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噂のウワサ

作者: 安城要

地下鉄の駅を出、人の波に合わせて会社までのいつものコースを歩く。

それは岡部信介にとっていつもと変わらない、何の変哲もない月曜日の朝であった。

道の途中で人の流れから出て会社の入り口に向かったところで、信介は後輩の長谷部航の姿を見つけ、長谷部!と背後から呼びかけた。

長谷部は新採で信介が居た営業二課に配属され、信介も何かと目をかけて一人前に育ててやったのだった。この春に、希望していた企画部に異動するに当たっては、信介も上司に働きかけるなど何かと骨を折ってやったのだった。

同じ企画部門の別課の同期から、あいつ結構使えるって聞いたぜ、と聞かされた時は、俺が鍛えてやったおかげだぜ、と密かに誇らしく思ったものだ。

信介の声が聞こえたのか、それとも耳には届かなかったものの気配だけは感じたのか、長谷部が歩きながら周囲を見渡した。

小走りに駆けて長谷部に追いついた信介は、再び前を向いて歩き始めた長谷部の肩を背後から叩いた。

「よう、おはよう。企画あっちの住み心地はどうだ」

振り返った長谷部に、信介は思わず足速を落とした。

振り返った長谷部が、信介の顔を見た途端明らかに顔色を変えて立ち尽くしたのだ。

そのあまりの驚愕ぶりに逆に驚いた信介が、何が、と言いながら長谷部に手を伸ばそうとした途端、背後から響いた駆け足の音が信介を追い抜き、長谷部の腕を掴むと無理やり引きずるようにして玄関の方に向かって速足で去って行った。

一瞬振り返った際に信介を激しく睨みつけた眼鏡をかけた細面の色白の顔は、名前は忘れたが、長谷部が移動した後様子を見に行った際に係長の席に座っていた男のものだった。

なんだ?

異動したからには前の部署の人間と気安く話なんかするな、っていう狭小な思想の持主なのか?とわずかに侮蔑に似たものを感じながらも、彼がやってくる前の、あのどこか呆然とした長谷部の表情も気になった。

玄関のホールに入った信介はエレベーターのドアが開いているのを見ると、乗りますっ!と呼びかけながらわずかに手を挙げてそちらに走った。

閉じかけていた扉が止まり、開、を押してくれたのだろう若い女子社員が声の方、信介を見た。

とたんに目を見開いた彼女は、文字通り血の気が失せた様に青く顔色を変え、再び開いた扉から信介から顔をそむけるようにして飛び出していった。

は?

まるで彼女の後を追うかのように、エレベーターに乗っていた全員が、泡を喰らったように次々にエレベーターから降り、扉の前に立ち尽くした信介から顔を背けるようにして足早に階段の方に向かって歩き去った。

は?

は?

え?

なんとなく彼らを見送ってから、首をひねりながらエレベーターに乗り込むと、乗ります、と駆けてきた社員に、開、のボタンを押したまま待った。

ありがとう、とでも言うかのように信介に笑顔で頷きかけながらエレベーターに乗り込もうとしたその若い社員は、信介の顔を二度見すると飛びすざるようにして下がると、驚愕に見開いた眼で信介の顔を見つめた。

「乗ります?」

信介が問うと、彼はがくがくと横に首を振りながらよろめくようにして数歩退き、直ぐに背を向けて歩き去った。

なんなんだ・・?

その背中を睨みつけた後12階を押して扉を閉じた信介は、エレベーターの奥の姿見の鏡を全身で振り返って自分の姿を上から下までじっくりと見つめた。

別におかしな物はついてないよな・・?

満員電車の中で誰かの口紅がカッターシャツについて血痕にでも見えているのかとか思ったが、そうでもなさそうだった。

途中の階で何度か止まったが、信介の顔を見た社員達の反応は概ね同じで、誰も乗っては来なかった。

部屋についたら、誰かにおかしなところがないか聞いてみるか、と思いながら廊下を歩き、おはようございます、と営業部の広い執務室の2課の扉から入る。

とたんに。

部屋の空気が変わったのがわかった。

全員が驚いたように立ちすくんで信介を見つめた後、一斉に目を逸らせたのだ。

なんだ?

自分の席まで歩いて座った信介は、おはよう、と隣の席のこの春長谷部の後に新採で配属された三田美和に声をかけた後、顔を寄せて声を落として囁きかけた。

(なんかあったの?)

あ、いえ、と狼狽を押し隠しながら信介から目を逸らせてた美和は、ちょっと失礼します、とポーチを鷲掴みにして逃げるようにして立ち上がり、小走りに廊下に出て行った。

なんなんだよ、本当に!

訳が分からずに流石にイラついてきた信介は、そこではっと時計を見ると電話に手を伸ばした。

彼が担当しているクライアント企業の担当部長からは、その会社の執務が始める前の時間に電話をしてくるように求めてられており、今日はいつもよりも早く出社してきたのだ。

コール2回で、いつもの新宮という若い社員が出た。

「おはようございます。〇〇クリエイトの岡部と申します。長谷川部長をお願いできますか?」

電話の向こうがしばし沈黙し、お待ちください、という緊張した声が答えた。

なんだ?

ここでも違和感を感じた。

いつもなら新宮は、ああ岡部さん、おはようございます、と少々馴れ馴れしいのではないかと思うほどにこやかでフレンドリーに返してくるからだ。

電話を繋ぐだけにしては長いな、と待たされている間にふと動きを感じて執務室の入り口を見た信介は、課長の高田が速足で入ってくるのを見て、無言で頭を下げた。

その光景はある意味見物であった。

立ちすくんだ高田は、ここに信介が居るのが信じられない、尚且つ、受話器を持って何をしているのかわからない、という血の気が引いたような顔で、走ってきたのだろう荒い息で、瞬きも出来ずにじっと信介を見つめていたのだ。

驚いたように高田を見つめた信介は、もしもし、という声にあっと受話器を握りなおした。

(高田課長はおられますか?)

は?

今まで、このクライアントから高田との直接の話を求められたことはなかった。それくらいに、信介は信頼されていたのだ。

(高田課長はおられますでしょうか?)

新宮が繰り返した。

(長谷川がお話ししたいことをあると申しておりますので、おられたら代わっていただけますか?)

あ、はい、と釈然としないものを感じながら、信介は受話器を高田に向けて振った。

「課長、△△機工の長谷川部長がお話があるそうですが」

俺の席に回せと言いながら脱兎の如く走った高田は、そこでふと振り返ると信介を指差した。

「いいかっ、俺が指示するまで何もするなよっ!」

背を向けかけた高田はもう一度振り返り、念を押すかのように、絶対だぞっ!と裏返った声で叫ぶように言った後、必死に受話器に手を伸ばした。そしてその後は、この度は、とか、誠に申し訳ありません、と目の前にいない受話器の向こうの相手に何度も頭を下げながらひたすら謝り続けるだけだった。

眉をしかめてその様子を見た信介は、向かいの席から青ざめた顔で高田を見つめている鈴木という若い社員囁くように聞いた。

(何かあったのか?お前は何か聞いてないのか?)

