甘い紅茶と、冷めた婚約指輪
甘い紅茶と、冷めた婚約指輪
紅茶が冷めるまでに、人の心も冷めるものなのだろうか。
侯爵令嬢アイリスは、白磁のカップを見つめながら、そんなことを考えていた。
王都でも指折りの高級ティールーム。
窓辺には季節の薔薇が飾られ、磨き上げられた銀のカトラリーが午後の日差しを反射している。店内には焼き菓子の甘い香りが漂い、客たちの楽しげな会話が聞こえていた。
けれど、向かいの椅子は空いたままだった。
アールグレイはとうに湯気を失い、表面には薄い膜が張っている。焼きたてだったスコーンも冷え、添えられたクロテッドクリームは乾き始めていた。
今日のために仕立てたフォレストグリーンのドレスが、ひどく重たく感じられる。
婚約者である伯爵令息キースが、深い緑色を好むと言っていたから選んだものだった。
「お嬢様……」
背後に控えていた侍女のエマが、ためらいがちに手紙を差し出した。
「キース様のお使いの方が、こちらを」
アイリスは封を開いた。
『すまない、アイリス。ミレイの具合が悪くなった。屋敷まで送らなければならないので、今日の約束は取りやめにしてほしい。また埋め合わせをする』
短い手紙だった。
謝罪も、言い訳も、いつもと同じ。
「今月、四度目でございますね」
「ええ。四度目よ」
キースには、ミレイという幼馴染がいる。
身体が弱く、気が小さく、何かあるたびに彼を頼る男爵令嬢だ。
観劇の日には熱を出し、庭園を散策する日には悪夢を見て、アイリスの誕生日には階段で転びかけた。
そのたびにキースは、婚約者との約束を放り出して駆けつける。
最初は仕方がないと思っていた。
次は、もう少し自分を大切にしてほしいと願った。
何度も話し合おうとした。
けれど、返ってくる言葉は決まっていた。
『ミレイは弱い子なんだ。君ならわかってくれるだろう?』
そう言われるたびに、アイリスは笑って頷いてきた。
婚約者なのだから。
将来、夫婦になるのだから。
多少のことは我慢しなければならない。
そう自分に言い聞かせてきた。
けれど、ふと思った。
なぜ、自分ばかりが我慢するのだろう。
「エマ」
「はい」
「次の週末、キース様と湖畔へ出かける約束があったでしょう?」
「はい。もっとも、またミレイ様のご事情で……」
「ええ。だから、少し趣向を変えようと思うの」
アイリスは冷めた紅茶を見つめた。
「これからは、二人きりのお約束をやめるわ」
「……と、おっしゃいますと?」
「お友達をお誘いするの。大勢でお食事をしたり、観劇をしたり。キース様がいらっしゃらなくても、楽しく過ごせるように」
エマが目を瞬かせた。
「それは……グループデート、でございますか?」
「そうね」
アイリスは微笑んだ。
「もう、誰もいない椅子を眺めながら紅茶を冷ますのは嫌なの」
その日、アイリスは初めて、婚約者を待つためではなく、自分が楽しむために予定を立てた。
*
一度目のグループデートは、王都の高級サロンで開かれた。
招いたのは、学園時代からの友人たちだった。
公爵令息ルシアン、伯爵令嬢エレナ、そのほかにも親しい令息令嬢が集まり、華やかな昼食会となった。
キースにも、もちろん招待状を送ってある。
『楽しみにしている』
そんな返事が届いていた。
けれど、約束の時間になっても彼は現れなかった。
「キース様、遅いわね」
エレナが時計を見た。
「何かあったのかしら?」
「きっと、また急用なのでしょう」
アイリスは穏やかに答えた。
「皆様、どうぞ先に召し上がってくださいませ」
焼きたてのブリオッシュが運ばれ、食事が始まった。
それから半刻ほど経った頃。
「すまない、アイリス! 遅くなった!」
キースが息を切らせて現れた。
円卓を囲む顔ぶれを見て、目を瞬かせる。
「……どうして皆が?」
「あら、キース様。ようこそ」
アイリスは微笑んだ。
「本日は皆様とご一緒に昼食会ですの」
「聞いていたが……こんなに大勢なのか?」
「ええ。とても楽しいですわ」
キースは気まずそうに椅子へ腰を下ろした。
エレナが尋ねる。
「ところでキース様、どうして遅刻なさったの?」
「ああ。ミレイが馬車の車輪に足を引っかけそうになってね。ひどく動揺していたから、屋敷まで送ってきたんだ」
「まあ。お怪我を?」
「いや、怪我はなかった」
「それは何よりですわね」
エレナは微笑んだ。
だが、隣にいた子爵令息が首を傾げた。
「怪我がなかったのなら、御者に送らせればよかったのでは?」
「ミレイは気が弱いんだ。俺が付き添わないと落ち着かなくて」
「なるほど」
ルシアンが静かに頷いた。
「ただ、アイリス嬢を待たせることについては、どう考えていたのかな?」
「アイリスは事情を理解してくれるさ」
キースは当然のように答えた。
アイリスは何も言わなかった。
代わりに、エレナが小さく眉をひそめた。
「……そうですの」
その日は、それ以上の追及はなかった。
けれど、キースが帰ったあと、エレナはアイリスにそっと囁いた。
「あなた、ずいぶん我慢しているのね」
「いいえ」
アイリスは紅茶を一口飲んだ。
「今日は、皆様と楽しく過ごせましたもの」
エレナは何か言いたそうにしていたが、やがて微笑んだ。
「……そうね。私も楽しかったわ」
アイリスは、その言葉が嬉しかった。
以前なら、キースが遅れたことばかり考えていただろう。
けれど今日は、友人たちと笑い合った時間の方が、ずっと長かった。
*
その夜、アイリスが屋敷に戻ると、エマが小さな紙包みを持ってきた。
「ルシアン様がお帰り際にお預けになりました。お嬢様へ、と」
中には、サロンで供されたものと同じ店のブリオッシュが二つ。添えられたカードには、端正な字でこう書かれていた。
『今日、君が気に入っていたようだったから。明日の朝食にでも』
アイリスは思わず笑った。
「よく見ていらっしゃるのね」
「お嬢様が楽しそうになさっていたのを、嬉しく思われたのでしょう」
エマの言葉に、アイリスは包みをそっと閉じた。
キースに好物を尋ねられたことはあっただろうか。考えかけて、やめた。今夜は誰かの欠点を数えるより、明日の朝食を楽しみにして眠りたかった。
