとう。

 何より、生きててくれてありがとう。

 その全てが伝わったかどうかは分からないけれど、じいさんもばあさんも笑ってくれた。

 当たり前のようで、とっても大切なこと。俺はこれからもずっと、感謝し続けながら生きていくんだ。




 卒業式が終わり二週間ほど経過した頃、俺は兄とともに実家のある仙台へと向かった。

 夜行バスに揺られて十時間弱、全然寝れなくて辛い道中だった。三年使っていた携帯が壊れてしまい、変えたばかりのスマートフォンを時々触りながら揺られ続ける退屈な時間。

 永遠と思われるそれも、思えばあっという間に過ぎ去った。三月にもかかわらず寒気の吹き荒れる仙台駅前で下車すると、俺と兄は叔母さんの迎えを待つ。

 三十分ほど待つと、以前会った時とあまり様子の変わらないおばさんが到着した。こちらは震災後に会うのは初めてなので、久しぶりと言葉を交わしながらも内心で無事を喜んだ。

 車に乗って会話をしつつ、あっという間に叔母さんの家に着いた。実家である祖父母の家は津波に攫われてしまったので、今はこちらに住んでいるらしい。

 初めて見る叔母さんの家に少し恐縮しつつも、俺は兄とともに家に入った。リビングではじいさんが朝食を摂っている最中で、俺を見るなりいつものように『よう』と声をかけてきた。

 相変わらずのじいさんに苦笑しつつも挨拶し、続いて顔を出したばあさんにも挨拶。まだ朝食を摂っていなかった俺と兄も食卓に混ざる。


 それからの数日間はとても充実した日々だった。アウトレットで買い物をしたり、叔母さん夫婦と麻雀をしたり、牛タンを食べたり……何だか食べてばかりの日々だった気もするが。

 その中でも特に俺の心に残ったのは、実家の跡を見に行ったことだ。


 祖父母の実家は東松島市の海沿いにある一軒家。叔母さん夫婦の家から車に乗って小一時間で着く。

 高速から降り、少し車を走らせる……実家のあった場所はまだ先だが、既に津波の傷跡が見えてしまった。

 ひしゃげたガードレール、倒れた電柱、飛ばされた看板、打ち上げられた船。どれも今回の震災がどれほど凄まじいものだったかを物語っていた。

 しばらく走ると、やっと見覚えのある道に出た。しかしそこも土砂が未だに覆っていて、道路の環境は非常に悪い。あれから一年も経ったのに、ここまで酷いものだとは俺も想定していなかった。

 すぐ近くにはじいさんと釣りに行くときによく寄った釣具屋、あるべき建物がそこにない。そんな現実を受け入れたくは無かったが、目の当たりにすると認めざるを得ない。これがあの震災の帰結なんだ、と。

 暗い気持ちのまま道を曲がり、そのまま車を走らせる。釣具屋から実家までは歩いてもほんの一分で着く距離にあるので、その場所へはあっという間に着いてしまった。

 車を降り、俺は言葉を失った。そこに懐かしの実家は影も形も無く、あるのは少し見覚えのある床のタイルと家具、そして食器の残骸のみ。

 ある程度覚悟してきたつもりだったけど、こればかりはショックを隠しきれなかった。家が流されたことくらい、地震発生当時の航空写真で確認していたから知っていた。兄のアイデアでgoogle earthを使い、家をスクリーンショットに収めて保存したことも記憶に新しい。

 けれど、やはりその地に立つと今までよりも深い不の感情に襲われた。家が流されたことの理不尽さに対する憤り、幼い頃から過ごしてきた思い出の場所が無くなったことの悲しみ。

 勿論泣くことはしない。ただただ無言を貫き、感情を押し殺していた。複雑な表情で跡地を探り、使えそうなものを探すばあさん。それを同じく複雑そうな表情で『もう諦めろ』と言うじいさん。そんな光景に俺は胸を締め付けられっぱなしだった。

 どちらの気持ちも分からなくはない。だからこそ余計な口出しはせず、俺も自分の気持ちに従って行動を起こす。瓦礫で不安定な跡地に入ると、俺も家の間取りを確認しつつ地面を見渡した。

 探し物は色々あるけれど、最初に思いついたのは七五三の写真だった。写真を撮られるのが嫌で、けれど最終的には涙を堪えて撮った幼い頃の自分。昔は目を向けるのも躊躇われた一枚だったけれど、こんな状況になったからこそ分かる。あの写真は俺の幼い頃の、数少ない思い出の欠片なんだ、と。

 淡い期待を胸に抱いて探すものの、結局は見つからなかった。俺の思い出は波に攫われてしまったのだ。その事実が俺の気持ちを否応無く沈ませる。


 名残惜しいまま俺は車に乗り、次なる目的地へと向かう。実家の跡地から歩いて一分も掛からない場所にある小さな建物――ばあさんの営んでいた居酒屋だ。

 通りに出れば真っ先に出てくる『のんちゃん』と書かれた青い看板、それももう見当たらない。車を店の前に止めると、一応は原形を留めている建物の扉を開く。

 泥が挟まっていて思うように開かず、何度も開け閉めしてやっと開いた扉の向こうには、荒れ果てた畳の間とキッチンがあった。箪笥は天井を突き破っていて、津波の威力がどれほど凄まじいものかを物語っている。

 外に出た俺は微かに残る建物を記憶の中の風景と照らし合わせ、元の形を必死に思い出そうとする。けれど、目の前の風景が徐々に記憶を侵食して行き、昔の風景が薄れていく。それが途轍もなく怖かった。

 記憶はたったの数秒で上書きされてしまう。しかし、こうして失ったからこそ気づくこともある。この場所が好きだったんだな、と。

 そんな哀愁の想いに浸りながら、俺たちはその場を後にした。




 以上、とりとめの無い文章で綴ってきた俺の体験談ですが、これはあくまでも現実。いつ、誰の身に起きてもおかしくはないのです。

 大切な家族を失いかけて、俺は初めてこの日常が『当たり前』ではないことに気づけました。だからこそ、この文章を読んでくださる皆様には覚えておいてほしい。

 遠く離れている祖父母がいるのなら、たまには電話をしましょう。どんな些細なことでもいいんです、孫から電話が来て嬉しくない祖父母なんて滅多に居ませんから。

 そして、日ごろの感謝を伝えましょう。用件が多すぎたり口にするのが恥ずかしいときでもただ一言、『ありがとう』と言いましょう。『孝行したいときに親はなし』、これは祖父母にも当てはまります。

 最後に、思い出は大切にしましょう。あまり疎遠になったとき、形ある思い出が一つもないのは寂しすぎますから。

 被災で亡くなった全ての方々に冥福を祈りつつ、この文章を締めくくりたいと思います。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