神田眞白
午後6時。
今日の部活動終了の時間。
校内中にドヴォルザークの『家路』が流れ始めた。
それが丁度演奏が終わった瞬間に始まったから気持ちが良い。
「はい。今日はここまでにしましょうか」
顧問の支倉先生が柏手を打ってそう宣言した。
夏のコンクールまであと少し。
私達の演奏は、もう完成と言って良いほどの出来栄えだ。
このままいけば、全国優勝間違いなしだろう。
片付けを終わらせて、反省会をした後、私達は解散した。
「ちょっと寄り道してかない?」
「いいねぇ」
「行こう行こう!」
活動場所である音楽室の隅で、3人の女子がそんな話をしていた。
それをつい羨ましいと思ってしまう。
私は人付き合いが得意ではない。
業務連絡程度で、教室でも他の女の子と話す機会はあまり無かった。
何か足りないような感覚に陥りながらも、私は音楽室を後にした。
そのままの足で昇降口に着く。
するとそこには、お馴染みの顔があった。
「あっ、瑛くん。お疲れ様」
「眞白」
「よっ!眞白ちゃんお疲れ〜!」
「和真くんもお疲れ様」
昇降口に居たのは、瑛くんとその友達の和真くんだった。
瑛くんこと瑛人くんは私の彼氏だ。
ある日告白されて、付き合うことになった。
クールであまり喋らないけれど、優しくて気遣いができるところが好きだ。
和真くんはそんな瑛くんの友達だ。
明るいところが可愛らしい。
サッカー部でもムードメーカーのような立ち位置みたいだ。
この2人とだったら普通に話せるから不思議だ。
「そういえば2人とも、県大会近いんだっけ?」
「そうそう!まっ、俺と瑛人が居れば余裕だけどな!」
「眞白ももうすぐコンクールなんだろ?調子、どう?」
「おかげさまで。いい感じだよ」
「眞白ちゃんが使ってる楽器、あれ何て言うんだっけ?豆腐みたいな名前のやつ!」
「フルートね」
いつもの調子でお喋りをしながら、校門に向かった。
おちゃらける和真くんに瑛くんがツッコむというやりとりが面白い。
このやりとりを見ながらお家に帰りたいけど、そうもいかない。
和真くんの家は、私達とは逆方向だから。
「そんじゃあまた明日な!」
「あぁ」
「またね、和真くん」
和真くんは大袈裟に手を振って走っていった。
サッカー部の活動で疲れていると思ったのに、元気そうだ。
私は瑛くんと並んで歩き始めた。
ふと空を見上げると、綺麗なオレンジ色に染まっていた。
「……夕焼け、綺麗だね」
「……だな」
素っ気ない返事。
だけど嫌われてる訳ではないみたいだ。
チラッと顔を見ると、少し赤くなっている。
瑛くんはクールなのと同時に、照れ屋さんでもある。
彼もまた口下手だ。
多分、私とどんな会話をしたらいいのか考えているのだろう。
私はただ一緒に居るだけでいいのに。
だけど、横顔を眺めてるだけで画になる。
「………!!」
夏が近づいているというのに、悪寒が走った。
嫌な予感がした。
そっと後ろを振り返った。
少し遠くに、人が見えた。
いや、人っていうべきなのか解らない。
その人は全身が真っ黒だった。
たまにブツブツと体の一部が消えたり現れたり、ユラユラしたりしている。
なんだか、影が実体を持っているような…。
そんな存在が、こっちに手を伸ばして歩いてきていた。
「ねぇ、ねぇ瑛くん……」
私は瑛くんの制服の袖を引っ張った。
「えっ?あっ、何?眞白」
「あれ……」
私は影みたいな人間を指差した。
瑛くんもそれの異様さに気づいた様で、顔を強張らせた。
「瑛くん、こっち来る……!」
「走ろう!」
私は瑛くんと一緒に走り出した。
あの影人間がどういう存在なのか解らない。
怖い。
追いつかれてはいけない。
触られてはいけない。
本能からなのか、そんなことばかり考えてしまう。
最初見た時はゾンビみたいな歩き方だったけれど、私達が走り出した後はどうなのだろう。
瑛くんは影人間の様子を伺いながら走っている。
凄いと思った。
今の私に、振り向きながら走る余裕は無かった。
しばらく走った後で、私達は足を止めた。
息を切らしながら、後ろを見る。
影人間は居ない。
逃げ切れたみたいだ。
「何だったんだろう……」
つい声が震えてしまう。
瑛くんもまた、困惑したような顔で汗を拭っていた。
「さぁ?……とりあえず、送ってくよ」
「えっ?悪いよ…。その後瑛くん1人になっちゃうでしょ?」
「俺は足に自信あるから大丈夫。彼氏として眞白を1人にする訳にはいかないよ」
「……そっか。……ありがとう、瑛くん」
瑛くんだって、さっきのが怖い筈なのに。
それでも、私のことを送ってくれるみたいだ。
やっぱり瑛くんは優しい。
付き合えて良かったと、心から思った。
翌日。
私は目をしょぼしょぼさせながら席に座っていた。
昨日はあまり眠れなかった。
