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甘い紅茶と、冷めた婚約指輪

掲載日:2026/11/04

甘い紅茶と、冷めた婚約指輪


 紅茶が冷めるまでに、人の心も冷めるものなのだろうか。


 侯爵令嬢アイリスは、白磁のカップを見つめながら、そんなことを考えていた。


 王都でも指折りの高級ティールーム。


 窓辺には季節の薔薇が飾られ、磨き上げられた銀のカトラリーが午後の日差しを反射している。店内には焼き菓子の甘い香りが漂い、客たちの楽しげな会話が聞こえていた。


 けれど、向かいの椅子は空いたままだった。


 アールグレイはとうに湯気を失い、表面には薄い膜が張っている。焼きたてだったスコーンも冷え、添えられたクロテッドクリームは乾き始めていた。


 今日のために仕立てたフォレストグリーンのドレスが、ひどく重たく感じられる。


 婚約者である伯爵令息キースが、深い緑色を好むと言っていたから選んだものだった。


「お嬢様……」


 背後に控えていた侍女のエマが、ためらいがちに手紙を差し出した。


「キース様のお使いの方が、こちらを」


 アイリスは封を開いた。


『すまない、アイリス。ミレイの具合が悪くなった。屋敷まで送らなければならないので、今日の約束は取りやめにしてほしい。また埋め合わせをする』


 短い手紙だった。


 謝罪も、言い訳も、いつもと同じ。


「今月、四度目でございますね」


「ええ。四度目よ」


 キースには、ミレイという幼馴染がいる。


 身体が弱く、気が小さく、何かあるたびに彼を頼る男爵令嬢だ。


 観劇の日には熱を出し、庭園を散策する日には悪夢を見て、アイリスの誕生日には階段で転びかけた。


 そのたびにキースは、婚約者との約束を放り出して駆けつける。


 最初は仕方がないと思っていた。


 次は、もう少し自分を大切にしてほしいと願った。


 何度も話し合おうとした。


 けれど、返ってくる言葉は決まっていた。


『ミレイは弱い子なんだ。君ならわかってくれるだろう?』


 そう言われるたびに、アイリスは笑って頷いてきた。


 婚約者なのだから。


 将来、夫婦になるのだから。


 多少のことは我慢しなければならない。


 そう自分に言い聞かせてきた。


 けれど、ふと思った。


 なぜ、自分ばかりが我慢するのだろう。


「エマ」


「はい」


「次の週末、キース様と湖畔へ出かける約束があったでしょう?」


「はい。もっとも、またミレイ様のご事情で……」


「ええ。だから、少し趣向を変えようと思うの」


 アイリスは冷めた紅茶を見つめた。


「これからは、二人きりのお約束をやめるわ」


「……と、おっしゃいますと?」


「お友達をお誘いするの。大勢でお食事をしたり、観劇をしたり。キース様がいらっしゃらなくても、楽しく過ごせるように」


 エマが目を瞬かせた。


「それは……グループデート、でございますか?」


「そうね」


 アイリスは微笑んだ。


「もう、誰もいない椅子を眺めながら紅茶を冷ますのは嫌なの」


 その日、アイリスは初めて、婚約者を待つためではなく、自分が楽しむために予定を立てた。


     *


 一度目のグループデートは、王都の高級サロンで開かれた。


 招いたのは、学園時代からの友人たちだった。


 公爵令息ルシアン、伯爵令嬢エレナ、そのほかにも親しい令息令嬢が集まり、華やかな昼食会となった。


 キースにも、もちろん招待状を送ってある。


『楽しみにしている』


 そんな返事が届いていた。


 けれど、約束の時間になっても彼は現れなかった。


「キース様、遅いわね」


 エレナが時計を見た。


「何かあったのかしら?」


「きっと、また急用なのでしょう」


 アイリスは穏やかに答えた。


「皆様、どうぞ先に召し上がってくださいませ」


 焼きたてのブリオッシュが運ばれ、食事が始まった。


 それから半刻ほど経った頃。


「すまない、アイリス! 遅くなった!」


 キースが息を切らせて現れた。


 円卓を囲む顔ぶれを見て、目を瞬かせる。


「……どうして皆が?」


「あら、キース様。ようこそ」


 アイリスは微笑んだ。


「本日は皆様とご一緒に昼食会ですの」


「聞いていたが……こんなに大勢なのか?」


「ええ。とても楽しいですわ」


 キースは気まずそうに椅子へ腰を下ろした。


 エレナが尋ねる。


「ところでキース様、どうして遅刻なさったの?」


「ああ。ミレイが馬車の車輪に足を引っかけそうになってね。ひどく動揺していたから、屋敷まで送ってきたんだ」


「まあ。お怪我を?」


「いや、怪我はなかった」


「それは何よりですわね」


 エレナは微笑んだ。


 だが、隣にいた子爵令息が首を傾げた。


「怪我がなかったのなら、御者に送らせればよかったのでは?」


「ミレイは気が弱いんだ。俺が付き添わないと落ち着かなくて」


「なるほど」


 ルシアンが静かに頷いた。


「ただ、アイリス嬢を待たせることについては、どう考えていたのかな?」


「アイリスは事情を理解してくれるさ」


 キースは当然のように答えた。


 アイリスは何も言わなかった。


 代わりに、エレナが小さく眉をひそめた。


「……そうですの」


 その日は、それ以上の追及はなかった。


 けれど、キースが帰ったあと、エレナはアイリスにそっと囁いた。


「あなた、ずいぶん我慢しているのね」


「いいえ」


 アイリスは紅茶を一口飲んだ。


「今日は、皆様と楽しく過ごせましたもの」


 エレナは何か言いたそうにしていたが、やがて微笑んだ。


「……そうね。私も楽しかったわ」


 アイリスは、その言葉が嬉しかった。


 以前なら、キースが遅れたことばかり考えていただろう。


 けれど今日は、友人たちと笑い合った時間の方が、ずっと長かった。


     *


 その夜、アイリスが屋敷に戻ると、エマが小さな紙包みを持ってきた。


「ルシアン様がお帰り際にお預けになりました。お嬢様へ、と」


 中には、サロンで供されたものと同じ店のブリオッシュが二つ。添えられたカードには、端正な字でこう書かれていた。


『今日、君が気に入っていたようだったから。明日の朝食にでも』