え?という表情に顔を歪めた鈴木は、さ、さあ、と言いながら顔を背けた。

長い謝罪の電話を終えた高田は、ハンカチで額に浮いた汗を拭いながら長い長い溜息をつくと、勢いよく信介を振り返えると足音も高く近づいてきた。

「岡部、お前は午前中にお前の担当を全て鈴木くんに引き継いでおけ!」

ええっ、と泣きそうな顔で鈴木が立ち上がった。

「そんな、ぼく・・」

「全部きみ一人で担当しろと言ってるわけじゃない!分担は後で決めるから仮の引き継ぎだけ引き受けてくれ、後で再度担当分けをする。私は今から部長と一緒にクライアントにお詫びに回らねばならないから、この話は帰ってからしよう。桐村くん、車はっ?」

玄関で待ってます!という返事に、よし、と自分に言い聞かせるかのように頷いた高田は、背を向けかけて振り返り、信介の鼻先に人差指を突き付けた。

「いいかっ、午前中だぞ!わかったなっ?」

待ってくださいっ、と信介は背を向けた高田を必死に呼び止めた。

「一体何があったんですかっ?!」

ゆっくりと振り返った高田は、目を剥きながら、何があったか、だとう、と歯を食いしばるようにして言った。

しばらくハアハアと信介を睨みつけた高田は、けっという吐き捨てるような嘲りの言葉と共に背を向け、後は任せた、と係長の戸田に肩越しに手を振り、廊下に走り出て行った。

呆然とその後姿を見送った信介は、はっと顔を上げると、戸田の席に走り寄った。

「係長っ、これは・・」

はいはい、と額の広い細面のいかにも秀才タイプ、といった風情の戸田は、その銀縁の眼鏡の奥から目を細めて嘲るようにして信介を見た。

「課長の指示は聞きましたよね。すぐ引継ぎを始めてください。あ、ミーティングルームEを取ってありますから、引継ぎはそこでお願いしますね」

だから!とほとんど悲鳴のような声で信介は叫んだ。

「一体何があったんですか?こんな状況でどうしろと?」

何が?と信介は今日何度目か、人が大きく目を剥く顔を見た。

「そんなこと、あなたが一番よくわかってるはずですけどね?」

なんだと?

お前と話をすることすら汚らわしいという表情で、戸田は血の気の失せた頬を歪めた。

あなたがね、と言いながら戸田は自らのパソコンに向き直るとキーボードを叩き始めた。

「あなたにそこにそうやって立っていられるとみんなが仕事になりませんから、早く準備をして、引継ぎを始めてくれませんかねぇ」

語尾の、ねぇ、に明らかな侮蔑が含まれていた。

信介は目を見開くと呆然と室内を見回した。

立ち尽くしたまま二人のやり取りを見つめていた課の社員達は信介の視線が自分に向くと慌てて視線を逸らせ、あるいは目の前の書類に視線を落とした。

同じ室内の他課の社員達もどこか怯えた様に信介を盗み見ていた。

ハアハアと自分の呼吸が荒くなるのを感じながら、ふらふらと自らの席に座った信介は、しばらくじっと机の表面を見つめた後、ゆっくりと顔を上げ、自らのモバイルパソコンのコンセントを抜いてマウスと一緒に両手に持った。