*
二度目のグループデートは、王立劇場だった。
アイリスは六人分の特等席を予約し、キースにも招待状を送った。
彼からは今回も、出席するとの返事が届いた。
ところが、開演直前になって使いの者が駆け込んできた。
『ミレイが頭痛を訴えているため、本日は欠席する』
エレナは思わず扇を閉じた。
「……また?」
「ええ。またですわ」
「先週は馬車の車輪だったわよね?」
「そうでしたわね」
「今週は頭痛?」
「そのようです」
エレナはしばらく黙っていた。
「……あなた、本当に大丈夫?」
アイリスは微笑んだ。
「ええ。今日は楽しみにしていた演目ですもの」
幕が上がった。
舞台では美しい恋物語が繰り広げられ、客席からは何度も拍手が起こった。
終演後、友人たちは近くのレストランへ移動した。
そこで偶然、知人の伯爵夫妻と顔を合わせた。
「おや、アイリス嬢。今日はキース殿と観劇ではなかったのですか?」
伯爵が尋ねた。
「ええ。ご一緒する予定でしたが、急用でお越しになれなくなりましたの」
「急用?」
「幼馴染のご令嬢が頭痛を訴えられたそうです」
伯爵は目を瞬かせた。
「……頭痛?」
「はい」
「それは、お医者様に診ていただくべきでは?」
「私も、そう思いますわ」
アイリスは微笑んだ。
伯爵は何とも言えない顔になった。
その隣で、伯爵夫人が小さく首を傾げる。
「でも、キース様はお医者様ではありませんわよね?」
「ええ」
「……そう」
夫人はそれ以上何も言わなかった。
ただ、翌週の茶会で、知人にこう話したという。
『ヴァレンタイン家のご令息は、ずいぶん献身的な方なのね。婚約者との観劇を欠席してまで、幼馴染の頭痛に付き添われるそうよ』
その言葉には、まだ悪意も嘲笑もなかった。
ただ、少しばかりの疑問が含まれていた。
*
劇場からの帰り道、ルシアンは馬車の乗り場までアイリスを送った。
「今日の舞台、第二幕の最後がよかったね」
「ええ。ヒロインが誰かに助けられるのを待つのではなく、自分で扉を開けるところが好きでした」
「君らしい感想だ」
「私らしい、ですか?」
「君はいつも、何かを楽しむ方法を自分で見つけるから」
アイリスは少し驚いた。以前の自分は、楽しむことすらキースの都合に任せていたのだ。
「まだ、見つけ始めたばかりですわ」
「それなら、これから見つかるものも多いね」
ルシアンはそう言って、馬車の扉が閉まるまで待ってくれた。
帰り道、アイリスは舞台の台詞を思い返した。閉ざされた扉を開けたヒロインの背中を、不思議と今夜は遠く感じなかった。
*
三度目のグループデートは、王立植物園での散策だった。
今度は八人が集まった。
キースは、珍しく時間どおりに現れた。
「今日はちゃんと来たぞ、アイリス!」
彼は得意げに言った。
エレナが目を丸くする。
「まあ。時間どおりにいらっしゃるなんて」
「何だ、その言い方は」
「いいえ。少し驚いただけですわ」
アイリスは微笑んだ。
「お越しいただけて嬉しいです」
キースは満足そうに頷いた。
だが、散策が始まって間もなく、ミレイの家から使いが現れた。
「キース様! ミレイお嬢様が、庭で蜂を見て驚かれまして!」
「何だって!」
キースの顔色が変わった。
「刺されたのか?」
「いえ、刺されてはおりません。ただ、ひどく怖がっておられて……」
「わかった。すぐ行く!」
キースはアイリスへ振り向いた。
「すまない! ミレイが大変なんだ!」
アイリスは静かに頷いた。
「お気をつけて」
「ああ! 埋め合わせは必ずする!」
そう言って、彼は走り去った。
残された八人は、しばらく無言だった。
やがて子爵令息が口を開いた。
「……蜂?」
「ええ」
「刺されていないんだよな?」
「そのようですわね」
「それで、帰ったのか?」
誰も答えなかった。
エレナが額に手を当てる。
「……私、少し頭が痛くなってきたわ」
「大丈夫かい?」
ルシアンが尋ねる。
「ええ。でも、キース様を呼ぶ必要はないわね。私は自分で休めるもの」
その場にいた全員が、とうとう笑ってしまった。
アイリスも小さく笑った。
以前なら、胸が締めつけられていたはずだった。
けれど今は、不思議と悲しくなかった。
ただ、あまりにも予想どおりだった。
そしてその日の帰り道、ルシアンが静かに言った。
「アイリス嬢。君は、彼を待つためにここへ来たわけではないのだろう?」
「ええ」
「ならば、次も遠慮なく僕たちを誘ってくれ」
アイリスは少し驚いた。
ルシアンは微笑んだ。
「今日の植物園は、とても楽しかったからね」
その言葉に、アイリスは心から笑った。
「……ありがとうございます」
*
植物園から戻った翌日、アイリスのもとへ一冊の薄い図録が届いた。
差出人はルシアンだった。
『昨日、温室の奥にある白薔薇を見られなかったね。図録だけでもと思って。次に皆で行く機会があれば、今度こそ見に行こう』
アイリスは頁をめくった。淡い白の花弁が、精緻な版画で描かれている。
「白薔薇をご覧になりたかったのですか?」
エマに問われ、アイリスは頷いた。
「ええ。でも、途中で散策が終わってしまったから」
「ルシアン様は、そのことも覚えておいでなのですね」
アイリスは図録を閉じた。
何かを覚えていてもらえることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。だからといって、それをすぐ恋と呼ぶつもりはない。彼女にはまだ婚約者がいる。
ただ、次にルシアンと会ったら、図録のお礼を伝えようと思った。
*
四度目のグループデートは、湖畔でのピクニックだった。
今度は十人が集まった。
その中には、キースの友人である侯爵令息アルベルトもいた。
彼は以前からキースをかばっていた。
「キースは根が優しい男なんだ。少し不器用なだけで、悪気はないと思うよ」
そう言って、アイリスにも理解を求めていた。
アイリスはその言葉を否定しなかった。
ただ、いつものように招待状を送った。
キースからは『必ず行く』という返事が届いた。