どうしても頭の片隅に、あの影人間が浮かんでしまう。
目が覚めた状態で、ずっと毛布に包まっていた。
居ない筈なのに、何となくどこかで見られている気がしたから。
今朝トイレに行くときも、何かの気配を感じた。
何も居ないのに。
とはいえ、そんな謎の感覚も大勢で居れば和らいだ。
ホームルームが終わった後、瑛くんが小林先生に呼び出されていた。
何かあったのだろうか。
私は聞き耳を建てた。
「なぁ基山。瀬尾について何か知らないか?」
「えっ?いや特に何も…。和真、何かあったんですか?」
「昨日から家に帰ってないそうなんだ」
「えっ!?」
瑛くんと一緒に、私も心の中で驚く。
確かに、和真くんは今日登校していない。
まさか、昨日から帰っていないなんて……。
「……行方不明ってことですか?」
「そうなんだ。警察も動いてる。瀬尾が行きそうな場所を中心に捜索しているようなんだ。お前いつも瀬尾と居るだろ?心当たりないか?」
「いや……。昨日部活終わって、校門前で別れたっきりですね」
私も心当たりはない。
和真が何かしようとするなら、まず瑛くんに話す筈。
そこから私に伝達してくる。
瑛くんが解らないならお手上げだと思う。
「そうか、ありがとうな。何か手がかりがあったら教えてくれ」
「解りました……」
小林先生が教室から出て行った後、私はすぐに瑛くんに話しかけた。
「和真くん、行方不明なんだね」
「家に帰ってないらしい。眞白、何か知ってるか?」
「ううん。何も……」
「だよな……」
何なのだろう、この無力感は。
もし私が和真くんの居場所を知っていたら。
そしたら瑛くんの役に立てるのに。
そういう虚しい妄想が浮かんでくる。
ふと瑛くんの顔を見る。
何か焦りというか、困惑というか、心配というか。
そんな顔をしていた。
「瑛くん、大丈夫?」
「えっ?あっ、うん」
大丈夫ではなさそうだ。
「心配だよね。和真くん、親友だもんね」
「……まぁ」
「LINEとか、繋がらない?」
「そうだな。送ってみる」
瑛くんはそう言ってスマホをいじる。
LINEを送っている時の表情も暗い。
せめて、一言だけでもいいから反応が欲しかった。
けれど、一時限目まで既読すら着かなかった。
不安だとか、心配とか。
そういう気持ちを抱えたまま、放課後を迎えてしまった。
和真くんからは未だに返事が無い。
和真くんのことが気になりながらも、私は部活に向かう。
瑛くんは大丈夫だろうか。
うちの高校のサッカー部は、瑛くんと和真くんのコンビを主力としている。
和真くんが居ない今、瑛くんはいつもの調子が出せないのではないだろうか。
県大会が近いのに……。
……いや、きっと大丈夫だ。
瑛くん以外のサッカー部の皆も強い。
和真くんだって、何かの気まぐれでどこかに行っているのかもしれない。
いつか戻ってくる。
そう信じよう。
私は音楽室に向かう。
準備体操も兼ねて、適当にフルートを吹いてみる。
よし、大丈夫。
今日もいつもの通りの音が出せる。
吹奏楽もまた、チーム一丸となって行うものだ。
1人が遅れたり焦ったりすると、一気に駄目になってしまう。
私1人が輪を乱してはいけない。
一通り吹き終えた後、私は鞄から楽譜を取り出そうとした。
「……あれ?」
無い。
鞄に入れた筈の楽譜が、どこにも無いのだ。
どうしよう。
楽譜が無いと、上手く演奏できない。
とはいえ、教科書を忘れた時みたいに、他の子に見せてもらう訳にもいかない。
迷惑が掛かってしまうから。
もしかしたら、机の中に残ってしまっているのかもしれない。
私は音楽室を出た。
「あら神田さん、どうしたの?」
音楽室前の廊下で、支倉先生と出会した。
「すみません。教室に楽譜忘れちゃったみたいで…」
「あらそうなの?」
「先に始めちゃってください。皆に待ってもらう訳にはいかないので……」
「そういうことなら、始めとくわね」
支倉先生に事情を説明した後、私は早足で教室に向かった。
教室には誰も居なかった。
私は中に入り、自分の席を探った。
机の中を覗くが、楽譜は入っていない。
周りに落ちてる様子もない。
いったいどこにやったのだろうか。
家か。
それとも実は鞄に入っていたのに私が気付けなかったのか。
何にしても、音楽室に戻ろう。
楽譜も最悪の場合、先生に話せば何とかなるかもしれない。
私は教室を出ようとした。
「ッ……!!」
体がゾワッとした。
反射的に廊下の方を見る。
思わず口を塞いだ。
昨日の影人間が、廊下の窓から私を覗き込んでいたからだ。
それは壁をすり抜けるように、ゆらゆらと歩きながら教室の中に入ってきた。
「あっ………えっ…!!?」
私は体のバランスを崩して尻餅を着いてしまった。
足が震えているせいか、上手く立てない。
どうして立てないの?