「いけるか?」

と向かいの席に鈴木に声をかけると、はっきりと青ざめた顔で信介を見上げた鈴木は、泣きそうな顔でじっと信介の顔を見つめた。

廊下の方に向かって顎をしゃくり、先に立って歩き始めると、あきらめたような鈴木が立ち上がる気配を背中に感じた。

廊下に出た途端、一斉に安堵のため息の気配が室内に広がるのを感じた信介は、歯を食いしばった。

何が・・・

一体俺に何があったというのだ。

少なくとも先週末、この部屋を出る時までは何もなかった。

にこやかに手を振り、よい週末を、声を掛け合って帰宅した。

その後、今朝までの間に何があったというのか。

それも、おそらく全社にまでその“なにか”の事情が広まるほどの何が。

ミーティングールームの扉を開き、先に鈴木を入れてやり扉を閉める。

信介に促されて椅子に座った鈴木は、俯いたまま顔を歪めて涙ぐんでいた。

それが、いきなり不条理な量の仕事を押し付けられたためではなく、この狭い部屋の中に信介と二人きりになったことによるものだということを、信介はすぐに理解した。

目の前のパソコンを脇に押しやった信介は、頼む、と手をついて鈴木に頭を下げた。

「頼む、俺には何がなんだかわからないんだ。何か事情を知っているんなら教えてくれ。このとおりだ」

両手で顔を覆った鈴木は嗚咽を漏らした。

すぐに、指の間から涙が滲んできた。

いい加減にしてください、と何度も嗚咽に中断しながら、鈴木はなんとかそう言った。

「これ以上、ぼくを巻き込まないでください」

そのまま、鈴木は泣き続けた。

その姿を見ては、それ以上は聞けなかった。

泣きたいのは俺の方だ、と思いながら、泣きじゃくる鈴木をそのままに、信介はパソコンを引き寄せてそれを開いた。

自分に何かあったら業務が止まるような仕事は仕事じゃない、が身上の信介の担当クライアントの管理状況は、資料さえ見れば一目瞭然に整理してあった。

資料の所在を伝え、まず読んで、わからないことがあれば聞いてくれ、とまだ顔を覆ったままの鈴木の顔を覗き込んだが、鈴木はハイの言葉も返さずにすすり上げていた。

ため息をついた信介は、資料を見て時間を潰し、涙が引いてから戻っておいで、と優しく声をかけてから、先に執務室に戻った。

部屋に入った途端、一瞬で雰囲気が凍り付くのがわかった。

何がなんだかわからない、以上に、これほどのことって一体何が起こってるのか、とほとんど恐怖に近いものを感じざるを得ない。

皆が自分を意識して耳を澄ませているのを感じながら戸田の席まで歩き、引継ぎできました、鈴木くんはもう少し資料を見ています、と報告する。

早かったですね、と、ご苦労、の一言もなく、それでも驚いたように言った戸田は、そうそう、と思い出したようにわざとらしく言った。

「岡部さんは年休がかなり溜まっていましたね。どうです、これを機会に少し消化してみては」

信介はじっと戸田の顔を見つめた。

薄笑いを浮かべた戸田は、ほら、と頷いた。

「ストレスや疲れが溜まると、ほら、今回のようなこともね」

だから、その“今回のようなこと”って一体なんなんだよっ、と叫びたい思いを必死に抑えながら、では、と信介も頷き返した。

「お言葉に甘えて」

室内に安堵の気配が広がるのを感じながら、信介は席に戻ると、持ってきた時のまま机に下に置いてたかばんを手に廊下に向かう。

じゃあ、申し訳ありませんが今日は勝手をします、と入り口で振り返り精一杯の皮肉を込めて言いながら頭を下げると廊下を歩く。

廊下を行き交う社員達が、信介の姿を見止めると、びくっと次々に道を開けた。背を向けていた者もその気配に振り返り、信介を見ると壁際に体を寄せた。

そして、通り過ぎた信介の背中を怯えた表情で見送る。

モーゼの気分だな・・

いや、と心の中で苦笑する。

そんないいもんじゃないか、精々救急車だ・・

なんとなく彼らが気の毒になり、人とすれ違わないよう非常用の屋外階段を使って一階まで降りる。

会社の外に出ると、信介は通りかかったサラリーマン風の男の顔をじっと見つめた。

その男は、信介の視線に気付くと訝し気に信介を見返したが、足を緩めるでもなくそのまま歩いて行った。

そうだよな、いくらなんでもな、と苦笑した信介は、そのままあてもなく歩き始めた。

やっぱり、自分の仕事のことで何かあったのだ。

だが、あの様子はただ事ではない。

いや、いくら自分が仕事上のことで何かトンデモないミスをしたのだったとしても、あれほどの反応があるはずがない。

考えれば考えるほど、訳がわからない。

そこでふと顔を上げた信介は辺りを見回し、児童公園を見つけるとそこで木陰に入りスマホを取り出した。

直ぐにその顔が歪む。

嘘だろ、おい・・

長谷部を初め、同期その他社内の知る限りのラインがブロックされていた。

長谷部に電話してみるが、着信拒否となっていた。同期の数人にもかけてみるが同じだ。

くそっ、くそっ・・・

先週末に一緒飲んだばかりの同期の坂井がいる資産管理部に電話をかけた信介は、応答した女子社員に、西村設備の田中と申します、と名乗った。

「坂井様はいらっしゃいますか?」

少々お待ちください、と数秒待たされた後、はい、と聞き慣れた声が応じた。

「坂井ですが、西村設備様、ですか?」

おれだ、と信介は声を潜めて言った。

「営業の岡・・・」

ふざけんなよってめえっ!!という叫び声と共に叩き切られた。

スピーカーにしていた訳でないのに、その声に目の前を通りかかったベビーカー押した女性が怯えた顔で振り返るほどの声で。

な・・・・

呆然と宙を見つめる信介のスマホを持った手がゆっくりと下がった。

なんなんだ・・・



どこをどう歩いたのか覚えていなかったが、気が付くと駅の前に居た。

何時も利用する地下鉄のそれではなく、幾線も乗り入れている大きな駅だ。

無意識に人恋しかったのかな、と苦笑しながら、信介は駅に向かって歩いた。

妻の明子は今日はパートの無い曜日だった。この時間に家に帰れば妻が驚くに違いない。説明ができる程度に事情が分からない限り、明子に話せる話ではなかった。無駄に心配させるだけだ。

高架になった駅を見上げると、ちょうど正面玄関上のカラクリ時計の扉が開き、現れた人形が踊り始めた。

自らの腹を見下ろした信介は、昼飯でも食うか、と声に出して呟いた。

正直、全く空腹は感じていなかったが、この手持ち無沙汰な時間を潰す程度にはなるだろう。

地下街に入ると、そこは既に昼食を取りに来たサラリーマンやOL風の男女で賑わっていた。

既に列の出来ている店もある中をゆっくりと歩く。

何を食べたいというのは無かったが、ただ漠然と、並びたくはないな、とだけは思いながら店を探す。

その時、信介は『昼飲みできます!』という看板に足を止めた。

その看板をじっと見た信介は暖簾のれんの隙間から何人かの客が入っているのがわかる店内を伺った。

平日の昼間から仕事もせずに酒かよ・・・

常々軽蔑していた行いが、何故か今、ひどく魅力的に思えた。

頭の中に汗をかいたジョッキを思い浮かべた信介は、たまらなくなって足早に近寄ると扉を開いていた。

らっしゃい、とそれほど威勢の良くない出迎えの声も心地よかった。

カウンターに居たどう見ても仕事をしていない、いな、“少なくとも今日は”仕事をしていない服装の、どうやら常連らしい男達が一斉に振り返った。訝しまれるかと思ったが、スーツ姿の男が昼間から飲むことなど珍しくもない、というかのように直ぐに視線を戻す。

ふと見ると、奥のテーブル席で、信介と同じようなスーツ姿の二人組がジョッキで乾杯するのが見え、こいつらどういう状況?と不審に思いながらも、信介はカウンターに座ると、生中、と短く言いながら親父の顔を見た。

禿頭に鉢巻を巻いたいかつい体格の親父は、生中一丁、とおよそ愛想のない声でパートらしい中年女に伝え、すぐに焼き鳥に視線を戻した。

直ぐに出てきたジョッキを、一気に半分まであおる。

ここまで歩いてきた喉の渇きのせいだけでなく、美味しかった。

妻にも子にも内緒の昼酒という背徳のスパイスを得て、信介は焼き物を肴に数杯飲んだ。

足元がふらつくほどではない心地よい歩みで一時間ほどで店を出た信介は、さてこれからどうするかな、と階段を上がって地上に出た。

照り付ける初夏の太陽が、現実を運んできた。

はは・・、とおそらくアルコール臭をただよわせているだろう吐息で自らをあざ笑った後、信介は再び当て所もなく歩き始めた。

仕事でしくじり、昼からヤケ酒か・・・

いや、しくじりをしたという自覚はない。あるのは、何が起こっているかがわからないという、怒りにも似た不信感だ。

その上・・・

と信介は自嘲に唇が歪むのを感じた。

その事情を知らないのは、どうやら当人の俺だけときたもんだ・・・

あと一杯余分に飲んでれば、この人通りの多いスクランブル交差点の真ん中に立って大笑いができたかもな、とどこか惜しいような気分で、信介は何人もの人に追い抜かれながら薄笑いを浮かべて歩き続けた。

裏通りに入った信介は、そこでそのセンスの無さとスペースの無駄さから公共の建物にしか見えなビルを見つけると近寄った。

区の児童センターに、どうやら図書館もあるらしい。

照り付ける太陽を見上げてから、信介は自動ドアをくぐった。

クーラーのよく効いたガラガラのロビーに並んだソファーセットを見つけた彼は、これはいいや、と小さく呟き、その一つに深く腰掛けると目を瞑った。

次に気付いたのは、閉館ですが、とこのアルコール臭を漂わせた男の顔を覗き込みながら、何度も肩を叩いたのだろうイライラした顔の中年の職員に呼びかけられた時だった。

すみません、と立ち上がって外に出たが、あれから四時間近く経ったとは思えないほどに、真夏の太陽はまだまだ容赦がなかった。

もう一杯、飲んで帰るか・・・

ぼんやりとそう思った時、それがすごくステキなことに思えて信介はきびすを返した。

今日は、明子と差し向いで食事をすることに耐えられないような気がした。

もう一杯飲んで、家に帰ったらそのアルコールの力のままに寝てしまう。そうでもしないと今日は眠れない気がした。

この時間に地下鉄に乗るとどこで社員と鉢合わせをするかわからないしな、と信介は会社とは反対方向に向かって歩きながら次は何を食うかな、とそれだけを考えるようにした。



「ただいま」

家に入ると、妻の明子が小走りに迎えに出た。そして信介の顔を見ると驚いたようにその顔を見つめた。

「あ、あら、飲んできたの」

ああ、と信介はふらふらと頷いた。少し飲み過ぎたかな、と思ったが、ベッドに入った途端に何も考えずに寝落ちするにはこれくらいは必要だった。

「ああ、連絡せずにすまん。ちょっと坂井の奴の相談に乗っていてな」

切り際のあの怒声を思い出してちょっと顔をしかめながら、信介はキッチンに入った。

ラップをしたおかずの皿が並んでいるのを見つけた信介は、自らそれを冷蔵庫に入れた。

「明日の朝もらうよ」

そう言って明子に背を向けた信介は肩越しに手を振った。

「悪いけど、シャワーを浴びて、先に寝てもいいかな」

「あ、はい・・あ、あの・・・・」

何か言いたそうに信介の背中に呼びかけた明子に、ん?と振り返ると、あ、いえ、いいの、と彼女は笑顔で首を振った。

ざっとシャワーだけ浴び布団に入った信介は、予定どおりアルコールの力を借りて秒で寝落ちした。

翌朝。

目覚まし時計の音に目を覚ました信介は、二日酔いほどではないにしろ重い頭にうめきながら体を起こした。

ベッドの上を見ると、明子も娘の冬美もいなかった。

寝坊したかな、と思いながら、わずかに壁に伝いながら妙に静かな家の中をキッチンまで歩いた信介は、テーブルの上に一枚の紙を見付けると顔をしかめてそれを手に取った。

そこには短くこう記されていた。

『しばらく考える時間をください 明子』



な・・・

目を見開いた信介は、身を翻すと妻と娘の名を呼びながら家中の部屋の扉を開けて回った。

寒々としたそこにはまるで人の気配というものがなかった。

あ、なんで・・・

仕事のことだけじゃなかったのか?