 アイリスは思わず笑った。


「よく見ていらっしゃるのね」


「お嬢様が楽しそうになさっていたのを、嬉しく思われたのでしょう」


 エマの言葉に、アイリスは包みをそっと閉じた。


 キースに好物を尋ねられたことはあっただろうか。考えかけて、やめた。今夜は誰かの欠点を数えるより、明日の朝食を楽しみにして眠りたかった。


     *


 二度目のグループデートは、王立劇場だった。


 アイリスは六人分の特等席を予約し、キースにも招待状を送った。


 彼からは今回も、出席するとの返事が届いた。


 ところが、開演直前になって使いの者が駆け込んできた。


『ミレイが頭痛を訴えているため、本日は欠席する』


 エレナは思わず扇を閉じた。


「……また?」


「ええ。またですわ」


「先週は馬車の車輪だったわよね?」


「そうでしたわね」


「今週は頭痛?」


「そのようです」


 エレナはしばらく黙っていた。


「……あなた、本当に大丈夫?」


 アイリスは微笑んだ。


「ええ。今日は楽しみにしていた演目ですもの」


 幕が上がった。


 舞台では美しい恋物語が繰り広げられ、客席からは何度も拍手が起こった。


 終演後、友人たちは近くのレストランへ移動した。


 そこで偶然、知人の伯爵夫妻と顔を合わせた。


「おや、アイリス嬢。今日はキース殿と観劇ではなかったのですか?」


 伯爵が尋ねた。


「ええ。ご一緒する予定でしたが、急用でお越しになれなくなりましたの」


「急用?」


「幼馴染のご令嬢が頭痛を訴えられたそうです」


 伯爵は目を瞬かせた。


「……頭痛?」


「はい」


「それは、お医者様に診ていただくべきでは?」


「私も、そう思いますわ」


 アイリスは微笑んだ。


 伯爵は何とも言えない顔になった。


 その隣で、伯爵夫人が小さく首を傾げる。


「でも、キース様はお医者様ではありませんわよね?」


「ええ」


「……そう」


 夫人はそれ以上何も言わなかった。


 ただ、翌週の茶会で、知人にこう話したという。


『ヴァレンタイン家のご令息は、ずいぶん献身的な方なのね。婚約者との観劇を欠席してまで、幼馴染の頭痛に付き添われるそうよ』


 その言葉には、まだ悪意も嘲笑もなかった。


 ただ、少しばかりの疑問が含まれていた。


     *


 劇場からの帰り道、ルシアンは馬車の乗り場までアイリスを送った。


「今日の舞台、第二幕の最後がよかったね」


「ええ。ヒロインが誰かに助けられるのを待つのではなく、自分で扉を開けるところが好きでした」


「君らしい感想だ」


「私らしい、ですか?」


「君はいつも、何かを楽しむ方法を自分で見つけるから」


 アイリスは少し驚いた。以前の自分は、楽しむことすらキースの都合に任せていたのだ。


「まだ、見つけ始めたばかりですわ」


「それなら、これから見つかるものも多いね」


 ルシアンはそう言って、馬車の扉が閉まるまで待ってくれた。


 帰り道、アイリスは舞台の台詞を思い返した。閉ざされた扉を開けたヒロインの背中を、不思議と今夜は遠く感じなかった。


     *


 三度目のグループデートは、王立植物園での散策だった。


 今度は八人が集まった。


 キースは、珍しく時間どおりに現れた。


「今日はちゃんと来たぞ、アイリス!」


 彼は得意げに言った。


 エレナが目を丸くする。


「まあ。時間どおりにいらっしゃるなんて」


「何だ、その言い方は」


「いいえ。少し驚いただけですわ」


 アイリスは微笑んだ。


「お越しいただけて嬉しいです」


 キースは満足そうに頷いた。


 だが、散策が始まって間もなく、ミレイの家から使いが現れた。


「キース様! ミレイお嬢様が、庭で蜂を見て驚かれまして!」


「何だって!」


 キースの顔色が変わった。


「刺されたのか?」


「いえ、刺されてはおりません。ただ、ひどく怖がっておられて……」


「わかった。すぐ行く!」


 キースはアイリスへ振り向いた。


「すまない! ミレイが大変なんだ!」


 アイリスは静かに頷いた。


「お気をつけて」


「ああ! 埋め合わせは必ずする!」


 そう言って、彼は走り去った。


 残された八人は、しばらく無言だった。


 やがて子爵令息が口を開いた。


「……蜂?」


「ええ」


「刺されていないんだよな?」


「そのようですわね」


「それで、帰ったのか?」


 誰も答えなかった。


 エレナが額に手を当てる。


「……私、少し頭が痛くなってきたわ」


「大丈夫かい?」


 ルシアンが尋ねる。


「ええ。でも、キース様を呼ぶ必要はないわね。私は自分で休めるもの」


 その場にいた全員が、とうとう笑ってしまった。


 アイリスも小さく笑った。


 以前なら、胸が締めつけられていたはずだった。


 けれど今は、不思議と悲しくなかった。


 ただ、あまりにも予想どおりだった。


 そしてその日の帰り道、ルシアンが静かに言った。


「アイリス嬢。君は、彼を待つためにここへ来たわけではないのだろう?」


「ええ」


「ならば、次も遠慮なく僕たちを誘ってくれ」


 アイリスは少し驚いた。


 ルシアンは微笑んだ。


「今日の植物園は、とても楽しかったからね」


 その言葉に、アイリスは心から笑った。


「……ありがとうございます」


     *


 植物園から戻った翌日、アイリスのもとへ一冊の薄い図録が届いた。


 差出人はルシアンだった。


『昨日、温室の奥にある白薔薇を見られなかったね。図録だけでもと思って。次に皆で行く機会があれば、今度こそ見に行こう』


 アイリスは頁をめくった。淡い白の花弁が、精緻な版画で描かれている。


「白薔薇をご覧になりたかったのですか?」


 エマに問われ、アイリスは頷いた。


「ええ。でも、途中で散策が終わってしまったから」


「ルシアン様は、そのことも覚えておいでなのですね」


 アイリスは図録を閉じた。


 何かを覚えていてもらえることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。だからといって、それをすぐ恋と呼ぶつもりはない。彼女にはまだ婚約者がいる。


