屋上にて絵画
とある都市伝説にも満たない噂話。
その日、彼女は落ちてきた。
「恋に」とか「闇に」とかではない。
憎らしいほど澄みきった青空から真っ逆さまに落ちてきた。
一つ柱を押し付けられて。
運命の女神は社にたたずむ彼女を見るなりこう言った。
「ソトナル者。都市国家ノ秩序ヲ乱ス。ウチト対ヲナス。運命ハ、カノ者ニ従ワズ、導カズ」
闇色の翼をはためかせ月に向かって翔びたったその姿は神様というよりは悪魔のよう。
その日、彼は普通に暮らしていた。
ただ普通に、至極まっとうに暮らしていた。
自分の持つ力を知らずに。
かの女神は彼にもこう言った。
「ウチナル者。ソトト対ヲナシ、ソトヲ制御スル。運命ハ、イマダ動カズ」
二人は出会い、ウチとソトはつながり世界は一体化する―
根拠も出どころもわからない眉唾な話。ただその場を一時的に盛り上げるだけの意味のない話題。人間は往々にしてその手の話題に興味をそそられる。―それがギリシャ十二神が統治する異界の国だとしても。
その国の名はオリュンポス。地球とは似ても似つかない地球の大海に浮かぶ島。自然にできた大地だが計画的な開発により人工島のような印象を持つ島だ。空と鏡面になっているような青い海から夏の喧騒を含んだ潮風が近代的に発達したコンクリートジャングルを駆け抜けていく。
中央の小高い山の大半を取り巻くように街が栄えている。
陽光の反射板となっている高層ビルの窓ガラスがオパールのようにきらめく。時刻はもうすぐ4時。路面電車の駅前には授業帰りだろうか、学生で溢れかえっていた。駅の前に食べ歩き専門の店や安価なレストランなどが並ぶ光景は現代日本とさほど変わりはない。変わりがあるとすれば3Dホログラムの広告があることぐらいか。その駅から伸びる大きな通りの脇道を少し入った所に学校が1つ。私立メディス高等学校。偏差値もそこまで高くないいたって普通の高校である。その高校から運動部の掛け声をかき分けて校門を出ていく影が3つ―
「やっと帰れる…」
突き抜けるように澄んだ青空が少し赤みがかってきた頃、20才老けて見えるほどやつれた表情のレイ・ヒュエトスの口から漏れたのは疲れをにじませた声だった。高校での50分6時間の授業を受けて元気はつらつなほど彼の体力はあるわけではない。現代文に数学、体育美術。頭も身体もフルに使い果たした彼は背負った重そうなリュックに押し潰されるような体制で少し足を引きずりぎみに帰っているのだった。そんな彼を一瞥してレイの隣を歩いている金髪ポニーテールの女子高生が呆れて口調でこぼす。凛とした佇まいの整った顔立ちでいかにも優等生な雰囲気がある。
「帰れるってあなた授業半分寝てたじゃない」
「昨日も夜まで手伝ってたんだよ。」
顔をしかめながらレイは苦し紛れの言い訳を放つ。彼にもいろいろ寝不足の事情があった。その事情を彼女も知っているはずなのだが、
「だからって授業は受けなさいよ。補習まだあるんでしょ。増やしてどうすんの」
「ぐっ……」
彼女からの正論のボディーブローにレイは苦々しげに呻く。日頃から授業をサボって寝ている彼には多くの教師から熱烈な補習という名のラブコールを受けているのだ。明後日から夏休みというもののその夏休みのほとんどが補習や家の手伝いでつぶれ忙しさで言ったら通常の比にならないレベルである。心も身体も休まるところがない。そんな現実にキャッキャウフフした夏休みにやりたいことという理想を地動説によって消えた天動説のように木っ端微塵に砕かれた真実にレイは不幸だとも言いたげな顔で嘆息する。彼のもう片方の隣を歩いている男子からも
「まったく美人な先生と二人きりなんてうらやましいなぁ(棒)」
「補習じゃなければな!プテラ、おまえ本心じゃないだろ!」
「てへぺろ★」
と、プテラ・マギニクスの整った顔には似合わないテヘペロポーズで茶化される始末。プテラはそのカールした黒髪をくるくるといじりながら
「僕ぁもう補習ないからねぇ。レイよりも自由なのさ」
「なっ、いつの間に…!」
友が同志でなくなった衝撃にうち震え、大げさに膝をつくレイを見て天啓が降りてきたかのように腕を広げて優越感に浸るプテラ。まるで神話の一節のような構図の二人に彼女は神話を否定する科学者のように冷たい視線を浴びせる。