当日。
湖畔には色とりどりの花が咲き、柔らかな風が水面を揺らしていた。
友人たちは持ち寄った料理を広げ、談笑を楽しんでいた。
けれど、キースは現れなかった。
約束の時間から一時間が過ぎた頃、ようやく使いの者がやってきた。
『ミレイが飼っている小鳥が逃げてしまったため、捜索を手伝っている』
アルベルトは手紙を受け取ると、しばらく黙っていた。
「……小鳥?」
「ええ」
アイリスは頷いた。
「小鳥が逃げてしまったそうです」
「それで、来ないのか?」
「そのようですわ」
「……小鳥を捜しているから?」
「はい」
アルベルトは手紙をもう一度読んだ。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「アイリス嬢」
「はい」
「君は、これまでずっとこんなことを?」
「ええ。何度か」
「何度か、どころじゃないだろう」
彼は深く息を吐いた。
「……すまなかった」
アイリスは目を瞬かせた。
「何がでしょう?」
「俺は、キースをかばっていた。あいつは優しいから、仕方がないと思っていたんだ」
アルベルトは手紙を握りしめた。
「だが、これは違う。優しさじゃない。ただ、君との約束を軽く考えているだけだ」
アイリスは何も言わなかった。
「俺が間違っていた。君に我慢を求めるべきじゃなかった」
「……ありがとうございます」
その日、アルベルトはキースに手紙を書いた。
『いい加減にしろ。婚約者を何だと思っている』
返事は翌日届いた。
『大げさだな。アイリスは理解してくれている』
アルベルトはその手紙を読んで、机に突っ伏したという。
そして、初めてキースへの友情に疑問を抱いた。
彼が守ろうとしていたのは、本当に友人だったのだろうか。
それとも、自分が信じたい友人の姿だったのだろうか。
*
ピクニックのあと、ルシアンとアイリスは湖畔の道を皆より少し遅れて歩いた。
「アルベルト様、ずいぶんお辛そうでしたわ」
「キースのことを信じていたからね。自分が誰かを傷つける側に立っていたと気づくのは、苦しいことだろう」
「私は、アルベルト様まで責めたいわけではないのです」
「知っているよ」
ルシアンは足元の小石を避けながら、歩幅を緩めた。
「アイリス。君は誰かを罰するために集まりを開いているの?」
「いいえ。せっかくのお休みを、楽しく過ごしたいだけです」
「なら、その気持ちを大切にするといい」
水面を渡る風が、彼女の帽子のリボンを揺らした。
「あなたは、不思議な方ですわね。何をすべきか、決めてくださらない」
「君がどうしたいかを、僕が決める理由はないからね」
あまりに自然な返事だったので、アイリスは言葉に詰まった。
誰かが自分の気持ちを尊重してくれる。そんな当たり前のことが、胸の奥に静かに染み込んでいった。
*
五度目のグループデートは、王都の美術館だった。
参加者は十二人に増えていた。
アイリスの友人だけではない。
その兄弟や婚約者、知人たちも加わり、ちょっとした社交の集まりになっていた。
キースは、今回も遅刻した。
理由は、ミレイが新しい靴を履いて靴擦れを起こしたから。
「……靴擦れ?」
エレナが呟いた。
「はい」
「それで、キース様が?」
「お薬を買いに行かれたそうです」
エレナは天を仰いだ。
「……もう、何も言いたくないわ」
ルシアンが苦笑した。
「医師でも薬師でもないのに、ずいぶん忙しい男だね」
アルベルトは額を押さえた。
「頼むから、誰かあいつを止めてくれ……」
アイリスは穏やかに微笑んだ。
「皆様、展示室へ参りましょう」
美術館では、ちょうど王室所蔵の絵画展が開かれていた。
貴族たちが多く訪れており、アイリスたちの集まりも自然と注目を集めた。
「アイリス嬢、今日もキース殿はいないのですか?」
ある伯爵夫人が尋ねた。
「ええ。ご事情があるそうです」
「まあ、また?」
「幼馴染のご令嬢が靴擦れをなさったそうで」
伯爵夫人は固まった。
「……靴擦れ?」
「はい」
「それで、婚約者との約束を?」
「ええ」
伯爵夫人は扇を閉じた。
「……そう」
その一言には、言葉にしきれない呆れが込められていた。
翌週、社交界では奇妙な噂が広がり始めた。
『ヴァレンタイン伯爵家のご令息は、婚約者より幼馴染の靴擦れを優先するらしい』
『先日は小鳥を捜していたそうよ』
『その前は蜂ですって』
『まあ。何のお仕事をなさっている方なの?』
誰かが悪意を込めて広めた噂ではなかった。
ただ、実際に起きたことが、人々の口から口へと伝わっていっただけだった。
そして、その事実こそが、何よりもキースの評判を傷つけていた。
アイリスは、その噂を聞いても何も言わなかった。
ただ、次の招待状を書いた。
*
美術館で見た風景画の話がきっかけとなり、アイリスはルシアンと何通か手紙を交わすようになった。
とはいえ、二人きりで会う約束はしない。手紙も、絵の作者や展示会の感想ばかりだった。
『あの絵の空は、雨が上がった直後なのだそうです』
アイリスがそう書くと、翌週には返事が届いた。
『だから光があんなに柔らかいのだね。君が気に入った理由がわかった気がする』
誰かに自分の見たものを話し、その人が同じものを見ようとしてくれる。それだけで、世界が少し広くなったように感じた。
ある日、エマが手紙を片付けながら尋ねた。
「ルシアン様からのお便りを、ずいぶん楽しみにしておいでですね」
「そうかしら」
「ええ。お返事を読むとき、お顔が明るくなります」
アイリスは否定しようとして、言葉を飲み込んだ。
それが何を意味するのか、まだ考えたくなかった。今は、友人との手紙のやり取りを喜ぶだけで十分だった。
*
六度目のグループデートは、音楽会だった。
今度は、アイリスの父である侯爵も招待されていた。
キースの父、ヴァレンタイン伯爵も同席する予定だった。
両家の親睦を深めるための、正式な集まりである。
さすがに今回は、キースも来るだろう。
誰もがそう思っていた。
だが。
開演の三十分前。
キースから使いが届いた。
『ミレイが雷の音を怖がっているため、少し遅れる』