 ただ、次にルシアンと会ったら、図録のお礼を伝えようと思った。


     *


 四度目のグループデートは、湖畔でのピクニックだった。


 今度は十人が集まった。


 その中には、キースの友人である侯爵令息アルベルトもいた。


 彼は以前からキースをかばっていた。


「キースは根が優しい男なんだ。少し不器用なだけで、悪気はないと思うよ」


 そう言って、アイリスにも理解を求めていた。


 アイリスはその言葉を否定しなかった。


 ただ、いつものように招待状を送った。


 キースからは『必ず行く』という返事が届いた。


 当日。


 湖畔には色とりどりの花が咲き、柔らかな風が水面を揺らしていた。


 友人たちは持ち寄った料理を広げ、談笑を楽しんでいた。


 けれど、キースは現れなかった。


 約束の時間から一時間が過ぎた頃、ようやく使いの者がやってきた。


『ミレイが飼っている小鳥が逃げてしまったため、捜索を手伝っている』


 アルベルトは手紙を受け取ると、しばらく黙っていた。


「……小鳥?」


「ええ」


 アイリスは頷いた。


「小鳥が逃げてしまったそうです」


「それで、来ないのか?」


「そのようですわ」


「……小鳥を捜しているから?」


「はい」


 アルベルトは手紙をもう一度読んだ。


 そして、ゆっくりと顔を上げた。


「アイリス嬢」


「はい」


「君は、これまでずっとこんなことを?」


「ええ。何度か」


「何度か、どころじゃないだろう」


 彼は深く息を吐いた。


「……すまなかった」


 アイリスは目を瞬かせた。


「何がでしょう?」


「俺は、キースをかばっていた。あいつは優しいから、仕方がないと思っていたんだ」


 アルベルトは手紙を握りしめた。


「だが、これは違う。優しさじゃない。ただ、君との約束を軽く考えているだけだ」


 アイリスは何も言わなかった。


「俺が間違っていた。君に我慢を求めるべきじゃなかった」


「……ありがとうございます」


 その日、アルベルトはキースに手紙を書いた。


『いい加減にしろ。婚約者を何だと思っている』


 返事は翌日届いた。


『大げさだな。アイリスは理解してくれている』


 アルベルトはその手紙を読んで、机に突っ伏したという。


 そして、初めてキースへの友情に疑問を抱いた。


 彼が守ろうとしていたのは、本当に友人だったのだろうか。


 それとも、自分が信じたい友人の姿だったのだろうか。


     *


 ピクニックのあと、ルシアンとアイリスは湖畔の道を皆より少し遅れて歩いた。


「アルベルト様、ずいぶんお辛そうでしたわ」


「キースのことを信じていたからね。自分が誰かを傷つける側に立っていたと気づくのは、苦しいことだろう」


「私は、アルベルト様まで責めたいわけではないのです」


「知っているよ」


 ルシアンは足元の小石を避けながら、歩幅を緩めた。


「アイリス。君は誰かを罰するために集まりを開いているの?」


「いいえ。せっかくのお休みを、楽しく過ごしたいだけです」


「なら、その気持ちを大切にするといい」


 水面を渡る風が、彼女の帽子のリボンを揺らした。


「あなたは、不思議な方ですわね。何をすべきか、決めてくださらない」


「君がどうしたいかを、僕が決める理由はないからね」


 あまりに自然な返事だったので、アイリスは言葉に詰まった。


 誰かが自分の気持ちを尊重してくれる。そんな当たり前のことが、胸の奥に静かに染み込んでいった。


     *


 五度目のグループデートは、王都の美術館だった。


 参加者は十二人に増えていた。


 アイリスの友人だけではない。


 その兄弟や婚約者、知人たちも加わり、ちょっとした社交の集まりになっていた。


 キースは、今回も遅刻した。


 理由は、ミレイが新しい靴を履いて靴擦れを起こしたから。


「……靴擦れ?」


 エレナが呟いた。


「はい」


「それで、キース様が?」


「お薬を買いに行かれたそうです」


 エレナは天を仰いだ。


「……もう、何も言いたくないわ」


 ルシアンが苦笑した。


「医師でも薬師でもないのに、ずいぶん忙しい男だね」


 アルベルトは額を押さえた。


「頼むから、誰かあいつを止めてくれ……」


 アイリスは穏やかに微笑んだ。


「皆様、展示室へ参りましょう」


 美術館では、ちょうど王室所蔵の絵画展が開かれていた。


 貴族たちが多く訪れており、アイリスたちの集まりも自然と注目を集めた。


「アイリス嬢、今日もキース殿はいないのですか?」


 ある伯爵夫人が尋ねた。


「ええ。ご事情があるそうです」


「まあ、また?」


「幼馴染のご令嬢が靴擦れをなさったそうで」


 伯爵夫人は固まった。


「……靴擦れ?」


「はい」


「それで、婚約者との約束を?」


「ええ」


 伯爵夫人は扇を閉じた。


「……そう」


 その一言には、言葉にしきれない呆れが込められていた。


 翌週、社交界では奇妙な噂が広がり始めた。


『ヴァレンタイン伯爵家のご令息は、婚約者より幼馴染の靴擦れを優先するらしい』


『先日は小鳥を捜していたそうよ』


『その前は蜂ですって』


『まあ。何のお仕事をなさっている方なの?』


 誰かが悪意を込めて広めた噂ではなかった。


 ただ、実際に起きたことが、人々の口から口へと伝わっていっただけだった。


 そして、その事実こそが、何よりもキースの評判を傷つけていた。


 アイリスは、その噂を聞いても何も言わなかった。


 ただ、次の招待状を書いた。


     *


 美術館で見た風景画の話がきっかけとなり、アイリスはルシアンと何通か手紙を交わすようになった。


 とはいえ、二人きりで会う約束はしない。手紙も、絵の作者や展示会の感想ばかりだった。


『あの絵の空は、雨が上がった直後なのだそうです』


 アイリスがそう書くと、翌週には返事が届いた。


『だから光があんなに柔らかいのだね。君が気に入った理由がわかった気がする』


 誰かに自分の見たものを話し、その人が同じものを見ようとしてくれる。それだけで、世界が少し広くなったように感じた。


 ある日、エマが手紙を片付けながら尋ねた。


「ルシアン様からのお便りを、ずいぶん楽しみにしておいでですね」


「そうかしら」