「えー……何やってんの、ここ公共の場なんだけど、イン・パブリックなのよ?」
「なんで言い直した」
「ニンフィ、だだ滑りだねぇ」
「う、うるさい!ノリよノリ!あんたたちの空気に当てられただけよ!」
「そういうことにしとこかねぇ」
「むぅ~」
不機嫌に頬を膨らませるニンフィの顔は発火しそうなくらい火照っていた。
「どっちにしろ補習はなくならないけどな」
現実に引き戻されてレイは乾いた笑みをこぼす。補習がなくなるという億が一にもあり得ない夢を諦め心のなかで少しは勉強しようと誓うのだった。廃人のような目をし始めた友人が哀れにまたは正気の沙汰じゃないと思ったのか、
「ほら、また勉強見てあげるから、補習頑張って」
「ありがとう!また頼む!」
彼女の好意にとびきりの笑顔で素直に感謝するレイ。その真っ直ぐな感謝に照れてニンフィ・オプローは目をそらす。プテラはそんな彼女の初々しい様子を見てニヤニヤしている。
「わ、私が手伝うんだから感謝するのは当然よ!」
そうそっぽを向いた彼女の耳が心なしか赤くなっていた。
「ツンデレのテンプレかよ」
「プテは黙って!そういうのいいから。じゃ、私こっちだから、じゃね」
「お、おう。じゃあな」
照れるを通り越して怒っているようにも見える彼女の強い語気に当てられてレイは曖昧に手を振るのみだった。
街中へと足早に去っていく彼女を見つめながら
「ニンフィがあんなに慌てるなんてなんの心境の変化かねぇ?」
「そうか?」
「昔から、優等生で完璧お嬢様だからね。慌てるわ、耳まで赤くなるわなんてこと見たことなかったんだけどねぇ」
「まぁ優等生なのは分かる。律儀だし真面目だし優しいし」
「小さい頃は真面目すぎて色々な方面から喧嘩を売られてたからねぇ。この国で金髪ってのも珍しいし」
「俺はあの髪好きだけどな。綺麗で」
「ニンフィが聞いたら恥ずか死しそうだな」
「恥ずか死ってなんだよ」
プテラはなおも続ける。
「あいつ感情も薄くてロボットみたいだって言われてたけど、それも高校で変わったからねぇ」
感慨深くそしてどこかジジイくさくうなずくプテラ。駅の前で立ち止まると、
「じゃあね、そうだな最後にニンフィの鉄仮面がレイの前でのみ崩れる理由を考えてみると面白いかーもにー。バイバーイ」
変なイントネーションを風に残して、プテラはそれはそれは楽しそうに去っていった。
彼のスキップのようなそれでいてリズムが不規則な足取りを見送っていたレイだったが16時を知らせる鐘を号砲にして家へと急いで帰ったのだった。
「ただいま帰りましたー」
「遅い!玄関の二つ、イーアペトスに天地無用一つ、ヒュノプスに一つ行ってこい!」
帰って直後にレイに浴びせられたのは家にいた少女(?)からの激だった。綺麗に掃除された玄関のなかには配達しなければならない荷物が床を覆い隠すように無造作に散乱していた。
「了解しました!イリス様。すぐ行きます!」
「あ、ちょっと待て!」
「はい?」
慣性の法則で勝手に動こうとする体を無理やり直立させてレイが応える。
「最近、魔物が多く出没しているらしい。お前も気を付けるんだぞ」
「分かりました。では行ってきます」
荷物の山から目当ての物を探し当てると、割れたグラスが描かれている赤いシールがでかでかと貼ってある段ボールとクランチバックのような封筒を小脇に抱えて制服のままレイはまた外に繰り出した。まだ太陽は頭上。角度で言うと40度ほどの位置にいる。西日からの視線をかき分けるようにしてレイは住宅街へと走っていった。
この国では神は神官と呼ばれるお付きの者たちと共同生活を営んでいる。この国を造り出したのは神々であるとはいえお金無しでは生活出来ない。神とてお腹は空くしライフラインも必要だ。そのため働いていたり企業している神も少なくない、というかほとんどだろう。資本主義には誰も逆らえないのだ。実際、都市運営、交通、農業、工業などあらゆる方面で神々は活躍している。
「ヒュノプス邸にイーアペトス邸、遠いな。日没までに間に合うと良いけど」