立ってよ!
脳内でそう命じているのに、体が言うことを聞かない。
影人間がこっちに近づいてくる。
よく見たら、顔の部分に凹凸があるような気がする。
目や鼻を意味しているのだろうか。
そうにしても、何だか歪んでいるような。
影人間は、ついに私の目の前に辿り着いた。
体の一部が消えたり現れたりしていて、その度にノイズのようなものが聞こえる。
怖い。
声が出ない。
多分もう、抵抗できない。
私の視界は、影人間の両手に奪われた。
どのくらい時間が経ったのだろうか。
私は意識を取り戻した。
時計を見ると、もうすぐ部活動終了時間になるというところだった。
もうこんな時間?
ついそう言いそうになったが、何故か声が出なかった。
何だか体も熱い。
それに、頭の中にノイズのような響いている。
それは徐々に大きくなり、頭も痛くなってきた。
私は頭を抑える。
……何か変だった。
そう思って、恐る恐る自分の手を見た。
「ッ……!!!?」
声にならない悲鳴を上げた。
私の手が、真っ黒になっていた。
よく考えたら、制服の感触も無い。
ブツッブツッと、一部が消えたり現れたりしている。
腕だけじゃない。
足も、お腹も、胸も。
全て真っ黒だった。
どうして?
私の体、いったいどうなってるの?
これじゃあ、まるで……。
「………」
私はふと窓の方を見た。
反射で教室内の様子がうっすらと映っていた。
いつも通りの教室の中で、一つの人影が異常な存在感を放っている。
それを見た私は、その場から駆け出した。
何これ?
どうなっているの?
怖い。
どうしてこんなことになっているのだろう。
解らない。
教室で影人間に襲われたっきり。
そう言えば、あの影人間に襲われた後、どうなったんだっけ。
戸惑いながら走っていると、また異変が起きた。
私の体が消えてる。
左腕全体と、右手、腹部、右太もも。
その辺りが、大幅に消えていた。
どうして消えるの?
私は壁にぶつかったりしながらも走る。
嫌だ。
このまま消えてしまうの?
消えたくない。
そう思っていたら、いきなり消えた部分が戻ってきた。
困惑していると、今度は壁をすり抜けた。
校舎から落ち、地面に叩きつけられる。
だけど、痛くない。
体がまた熱くなってきた。
もう嫌だ。
自分の体なのに、制御が効かない。
こんなの私の体じゃない。
「ッ!!」
ふと校門が目に入った。
丁度そこから瑛くんが出るところだった。
私は瑛くんを追いかけた。
何か変わるかもしれなかった。
とにかく助けてほしかった。
瑛くんなら、私のこと解ってくれると思った。
だから追いかけた。
「うわぁあああ!!!」
私に気づいた瑛くんは、悲鳴を上げて逃げ出した。
どうして逃げるの?
私が私じゃなくなったから?
こんなに化け物みたいになっちゃったから?
あんな恐怖に満ちた表情を、今まで見たことがなかった。
胸の中がぐちゃぐちゃする。
吐き出したくても、声が出ない。
前方で瑛くんが転んだのが見えた。
だけどすぐに起き上がって、走って行ってしまう。
痛いだろうに。
血が出ただろうに。
そんなに私のことが嫌?
私は何も、酷いことはしないのに。
酷い。
私から逃げるなんて酷い。
……見失った。
流石サッカー部。足が速い。
けれど、転んで怪我した足じゃ遠くには行けないよね。
きっとどこかで隠れて休憩している。
どこかな。
まさか他人の家に勝手に入ったりはしないよね。
もうすっかり真っ暗。
その怪我で、こんな暗い中じっとしているのは危ないよ。
だから早く出てきてほしい。
再び消えた足で歩いていると、公園が見えてきた。
ここなら……。
私は公園に近づいた。
遊具の陰から、瑛くんが出てきた。
やっぱり、居ると思った。
私はすぐに瑛くんに近づいた。
「あっ……あぁ……」
私に気づいた瑛くんは、尻餅を着いた。
腰が抜けてしまったみたい。
表情は恐怖一色だ。
歯がガチガチ鳴っていて、まるでカスタネットみたいだ。
怖くないのに。
ほっぺた撫でてあげたら落ち着くかな。
私は瑛くんに触れようとした。
「いっ……嫌だ…。やめろ……!!」
瑛くんは首をぶんぶんと振りながらそう言った。
拒絶された。
どうして私を拒絶するようなことを言うのだろう。
告白されたあの日、私のこと好きだって言ってくれたのに。
あんなに優しくて格好良い瑛くんはどこに行ってしまったのだろう。
今の瑛くんは、醜くて情けない。
だけど、どうしてだろう。
そんな瑛くんが愛おしい。
私は瑛くんを抱きしめた。
もう何も怖くないよ。
こうすれば、大丈夫。
だから、ずっと一緒だよ。