基山瑛人
午後6時。
丁度その時間に、校内放送でドヴォルザークの『家路』が流れ始めた。
生徒はもう帰る時間。
顧問が今日の部活動の終わりを告げたのを確認し、俺はサッカーボールを追う足を止めた。
他の部員達と共に、コートを形作っていた小さいカラーコーンの回収に向かう。
「お疲れさん瑛人。今日もすげぇ活躍だったな!シュート入れまくりじゃん!」
同じクラスであり、友人の瀬尾和真が絡んできた。
練習試合中走りまくっていたせいか、汗だくだ。
「入れまくりって言う程入れてないけどな」
「ンなことないだろ〜?2点だぜ2点!本番だったらかなりの活躍じゃんか!さっすが我がサッカー部のエースストライカー!」
「お前のドリブルも一流だろ」
「マジ?ヘヘヘ。まぁ、それ程でもあるけどな!」
和真はサッカー部の中で一番ドリブルが上手い。
相手が複数でも簡単に突破できるくらいに。
俺と和真でボールを運び、点を取る。
時には”最強コンビ“と言われることもあった。
片付けを終わらせた後、俺達は集合する。
それから今日の反省会を終わらせ、制服に着替えた後、昇降口に向かった。
「あっ、瑛くん。お疲れ様」
「眞白」
下駄箱で靴を履き替えているところで、眞白と合流した。
神田眞白。
彼女と俺は付き合っている。
笑顔が可愛く、守ってあげたくなる雰囲気に惹かれて告白した結果、付き合うことができた。
眞白は吹奏楽部に所属している。
今日は丁度同じくらいに部活が終わったようだ。
「よっ!眞白ちゃんお疲れ〜!」
「和真くんもお疲れ様。そういえば2人とも、県大会近いんだっけ?」
「そうそう!まっ、俺と瑛人が居れば余裕だけどな!」
「眞白ももうすぐコンクールなんだろ?調子、どう?」
「おかげさまで。いい感じだよ」
「眞白ちゃんが使ってる楽器、あれ何て言うんだっけ?豆腐みたいな名前のやつ!」
「フルートね」
そんな話をしながら、俺達は並んで校門に向かう。
最近では教室でもこの2人と居ることが多かった。
和真も眞白も笑っている。
よく表情が乏しいと言われるが、俺はこの2人の笑顔を眺めるだけで満足だった。
「そんじゃあまた明日な!」
「あぁ」
「またね、和真くん」
校門を出ると、そこから和真とは逆方向。
大袈裟に手を振る和真を見送り、俺と眞白は再び歩き出した。
「……夕焼け、綺麗だね」
「……だな」
俺が意識し過ぎているだけなのか。
それともお互いシャイなのか。
付き合っているとはいえ、意外と気まずい瞬間は多い。
それでも、俺は一緒に歩いているだけでも幸せだが。
ただ、眞白はどうなのだろうか。
俺のこと、怖がっていないか。
飽きていないか。
呆れていないか。
幻滅していないか。
たまに、こんな風に考えることがある。
考え過ぎるのも良くないと思い、俺は空を見た。
沈む太陽に照らされて、遠くの空がオレンジ色に染まっているのが見える。
俺達が歩いている道が薄暗いせいか、それがより際立っていた。
遠くの空はオレンジなのに、俺達の真上の空は灰色が混ざった紫のような、とにかく暗い色。
薄暗いが、夏の訪れを実感することはできた。
ちょっと前までは辺り一面真っ暗だったというのに、今では足元の雑草も目視できる。
もう少し経てば、この時間でも青空が続いている筈だ。
「ねぇ、ねぇ瑛くん……」
「えっ?あっ、何?眞白」
「あれ……」
眞白が不安そうな面持ちで後ろを指差した。
俺もその方向を見る。
50メートルくらい先に、それは居た。
一見して人影のようだが、かなりはっきりしている。
いや、影でできた人間と言うべきか。
時折体の一部が、まるで調子の悪い映像のように消えたり現れたりしている。
影でできた人間……影人間は、俺達の方に手を伸ばす。
それからゆらりとこちらに近づいてきた。
その姿に、俺は危機感を覚える。
「瑛くん、こっち来る……!」
「走ろう!」
俺と眞白は一緒に駆け出した。
走っている途中、後ろを振り向く。
影人間は俺達に手を伸ばした状態で追ってくる。
とはいえ、俺達に追いつくくらいの速度じゃない。
俺達はあっという間に影人間から逃げ切れた。
「何だったんだろう……」
「さぁ?……とりあえず、送ってくよ」
「えっ?悪いよ…。その後瑛くん1人になっちゃうでしょ?」
「俺は足に自信あるから大丈夫。彼氏として眞白を1人にする訳にはいかないよ」
「……そっか。……ありがとう、瑛くん」
あの影人間が何なのか解らない。
とはいえ、何も解らないならそれはそれで危険だ。
その日、俺は眞白を家まで送ってから帰宅した。