そのはずだった。

そのつもりっだった。

それなのに、何故妻は、明子は。

寝室に取って返した信介は震える手でスマホを掴んだ。

同じだった。

ラインはブロックされ、着信拒否となっていた。

く、くそっ・・・

妻の実家に電話すると、さすがに着信拒否にはなっていなかったが、誰もいないはずない時間なのに、応答はなかった。

ちくしょう・・・

俯いた信介は、しばらく佇んだ後、はっと顔を上げた。

いつもの出勤時間が迫っていた。

何がなんだか事情はわからないにしろ、遅刻や欠勤をしたら負けだ、という思いが胸をかすめた。

いそいでシャワーを浴びて寝汗を落とし、服を着替えると朝食を取らずに家を出る。

駅に向かう道を急ぎながら、隣の気さくな老夫婦の妻女が玄関先を掃いているのを見つけた信介は、なんとか笑顔を作って、おはようございます、と頷きかけた。

驚いたように顔を上げた彼女は、信介の顔を見ると目を見開き、動きを止めた。

それを見た途端、信介はわけのわからない悪寒を感じて立ち止まっていた。

彼女の顔に宿っているのは、信介が知らない信介に関する何か、を知っている者に昨日から嫌というほど見せつけられた、恐怖に満ちたような顔だった。

玄関から出てきた夫が、おい、と声をかけかけて妻の異常に気付き、立ち尽くして妻を見ている信介に気付くと、おいっ、と声をかけながら妻の腕を掴んで引き寄せ、かばうようにして先に家に中に押し込み、信介に睨むような一瞥をくれると、素早く家の中に入った。

少し遅れて鍵と、しっかりとチェーンをかける音がかすかに聞こえた。

なんなんだ・・・

妻が持っていた箒が残されているのだけをぼんやりと見ながら、信介は唖然と立ち尽くした。

仕事のことだけでは、なかったのか・・・?

そうでないだろうことを、妻失踪が、老夫婦の表情が、如実に示していた。

くそ・・・・

その罵り声を誰に向けたらいいのかすらわからなかった。

暗然たるものを感じながら、信介はのろのろと駅に向かって歩いた。



地下鉄の電車の中から、既に多くの視線を感じていた。おそらく気のせいなのに、そう感じた。

地下鉄のホームに降りて歩き始めた時から、まるで何かの力でも働いているかのように、信介から数メートル以内にはだれも近寄ってこないような気がした。それも気のせいだとわかっていた。しかし一度そう感じるとそうとしか思えなくなっている自分がいた。

会社の社屋の中に入るとロビーが静まり返り、平静を装った信介が階段に向かって歩く背後で、その背中に非難の視線を向けながら社員達が顔を寄せて小声で囁き合った。

12階まで階段を歩き切って上がった信介が汗を拭き拭き執務室に向かうと、入り口の前に立ってきょろきょろしていた鈴木が信介に目を止め、あっという表情で室内に呼びかけた。

待っていたように、いや、待っていたのだろう課長の高田が飛び出してきて、室内に入ろうとした信介を押し止め、今日はこちらで作業を頼む、と昨日と同じミーティングルームまで信介を先導した。

命じられた仕事は、期末にすれば十分間に合う、いや、このような時期にやってもどうせ無駄になるだろう書類に整理であった。

この程度の仕事、と信介は非難に満ちた目で高田を睨んだ。

「一時間もあれば終わってしまいます」

なんとか、こんな仕事に何の意味があるんだ、という言葉だけは慎んだ信介に、そうかね、と高田はとぼけた声を出した。

「だが、今日の分のきみの仕事はこれだけしかない。だったら、昨日のように年休をとってはどうかな」

むしろそうして欲しいという口調で高田は続けた。

では、と息を吸い込みながら信介は高田を睨んだ。

「そうさせていただきます」

「ああ、ではそういうことで。連絡はいらんから、仕事が終われば書類はそのまま置いて帰っていい」

それだけ言って背を向けてドアノブを掴んだ高田に、突然信介は感情の昂ぶりが抑えられなくなり、いい加減にしろよっ!と叫んで机を叩いていた。

「なんなんだこれはっ、なんで俺がこんな目に合わなくちゃならないんだっ、理由を言えっ!」

信介以上に音が出るほどに息を吸い込みながら振り返った高田は、こぶしでを机に叩きつけた。

「その貴様の自覚のなさにみんながイラついてるんだっ!!そんなこともわからんのかっ!!」

ハアハアと睨み合った後、高田は瞑目すると、落ち付こうとでもいうかのように信介に向かって手を上げ、自らもずれた眼鏡を直した。

噂だよ、と高田は静かに言った。

噂?

だと?

「噂って・・なんの?」

だからっ!と叫びかけた高田は、再び自らを落ち着かせようとするかのように目を瞑った。

「そんなこと、言わなくともきみだってわかってるはずだろうが」

い、いや、と高田の口から出た意外な言葉に、信介は先ほど感じていた激しい怒りが萎んでいくのを感じた。

「あ、いえ・・あの、すみません。本当に何のことかわからないんです。噂って・・それって単なる噂ってことで、何か私のことで問題が確認されたってことじゃないんですよね?」

言い方が悪かったようだ、と高田は冷笑を浮かべた。

「“極めて信憑性の高い”噂、だよ」

だ、だからって、と信介は慌てた。

「そ、そんな、よく確かめもせず・・・」

もし確認されたとしたら、と高田は凄まじい表情になった。

「きみは懲戒免職どころでは済まんぞ。刑事罰は当然として、会社としてもきみに民事上の莫大な損害賠償請求をせざるを得なくなるだろう。もちろん、私も、黒田部長もただでは済まん。単なる噂のまま幕引きを図ろうとしてくださっている常務に感謝するんだな」

高田も営業部長の黒田も同じ大学の大先輩であった。常務の松下は社内の学閥のボスだ。特に黒田は同じハンドボール部の先輩として信介のことを可愛がってくれていた。今の信介があるのは、高田や黒田のおかげといっていい。ただ、信介とてそれに甘えることなく精進し、結果を出してきたという自負は有る。

そんな・・・

信介は何度も唾を飲み込んだ。

「その噂って・・・一体・・・」

「わからないと?思い当たらないと?」

高田はもうヤケのような笑顔を浮かべた。

「わからないはずないだろうが、これほどの噂だぞ?もし、もしもどうしても思い当たらないというなら、内省的になってもう一度考えてみればいい」

ほらきみには、と軽蔑を込めた口調で高田は続けた。

「たっぷりと時間があるだろうからね」

それだけ言うと、高田は、これで気が済んだか、と問うような一瞥をくれてから部屋を出て行った。




くそ・・・くそっ・・・・

こんな仕事やってられるか、と思ったが、逆に信介は傍目に見てわかるほどイヤラシイほどに丁寧に資料整理の作業まとめあげ、高田の言ったとおりミーティングルームにそれを放置して会社を出た。