その日は、確かに朝から曇っていた。
しかし、雷など鳴っていなかった。
侯爵は手紙を読んだ。
伯爵も読んだ。
そして、二人は顔を見合わせた。
「……ヴァレンタイン伯爵」
侯爵が静かに口を開いた。
「ご子息は、いつもこのような調子なのですかな?」
伯爵の顔が赤くなった。
「い、いえ! 決して、そのような……」
「そうですか」
侯爵は頷いた。
「娘からは、何度も約束を破られていると聞いておりましたが」
「それは……」
「本日も、幼馴染のご令嬢が雷を怖がっているから遅れる、と」
侯爵は窓の外を見た。
薄曇りの空が広がっている。
「……雷は、鳴っておりませんな」
伯爵は何も言えなかった。
やがて、侯爵は静かに続けた。
「私は、娘に我慢を強いるつもりはありません」
「侯爵閣下……」
「婚約については、改めてお話しする必要がありそうです」
伯爵の顔から血の気が引いた。
その日の音楽会で、キースは最後まで姿を見せなかった。
そして翌日。
ヴァレンタイン伯爵家では、激しい叱責の声が響いたという。
*
「おまえは何を考えている!」
伯爵は机を叩いた。
キースは不満そうに眉をひそめた。
「父上、そんなに怒らなくても……」
「怒らずにいられるか! 侯爵閣下の前で、何という恥をかかせてくれた!」
「ミレイが怖がっていたんです。放っておけなかったんですよ」
「雷など鳴っておらん!」
「でも、鳴るかもしれないと不安がっていたんです!」
伯爵は絶句した。
そして、深く息を吸い込んだ。
「……キース」
「はい」
「おまえは、侯爵家との婚約がどれほど重要なものか、理解しているのか?」
「もちろんです」
「ならば、なぜ何度も約束を破る!」
「アイリスは理解してくれています」
キースは当然のように答えた。
「彼女は優しい女性ですから」
伯爵は、しばらく息子を見つめていた。
やがて、力なく椅子に腰を下ろした。
「……おまえは、本当に何もわかっておらんのだな」
「父上?」
「侯爵閣下は、婚約の見直しを考えておられる」
キースの表情が変わった。
「……え?」
「当然だろう。これだけ娘を蔑ろにされて、黙っている親がどこにいる」
「そんな! 少し遅刻しただけじゃないですか!」
「少し?」
伯爵の声が低くなった。
「おまえが欠席した理由を、私はすべて聞いたぞ」
伯爵は指を折り始めた。
「馬車の車輪。頭痛。蜂。小鳥。靴擦れ。そして雷」
ひとつ数えるたびに、声が険しくなっていく。
「これが、侯爵令嬢との約束を破る理由か!」
キースは口を閉じた。
「しかも、すべて怪我も病気もしていない幼馴染のためだというではないか!」
「ミレイは身体が弱いんです!」
「ならば医師を呼べ!」
伯爵の怒声が響いた。
「おまえは医師なのか! 薬師なのか! それとも男爵家の使用人なのか!」
キースは何も言えなかった。
「おまえは伯爵家の跡取りだ! 約束ひとつ守れぬ男に、誰が大切な仕事を任せる!」
その言葉に、キースはようやく顔を強張らせた。
「……仕事?」
「そうだ。すでにいくつかの家から、今後の取引について懸念を示されている」
「なっ……!」
「約束を軽んじる男と、安心して仕事ができると思うか?」
キースの顔から血の気が引いた。
伯爵は疲れ切った声で言った。
「アイリス嬢が婚約解消を申し出る前に、おまえ自身が信用を失っているのだ」
*
音楽会の翌日、ルシアンから短い手紙が届いた。
『昨夜の演奏は素晴らしかった。ただ、君が楽しみにしていた曲のあと、少し悲しそうな顔をしていたのが気になった。返事は必要ない。どうか無理をしないで』
アイリスは手紙を読み終えても、しばらく動けなかった。
音楽会では、キースの父が何度も頭を下げていた。自分のために大人たちが気まずい思いをするのは、やはり苦しかった。
けれど、それを誰にも話さなかったはずだ。
「よく見ていらっしゃるのね……」
最初の昼食会でも、そう思った。あのときはブリオッシュのことだった。今度は、自分でも隠していたつもりの表情だった。
アイリスは便箋を取り出した。
『お気遣いをありがとうございます。あの曲は私も大好きです。次に聴くときは、もっと楽しい気持ちで聴けると思います』
そこまで書いて、少し迷った末に一行を加えた。
『そのとき、また皆様とご一緒できたら嬉しいです』
今は、それが自分にできる精一杯の返事だった。
*
七度目のグループデート。
今度は、王都の庭園で開かれる茶会だった。
参加者は十五人。
もはや、ちょっとした社交行事である。
キースにも招待状は送ってあった。
だが、返事はなかった。
「……アイリス」
エレナが心配そうに声をかけた。
「もう、やめたほうがいいのではなくて?」
「何を?」
「キース様をお誘いすることよ」
アイリスは首を傾げた。
「どうして?」
「だって、どうせいらっしゃらないでしょう?」
アルベルトも頷いた。
「正直、俺もそう思う。あいつを招待する意味があるのか?」
ルシアンは静かに紅茶を飲んでいた。
アイリスは少し考えてから、微笑んだ。
「だって、婚約者ですもの」
エレナが目を見開いた。
「……まだ、そうおっしゃるの?」
「正式に婚約が解消されるまでは、そうでしょう?」
「それは、そうだけれど……」
「ですから、きちんとお誘いしておりますの」
アイリスは穏やかに続けた。
「来るかどうかは、キース様ご自身がお決めになることですわ」
その言葉に、友人たちは顔を見合わせた。
やがて、アルベルトが小さく呟いた。
「……恐ろしいな」
「何がですの?」
「いや、何でもない」
彼は首を振った。
アイリスは何もしていない。
ただ、婚約者を招待しているだけだ。
約束を破るのも、欠席するのも、言い訳をするのも、すべてキース自身。
そして、その様子を見ているのは、社交界の人々だった。
誰かが彼を貶める必要など、なかった。
彼は自分の行動だけで、十分に信用を失っていたのだから。
その日も、キースは来なかった。
理由は、ミレイが庭で蝶を追いかけて転びそうになったから。
エレナは手紙を読んで、しばらく固まった。