「ええ。お返事を読むとき、お顔が明るくなります」


 アイリスは否定しようとして、言葉を飲み込んだ。


 それが何を意味するのか、まだ考えたくなかった。今は、友人との手紙のやり取りを喜ぶだけで十分だった。


     *


 六度目のグループデートは、音楽会だった。


 今度は、アイリスの父である侯爵も招待されていた。


 キースの父、ヴァレンタイン伯爵も同席する予定だった。


 両家の親睦を深めるための、正式な集まりである。


 さすがに今回は、キースも来るだろう。


 誰もがそう思っていた。


 だが。


 開演の三十分前。


 キースから使いが届いた。


『ミレイが雷の音を怖がっているため、少し遅れる』


 その日は、確かに朝から曇っていた。


 しかし、雷など鳴っていなかった。


 侯爵は手紙を読んだ。


 伯爵も読んだ。


 そして、二人は顔を見合わせた。


「……ヴァレンタイン伯爵」


 侯爵が静かに口を開いた。


「ご子息は、いつもこのような調子なのですかな?」


 伯爵の顔が赤くなった。


「い、いえ! 決して、そのような……」


「そうですか」


 侯爵は頷いた。


「娘からは、何度も約束を破られていると聞いておりましたが」


「それは……」


「本日も、幼馴染のご令嬢が雷を怖がっているから遅れる、と」


 侯爵は窓の外を見た。


 薄曇りの空が広がっている。


「……雷は、鳴っておりませんな」


 伯爵は何も言えなかった。


 やがて、侯爵は静かに続けた。


「私は、娘に我慢を強いるつもりはありません」


「侯爵閣下……」


「婚約については、改めてお話しする必要がありそうです」


 伯爵の顔から血の気が引いた。


 その日の音楽会で、キースは最後まで姿を見せなかった。


 そして翌日。


 ヴァレンタイン伯爵家では、激しい叱責の声が響いたという。


     *


「おまえは何を考えている!」


 伯爵は机を叩いた。


 キースは不満そうに眉をひそめた。


「父上、そんなに怒らなくても……」


「怒らずにいられるか! 侯爵閣下の前で、何という恥をかかせてくれた!」


「ミレイが怖がっていたんです。放っておけなかったんですよ」


「雷など鳴っておらん!」


「でも、鳴るかもしれないと不安がっていたんです!」


 伯爵は絶句した。


 そして、深く息を吸い込んだ。


「……キース」


「はい」


「おまえは、侯爵家との婚約がどれほど重要なものか、理解しているのか?」


「もちろんです」


「ならば、なぜ何度も約束を破る!」


「アイリスは理解してくれています」


 キースは当然のように答えた。


「彼女は優しい女性ですから」


 伯爵は、しばらく息子を見つめていた。


 やがて、力なく椅子に腰を下ろした。


「……おまえは、本当に何もわかっておらんのだな」


「父上?」


「侯爵閣下は、婚約の見直しを考えておられる」


 キースの表情が変わった。


「……え?」


「当然だろう。これだけ娘を蔑ろにされて、黙っている親がどこにいる」


「そんな! 少し遅刻しただけじゃないですか!」


「少し?」


 伯爵の声が低くなった。


「おまえが欠席した理由を、私はすべて聞いたぞ」


 伯爵は指を折り始めた。


「馬車の車輪。頭痛。蜂。小鳥。靴擦れ。そして雷」


 ひとつ数えるたびに、声が険しくなっていく。


「これが、侯爵令嬢との約束を破る理由か!」


 キースは口を閉じた。


「しかも、すべて怪我も病気もしていない幼馴染のためだというではないか!」


「ミレイは身体が弱いんです!」


「ならば医師を呼べ!」


 伯爵の怒声が響いた。


「おまえは医師なのか! 薬師なのか! それとも男爵家の使用人なのか!」


 キースは何も言えなかった。


「おまえは伯爵家の跡取りだ! 約束ひとつ守れぬ男に、誰が大切な仕事を任せる!」


 その言葉に、キースはようやく顔を強張らせた。


「……仕事?」


「そうだ。すでにいくつかの家から、今後の取引について懸念を示されている」


「なっ……!」


「約束を軽んじる男と、安心して仕事ができると思うか?」


 キースの顔から血の気が引いた。


 伯爵は疲れ切った声で言った。


「アイリス嬢が婚約解消を申し出る前に、おまえ自身が信用を失っているのだ」


     *


 音楽会の翌日、ルシアンから短い手紙が届いた。


『昨夜の演奏は素晴らしかった。ただ、君が楽しみにしていた曲のあと、少し悲しそうな顔をしていたのが気になった。返事は必要ない。どうか無理をしないで』


 アイリスは手紙を読み終えても、しばらく動けなかった。


 音楽会では、キースの父が何度も頭を下げていた。自分のために大人たちが気まずい思いをするのは、やはり苦しかった。


 けれど、それを誰にも話さなかったはずだ。


「よく見ていらっしゃるのね……」


 最初の昼食会でも、そう思った。あのときはブリオッシュのことだった。今度は、自分でも隠していたつもりの表情だった。


 アイリスは便箋を取り出した。


『お気遣いをありがとうございます。あの曲は私も大好きです。次に聴くときは、もっと楽しい気持ちで聴けると思います』


 そこまで書いて、少し迷った末に一行を加えた。


『そのとき、また皆様とご一緒できたら嬉しいです』


 今は、それが自分にできる精一杯の返事だった。


     *


 七度目のグループデート。


 今度は、王都の庭園で開かれる茶会だった。


 参加者は十五人。


 もはや、ちょっとした社交行事である。


 キースにも招待状は送ってあった。


 だが、返事はなかった。


「……アイリス」


 エレナが心配そうに声をかけた。


「もう、やめたほうがいいのではなくて?」


「何を?」


「キース様をお誘いすることよ」


 アイリスは首を傾げた。


「どうして?」


「だって、どうせいらっしゃらないでしょう?」


 アルベルトも頷いた。


「正直、俺もそう思う。あいつを招待する意味があるのか?」


 ルシアンは静かに紅茶を飲んでいた。


 アイリスは少し考えてから、微笑んだ。


「だって、婚約者ですもの」


 エレナが目を見開いた。


「……まだ、そうおっしゃるの?」


「正式に婚約が解消されるまでは、そうでしょう?」