ふざけんなよ、ふざけんなよ、なんなんだ、その噂って・・

そして、もう一つわからないことがある。

高田の言っていた内容から察するに、その噂とは明らかに社内のことに関することのようだ。

それならば妻は何故失踪したのか。隣の老夫婦の豹変にはどのような意味があるのか。

そして、と信介はやや俯き加減に歩きながら、そうっと辺りを見回した。

すれ違う何十人かに一人が、ふと目にした信介の顔を二度見し、驚いたようにその姿を見送り、その視線に気付いた信介がそちらを見ると慌てて目を逸らし、その後もちらちらと信介を見たり、すれ違った背中を振り返って見ているような気がするのだ。

町の雰囲気が、明らかに昨日と変わっているのを感じた。

社内に出回っているのとは別に、信介に関する何らかの情報が、世間一般に向かって出ているとしか思えなかった。

なんなんだ、くそっ・・・

そこでふと思いついた信介は昨日と同じ公園までに歩き、同じ木陰でスマホを取り出した。

社内のこと以外で何かあるのなら、とエゴサーチをしてみる。

信介は顔をしかめた。

何も出なかった。

ベンチに移動した信介は、そこでふと思いついて自動販売機で冷えたコーヒーを買ってくると、それを飲みながら再びスマホを開いた。

大学時代の友人にラインをして、なんでもいいから俺について聞いてないか、と確認しようとしたとたん、信介は呆然と口を開いた。

全員ブロックされていた。

なんで、と慌てて一番親しかったハンドボール部の親友に電話をした。

着信拒否となっていた。

慄然としながら、信介は何度も唾を飲み込んだ。

わけのわからない、凄まじい孤独感が全身を走り抜けた。

何が・・・一体・・・・

必死になって電話するが、誰も着信拒否か、コールしても応答がない。

なんで・・・何が・・・・

突然電話がコールし、息を飲みながら急いで出る。

なんだよ、とからかうような声が言った。

(お前が電話してくるなんて珍しな。今仕事中じゃないのか?)

それは学生時代の、それほど親しくはなかった友人からであった。どうやら、着歴から返信してくれたようだった。

お前っ、と勢い込んで聞く。

「なんか、俺についての変な噂聞いていないか?」

お前の噂?と相手は笑った。

(なんだよ、お前なにかやらかしたのか?)

いやそれが、と信介はここまでの事情をかいつまんで説明した。

話し進むうちに、相手の口調からからかうような響きが消えた。

そうか、と頷く気配がした。

(実は俺、仕事の関係でこの間、携帯没収されてカンズメにされててさ。ほとんど世捨て人だったんだよ。力になれずスマンな)

遅筆の文筆業、と久しぶりに飲んだ時に自嘲気味に言っていた彼の現在を思い出して、信介は頷いた。

「というわけで、俺からは誰にも連絡ができないんだ。お前、調べてくれることはできないか」

わかった、と答えた彼の言葉に、人の声がこれほど頼もしく耳に響いたことはなかったような気がした。

(とりあえず一時間くれ。何かわかったにしろ、わからなかったにしろ、一時間後に連絡を入れる)

感謝を伝え、時計を見てから信介はため息をついた。

その後、ゆっくり缶コーヒーを二本飲み、五十分を少し回ったところで待ち切れなくなった信介はげっぷをしながらこちらから電話をした。

一回目はワンコールで切られ、一時間を過ぎてからかもう一度かけた二回目は着信拒否となっていた。




ちくしょう・・・

気が付くと、昨日と同じ居酒屋にいて、ジョッキを握りしめていた。

ぐぐっと、半分の残っていたビールをヤケのように胃に流し込んだ。缶コーヒーは既に汗として排出済みなのか幾らでも入るような気がした。

どいつもこいつも・・・

カウンターにジョッキを叩き付けるように置き、もう一杯同じの、と親父に告げる。

噂・・噂って・・・・

あの野郎、今頃俺の体験を小説のネタにしてたりしてな、と思いながら自嘲的に笑う。

わけのわからない状況に既に頭がショートしていた。とりあえず何も考えずに、現実逃避をしたい、その思いにジョッキを重ねた。

ごっそさん、と隣で飲んでいた白髪の痩せた男が千円札一枚と、片手では握り締められないような量の小銭を置いて立ち上がった。

肉体労働者のように日に焼けた顔に、笑った顔の歯並びの悪い男で、昨日も来ていたような気がした。

その男はふらふらとカウンターの信介の裏を通り過ぎかけて立ち止まると、おやあ、と言いながら信介の顔を覗き込んだ。

そして一つげっぷをすると、酔人独特のろれつの回らない口調でもう一度、おんやあ、と言った。

「えれえしゅっとしたお兄さんがいると思ったら、昨日も来てたあんちゃんじゃねえか」

無視していると、そこでニヤッと笑った男は信介の耳に顔を寄せ、生臭い息を吐きながら囁いた。

「聞いてるぜぇ、あんたの噂」

思わず口の中のビールをジョッキの中に吐き出してむせ返った信介を見て、イッヒッヒッと笑った男はそのまま扉を開き、笑い声の糸を引いて去って行った。

ま、まてっ、と咳き込みながら立ち上がって彼の後を追おうとしたとたん、まてっ!という大声が信介の足を止めた。

かね

腕を組んだ親父が睨みつけているのに、くそっと足元に置いた鞄の中から出した財布から五千円札を抜き取ってカウンターに叩き付け、釣りはいいっ、と叫んだ信介は店を飛び出した。