そして、とうとう声を上げた。
「……もう、嫌!」
周囲が驚いて振り向く。
「蜂! 小鳥! 靴擦れ! 雷! 今度は蝶ですって!?」
エレナは扇を握りしめた。
「いったい何なの、あの方たちは!」
アルベルトが額を押さえた。
「……俺にも、もうわからん」
ルシアンは苦笑した。
「次は花の棘かな」
「やめてくださいませ!」
エレナが叫んだ。
「本当にありそうで怖いですわ!」
その場にいた全員が笑い出した。
アイリスも、思わず笑ってしまった。
以前なら、泣いていたはずだった。
けれど今は、ただ呆れるばかりだった。
そして、その日の帰り道。
エレナは、アイリスの手を握った。
「……ねえ、アイリス」
「何かしら?」
「もう、無理に婚約を続けなくてもいいのよ」
アイリスは目を瞬かせた。
エレナは真剣な顔だった。
「あなたは十分に頑張ったわ。もう、あの方を待たなくていいの」
アイリスは、しばらく黙っていた。
そして、静かに微笑んだ。
「……ありがとう、エレナ」
その言葉は、胸の奥に温かく残った。
*
庭園茶会の帰り、アイリスは友人たちと次の集まりについて話していた。
「最近、あなたのお誘いが楽しみなのよ」
エレナが言う。
「私もですわ。最初は気晴らしのつもりだったのに、こんなに賑やかになるなんて」
「あなたが皆を楽しませているからよ」
アイリスは照れたように笑った。
少し離れたところで、その会話を聞いていたルシアンが近づいてきた。
「次の集まりでは、僕も何か手伝わせてほしい。招待客が増えて、君の負担も大きいだろう」
「では、お茶菓子のお店を一軒、教えていただけますか?」
「一軒でいいのかい。候補なら三軒ある」
「まあ、そんなに?」
「君が甘いものを好きだと知ってから、つい目につくようになったんだ」
エレナがわざと咳払いをした。
ルシアンは少しだけ頬を赤くしたが、言葉を取り消さなかった。
アイリスは胸の奥が温かくなるのを感じた。けれど、その気持ちを表に出すことはしなかった。自分の婚約が続いている以上、越えてはいけない線がある。
ルシアンも、それを承知しているようだった。
*
八度目のグループデートは、王宮主催の園遊会だった。
もちろん、正式な招待を受けた貴族だけが参加できる行事である。
アイリスは友人たちと連れ立って出席することにした。
キースも招待客の一人だった。
そして今回ばかりは、彼も姿を現した。
「アイリス!」
キースが駆け寄ってきた。
顔には焦りが浮かんでいる。
「君、最近どういうつもりなんだ?」
「何のお話でしょう?」
「毎回毎回、大勢の人間を誘って! 俺が行けないことを、皆に知られるようにしているじゃないか!」
アイリスは目を瞬かせた。
「まあ」
「君のせいで、俺の評判が悪くなっているんだ!」
その言葉に、近くにいたエレナが振り向いた。
「……アイリスのせい?」
キースは顔をしかめた。
「そうだ! あいつが余計なことをしなければ、こんなことには……!」
「キース様」
アイリスは静かに言った。
「私は、あなたをお誘いしただけですわ」
「だから、それが……!」
「お約束を破られたのは、どなたですか?」
キースが言葉に詰まった。
「遅刻なさったのは?」
「……俺だ」
「欠席なさったのは?」
「……俺だが」
「理由をお伝えになったのは?」
「俺だ!」
キースは苛立ったように答えた。
アイリスは微笑んだ。
「では、私が何をしたというのでしょう?」
沈黙が落ちた。
エレナが扇で口元を隠した。
アルベルトは遠くを見つめていた。
ルシアンは、静かに言った。
「キース。君は、まだわからないのかい?」
「ルシアン様……」
「アイリス嬢が君の評判を落としたのではない。君が自分で落としたんだ」
キースの顔が強張った。
「そんな……」
「君が一度や二度、やむを得ない事情で欠席しただけなら、誰も何も言わなかっただろう」
ルシアンは続けた。
「けれど、何度も何度も同じことを繰り返した。しかも、その理由が蜂や小鳥や靴擦れだ」
周囲から、小さな笑い声が漏れた。
キースの顔が赤くなる。
「笑うな!」
「笑われたくないのなら、笑われるようなことをしなければよかったんだよ」
アルベルトが、低い声で言った。
「俺は何度も忠告したはずだ」
「アルベルト……」
「おまえは、アイリス嬢がいつまでも待っていてくれると思っていたんだろう?」
キースは答えなかった。
「だが、周りの人間は見ている。婚約者をどう扱うかで、その男の人柄がわかるんだ」
キースの肩が震えた。
そのとき、近くを通りかかった年配の侯爵夫人が足を止めた。
「あら、ヴァレンタイン家のご令息」
「……はい」
「あなた、今日はいらっしゃるのね」
その一言に、キースの顔が引きつった。
「え、ええ……」
「よろしかったわね。幼馴染のご令嬢は、お元気なのかしら?」
「……はい」
「そう。蜂も小鳥も蝶も、今日は問題なかったのね」
侯爵夫人はにっこり微笑んだ。
「それは何よりですわ」
そして、何事もなかったように立ち去っていった。
キースは、その場に立ち尽くした。
周囲の人々は、もう彼を尊敬の眼差しで見ていなかった。
呆れと、軽蔑と、ほんの少しの嘲笑。
それが、今の彼に向けられる視線だった。
アイリスは、そんな彼を静かに見つめていた。
かつては、彼が傷つくことを恐れていた。
けれど今は、彼自身が招いた結果を、代わりに背負ってあげるつもりはなかった。
*
園遊会の翌週。
ヴァレンタイン伯爵家では、重要な取引がひとつ白紙になった。
相手は、王都でも有力な商会を抱える侯爵家だった。
理由は、単純だった。
『ご令息の約束に対する姿勢を拝見する限り、長期的な信頼関係を築くことは難しいと判断いたしました』
それだけだった。
さらに、キースが参加する予定だった領地経営の研修からも、推薦が取り下げられた。
主催者は、こう述べたという。
『公務を私事より優先できない方に、領民の生活を預けるわけにはまいりません』
伯爵は頭を抱えた。
キースは、ようやく事態の深刻さを理解した。
婚約は、まだ解消されていない。