そうこぼしてレイは小脇に抱えたものを守るようにして走る。イリスの営む運輸会社[虹の橋]は神様専用の宅配である。民間の業者で扱えない代物の配達や速達のみ行っている。会社の規模もとても小さいもので、イリスとイリスの神官であるレイの二人で運営している。そのためピーク時には休む暇もなく配達することになるため、その日が平日になったりするとレイは学校へ行かずに配達することになってしまうのだった。
「ったく人使いの荒い神様だな。こっちは徒歩だぞ」
文句をいいながらも彼は律儀に日没に間に合うように急ぐ。
時刻は5時半。ヒュノプス邸。
「ありがとうございましたー!」
無事に日没前に仕事を終えた彼の空元気で出した声が閑静な住宅街に響き渡る。潮の喧騒をわずかに含んだ生ぬるい風が頬を撫でる。レイはひとしきり仕事を終えた達成感にひたった。
ふと、今日唯一起きていた授業の内容を思い出す。この世界にはさまざまな国があってそれぞれ固有の神々が統治していて、そのなかには同じ物資、概念を司る神も少なくない。他人を排除するのではなく受け入れよう―という思想がこの社会には必要だそうだ。
多文化共生や多文化理解と呼ばれるようなリクツである。
言葉の意味は、なるほど、納得できる話だ。
しかし現実では社会を構成するにあたって確実にヒエラルキーが誕生する。
どんなに平等といってもその平等は同じ階層の中での平等にしかならないのもその理屈の反例である。
レイ・ヒュエトスにはそれがよく分かる。
神の従者であっても、神の権能が使えても、物の瞬間移動ができたとしても、所詮下級神官として地位にしかならないし、そんな地位は、現代社会では微塵も役にたたないのである。
補習の一つや二つ、無にすることが出来ないのだから―
「早く帰んねぇと怒られるな…イリス様が晩飯の材料買っているといいんだがな」
レイはそう呟くとヒュノプス邸から立ち去った。長い時間立ち止まっていたからヒュノプスに不審がられたかもしれない。顧客の信用を失うことになったらイリスから大目玉を食らうだろう。
―遅れた言い訳をどう言えばごまかせるかと真剣に悩みながら家へと向かった。そしてふと足を止める。眩い西日に目を細める。
道路の先。廃ビルの屋上。
逆光の中に一筋の黒い直線が走った。2度。3度。一筋一筋は細いが黒いため目立つ。
無音でただ屋上に突き刺さるだけだった。
「―にしても、この暑いのだけは勘弁してくんねえかな、くそっ」
右手で目元に影を作り精一杯陽射しに対抗しながら、レイは悪態をつく。
高温乾燥のこの島では陽射しが肌を突き刺すように痛い。さらに真夏の海面で温められた風は、湿度が高いぶんたちが悪い。神様でも過酷な環境だ。
ヒュノプス邸からレイの家までは路面電車で10分ほどの距離にある。しかし、小銭数枚しか持ち合わせていなかったため、レイには歩くというコマンドしかない。鬱々とした足取りで住宅街を歩く。
「―俺の見間違いじゃ……ないよな」
件の廃ビルはちょうど帰り道に面している。ビルまでは約200メートルといったところか。野次馬根性にかられてレイはビルの屋上に行ってみることにした。
ビルへ向かっている間も黒い直線は雨のように屋上に突き刺さり続けていた。不思議なことに屋上以外には黒い雨は降っていない。6度。7度。レイがビルに近づいていくことに呼応するように頻度が増えていく。8。9。10、11、12、13指数関数的に頻度が増していきついには一筋の太い亀裂のようになった。普段ではあり得ない光景である。空間どうしの隙間、次元の狭間のような雰囲気がある。その線に沿って頭上を見上げても紫がかった空の果てまで見えるだけで直線の端を視認することはできなかった。
幸い、ビルの側面に沿うように延びる非常階段はまだ健在だったためレイは一歩ずつ足元を確かめるように昇っていった。その間も時折頭上の線を見上げていたが線は消えるどころか揺らぐ気配もしない。しかも徐々に幅が広くなってきている気がする。
レイは考えられる限りの可能性を検討したが、しっくりくる答えは得られなかった。神様が何か儀式を執り行っている可能性も考えた。時折神様が自身の権能を補助補強するために得たいの知れない儀式をすることがある。レイに見覚えのない現象が起きるとすればその線が濃厚だ。