辺りを見回したが、あの男の姿はどこにもなかった。

くそっ、くそっ・・・

急に酔いが回ったかのようによろめく足で人をかき分けるようにして探すが、ついにその姿を見付けることはできなかった。

突然スマホのコールが鳴り響き、信介は相手も確かめずに、はいっ、と怒鳴るようにして受けた。

今から会えるかね、と高田の声が静かに言った。




「昼間っから飲んでるのか?」

信介から顔をそむけて顔をしかめた高田に、信介はへらへらと笑いながら頷いた。

「昼間っから酒とかどんな糞野郎かと思ってましたけど、やってみるとこれがなかなかいいもんでしてね。今度課長も一緒にいかがですか?」

まったく、と高田は更に顔をしかめた。

会社から離れた場所にある大きな喫茶店の隅のテーブルに陣取り、コーヒーが運ばれてきてから高田は信介に顔を寄せた。

「きみの処分が決まった」

そうでしょうとも。

きみには、とニヤニヤと笑ったままの信介の顔を見ながら、高田はため息をつきそうな顔で続けた。

「きみには、ジンバブエ出張所準備室長として現地に赴任してもらう。今日内示が出た」

そんなところに出張所を作るプロジェクトなど聞いたことがなかった。

「パスポートは持っていたな?一週間後には現地に発ってもらう。準備もあるだろうから当分出社には及ばん。飛行機のチケットやビザはまた自宅に届けさせる」

それは、と信介はからかうように言った。

「その人事は拒否できないんでしょうね?」

「そんなことはない」

高田は無表情に頷いた。

「辞職により抗議の意思を示すことは可能だ」

むしろそうして欲しいという声で高田が続けた。

じっと高田の顔を見つめた後、信介はふっと笑いながら横を向いた。

「訳の分からない噂が出て、それを検証もせず私を追放して幕引きですか?」

「イエメン出張所準備室長という話もあったんだぞ」

高田の声が怒気を孕んだ。

「常務の骨折りでこの程度の人事で収まったことに感謝したまえ」

その二つのどこがどう違うのかがわからない。

わかりました、信介はため息をついた。

ちょうどよかったじゃないか、と高田は信介があっさりと受け入れたことに拍子抜けしながらもほっとしたようにわずかに口調を変えた。

「奥さんも里帰りしてるんだろ?ちょうど身軽な身の上なら、環境を変えてみるのもいいだろう。きみはまだ若いんだから何事もチャレンジだよ」

なんだと、と信介は顔をしかめた。

「なんでうちの家内のことを?」

ふん、と高田が薄く笑った。

「この手の噂はすぐ広まるからね。隠し切れるものではないよ」

また噂かよ、と信介は心の中で毒づいた。

まるで、噂という正体のわからないガスのようなものが世界中の空気に交じって宙を漂っているような、嫌な気分だった。

そして、その巨大な力に押し潰されようとしている自分がいた。

それで、と信介はからかうようにして言った。

「その南米の国に俺を追い出して、メデタシメデタシ。残されたみんなは仲良く平和に暮らしましたとさ、ってわけですね」

アフリカだ、と訂正してそこでわずか俯いた高田は、しばらくの沈黙の後、いや、と言った。

「私にも甲府支店営業課長の内示が出た。表向きには不採算支店の立て直しとかそれらしい理由がついてはいるが、きみの監督不行届きによる処分ということはみんな知っている。きみと同日付けで辞令が出る予定だ」

信介は目を見開いた。

ナントカという国の準備室長とかより、高田の方がよりリアルに意味がわかる人事であった。

甲府支店は、翌年度の予算編成時には必ず廃止の検討が俎上に上がる支店であった。支店の規模から見ても、高田のキャリアなら普通なら最低でも支店長の人事が妥当な支店であった。

信介から顔を隠すかのように俯いた高田は、自分なりに頑張ってきたつもりだったが、と涙声で歯を食いしばるようにして額を押さえながら言った。

「私はここまでだよ」

高田の歳で小規模な支店の営業課長となればもう次はない。それは信介にも痛いほどわかった。

あ・・ああ・・・・

なんで、と他人事ながら涙が出てきた。

可愛がってもらって近くにいたからこそ、高田の無念がわかった。

おれは・・・おれは何てこと・・・・

いやっ、と信介は涙を流しながら高田に顔を寄せた。

おれは何も・・そうだ、何もしていない・・・

一体、と信介は必死に高田の顔を覗き込んだ。

「一体なんなんですか?おれの、私の噂って、それは一体?」

顔を上げた高田は、不思議そうに信介の顔を見た後、ははは、と笑った。

それは、心から面白がっている顔にも、ヤケを起こした狂気の笑みにも見えた。

「きみは、まだそんな・・そんなことを言って・・・」

もういい、と信介から視線を逸らせた高田は立ち上がると信介に背を向けた。

「昼間っから飲む金があるんなら、ここはきみの奢りにしてもらうよ」

数歩歩いたところで立ち止まった高田はそこで、頼むよ、と優しいとも言っていい静かで落ち着いた声で言うと、そのまま店を出て行った。

じっと俯いていた信介は、カランと入り口の鈴が音を立てるのを聞いた後テーブルに突っ伏して嗚咽を漏らした。



もう、と信介は軽くジャンプして自宅の三人掛けのソファに横になった。

もう、どうにでもなれだ・・・

足元がおぼつかないほど飲んだ。

飲まずには居られなかった。

室長様に昇進だぜい!と店の中の他の客が顔をしかめるほど叫び声をあげながら数件をはしごした。

明日は確実に二日酔いだな、と思いながら、どうせ出社しないんだ、と更に杯を重ねた。

何かを考えようにも考えられないくらい飲んでから家に戻った信介は、冷蔵庫から持ち出した新しい2リットルのミネラルウォーターの蓋を開き、ソファの上に横たわったまま、だらだらとこぼしながら飲んだ。

そこまでが、覚えていた最後の記憶であった。

室内に風を感じてうっすらと目を覚ます。

窓を閉め忘れたのか?と思いながら見上げた上に、カーテンを開け放しにした窓から差し込む光の中にバッドを振り上げた痩せた男が青白く照らされていた。

ガンっと音が響き、はっと天井の照明灯を見上げた男に、そこでやっと正気に戻った信介は枕代わりにしていた大きなビーズクッションを頭にかぶりながらソファから転げ落ちた。

クッションは文字どおりクッションとなって振り下ろされたバッドの衝撃を受け止めてくれた。

二度三度と振り下ろされたバッドを受け止めながら、信介必死に足をばたつかせて蹴った。

ぎやっと声が起こり、転がる気配を感じた信介は、残留アルコールのせいでふらつく体を起こし、バッドを投げ出し膝を抱えて泣き声をあげている男の上にクッションごとのしかかり、クッションの隙間からばたつく男の体を何度も殴りつけた。

クッションのせいでくぐもってはいたが、男は、ひいいん、ひいいん、と女の子のような声をあげて泣き叫んだ。

そこで初めて信介はクッションから覗く男の手足が骨と皮だけのように細く白いことに気付いた。

なんだ、こんな奴、とバッドを遠くに蹴やった信介は、クッションを脇に投げ捨て、怯えた表情で涙を流す男の胸倉をつかんで起こし、その頬を殴りつけた。

あっさりとソファに叩きつけられた男は、その細い手で頭をかばいながら、もう許してくださいいっ、と泣きじゃくった。

「てめえっ、ふざけんなよっ」

言いながら両手で襟首を締め上げながら起こした男の体は面白いほど軽かった。

「なにが許してくれだっ、てめえっ、なんでこんなことしやがったっ、誰に頼まれたっ!」

最後の一言は、二十歳前後に見えるのに余りにも細い特徴ある男に全く見覚えが無いことから自然に出た言葉だった。

涙を流しながら男はしゃくりあげた。男の涙ではなかった。それは少年のような泣き方だった。

あ、と怯えた声で男は信介を見た。

「あ、あんたこそ、なんであんなこと」

なんだと?

