霧の祈り
掲載日:2025/10/28
早朝、玄関を出ると、世界がまるごと夢に包まれたようだった。真っ白な霧がゆっくりと流れ、足元の靴は霞んで見えた。まるで雲の上を歩いているようだ。建物も道も輪郭を失い、鳥の声だけが遠くでかすかに響いていた。私はしばらく立ち尽くした。戸惑いと好奇心が胸の中で静かに交差する。一歩を踏み出すと、霧がわずかに揺れ、世界がひと息ついたように見えた。道沿いの電柱やお店の壁にそっと手を触れるたび、冷たい感触が現実を確かめさせた。「これは夢じゃない」と呟いた瞬間、鳥肌が立った。吸い込む息が胸の奥まで染みわたり、心の奥の痛みが少しずつ薄れていく。やがて、白の向こうに、鳥居の影が浮かび上がった。近づくと、湿った木の香りがした。狛犬の顔に手を添え、石のざらつきを確かめる。薄明かりの中で賽銭箱に五円玉を落とすと、カンカラカン、という澄んだ音が霧のなかに溶けた。私は目を閉じ、祈る。「この霧の中に、言葉の残響も、痛みも、溶けていきますように」瞼の裏で光が瞬いた。目を開けると、本殿が朝日に濡れて輝いていた。霧はゆっくりと晴れていき、世界が輪郭を取り戻していく。けれど、私の心だけは――まだ霧の中にあった。