「それは、そうだけれど……」


「ですから、きちんとお誘いしておりますの」


 アイリスは穏やかに続けた。


「来るかどうかは、キース様ご自身がお決めになることですわ」


 その言葉に、友人たちは顔を見合わせた。


 やがて、アルベルトが小さく呟いた。


「……恐ろしいな」


「何がですの?」


「いや、何でもない」


 彼は首を振った。


 アイリスは何もしていない。


 ただ、婚約者を招待しているだけだ。


 約束を破るのも、欠席するのも、言い訳をするのも、すべてキース自身。


 そして、その様子を見ているのは、社交界の人々だった。


 誰かが彼を貶める必要など、なかった。


 彼は自分の行動だけで、十分に信用を失っていたのだから。


 その日も、キースは来なかった。


 理由は、ミレイが庭で蝶を追いかけて転びそうになったから。


 エレナは手紙を読んで、しばらく固まった。


 そして、とうとう声を上げた。


「……もう、嫌!」


 周囲が驚いて振り向く。


「蜂! 小鳥! 靴擦れ! 雷! 今度は蝶ですって!?」


 エレナは扇を握りしめた。


「いったい何なの、あの方たちは!」


 アルベルトが額を押さえた。


「……俺にも、もうわからん」


 ルシアンは苦笑した。


「次は花の棘かな」


「やめてくださいませ!」


 エレナが叫んだ。


「本当にありそうで怖いですわ!」


 その場にいた全員が笑い出した。


 アイリスも、思わず笑ってしまった。


 以前なら、泣いていたはずだった。


 けれど今は、ただ呆れるばかりだった。


 そして、その日の帰り道。


 エレナは、アイリスの手を握った。


「……ねえ、アイリス」


「何かしら?」


「もう、無理に婚約を続けなくてもいいのよ」


 アイリスは目を瞬かせた。


 エレナは真剣な顔だった。


「あなたは十分に頑張ったわ。もう、あの方を待たなくていいの」


 アイリスは、しばらく黙っていた。


 そして、静かに微笑んだ。


「……ありがとう、エレナ」


 その言葉は、胸の奥に温かく残った。


     *


 庭園茶会の帰り、アイリスは友人たちと次の集まりについて話していた。


「最近、あなたのお誘いが楽しみなのよ」


 エレナが言う。


「私もですわ。最初は気晴らしのつもりだったのに、こんなに賑やかになるなんて」


「あなたが皆を楽しませているからよ」


 アイリスは照れたように笑った。


 少し離れたところで、その会話を聞いていたルシアンが近づいてきた。


「次の集まりでは、僕も何か手伝わせてほしい。招待客が増えて、君の負担も大きいだろう」


「では、お茶菓子のお店を一軒、教えていただけますか?」


「一軒でいいのかい。候補なら三軒ある」


「まあ、そんなに?」


「君が甘いものを好きだと知ってから、つい目につくようになったんだ」


 エレナがわざと咳払いをした。


 ルシアンは少しだけ頬を赤くしたが、言葉を取り消さなかった。


 アイリスは胸の奥が温かくなるのを感じた。けれど、その気持ちを表に出すことはしなかった。自分の婚約が続いている以上、越えてはいけない線がある。


 ルシアンも、それを承知しているようだった。


     *


 八度目のグループデートは、王宮主催の園遊会だった。


 もちろん、正式な招待を受けた貴族だけが参加できる行事である。


 アイリスは友人たちと連れ立って出席することにした。


 キースも招待客の一人だった。


 そして今回ばかりは、彼も姿を現した。


「アイリス!」


 キースが駆け寄ってきた。


 顔には焦りが浮かんでいる。


「君、最近どういうつもりなんだ?」


「何のお話でしょう?」


「毎回毎回、大勢の人間を誘って! 俺が行けないことを、皆に知られるようにしているじゃないか!」


 アイリスは目を瞬かせた。


「まあ」


「君のせいで、俺の評判が悪くなっているんだ!」


 その言葉に、近くにいたエレナが振り向いた。


「……アイリスのせい?」


 キースは顔をしかめた。


「そうだ! あいつが余計なことをしなければ、こんなことには……!」


「キース様」


 アイリスは静かに言った。


「私は、あなたをお誘いしただけですわ」


「だから、それが……!」


「お約束を破られたのは、どなたですか?」


 キースが言葉に詰まった。


「遅刻なさったのは?」


「……俺だ」


「欠席なさったのは?」


「……俺だが」


「理由をお伝えになったのは?」


「俺だ!」


 キースは苛立ったように答えた。


 アイリスは微笑んだ。


「では、私が何をしたというのでしょう?」


 沈黙が落ちた。


 エレナが扇で口元を隠した。


 アルベルトは遠くを見つめていた。


 ルシアンは、静かに言った。


「キース。君は、まだわからないのかい?」


「ルシアン様……」


「アイリス嬢が君の評判を落としたのではない。君が自分で落としたんだ」


 キースの顔が強張った。


「そんな……」


「君が一度や二度、やむを得ない事情で欠席しただけなら、誰も何も言わなかっただろう」


 ルシアンは続けた。


「けれど、何度も何度も同じことを繰り返した。しかも、その理由が蜂や小鳥や靴擦れだ」


 周囲から、小さな笑い声が漏れた。


 キースの顔が赤くなる。


「笑うな!」


「笑われたくないのなら、笑われるようなことをしなければよかったんだよ」


 アルベルトが、低い声で言った。


「俺は何度も忠告したはずだ」


「アルベルト……」


「おまえは、アイリス嬢がいつまでも待っていてくれると思っていたんだろう?」


 キースは答えなかった。


「だが、周りの人間は見ている。婚約者をどう扱うかで、その男の人柄がわかるんだ」


 キースの肩が震えた。


 そのとき、近くを通りかかった年配の侯爵夫人が足を止めた。


「あら、ヴァレンタイン家のご令息」


「……はい」


「あなた、今日はいらっしゃるのね」


 その一言に、キースの顔が引きつった。


「え、ええ……」


「よろしかったわね。幼馴染のご令嬢は、お元気なのかしら?」


「……はい」


「そう。蜂も小鳥も蝶も、今日は問題なかったのね」


 侯爵夫人はにっこり微笑んだ。


「それは何よりですわ」