しかし、儀式を執り行うといっても不可解な現象が起こるのは最大でも5分程度だろう。その点今回の黒い直線は発生してからが長い。
「危ないものじゃなきゃ様子だけ見て帰るか」
ついにレイの足が止まる。屋上についたのだ。
コンクリートの床面はひび割れ、所々鉄筋が見えるほど崩れている所もある。落下防止用のフェンスも大半がひしゃげていて原型を留めていない。静かでそれでいて寂しさすら感じる。その最奥、唯一フェンスが残っている辺りにそれはあった。
「え?人?」
コンクリート面に垂直に突き刺さっているそれの中心に一人の少女が空を見上げ、立ち尽くしていた。見慣れない制服を着た少女である。綺麗な顔立ちをしているが生気が無く、どことなく精巧に作られた人形のような雰囲気がある。
「………」
少女の美貌と黒い直線、屋上からの街並みが調和して絵画のようになっている情景にレイは息を呑む。
レイが見入っている数十秒間、少女はずっと空を見上げていた。夕暮れによって刻々と色を変えていく大空を見ている。そのように見えた。
いや、正確には大空の先にある何かを観測している。そんな風にも見えた。
黄昏時、荒廃したビルの屋上に立つ少女の姿は、ずいぶん儚げでもの悲しそうに感じられる。
まばたきもしないまま空に見入る彼女を観察しながら、レイは、我にかえってなぜここに彼女がいるのかという単純な疑問が湧いてきた。
「………」
ふう、と一つ深呼吸をして意を決して少女に近づく。ずっと見つめる訳にはいかないのだし、そっとしておくにはその表情がもの悲しげだったのだ。
しかしレイが一歩踏み出した瞬間、少女の体がマリオネットの糸が切れたかのように揺らぐ。レイは倒れる少女の体を支えようと走り出した。だがしかし、あまりに非現実的で、不可思議な出来事に呆然と立ち尽くしてしまった。
黒い直線が少女の体を覆うように太くなったのだ。黒い面となったそれに支えられるかのように少女の動きがスローモーションになる。勢いが死んだまま、とさっ、と軽い音を立てて彼女は倒れた。
「おい!大丈夫か!?」
レイはすぐさま彼女に駆け寄り肩を揺さぶる。
「…んむぅ」
「…は?」
横たわった少女の口から漏れたのは可愛い小動物の鳴き声のような声だった。どうやら寝ているらしい。
「おーい?何やってんすかねぇ?」
レイがペチペチと頬を叩くが少女はわずかに身じろぎするだけで気持ち良さそうに寝息をたてている。
「こんなとこで寝るなよ。家どこだ?帰ってから寝ろよ」
彼女の華奢な肩を揺さぶってみる。手のひらから伝わった柔らかい感触にレイは戸惑いを隠せない。
「…お母さん。あと十分…」
「お母さんじゃない」
「…まくら……」
「それ俺の脚」
薄目を開けて彼女しゃがんでいたレイの膝を押し下げる。そのままレイの膝に顔を押し付けてまた寝てしまった。プニプニした頬の感触がレイの鼓動を駆り立てる。鼓動で剣の舞が演奏出来そうだ。
ふとさっきまで彼女が立っていた黒い面を眺めてみる。不思議な壁だ。風が吹いても揺らがない。ただただ黒い。一見無害そうだがデカイ。邪魔すぎる。全長1kmはあるんじゃないだろうか。これだけ大きいと誰かが見に来るに違いないと思っていたが誰も来ない。レイと少女だけのようだ。二人きりか、と呟いた途端、レイの顔が発火する。今の状況が端から見れば相当ヤバいことに気づいたのだ。ただビルの屋上でいちゃついてるカップルに見えなくもない。美少女と二人きり、膝枕、制服、廃ビルの屋上。そんな言葉がレイの頭をぐるぐると化学反応を起こしてかき混ぜる。
―あれって消せんのかななど溢れそうになった煩悩を消し炭にするために黒壁のことを考えていると膝に何かが擦れる感触がした。
「…んっ。寒いな」
彼女が顔をあげる。レイの膝で寝ていたせいか頬が右だけほんのり赤い。彼女はやはり美少女だった。肩のところで切り揃えられた闇夜の水面のような黒髪、あどけなさを残しつつも凛々しく整った顔立ち、華奢な体躯。どこを見ても人形のような少女だ。レイのそんな少々変態的な視線を受けていることお構いなしに、美少女は、んー、とこぼしながら万歳をするような格好で伸びをする。