自分の家に帰り着いた頃には、辺りはもう真っ暗だった。
翌日。
ホームルームが終わってすぐ、俺は担任の小林先生に呼び出された。
「なぁ基山。瀬尾について何か知らないか?」
「えっ?いや特に何も…。和真、何かあったんですか?」
「昨日から家に帰ってないそうなんだ」
「えっ!?」
何故か背筋がゾワッとした。
そういえば、和真は今日登校していない。
出席確認の時も返事は無かったし、それ以前にいつもの絡みが無かった。
遅刻か。
それとも風邪でも引いたか。
それくらいのものだと考えていた。
「……行方不明ってことですか?」
「そうなんだ。警察も動いてる。瀬尾が行きそうな場所を中心に捜索しているようなんだ。お前いつも瀬尾と居るだろ?心当たりないか?」
「いや……。昨日部活終わって、校門前で別れたっきりですね」
「そうか、ありがとうな。何か手がかりがあったら教えてくれ」
「解りました……」
小林先生はそそくさと教室を後にした。
「和真くん、行方不明なんだね」
今の話を聞いていたのか、眞白が話しかけてきた。
「家に帰ってないらしい。眞白、何か知ってるか?」
「ううん。何も……」
「だよな……」
和真が行方不明。
昨日まであんなに明るく笑っていたのに、今じゃどこに居るのか解らないなんて。
いや、和真のことだ。
きっと何かの気まぐれで家に帰ってないだけだろう。
コミュ力が高い和真なら、その辺で会った人と意気投合し、朝まで遊ぶなんてこともできそうだ。
「人騒がせな奴」で済ませたい。
しかし、どうしても頭の隅でチラつく。
昨日眞白と見た、あの影人間が。
根拠も無く、僅かばかりであるが、和真があの影人間に何かされたのではないかと考えてしまう。
「瑛くん、大丈夫?」
「えっ?あっ、うん」
「心配だよね。和真くん、親友だもんね」
「……まぁ」
眞白には、俺が思っていることが解るらしい。
「LINEとか、繋がらない?」
「そうだな。送ってみる」
俺はLINEで和真にメッセージを送る。
反応が無いか待ったが、結局一時限目まで既読にすらならなかった。
今日の部活の練習試合は、あまり上手くいかなかった。
ボールを奪ったり蹴り出したりするのは難しくないが、思うように攻められない。
攻めきれなかった。
なかなかディフェンスを突破できない。
他のチームメイトを頼ったりもしたが、どこか安心感に欠けた。
結局今日は1点も取ることができなかった。
やはり和真が居ないと、いつもの調子が出ない。
今まで隣に和真が居るのが当たり前になっていたが、居ないだけで喪失感が凄い。
チームメイトからも、「今日元気無いな」と言われる始末だ。
そんな調子で、今日の部活はあっという間に終わった。
反省会も早々に終わり、着替えた後、俺は昇降口に向かう。
そのまま靴箱を確認する。
眞白の靴はまだある。
まだ眞白は帰っていない。
昨日のこともあるので、眞白を待つことにした。
和真だって行方不明になっているのだ。
このまま眞白を一人で帰らせるわけにはいかなかった。
待っている間、俺はスマホをいじる。
和真に送ったメッセージには、未だに既読が付いていない。
そもそも和真は、ちゃんと生きているのか。
まさか死んでないよな。
いつもならLINEでメッセージを送ったら、秒で返信してくるというのに。
スマホを使えない状況、状態にあるというのは、相当マズイのではないだろうか。
メッセージを送るだけじゃ同じかもしれない。
俺は直接電話することにした。
“♪♪♪♪♪♪♪”
”♪♪♪♪♪♪♪♪♪“
“♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪………”
出ない。
コールの音が途切れない。
10コール以上過ぎても、和真は電話に出ることはなかった。
一度切り、もう一度掛ける。
しかし出ない。
もう一度掛ける。
やっぱり出ない。
俺は諦めて、スマホをポケットに締まった。
丁度その時、廊下の奥から吹奏楽部の女子達が歩いてくるのが見えた。
やっと来たか。
そう思ったが、その中に眞白の姿は無かった。
いつもは楽しそうに喋りながら歩いているというのに。
俺は彼女達に話しかけた。
「ごめん。眞白居ないみたいだけど、どうかしたの?」
「眞白?あぁ〜、なんか教室に楽譜忘れたとかで、一回抜けたんだよね。でも、それから戻ってきてないよ」
「戻ってきてない……?」
「うん。一旦放っといて練習したけど、結局戻ってこなかった」
「サボりたい気分だったとか?」