 そして、何事もなかったように立ち去っていった。


 キースは、その場に立ち尽くした。


 周囲の人々は、もう彼を尊敬の眼差しで見ていなかった。


 呆れと、軽蔑と、ほんの少しの嘲笑。


 それが、今の彼に向けられる視線だった。


 アイリスは、そんな彼を静かに見つめていた。


 かつては、彼が傷つくことを恐れていた。


 けれど今は、彼自身が招いた結果を、代わりに背負ってあげるつもりはなかった。


     *


 園遊会の翌週。


 ヴァレンタイン伯爵家では、重要な取引がひとつ白紙になった。


 相手は、王都でも有力な商会を抱える侯爵家だった。


 理由は、単純だった。


『ご令息の約束に対する姿勢を拝見する限り、長期的な信頼関係を築くことは難しいと判断いたしました』


 それだけだった。


 さらに、キースが参加する予定だった領地経営の研修からも、推薦が取り下げられた。


 主催者は、こう述べたという。


『公務を私事より優先できない方に、領民の生活を預けるわけにはまいりません』


 伯爵は頭を抱えた。


 キースは、ようやく事態の深刻さを理解した。


 婚約は、まだ解消されていない。


 アイリスは、正式な破棄を申し出てもいない。


 それなのに。


 彼の信用は、すでに失われていた。


 しかも、それを取り戻す方法がわからなかった。


 誰かに陥れられたのなら、反論できた。


 嘘を広められたのなら、訂正できた。


 けれど、広まっているのはすべて事実だった。


 蜂。


 小鳥。


 靴擦れ。


 雷。


 蝶。


 それらのために、婚約者との約束を破った。


 ただ、それだけのことだった。


 そして、その「ただ、それだけ」が、貴族社会では致命的だった。


 キースは初めて、アイリスに手紙を書いた。


『君に会って、きちんと話がしたい』


 返事は、翌日届いた。


『次のお茶会に、ぜひお越しくださいませ』


 いつもと同じ、丁寧な招待状だった。


 キースは、それを見つめていた。


 今度こそ、必ず行こう。


 そう決めた。


     *


 園遊会の数日後、ルシアンはアイリスの父である侯爵に面会を申し込んだ。


 アイリスがそのことを知ったのは、父が夕食の席で何気なく口にしたからだった。


「ルシアン殿は、礼儀をわきまえた青年だな」


「何のお話ですか、お父様」


「おまえの婚約について、軽々しい噂を立てるつもりはないと、わざわざ言いに来た。今の状況で自分が近づけば、おまえの立場が悪くなるかもしれない、と」


 アイリスはフォークを置いた。


「……それだけを?」


「それだけだ。おまえが自分で決めるべきことだとも言っていたよ」


 侯爵は娘の顔を見て、声を和らげた。


「アイリス。おまえがどうするにせよ、父はおまえの味方だ」


「ありがとうございます」


 その夜、アイリスは窓辺に立ち、夜空を見上げた。


 ルシアンは何も求めてこない。だからこそ、彼の親切に甘えて曖昧なままにしてはいけないと思った。


 キースとの関係は、自分の言葉で終わらせる。


 その先のことは、それから考えればいい。


     *


 九度目のグループデート。


 アイリスは、いつもの高級サロンにいた。


 参加者は、とうとう二十人を超えていた。


 友人たちがそれぞれ知人を誘い、今では定期的な交流会になっていたのだ。


 キースにも招待状を送ってある。


 彼からは『必ず行く』という返事が届いていた。


「……アイリス」


 エレナが、真剣な顔で声をかけた。


「もう、本当にやめたほうがいいわ」


「お茶会を?」


「違うわ。キース様をお誘いすることよ」


 アイリスは首を傾げた。


「どうして?」


「だって、もう十分でしょう?」


 エレナは深く息を吐いた。


「誰も、あの方を信用していないわ。社交界では、約束を守れない方として有名になってしまったもの」


 アルベルトも頷いた。


「正直、俺もこれ以上は見ていられない。あいつが何を言っても、誰もまともに受け取らなくなっている」


 ルシアンが静かに言った。


「アイリス嬢。君はもう、十分に自分の意思を示したと思うよ」


 アイリスは、しばらく黙っていた。


 そして、微笑んだ。


「……そうですわね」


 友人たちが顔を上げる。


「私も、そろそろ終わりにしようと思っておりましたの」


 エレナがほっと息を吐いた。


「よかった……」


「ただ、最後にひとつだけ、確かめたいことがありますの」


「確かめたいこと?」


「ええ」


 アイリスは、窓の外を見た。


「キース様が、私との約束を守るお気持ちがあるのかどうか」


 そのときだった。


「アイリス!」


 サロンの入口から、キースが現れた。


 息を切らし、顔色を悪くしている。


 アイリスは静かに時計を見た。


 約束の時間から、一時間半が過ぎていた。


「……遅くなった」


 キースは小さな声で言った。


「ミレイが……」


 そこで、言葉を止めた。


 周囲の視線に気づいたのだ。


 誰も、驚いていなかった。


 誰も、心配していなかった。


 ただ、呆れたように彼を見ていた。


「……今度は何だ?」


 アルベルトが尋ねた。


「蜂か? 小鳥か? それとも蝶か?」


「違う!」


 キースは叫んだ。


「ミレイが……その……」


「どうなさったの?」


 アイリスが穏やかに尋ねた。


 キースは唇を噛んだ。


「……お気に入りのリボンをなくしたんだ」


 沈黙。


 長い、長い沈黙だった。


 エレナが、ゆっくりと扇を閉じた。


「……リボン?」


「……ああ」


「リボンを、なくした?」


「……そうだ」


「それで?」


「……一緒に捜していた」


 エレナは、しばらくキースを見つめていた。


 そして、静かに言った。


「……もう、何も申し上げることはございませんわ」


 アルベルトは両手で顔を覆った。


 ルシアンは目を閉じた。


 誰も笑わなかった。


 あまりにも呆れ果てて、笑う気にすらなれなかったのだ。


 アイリスは、静かに立ち上がった。


「キース様」


「……アイリス」


「お疲れ様でした」


 その声は、驚くほど穏やかだった。


「リボンは、見つかりましたの?」


「……いや」