アイリスは、正式な破棄を申し出てもいない。
それなのに。
彼の信用は、すでに失われていた。
しかも、それを取り戻す方法がわからなかった。
誰かに陥れられたのなら、反論できた。
嘘を広められたのなら、訂正できた。
けれど、広まっているのはすべて事実だった。
蜂。
小鳥。
靴擦れ。
雷。
蝶。
それらのために、婚約者との約束を破った。
ただ、それだけのことだった。
そして、その「ただ、それだけ」が、貴族社会では致命的だった。
キースは初めて、アイリスに手紙を書いた。
『君に会って、きちんと話がしたい』
返事は、翌日届いた。
『次のお茶会に、ぜひお越しくださいませ』
いつもと同じ、丁寧な招待状だった。
キースは、それを見つめていた。
今度こそ、必ず行こう。
そう決めた。
*
園遊会の数日後、ルシアンはアイリスの父である侯爵に面会を申し込んだ。
アイリスがそのことを知ったのは、父が夕食の席で何気なく口にしたからだった。
「ルシアン殿は、礼儀をわきまえた青年だな」
「何のお話ですか、お父様」
「おまえの婚約について、軽々しい噂を立てるつもりはないと、わざわざ言いに来た。今の状況で自分が近づけば、おまえの立場が悪くなるかもしれない、と」
アイリスはフォークを置いた。
「……それだけを?」
「それだけだ。おまえが自分で決めるべきことだとも言っていたよ」
侯爵は娘の顔を見て、声を和らげた。
「アイリス。おまえがどうするにせよ、父はおまえの味方だ」
「ありがとうございます」
その夜、アイリスは窓辺に立ち、夜空を見上げた。
ルシアンは何も求めてこない。だからこそ、彼の親切に甘えて曖昧なままにしてはいけないと思った。
キースとの関係は、自分の言葉で終わらせる。
その先のことは、それから考えればいい。
*
九度目のグループデート。
アイリスは、いつもの高級サロンにいた。
参加者は、とうとう二十人を超えていた。
友人たちがそれぞれ知人を誘い、今では定期的な交流会になっていたのだ。
キースにも招待状を送ってある。
彼からは『必ず行く』という返事が届いていた。
「……アイリス」
エレナが、真剣な顔で声をかけた。
「もう、本当にやめたほうがいいわ」
「お茶会を?」
「違うわ。キース様をお誘いすることよ」
アイリスは首を傾げた。
「どうして?」
「だって、もう十分でしょう?」
エレナは深く息を吐いた。
「誰も、あの方を信用していないわ。社交界では、約束を守れない方として有名になってしまったもの」
アルベルトも頷いた。
「正直、俺もこれ以上は見ていられない。あいつが何を言っても、誰もまともに受け取らなくなっている」
ルシアンが静かに言った。
「アイリス嬢。君はもう、十分に自分の意思を示したと思うよ」
アイリスは、しばらく黙っていた。
そして、微笑んだ。
「……そうですわね」
友人たちが顔を上げる。
「私も、そろそろ終わりにしようと思っておりましたの」
エレナがほっと息を吐いた。
「よかった……」
「ただ、最後にひとつだけ、確かめたいことがありますの」
「確かめたいこと?」
「ええ」
アイリスは、窓の外を見た。
「キース様が、私との約束を守るお気持ちがあるのかどうか」
そのときだった。
「アイリス!」
サロンの入口から、キースが現れた。
息を切らし、顔色を悪くしている。
アイリスは静かに時計を見た。
約束の時間から、一時間半が過ぎていた。
「……遅くなった」
キースは小さな声で言った。
「ミレイが……」
そこで、言葉を止めた。
周囲の視線に気づいたのだ。
誰も、驚いていなかった。
誰も、心配していなかった。
ただ、呆れたように彼を見ていた。
「……今度は何だ?」
アルベルトが尋ねた。
「蜂か? 小鳥か? それとも蝶か?」
「違う!」
キースは叫んだ。
「ミレイが……その……」
「どうなさったの?」
アイリスが穏やかに尋ねた。
キースは唇を噛んだ。
「……お気に入りのリボンをなくしたんだ」
沈黙。
長い、長い沈黙だった。
エレナが、ゆっくりと扇を閉じた。
「……リボン?」
「……ああ」
「リボンを、なくした?」
「……そうだ」
「それで?」
「……一緒に捜していた」
エレナは、しばらくキースを見つめていた。
そして、静かに言った。
「……もう、何も申し上げることはございませんわ」
アルベルトは両手で顔を覆った。
ルシアンは目を閉じた。
誰も笑わなかった。
あまりにも呆れ果てて、笑う気にすらなれなかったのだ。
アイリスは、静かに立ち上がった。
「キース様」
「……アイリス」
「お疲れ様でした」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「リボンは、見つかりましたの?」
「……いや」
「そうですか」
アイリスは頷いた。
「では、まだお捜しになりたいのでは?」
「違う! 今日は君に会いに来たんだ!」
「まあ」
アイリスは微笑んだ。
「一時間半も遅れて?」
キースは何も言えなかった。
「キース様。私は、もう怒っておりません」
「……本当か?」
「ええ」
アイリスは静かに続けた。
「悲しくもありません。寂しくもありません」
キースの顔に、わずかな希望が浮かんだ。
「だったら……」
「ただ、あなたに何も期待していないだけです」
その言葉に、キースの表情が凍りついた。
「……何?」
「以前は、あなたが来てくださると信じておりました。次こそは約束を守ってくださると、何度も期待しておりました」
アイリスは、テーブルの上の紅茶を見つめた。
「けれど、もう違います」
湯気が立っている。
まだ温かい紅茶だった。
「あなたが来なくても、私は楽しく過ごせます。あなたが約束を破っても、私の一日は台無しになりません」
「アイリス……」
「それに、もう皆様もご存じですもの」
アイリスは周囲を見渡した。
「あなたが、どのような方なのか」
キースの顔が青ざめた。
アイリスは続けた。
「私は、あなたの悪口を申し上げたことはありません。ただ、皆様をお誘いして、楽しい時間を過ごしていただけです」
「……でも、君のせいで」