「いや眞白に限ってそれは無いっしょ。急用できて先に帰っちゃったとかじゃない?」
「そうか……。ありがとう!」
彼女達に礼を言うと、俺は駆け出していた。
異常な胸騒ぎがした。
急いで階段を駆け上がり、教室に向かう。
教室には誰も居なかった。
ただ眞白の机に、ポツンと鞄が置かれている。
部活動生は部活に自分の荷物を持っていくから、さっきの女子達が置いていったのだろう。
やはり眞白はまだ帰っていないのだろうか。
まだ校内に居ることを願い、俺は眞白に電話を掛ける。
出てほしい。
頼むから出てくれ。
そんな俺の願いは打ち砕かれる。
眞白もまた、電話に出ることはなかった。
正直焦りが出てきた。
もう一度掛けようかと、スマホを操作する。
すると、視線の端に黒い影のようなものが映った気がした。
「ッ!!」
俺は反社的に廊下の方を見た。
しかし、薄暗くなった廊下には何も無い。
おかしい。
確かに何か通った筈なのに。
俺は不安に押し潰されそうになっていた。
10分後。
俺は帰り道をふらふらと歩いていた。
和真に続いて、眞白も消えた。
いや、消えたというのは早とちりかもしれない。
本当に何か外せない用事ができたか。
それとも、二人とも一緒になって俺を驚かそうとしているのか。
そう信じたかった。
だって、何かがおかしい。
眞白については俺が過剰になっているだけなのかもしれない。
和真に関してもそうかもしれない。
けれど、何と言えばいいのだろう。
口では言い表せない違和感がある。
昨日眞白と見た、あの影人間。
本当に根拠は無いのだが、二人の失踪に影人間が関わっているような気がしてならなかった。
急に背筋がゾワッとする。
嫌な予感がした。
何か、良くないものが迫ってくるような。
俺は後ろをバッと振り返った。
昨日見た影人間が迫ってきていた。
「うわぁあああ!!!」
俺は駆け出した。
捕まったらいけないような気がした。
昨日は遅くてすぐ振り切れたというのに、今は走ってきている。
もたもたしていると追いつかれてしまうだろう。
俺は必死に走った。
しかし焦って足がもつれてしまったようで、転んでしまう。
痛がっている暇はない。
こうしている間にも、影人間は迫ってきている。
俺は素早く立ち上がる。
鞄をその場に置き、走り出した。
もはや、なりふり構っていられなかった。
「はぁ……はぁ………」
息が絶え絶えになる。
帰り道から外れた公園の遊具の陰に、俺は隠れていた。
転んだ時に足を捻ったようで、その部分が腫れていた。
これじゃ上手く走れない。
正直この足で家まで走れる気がしない。
隠れながら帰るしかないようだ。
道端に置いてきた荷物については、後で考えよう。
今はどう帰るかだ。
けっこう時間が経ったせいで、辺りはもう真っ暗だ。
公園内の街灯が唯一の明かりだった。
「はぁ……何なんだよ……くそっ…!」
つい悪態をついてしまう。
そのくらい俺が置かれている状況は、不条理だと思う。
連絡が一切着かない友達。
突然失踪する彼女。
そして昨日から見る、追いかけてくる影人間。
訳が解らない。
いったい俺の周りで何が起こっているのか。
「………」
俺は遊具から顔を出し、外の様子を確認した。
公園内には、俺以外居ない。
外も真っ暗だが、何かが居るような気配は無かった。
今のうちだろうか。
何にしても、ずっとここに居るわけにはいかない。
俺は遊具の陰から出て、ゆっくりと立ち上がった。
大丈夫だ。
焦らずいけば早く帰れる。
そう意気込み、地面を踏み締めた。
「ッ………!!」
ただならぬ気配を感じ、俺は足を止めた。
思えば、このタイミングで出たのが間違いだったのかもしれない。
見渡す限り、何も居なかったというのに……。
街灯の明かり照らされた公園の真ん中に、突如として影人間が現れた。
黒い靄のようなものが出ており、ゲームのバグのように体の一部が消えたり現れたりしている。
そんなこの世のものとは思えない存在が、すぐ目の前に居た。
「あっ……あぁ……」
早く逃げなければならないのに。
それなのに、俺は尻餅を着いてしまった。
腰が抜けてしまったらしい。
上手く立つことができない。
気づけば影人間が、目の前で俺を見下ろしていた。
震えが止まらなくなる。
歯が噛み合わず、ガチガチと音が鳴り響く。
影人間が、ゆらりと両手を広げた。
「いっ……嫌だ…。やめろ……!!」
そう情けなく懇願する。
それが俺の最後の抵抗となった。
もちろんそんなものが通じることはなかった。
影人間はゆっくりと俺に覆い被さる。
それっきり、何も解らなくなった。