「そうですか」


 アイリスは頷いた。


「では、まだお捜しになりたいのでは?」


「違う! 今日は君に会いに来たんだ!」


「まあ」


 アイリスは微笑んだ。


「一時間半も遅れて?」


 キースは何も言えなかった。


「キース様。私は、もう怒っておりません」


「……本当か?」


「ええ」


 アイリスは静かに続けた。


「悲しくもありません。寂しくもありません」


 キースの顔に、わずかな希望が浮かんだ。


「だったら……」


「ただ、あなたに何も期待していないだけです」


 その言葉に、キースの表情が凍りついた。


「……何?」


「以前は、あなたが来てくださると信じておりました。次こそは約束を守ってくださると、何度も期待しておりました」


 アイリスは、テーブルの上の紅茶を見つめた。


「けれど、もう違います」


 湯気が立っている。


 まだ温かい紅茶だった。


「あなたが来なくても、私は楽しく過ごせます。あなたが約束を破っても、私の一日は台無しになりません」


「アイリス……」


「それに、もう皆様もご存じですもの」


 アイリスは周囲を見渡した。


「あなたが、どのような方なのか」


 キースの顔が青ざめた。


 アイリスは続けた。


「私は、あなたの悪口を申し上げたことはありません。ただ、皆様をお誘いして、楽しい時間を過ごしていただけです」


「……でも、君のせいで」


「いいえ」


 アイリスは静かに首を振った。


「あなたの信用を失わせたのは、あなたご自身です」


 キースは、何も言えなかった。


「私は、婚約を破棄しなくてもよかったのです」


 その言葉に、周囲が静まり返った。


「なぜなら、あなたは私との婚約を続けたまま、ご自分で信用を失ってしまわれたのですから」


 キースの膝が震えた。


「……そんな」


「誰かに嘘をつかれたわけでも、陥れられたわけでもありません」


 アイリスは微笑んだ。


「ただ、あなたが選んだこと。その積み重ねですわ」


 キースは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。


 顔を覆い、肩を震わせる。


 けれど、誰も慰めなかった。


 かつて彼をかばっていたアルベルトでさえ、ただ黙って見つめていた。


 アイリスは、左手の薬指に触れた。


 そこには、婚約の日に贈られたダイヤモンドの指輪が輝いている。


 幼い頃、キースはこの指輪を差し出して、照れくさそうに笑っていた。


『これからは、ずっと一緒だ』


 あの言葉を、確かに信じていた。


 けれど、今はもう。


 アイリスは指輪を外した。


 長い年月、そこにあったものだから、少しだけ外しにくかった。


 ゆっくりと引き抜くと、薬指には白い跡が残った。


 思っていたよりも、指輪は冷たかった。


 アイリスはそれを、白いテーブルクロスの上に置いた。


 カツリ。


 小さな音が響いた。


「……アイリス?」


 キースが顔を上げた。


「何を……」


「正式な婚約解消については、両家の当主にお任せいたします」


 アイリスは穏やかに告げた。


「ですが、私の気持ちはもう決まっております」


「待ってくれ!」


 キースが立ち上がった。


「俺が悪かった! もうミレイには会わない! これからは君を優先する!」


 アイリスは静かに微笑んだ。


「キース様」


「何だ!」


「あなたは、何度も同じことをおっしゃいましたね」


「今度こそ本当だ!」


「ええ。そうかもしれません」


 アイリスは頷いた。


「けれど、私はもう信じられません」


 キースの顔が歪んだ。


「約束を守れない方に、生涯を共にする誓いなど守れるはずがありませんもの」


 誰も口を挟まなかった。


 アイリスは、友人たちへ深く礼をした。


「皆様。本日はお付き合いいただき、ありがとうございました」


 エレナが立ち上がった。


「アイリス……」


「これからも、ぜひお茶会にいらしてくださいませ」


 アイリスは微笑んだ。


「ただし、次からはグループデートではなく、普通のお茶会として」


 その言葉に、エレナが泣き笑いのような顔になった。


「……ええ。もちろんよ」


 ルシアンも頷いた。


「喜んで参加するよ」


 アルベルトは深く息を吐いた。


「……本当に、すまなかった」


「あなたが謝ることではありませんわ」


 アイリスは穏やかに答えた。


「皆様には、感謝しております」


 そして、最後にキースを見た。


 彼は、テーブルの上の指輪を見つめていた。


 何かを言おうとして、けれど言葉が出てこない様子だった。


 アイリスは静かに告げた。


「どうぞ、お元気で」


     *


 サロンの重厚な扉を押し開けると、初夏の光が眩しかった。


 アイリスはゆっくりと息を吸い込んだ。


 薔薇の香りを含んだ風が、頬を撫でていく。


 左手の薬指には、指輪の跡が残っていた。


 長い間そこにあったものが消えたのだから、当然だ。


 けれど、不思議と寂しくはなかった。


 むしろ、肩の荷が下りたように感じられた。


「お嬢様!」


 迎えの馬車の前で待っていたエマが、駆け寄ってきた。


「いかがでしたか?」


「……終わったわ」


 アイリスは微笑んだ。


「ようやく、すべて終わったの」


 エマは、ほっとしたように息を吐いた。


「本当に、お疲れ様でございました」


「ありがとう」


 アイリスは馬車へ向かいかけて、ふと足を止めた。


 通りの向こうに、小さなカフェが見える。


 窓辺には色とりどりの花が飾られ、開いた扉から焼き菓子の甘い香りが漂っていた。


「ねえ、エマ」


「はい、お嬢様」


「少し、寄り道をしてもよいかしら?」


「もちろんでございます。どちらへ?」


 アイリスはカフェを指さした。


「あちらで紅茶をいただきたいの」


「紅茶、でございますか?」


「ええ。あたたかくて、本当に美味しい紅茶を」


 エマが嬉しそうに笑った。


「でしたら、私もご一緒してよろしいでしょうか?」


「もちろんよ」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 サロンの方から、誰かがアイリスの名を呼ぶ声が聞こえた気がした。