「いいえ」
アイリスは静かに首を振った。
「あなたの信用を失わせたのは、あなたご自身です」
キースは、何も言えなかった。
「私は、婚約を破棄しなくてもよかったのです」
その言葉に、周囲が静まり返った。
「なぜなら、あなたは私との婚約を続けたまま、ご自分で信用を失ってしまわれたのですから」
キースの膝が震えた。
「……そんな」
「誰かに嘘をつかれたわけでも、陥れられたわけでもありません」
アイリスは微笑んだ。
「ただ、あなたが選んだこと。その積み重ねですわ」
キースは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
顔を覆い、肩を震わせる。
けれど、誰も慰めなかった。
かつて彼をかばっていたアルベルトでさえ、ただ黙って見つめていた。
アイリスは、左手の薬指に触れた。
そこには、婚約の日に贈られたダイヤモンドの指輪が輝いている。
幼い頃、キースはこの指輪を差し出して、照れくさそうに笑っていた。
『これからは、ずっと一緒だ』
あの言葉を、確かに信じていた。
けれど、今はもう。
アイリスは指輪を外した。
長い年月、そこにあったものだから、少しだけ外しにくかった。
ゆっくりと引き抜くと、薬指には白い跡が残った。
思っていたよりも、指輪は冷たかった。
アイリスはそれを、白いテーブルクロスの上に置いた。
カツリ。
小さな音が響いた。
「……アイリス?」
キースが顔を上げた。
「何を……」
「正式な婚約解消については、両家の当主にお任せいたします」
アイリスは穏やかに告げた。
「ですが、私の気持ちはもう決まっております」
「待ってくれ!」
キースが立ち上がった。
「俺が悪かった! もうミレイには会わない! これからは君を優先する!」
アイリスは静かに微笑んだ。
「キース様」
「何だ!」
「あなたは、何度も同じことをおっしゃいましたね」
「今度こそ本当だ!」
「ええ。そうかもしれません」
アイリスは頷いた。
「けれど、私はもう信じられません」
キースの顔が歪んだ。
「約束を守れない方に、生涯を共にする誓いなど守れるはずがありませんもの」
誰も口を挟まなかった。
アイリスは、友人たちへ深く礼をした。
「皆様。本日はお付き合いいただき、ありがとうございました」
エレナが立ち上がった。
「アイリス……」
「これからも、ぜひお茶会にいらしてくださいませ」
アイリスは微笑んだ。
「ただし、次からはグループデートではなく、普通のお茶会として」
その言葉に、エレナが泣き笑いのような顔になった。
「……ええ。もちろんよ」
ルシアンも頷いた。
「喜んで参加するよ」
アルベルトは深く息を吐いた。
「……本当に、すまなかった」
「あなたが謝ることではありませんわ」
アイリスは穏やかに答えた。
「皆様には、感謝しております」
そして、最後にキースを見た。
彼は、テーブルの上の指輪を見つめていた。
何かを言おうとして、けれど言葉が出てこない様子だった。
アイリスは静かに告げた。
「どうぞ、お元気で」
*
サロンの重厚な扉を押し開けると、初夏の光が眩しかった。
アイリスはゆっくりと息を吸い込んだ。
薔薇の香りを含んだ風が、頬を撫でていく。
左手の薬指には、指輪の跡が残っていた。
長い間そこにあったものが消えたのだから、当然だ。
けれど、不思議と寂しくはなかった。
むしろ、肩の荷が下りたように感じられた。
「お嬢様!」
迎えの馬車の前で待っていたエマが、駆け寄ってきた。
「いかがでしたか?」
「……終わったわ」
アイリスは微笑んだ。
「ようやく、すべて終わったの」
エマは、ほっとしたように息を吐いた。
「本当に、お疲れ様でございました」
「ありがとう」
アイリスは馬車へ向かいかけて、ふと足を止めた。
通りの向こうに、小さなカフェが見える。
窓辺には色とりどりの花が飾られ、開いた扉から焼き菓子の甘い香りが漂っていた。
「ねえ、エマ」
「はい、お嬢様」
「少し、寄り道をしてもよいかしら?」
「もちろんでございます。どちらへ?」
アイリスはカフェを指さした。
「あちらで紅茶をいただきたいの」
「紅茶、でございますか?」
「ええ。あたたかくて、本当に美味しい紅茶を」
エマが嬉しそうに笑った。
「でしたら、私もご一緒してよろしいでしょうか?」
「もちろんよ」
二人は顔を見合わせて笑った。
サロンの方から、誰かがアイリスの名を呼ぶ声が聞こえた気がした。
けれど、振り返らなかった。
もう、誰かの声に急いで応える必要はない。
誰かの都合に合わせて、自分の時間を差し出す必要もない。
これからは、自分の好きなものを選べばよいのだ。
好きなドレスを着て。
好きな場所へ出かけて。
好きな人たちと、笑い合って。
そうしていつか、また誰かを愛する日が来るのかもしれない。
けれど、今はまだ、その必要もない。
「エマ。今日はスコーンもいただきましょう」
「まあ。お昼を召し上がったばかりでは?」
「ふふ。甘いものは別腹よ」
アイリスは軽やかに笑った。
カフェの扉を開けると、焼きたてのスコーンと紅茶の香りが、二人を優しく迎え入れた。
窓際の席に腰を下ろし、メニューを開く。
アールグレイに、ダージリン。花の香りを移した季節限定のブレンドティーもある。
どれにしようかと迷う時間さえ、今は楽しかった。
「お嬢様、何になさいますか?」
「そうね……」
アイリスは少し考えてから、微笑んだ。
「アールグレイを。お砂糖は、一匙だけでいいわ」
やがて運ばれてきた紅茶は、白磁のカップの中で美しい琥珀色に輝いていた。
立ち上る湯気から、ベルガモットの爽やかな香りが漂う。
アイリスはそっとカップを持ち上げた。
温かい。
指先から、じんわりと熱が伝わってくる。
一口飲むと、柔らかな甘みが舌の上に広がった。
「……美味しい」
思わず、声がこぼれた。
エマが嬉しそうに微笑む。
「よろしゅうございました」
アイリスは窓の外を眺めた。
街路樹の葉が陽光を浴びて揺れている。
道行く人々の笑い声が、遠くから聞こえてきた。