言えっと信介は男の襟首を掴んでがくがくと揺さぶった。

「なんだっ、俺が何をしたって言うんだっ?」

威嚇に振り上げたこぶしに、男はヒイイイと再び顔をかばった。

しかし、信介がそのままの姿勢で男を睨みつけてると、男は顔をかばった腕の下で、泣き笑いを浮かべて、どこか勝ち誇ったように言った。

「もう、遅いぜ」

なんだと、と信介は片手で男の襟首を揺さぶりながら更に固めて見せつけた。

びくっと、再び怯えた表情を見せた男だったが、その口がニヤニヤと歯を剥いて笑った。それは男にとって精一杯の抵抗に見えた。

「もう特定されてんだよっ。あんたが・・・だってことはもうみんな知ってるんだからなっ」

・・・のところは早口で聞き取れなかったが、何かのニックネームのようなものを男は口にした。

あまりにも予想していなかった成り行きに信介が何も言わないのを驚いて動けないのと勘違いでもしたかのように、男の口調が更に勝ち誇った。

「インスタで家も特定されたからな、もう逃げられないぜ。みんなあんたにゃブチ切れてるからな、俺だけじゃない、今日のうちにでも次々に凸かけてくるぜ」

インスタってインスタグラムのことか?俺はそんなもんやってないぞ。

いわんや、個人情報をネットで晒すようなうかつなことはしない、それは妻の明子にも厳重に注意してある。

「違う、それは俺じゃ・・」

ふん、と男は更に勝ち誇った。

「今頃誤魔化しても遅いんだよ。お前の噂はもうみんなに広まっていて、今も実名と写真付きで拡散中なんだ。もう逃げられるなんて思うよなっ!おれは・・・」

そこで、男は突然泣き声あげながら両手で顔を覆った。

「おれは・・・おれは、あそこまで育てるまでに6年かけたんだ。やっとみんなに・・・それをお前が荒らして・・全部無茶苦茶だっ!全部お前のせいで・・・」

違う・・・

初めて、自分が何をやったことになっているかの推測できそうな具体の情報を得て、信介は呆然と首を振った。

それは俺じゃない・・・

そして、それは会社とも、妻の失踪とも、近所や世間の白い目とも何の関係がなさそうな噂。

なんだ・・噂、噂って・・・噂って・・・

それは、怪しい伝染病のように知らぬ間に広まっていく。

それは、容易く人の人生も命すら脅かす。

なんなんだよ・・・噂って・・・

突然、凄まじい改造マフラーの爆音と共に走ってきたエンジン音が家の前に止まった。

死ねっ、糞野郎っ!!という叫び声と共に玄関先で何かが割れるような音が響いた。次いで、でガラスが砕けるような音と共に窓越しに見える庭に激しい炎が立ち上がる。

いくつもの破壊音を響かせた後、その車はマフラーの爆音を上げてあっという間に走り去った。

あっという間に辺りが炎に包まれ、信介は頭を抱えて泣き声を上げた男の手を引くと、来いっ、と叫びながら炎の上がる庭に飛び出した。



家から少し離れたところで電柱にもたれかかった信介は、煤にまみれ、髪がわずかに焦げた顔で、焼けてまだかすかに薄い煙をあげている我が家をじっと見つめていた。

新建材を使った家は無残に焼け崩れるといいうことはなかったが、頑丈な防犯ガラスがいくら放水を集中しても割れず、結果的に二階の窓から放水を入れることができなかった家は外観を留めたまま早朝まで長時間に渡って燃え続けた。幸いだったのは延焼がなかったことで、隣の老人夫婦の家も、網戸が溶ける程度の被害で済んだ。

ははは・・・

ここまでの人生で積み上げてきた全てが崩れていくのを、いや、崩れてしまったのを目の当たりにしながら、信介は突然うつろに笑った。

いい機会かもしれない。

昨朝見たカレンダーが仏滅になっていたのに気付いて出掛けに顔をしかめたものだが、ふと故郷の法事の際住職が法話で、仏滅は本来は物滅で一つのことが終わり新しいことを始めるのに吉、と言っていたのを何のきっかけもなく思い出した。

もし明子が戻ってこないなら、ここは空き家となって朽ちるだけだった。売りに出している暇も、ローンの返済について金融機関と協議する暇もなかった。

火災保険でローンを返して、残った金を握りしめて海外暮らしも悪くないかもしれない。

いっそのこと、そのナントカって国で骨を埋めるか・・・

消防士達の話を聞いていると、通常は現場保存は消防団にまかせて消防署は一度引き上げ、明るくなった後8時頃から現場検証を始めるものだが、この時間で既に明るいこの時期のため、このまま続きで現場検証をはじめるらしい。

もっとも、闇夜を切り裂いた車の排気音に目を覚ました人も多くいたため、信介の家が火炎瓶で襲撃されたことは近所の人々も知っており、それほど手間がかかりそうにも見えなかった。

「この家の方ですか?」

同じような服装でも何となく消防署員とは見分けのつく消防団員の男が近寄ってくると、手に持ったんコーヒーの栓を抜きながら差し出してきた。栓を抜いたのは、余計な遠慮をさせないためだろう。

「たいへんでしたね、よろしければどうぞ」

あ、と電柱にもたれて座ったまま、それでも体を起こしながらそれを両手で受け取った。

「ありがとうございます」

いえと言いながら男は焼けた家を振り返った。

「しかし、酷いことをする奴がいたもんです」

まったくだ。

しかし、と男は確信を持った口調で言いながら信介を振り返った。

「目撃者もいることですし、犯人は必ず捕まりますよ。いや、絶対捕まえてみせますよ」

自分の言い聞かすように言った男は、それでは、と言いながら敬礼をして背を向けた。

小柄だが骨っぽい雰囲気の感じのいい男であった。

岡部さん、という声に振り返る。

あっと、声をあげて信介は立ち上がった。

「すみません。この度はご迷惑をおかけしました」

なんのなんの、と自治会長の宮下が手を振った。学校の教師をしていたという、高齢の温厚な男であった。

「一番酷い目にあったのは岡部さんなんだから、そんな。それより集会所で炊き出しをしていますからどうぞ、朝ご飯を食べに来てください、さ、さっ」

あ、いえ、と信介は慌てて手を振った。

「皆さんにご迷惑をかけた上、ご飯までいただいては」

宮下は再び、なんのなんの、と繰り返した。

「さっきも言ったように、一番大変なのは岡部さんなんですから」

けど、と信介の脳裏を昨日の隣の老夫婦の態度がよぎった。自分に関するわけのわからない噂はどれくらいまで近所に広まっているのか、そしてみんなはそれをどう思っているのか。

それを意識せざる得なかった。

それに、と宮下は続けた。

「今回の火事、誰か悪い奴が岡部さんの悪い噂を流して、それに扇動された馬鹿者がやったらしいって言うじゃないですか」

そうなんですよ、と心の中で頷いた信介は、そこで、は?と瞬きした。

「あ、あの、ちょっとそれって、なんで知って?」

え、と驚いたように宮下が信介を見た。

「え、違うの?」

あ、いや、と信介は言い淀んだ。

俺が知りたいのは、それをなんであなたが知っているかであって。

いや、と宮下は禿げた頭を掻いた。

「いや、みんなそう言って噂してますよ」

は?