 けれど、振り返らなかった。


 もう、誰かの声に急いで応える必要はない。


 誰かの都合に合わせて、自分の時間を差し出す必要もない。


 これからは、自分の好きなものを選べばよいのだ。


 好きなドレスを着て。


 好きな場所へ出かけて。


 好きな人たちと、笑い合って。


 そうしていつか、また誰かを愛する日が来るのかもしれない。


 けれど、今はまだ、その必要もない。


「エマ。今日はスコーンもいただきましょう」


「まあ。お昼を召し上がったばかりでは?」


「ふふ。甘いものは別腹よ」


 アイリスは軽やかに笑った。


 カフェの扉を開けると、焼きたてのスコーンと紅茶の香りが、二人を優しく迎え入れた。


 窓際の席に腰を下ろし、メニューを開く。


 アールグレイに、ダージリン。花の香りを移した季節限定のブレンドティーもある。


 どれにしようかと迷う時間さえ、今は楽しかった。


「お嬢様、何になさいますか?」


「そうね……」


 アイリスは少し考えてから、微笑んだ。


「アールグレイを。お砂糖は、一匙だけでいいわ」


 やがて運ばれてきた紅茶は、白磁のカップの中で美しい琥珀色に輝いていた。


 立ち上る湯気から、ベルガモットの爽やかな香りが漂う。


 アイリスはそっとカップを持ち上げた。


 温かい。


 指先から、じんわりと熱が伝わってくる。


 一口飲むと、柔らかな甘みが舌の上に広がった。


「……美味しい」


 思わず、声がこぼれた。


 エマが嬉しそうに微笑む。


「よろしゅうございました」


 アイリスは窓の外を眺めた。


 街路樹の葉が陽光を浴びて揺れている。


 道行く人々の笑い声が、遠くから聞こえてきた。


 指輪のない左手は、まだ少しだけ頼りなく感じられる。


 けれど、その手で包み込むカップは、確かに温かかった。


 アイリスは、もう一口紅茶を飲んだ。


 今度は、冷めてしまう前に。


 誰かを待つためではなく。


 自分自身の幸せを、味わうために。


 甘い紅茶は、最後の一滴まで温かかった。


     *


 婚約解消の手続きは、両家の当主の間で滞りなく進められた。


 キースから謝罪の手紙が一通届いたが、アイリスは返事をしなかった。彼が何を後悔し、これからどう生きるのかは、もう彼自身が考えることだった。


 初夏が過ぎ、庭の薔薇が二度目の花をつけるころ、アイリスは友人たちとの集まりを続けていた。


 今度は誰かの欠席を確かめるためではない。新しくできた焼き菓子の店を訪ねたり、気に入った絵について話したりする、ただそれだけの時間だった。


 ルシアンも変わらず参加していた。


 ある午後、皆が帰ったあと、彼が声をかけてきた。


「アイリス。ひとつ、お願いがあるんだ」


「何でしょう?」


「今度、二人で植物園へ行かないかい。あの白薔薇を、まだ一緒に見ていないだろう」


 アイリスは目を見開いた。


 婚約していたころ、ルシアンは決して二人きりの外出を求めなかった。だからこそ、その誘いが以前とは違う意味を持つことがわかった。


「……はい。私も、見に行きたいです」


 彼の顔が、ゆっくりとほころんだ。


「では、来週の水曜日。午後二時に迎えに行くよ」


「楽しみにしています」


 約束の日、ルシアンは二時より少し前に迎えに来た。


 馬車に乗り込むとき、アイリスは思わず笑ってしまった。


「どうしたの?」


「いいえ。約束の時間にお迎えが来ることが、こんなに嬉しいなんて」


 ルシアンは笑わなかった。


「待たせなくてよかった」


「……ええ」


 その返事だけで、胸がいっぱいになった。


 植物園の温室には、あの日見られなかった白薔薇が咲いていた。


 花の前で足を止めると、ルシアンが言った。


「ずっと、君に伝えたかったことがある」


 アイリスは彼を見上げた。


「君と過ごす時間が好きだ。君が友人たちと笑っているところも、好きな絵の話をするときも、誰かの気持ちを大切にしようとするところも」


 ルシアンは一度息を整えた。


「君が婚約していた間は、言うべきではないと思っていた。でも今は、きちんと伝えたい。アイリス、僕は君が好きだ」


 花の香りが、ふわりと漂った。


「すぐに答えを求めるつもりはないよ。君が自分の時間を取り戻したばかりだということも、わかっている」


 アイリスはしばらく黙っていた。


 キースとの日々を忘れたわけではない。けれど、忘れなければ次へ進めないとも思わなかった。


「私も、ルシアン様と過ごす時間が好きです」


 彼の瞳が揺れた。


「お手紙が届くのを楽しみにしていました。お会いすると、次にお話ししたいことが増えるんです。……それが恋だと気づいたのは、少し前ですけれど」


「アイリス……」


「でも、ひとつお願いがあります」


「何でも聞くよ」


「私が自分で選ぶ時間も、友人たちと過ごす時間も、これからも大切にしていたいのです」


「もちろんだよ」


 ルシアンは迷いなく答えた。


「僕も君と一緒にいたいけれど、君の世界を狭くしたいわけじゃない。むしろ、二人で知らないものを見つけていけたら嬉しい」


 アイリスは微笑んだ。


「では……これから、よろしくお願いいたします」


「こちらこそ」


 差し出された手を、今度は自分から取った。


     *


 秋の終わり、両家の了承を得て、アイリスとルシアンの婚約が決まった。


 エレナは知らせを聞くなり、嬉しそうに手を叩いた。


「ようやくね! でも、あなたが自分で決めるまで、何も言わないつもりだったのよ」


「本当かしら?」


「本当よ。……少なくとも、半分くらいは」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 婚約の記念に、ルシアンはアイリスを最初の高級サロンへ誘った。


 窓辺には季節の花が飾られ、焼き菓子の甘い香りが漂っている。


 かつて、空いた椅子を見つめていた場所だった。


 けれど今、その椅子にはルシアンが座っている。


「アイリス。今日は君に選んでほしいものがあるんだ」


 彼が取り出したのは、小さな宝石箱だった。


 中には白薔薇を思わせる意匠の指輪が収められている。


「気に入らなければ、別のものを探そう。君が毎日身につけるものだから」


「……とても、素敵です」


 アイリスは指輪を見つめた。


 以前の指輪を外したとき、自分の指が頼りなく感じられたことを思い出す。けれど、あの指輪を外したからこそ、自分で選べるようになったのだ。


「ルシアン様。私、あの日に飲んだ紅茶のことを、今でも覚えているんです」


「あの日?」


「婚約を解消したあと、エマと立ち寄ったカフェでいただいた紅茶です。誰かを待たずに、自分のために選んだ一杯でした」


 ルシアンは静かに頷いた。


「大切な一杯だったんだね」


「ええ。だから、今日の紅茶も、自分で選びたいですわ」


「もちろん」


 アイリスはメニューを開いた。


「アールグレイを。お砂糖は一匙だけ」


「僕も同じものにしようかな」


「まあ。ご自分のお好きなものを選んでくださいませ」


「そうだね。では、僕はダージリンにしよう」


 二人は笑った。


 やがて運ばれてきた紅茶から、白い湯気が立ち上る。


 ルシアンは指輪の箱を閉じずに、アイリスの返事を待っていた。


 アイリスは左手を差し出した。


「これからも、どうぞよろしくお願いいたします」


「……喜んで」


 彼は彼女の指に、そっと指輪を通した。


 窓の外では、友人たちが待ち合わせ場所へ向かう姿が見えた。今日はこのあと、皆で新しい菓子店に行く約束をしている。


「そろそろ行かなくては」とアイリスが言うと、ルシアンは時計を見た。


「まだ少し時間があるよ。せっかくの紅茶を、ゆっくり飲もう」


「そうですわね」


 アイリスはカップを両手で包んだ。


 誰かと一緒にいることも、一人で楽しむことも、どちらも自分で選べる。


 そのことが嬉しかった。


 向かいの席で、ルシアンが微笑んでいる。


 アイリスは温かな紅茶を一口飲んだ。


 甘い紅茶は、今日も最後の一滴まで温かかった。



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