指輪のない左手は、まだ少しだけ頼りなく感じられる。
けれど、その手で包み込むカップは、確かに温かかった。
アイリスは、もう一口紅茶を飲んだ。
今度は、冷めてしまう前に。
誰かを待つためではなく。
自分自身の幸せを、味わうために。
甘い紅茶は、最後の一滴まで温かかった。
*
婚約解消の手続きは、両家の当主の間で滞りなく進められた。
キースから謝罪の手紙が一通届いたが、アイリスは返事をしなかった。彼が何を後悔し、これからどう生きるのかは、もう彼自身が考えることだった。
初夏が過ぎ、庭の薔薇が二度目の花をつけるころ、アイリスは友人たちとの集まりを続けていた。
今度は誰かの欠席を確かめるためではない。新しくできた焼き菓子の店を訪ねたり、気に入った絵について話したりする、ただそれだけの時間だった。
ルシアンも変わらず参加していた。
ある午後、皆が帰ったあと、彼が声をかけてきた。
「アイリス。ひとつ、お願いがあるんだ」
「何でしょう?」
「今度、二人で植物園へ行かないかい。あの白薔薇を、まだ一緒に見ていないだろう」
アイリスは目を見開いた。
婚約していたころ、ルシアンは決して二人きりの外出を求めなかった。だからこそ、その誘いが以前とは違う意味を持つことがわかった。
「……はい。私も、見に行きたいです」
彼の顔が、ゆっくりとほころんだ。
「では、来週の水曜日。午後二時に迎えに行くよ」
「楽しみにしています」
約束の日、ルシアンは二時より少し前に迎えに来た。
馬車に乗り込むとき、アイリスは思わず笑ってしまった。
「どうしたの?」
「いいえ。約束の時間にお迎えが来ることが、こんなに嬉しいなんて」
ルシアンは笑わなかった。
「待たせなくてよかった」
「……ええ」
その返事だけで、胸がいっぱいになった。
植物園の温室には、あの日見られなかった白薔薇が咲いていた。
花の前で足を止めると、ルシアンが言った。
「ずっと、君に伝えたかったことがある」
アイリスは彼を見上げた。
「君と過ごす時間が好きだ。君が友人たちと笑っているところも、好きな絵の話をするときも、誰かの気持ちを大切にしようとするところも」
ルシアンは一度息を整えた。
「君が婚約していた間は、言うべきではないと思っていた。でも今は、きちんと伝えたい。アイリス、僕は君が好きだ」
花の香りが、ふわりと漂った。
「すぐに答えを求めるつもりはないよ。君が自分の時間を取り戻したばかりだということも、わかっている」
アイリスはしばらく黙っていた。
キースとの日々を忘れたわけではない。けれど、忘れなければ次へ進めないとも思わなかった。
「私も、ルシアン様と過ごす時間が好きです」
彼の瞳が揺れた。
「お手紙が届くのを楽しみにしていました。お会いすると、次にお話ししたいことが増えるんです。……それが恋だと気づいたのは、少し前ですけれど」
「アイリス……」
「でも、ひとつお願いがあります」
「何でも聞くよ」
「私が自分で選ぶ時間も、友人たちと過ごす時間も、これからも大切にしていたいのです」
「もちろんだよ」
ルシアンは迷いなく答えた。
「僕も君と一緒にいたいけれど、君の世界を狭くしたいわけじゃない。むしろ、二人で知らないものを見つけていけたら嬉しい」
アイリスは微笑んだ。
「では……これから、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
差し出された手を、今度は自分から取った。
*
秋の終わり、両家の了承を得て、アイリスとルシアンの婚約が決まった。
エレナは知らせを聞くなり、嬉しそうに手を叩いた。
「ようやくね! でも、あなたが自分で決めるまで、何も言わないつもりだったのよ」
「本当かしら?」
「本当よ。……少なくとも、半分くらいは」
二人は顔を見合わせて笑った。
婚約の記念に、ルシアンはアイリスを最初の高級サロンへ誘った。
窓辺には季節の花が飾られ、焼き菓子の甘い香りが漂っている。
かつて、空いた椅子を見つめていた場所だった。
けれど今、その椅子にはルシアンが座っている。
「アイリス。今日は君に選んでほしいものがあるんだ」
彼が取り出したのは、小さな宝石箱だった。
中には白薔薇を思わせる意匠の指輪が収められている。
「気に入らなければ、別のものを探そう。君が毎日身につけるものだから」
「……とても、素敵です」
アイリスは指輪を見つめた。
以前の指輪を外したとき、自分の指が頼りなく感じられたことを思い出す。けれど、あの指輪を外したからこそ、自分で選べるようになったのだ。
「ルシアン様。私、あの日に飲んだ紅茶のことを、今でも覚えているんです」
「あの日?」
「婚約を解消したあと、エマと立ち寄ったカフェでいただいた紅茶です。誰かを待たずに、自分のために選んだ一杯でした」
ルシアンは静かに頷いた。
「大切な一杯だったんだね」
「ええ。だから、今日の紅茶も、自分で選びたいですわ」
「もちろん」
アイリスはメニューを開いた。
「アールグレイを。お砂糖は一匙だけ」
「僕も同じものにしようかな」
「まあ。ご自分のお好きなものを選んでくださいませ」
「そうだね。では、僕はダージリンにしよう」
二人は笑った。
やがて運ばれてきた紅茶から、白い湯気が立ち上る。
ルシアンは指輪の箱を閉じずに、アイリスの返事を待っていた。
アイリスは左手を差し出した。
「これからも、どうぞよろしくお願いいたします」
「……喜んで」
彼は彼女の指に、そっと指輪を通した。
窓の外では、友人たちが待ち合わせ場所へ向かう姿が見えた。今日はこのあと、皆で新しい菓子店に行く約束をしている。
「そろそろ行かなくては」とアイリスが言うと、ルシアンは時計を見た。
「まだ少し時間があるよ。せっかくの紅茶を、ゆっくり飲もう」
「そうですわね」
アイリスはカップを両手で包んだ。
誰かと一緒にいることも、一人で楽しむことも、どちらも自分で選べる。
そのことが嬉しかった。
向かいの席で、ルシアンが微笑んでいる。
アイリスは温かな紅茶を一口飲んだ。
甘い紅茶は、今日も最後の一滴まで温かかった。