「おっ、起きたか」
「誰?」
寝ぼけた顔のまま少女が首を傾げた。いきなり目の前に見知らぬ人がいるのに驚かない。ぽーっとレイの顔を見つめている。逆にレイの方がその美顔を直視できず赤面する。
「レイ・ヒュエトス。さっきまでお前の枕だった人間だよ。で?お前、名前は?」
「ここはどこ?」
彼女の性格は今の一言で大体わかった。こいつ人の話を聞かない。悪気は無さそうだが、なんにせよ面倒な人種に違いなかった。
どうしたもんかな、とレイは一瞬だけ黙考し、
「γ地区だよ」
彼女の質問にしたがってみることにした。
「は?どこのγ地区だ?」
「オリュンポスに決まってんだろ?」
当たり前だろ、と半ばむきになってレイは返す。
「それはどこだ?」
「え?」
レイは初めて真正面から少女の顔を見る。イリスの仕事を手伝うようになってから5年たつが、土地勘ない、人の話聞かない、そんなナイナイづくしの人は見たことがない。
少なくともこの少女は異国の地から来たらしかった。
「どこから来た、お前?」
レイが訝しげに少女を問い詰める。
少女は、大人びた瞳でレイを見返し、ダルそうに首を振って答えた。
「わからない。ほとんど記憶がない。今覚えているのは自分の名前、年齢くらいだな」
は、とレイは、気の抜けた顔で少女の言葉を聞いた。彼女がなぜ平然とできるのかがわからない。普通、記憶がないときパニックになりそうなものだが。
「マジか…」
「マジだな」
平然と少女は答える。話が一段落したらしく、彼女は黙った。やっとこっちの番だ、と
「それで、お前のな」
「私を養え」
ふぁ?、とレイの口から声になりかけの空気が漏れた。また、遮られた。いや、何を言っているのかわからない。初対面で、異性、素性も知らないやつに養えと?あまりのショックにレイの頭はオーバーヒートした。
「ふぁ、え、ちょっと待て。なにゆえに?」
目頭を押さえながら質問する。さっき自分でこいつは話を聞かないと結論づけたくせに動揺して忘れたらしい。
「そりゃあ、お金も家もないから。私の事情を知ったお前のうちに居候すれば楽だからな」
「あー……悪ィ。そういうのもう間に合ってますから」
面倒くさい事になる雰囲気を察して、レイが立ち去ろうとすると少女が少し口調を強くして呼び止める。
「いいのか?こんな美少女を置いていくのか?このまま犯罪にあうかもだぞ?」
うえーん、とウソ泣きまで始める始末。
面倒くせぇ、と嘆息するレイ。ここまでやられるとこちらが悪い事をしているように思えてくる。
「いや、うちにそんな余裕ないんで他あたってくれ」
再度立ち去ろうとした刹那、彼女もとい情緒も名前も不明な少女が実力行使にまではしってきた。
「ねぇ、しつこいんだけど」
「了承するまで帰さん」
レイの右足首を掴んで潰れたカエルみたいになっている彼女にはプライドもクソも無いらしい。
「はぁ~…分かった。分かりましたよ。宿くらいなら提供してやる」
じゃないと帰してくれないだろ、と口の中で呟きながら彼女を睥睨する。
おっ、と埴輪の口からでも出てきそうな鳴き声をあげて首を上げた。口をぽけっと開けながら見上げる彼女は何とも可愛らしい。美少女だという彼女の自負はあながち間違いではなかった。性格は難しかないが。
「ありがとう。じゃ、早速連れていってくれ。あ、金ならちゃんと出世払いで払うから」
そう一方的に伝えてずんずんとレイの腕を掴んで屋上の出口へと向かう。
そういえばまだ名前を聞いていない。
「宿を提供してやるってんだから、名前くらい聞かせてもらおうか」
「あ、まだ言ってなかったか?」
レイの一歩前から振り返って、
「コムラ・ミソラ。いや、こちらではミソラ・コムラの方が正しいかな」
ふわりと微笑んでミソラはそう言った。先程までの傍若無人な振る舞いから想像がついたら一流のメンタリストだと言えるほど可愛らしい微笑みだった。
「当面は面倒みてやるよ。なんだ…まぁ…よろしくな。ミソラ」
「ああ、ところでお腹すいたから早く帰りたいな」
「良い雰囲気を台無しにするなよ…」