「ほら、岡部さん、奥さん美人だし、いい会社務めてるし、新しい家も建てたしで、妬んだ誰かに酷いことされたんだって噂して、みんな同情してましたよ」

また噂かよ・・

なんとなく、宮下と並んで集会所に向かって歩いていた信介は、先輩っ、と呼ぶ声にそちらを見た。

会社の後輩、長谷部が出勤のスタイルで手を振りながら走ってくるところであった。

「ああ、よかった、無事だったんですね。よかった、よかった」

ゼイゼイと息を切らしながら涙ぐんでいる長谷部に、いや、と信介は呆然とその姿を見つめた。

自分の非常の場に駆け付けてくれたことは嬉しかったが、なんでお前がここに、以上に、お前こんなところに来て大丈夫なのか、が先に浮かんだ。

ちょっと待ってください、と必死に息を整えながらスマホを取り出した長谷部に、先に集会所に言って待ってますから必ず来てくださいね、と気を利かせた宮下は離れて行った。

スマホを操作し、課長、見つかりましたっ!と嬉しそうに話しかけた長谷部は、高田課長です、と言いながら信介にスマホを渡した。

はい、のはも言い終わらないうちに、高田は、昨夜は大変だったそうだな、と憐憫と同情の籠った声で言った。

(そっちも大変らしいから要点だけ言う。きみと私の人事は白紙になった、家の方が片付いたらできるだけ早く仕事に復帰して欲しい。頼んだぞ)

信介は目を見開いた。

あ、え、と口ごもりながら信介はなんとか口を開いた。

「あ、あの、それは大変うれしいことですが、一体何が?」

昨日あの後社内にいろいろと動きがあってな、と高田は疲れた声で言った後、私も徹夜だよ、と続けた。

(早くきみに連絡したかったんだが、いくら携帯に電話してもつながらなかったから、万が一にも馬鹿なことを考えたんじゃないかと心配していたんだ)

そういえば、と信介は天を仰いだ。

昨日ハードに使ったせいで、二件目くらいの飲み屋でスマホのバッテリーが切れてしまったが、どうせ誰からもかかってこまい、とそのままにしていたっけ。

(まあ詳しくは出社後に説明する。もう少し調査も必要らしいから)

ところで、と高田はそこで少し声を落とした。

(きみは法務部の林田という男を知ってるかね?)

林田?と口の中で呟いた信介は直ぐに頷いた。

「多分、同期の林田のことですね」

(どんな男だ?)

どんなって、と信介は再び少し考えた。

「なにか、新採の頃から私のことをライバル視して何かと突っかかってきてましたね。ただ、堅実な仕事をする男で、それをきちんと評価してくれる上司さえいれば上に行く奴だと思いますよ」

なるほど、と高田が電話の向こうで頷く気配した。

(きみは彼のことを評価しているようだが、相手の方は同じようには思ってくれていなかったようだね、どうも。所属でもちょっと悪い噂があったらしい)

え?

まあいい、と高田は口調を変えた。

(家の方が落ち着くまでは休んでいいが、一度顔だけは出してくれ。頼む)

そう言って電話は切れた。

なんなんだ・・・

電話を切って長谷部に返しながら信介はため息をついた。

高田は詳しくは語らなかったが、あの言い方だと、今回の件は林田が黒幕だったと言っているようなものだ。

あの、と長谷部が申し訳なさそうにあらためて信介を見た。

「俺、今日休みがもらえたんで、何か手伝えることがあったら言ってください」

あ・・

おれ、と長谷部は涙ぐんだ。

「俺、あの、俺、先輩のこと信じてなかったわけじゃないんですけど、みんなが・・みんな噂してるのを聞いてるとやっぱ噂は本当なのかな、とか・・その・・」

やっぱ信じてなかったんじゃねえか、と信介は苦笑した。

あの、と明らかに自分に向かってかけられた背後からの声に、今朝は忙しいな、と振り返る。

左手にギブスをして三角巾で釣ったあの深夜の襲撃犯の男が、申し訳なさそうに、泣きそうな顔で信介を見つめていた。

すみませんでしたっ、と男は土下座せんばかりに頭を下げた。

「おれ、あんなことしたのに、命を助けていただいて・・・それと・・・」

どこか元気よく、男は顔を上げた。

「岡部さんのこと、近所の人が話してるの聞いて、良い人過ぎて、逆に悪い奴に陥れられたみたいだって、そこでもう一度検証してみたら・・・の投稿してる時間、会社員の岡部さんだったらちょっと有り得ないような時間で、それを特定班に伝えたら、再検証の結果、岡部さんはシロで、誰かに巧妙になりすまされたんじゃないかってことになって・・」

良い人過ぎて、はどうかな、と信介は苦笑した。

それと、どうやらネット上のトラブルの事を言っているのだろうが、彼の言っていることは信介には半分ほどしかわからなかった。

彼が殺意を抱くほどに6年かけて育てたものが何なのか、先ほど出たトクテイハンはおそらく特定班だろうが、それが警視庁のサイバー犯罪部門の通称なのか、はたまたネットトラブルの公益通報組織かなにかなのかとか、信介にはさっぱりわからなかった。

ただ、会社員ということで俺がシロってことは、その犯人は林田ではないな、と思いながら、じゃあだれなんだ、との疑念が頭をよぎった。

パパっという声にそちらを見る。

タクシーから降りてきた娘の冬美が両手を広げて満面の笑みを浮かべて駆けてくるのが見えた。

続いてタクシーから出てきた妻の明子が一度立ちすくんで信介を見た後、小走りに駆より、信介の胸に顔を埋めた。

ごめんなさい、と鳴き声をあげたその肩が震えていた。

「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・わたし・・変な噂に・・・あなたのことが・・・」

もういい、と言うかのように信介はその肩を抱き締めた。

そして、一度物事がいい方に回り始めたら、全てがそちらに向かって動くもんなんだな、と、悪循環、好循環、という言葉を頭に思い浮かべながらどこか呆れたような、疲れたような気分になった。

ただ。

彼女が聞いた噂は仕事関係でも、ネット関係とも違うようだ。

さて、妻が家出するほどにどんな怪し気な噂が出回っていたのか、と、それだけは後で忘れないようにきかなきゃな。

抱き合う三人をどこか眩しそうに見つめている長谷部と男の視線を感じながら、信介はいつまでもそのまま佇んでいた。



「骨折はしていませんね」

その若い医師はレントゲン写真を見ながら静かに言った。

「単なる打撲でしょう」

よかったと、思いながら信介は服の上からわき腹を押さえた。

抱き付いてきた冬美の頭が当たった途端感じた鈍い痛みが気になり、後で確認したところ大きな青あざができていた。おそらく、燃える家から逃れる際、死ぬ死ぬ叫びながら固まってしまったあの男を窓から突き飛ばすようにして先に逃がし、自らも体を投げ出すようにして転げ落ちた時に打った傷だろう。

病院には長谷部がタクシーを呼んで送ってくれた。

集会所から戻ってきた隣の老夫婦の夫の方が、行く当てがないなら子供が使っていた部屋が空いているから当分無償で居候してもらっても構わない、と申し出てくれたが、さすがにそれは謝辞して、妻は当分の住居として市が用意してくれた市営住宅を見に行った。

決して、全てが一件落着とはいかないが、それでも最低限のことはなんとかなりそうだ、という安心感に体に油断したのか、全く感じていなかったその傷は今は鈍く傷んだ。

「かなり内出血していますからしばらく痕が残りますがおそらく時間が経てば消えますよ。湿布をだしておきますから傷むようなら使ってください」

「ありがとうございます」

椅子ごと机を向いて信介に横顔を見せてカルテに書き込みながら、医師は、そうそう、と思い出したようにわざとらしく言った。

「岡部さんて、昨夜の火事で焼け出されたんですよね」

はい、と信介は頷いた。

「そうな」

「その火事は、あなたは何も悪いことをしていないのに変な噂を流されて、それに扇動された者が放火したから起こった」

信介の言葉を途中で遮るようにかぶせるように言った医師に違和感を感じながら、信介はまた頷いた。それに、なんでそんなことまでこの医者が知っているのか、と。

「ええ、そのとお」

「っていう噂をあなたがふれて回ってるが、実はやっぱり本当はあなたが悪党だった」

は?

医師は軽蔑するような目で信介を見ながら軽く待合室の方をあごでしゃくった。

「って、あっちでみんなが噂してますよ」




 ~おわり~

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