記憶の中の幼い私と、セピア色と翡翠とルビー
いつも有難うございます
よろしくお願いします
※ 武頼庵(藤谷K介)様主催『24夏のエッセイ祭り企画』参加作品です。
※ クリームソーダ祭り参加作品になります。
私には、弟と姉がいる。
弟は産まれた時から身体が弱く、小さい頃は入退院を繰り返していた。
母は、私が幼稚園、姉が小学校に行っている間に電車とバスを乗り継ぎ、弟が入院している病院に通っていた。
さぞ大変だったと思う。
けれど私は幼かったこともあり、母の大変な時を覚えていない。
父は団塊世代のサラリーマン。平日はほとんど家におらず、夜遅くまで働いていた。接待という名の飲み会だったかもしれない。
今の企業はそんな事ないと思うが、当時は所属する部署によってお中元やお歳暮が個人宅に山のように届いた。父宛てに届いたお届け物は、部屋の一角を埋め尽くす程だった。私は、何かが届くたびに「それなぁに?」と聞いていた。
ほとんどがお酒やビールだったが、ごくたまにお菓子が届く。お菓子だった時はとても嬉しかった。
毎年そういうものかと思っていたのだが、ある年からお中元やお歳暮がピタリと届かなくなった。
母に「今年はこないの?」と聞くと「うん。ない。あれずいぶん助かったのになぁ」と、父の部署が変わったことを誰よりもがっかりしていた。
そんな多忙な父も、日曜日には車で母を病院まで送って行った。
私と姉も一緒に病院まで行く。
弟が入院している子ども病院まではバイパスを使って30分ほど。
小学生以下の幼い子どもは病院の中に入れなかったため、小学生だった姉は中に入れたが、私は入ることが出来なかった。私は病院の中に入れた姉の事がとても羨ましかった。
その羨ましさは、弟に会えるということよりも病院の中を見てみたいという好奇心から。入り口から時折見える看護婦さん。見慣れない車椅子などが子どもだった私の好奇心を煽った。
そしてお見舞いから戻ってきた姉に、弟の様子はどうだったか何度も聞いた。
姉も子どもだったので「うん、いたよ」とか「おもちゃがあったよ」くらいしか返事はなかった。
姉も私も中に入らなかった時に、母が弟を抱っこして一階廊下まで来てくれたのを、窓の外から見た覚えがある。
外から見る窓は高さがあり、父に抱っこしてもらってやっと見えるくらい。
感染防止のために閉まった窓。
父は私と姉を何度も交互に抱き上げた。
窓越しに見える弟と母。
私は何度も弟の名前を呼びながら手を振った。
母が病院に居る間、父は病院の裏手にある喫茶店に私たちを連れて行った。父は母が来るまで娘2人とそこで時間を潰していた。
今と違い携帯などない時代。
普段長く子どもと接していない父は、母がいない時間をどうして良いかわからなかったと思う。
子ども連れにはそぐわない、古くセピア色の喫茶店。
艶のある焦茶色の格子の入った窓辺の席に、私と姉が父と向かい合い座る。
テーブルの上にはクリームソーダ。
クリームソーダは緑色が濃く、飲み終わると舌が緑色に染まった。姉と緑色に染まった舌を見せ合ったりしていた。
半円に盛られたバニラアイスは、ソーダ側に小さな氷の粒が付いていてアイスなのにガリガリとしていた。そしてアイスの上には真っ赤なさくらんぼ。
週末の楽しみがクリームソーダだった。
喫茶店に入ると、姉にお金を渡して父は病院に行ってしまう事もあった。
喫茶店のおばさんに何か話してから店を出て行った。
きっと事情を話して、私たちを置いていく事に了承を得ていたのだと思う。
昔はそういう事ができた。
姉と二人、クリームソーダを飲みながら父と母が来るのを待っていた。
待っていた時間をどう過ごしたか全く記憶にない。
たぶん幼い姉は幼い私と二人で大変だったのではないかと思う。
私は弟が入院して「可哀想」とは思ったが、家族の大変さなどわかる年齢ではなかった。
週末のクリームソーダは嬉しかったが、私は母親を独り占め出来ている弟が羨ましかった。
母が病院にいるのは長くて2時間くらい。
たったそれだけの時間なのに、子どもの頃は羨ましいと思っていた。
当時の記憶はこれで全部。
何度思い出しても、セピア色の喫茶店の中で、クリームソーダの翡翠色とルビーのようなさくらんぼだけが鮮やかな色を放っている。
これが私の「クリームソーダ」の記憶。
家族の誰かが入院するということは、大変なことですよね。
特に母は大変だっただろうと、今さらながら頭が下がります。
え?
大丈夫、大丈夫。
弟、死んでないから!笑
最後までお読み下さりありがとうございました。