雰囲気など気にもとめない彼女の欲望全開の言葉にレイは嘆息する。マイペースすぎる。
気長に付き合うか、とレイはミソラの隣に立ち、何かを言おうと口を開いた。
刹那、黒の柱が胎動する。まるで得体の知れないなにかを産むように。一度、二度。黒の柱が胎動するたび、空気の粘度が上がり重たく澱んでいく。
得体の知れない雰囲気を感じて後ろを見たレイの声は明らかに震えていた。
「おい、何だよ。あれ…」
三度、四度。柱は今まさに触手の絡み合ったボールのようなモノを産み出そうとしていた。神話の中でも見たことがない。
「タコ…ではないな」
などとのんきに言うミソラ。
その間にもそれは柱から這い出てきていた。ぼとりと柔らかいものが打ち付けられるような音を響かせてついに現し世に生まれでてきてしまった。逃げ腰になりながらレイは、
「おい、逃げるぞ!」
「いや、ダメだ」
「はぁ?」
断言するミソラと動揺するレイ。両者の対応は違ったがただ一つ共通する思いがあった。
―こいつはヤバい―
「後ろを見てみろ。塞がれている」
じっと触手ボールを見据えたままミソラが新たな事実を明かす。
触手ボールに注意は向けたまま振り返ったレイが見たのは階段付近でのたうっていた二体目だった。
彼女は動揺も驚きすらもしない。ただ目の前の事実を冷静に受け止めているだけに思える。
「マジかよ……お前戦う手段はあるんだろうな?」
「ある、と思う」
不安げにミソラは制服の胸元に手を当てる。彼女の首には細い紐がかかっていて、先端はブレザーとワイシャツの間に隠れている。
触手ボールは数十本はある触手で体を器用に安定させ、少しずつだがこちらに近づいてきていた。
レイは散乱していた鉄パイプを手に取り、握った。
次の瞬間鉄パイプは階段側の触手に突き刺さっていた。
紫色の液体をほとばしらせながら触手は痛みに悶えていた。金属が擦れる嫌な音がする。
「瞬間移動できるんだなレイは」
奇怪な生物を分析する科学者の目でレイを見る。
「借りてるだけだ!」
レイの瞬間移動はイリスの伝令使としての権能が分化したものである。神官は神の血液を飲むことでその神の神官となる、つまり神と回路を繋ぐことで初めて神官たりえるのだ。そして回路を繋いだことの副作用が権能の分化なのだ。
「―!」
触手ボールが叫ぶ。どこかに口があるらしい。―あった。ボールの左上、短い触手が深海魚の鋸歯のようにぽっかり開いたところに生えている箇所がある。レイはすぐさまフェンスの残骸を移動させる。
一つ。短い触手に刺さる。まだ動きは止まらない。
二つ。口の中に刺さった。触手ボールからは嗚咽のような鳴き声が聞こえる。それが断末魔の叫びだった。
「ミソラ!そっちは?!」
触手の沈黙を確認してレイは振り向いた。
大丈夫だ、と短く返ってくる。
ミソラの正面からレイが倒したものより一回り大きいボールがゆっくりとだが迫ってきていた。もう三メートルもない。
おもむろにミソラが胸元から取り出したのは銀色の鍵。紐が通されていてネックレスのようになっている。
「魄銀」
鍵を強く握りしめ、静かに言葉を紡ぐ。その声は神託のようであり、祈りのようであった。彼女の呼びかけに応えるように触手の周囲に無数の白い穴が出現した。
空間にぽっかりと空いた穴からオフホワイトの霞が触手にまとわりつき蹂躙し、瞬く間に解体していった。触手塵となって消えていく。
魔獣は元々世界にはいてはいけない存在。だから死を迎えると、世界そのものから抹消されていく。
唖然として解体を見ていたレイは我に返りミソラを見やる。彼女は凛として触手の最期を見ていた。
「お前…その鍵って」
「見覚えはあるがこんな能力があるとは思わなかった」
うんうんと腕を組みながらうなずく。
「思わなかったって…驚かないのかよ…」
「驚いてるさ、ほら手が震えてる」
レイの手をとって驚きの証明をしてきた。実際、彼女の手は少し震えていたが、レイにとっては女の子に手を握られたことの戸惑いと緊張でいっぱいいっぱいだった。
「な、なんとかなったな。ほ、ほら帰るぞ。案内してやるから」
強引にしかし優しく手を振りほどき、階段の方へと歩いていく。心なしか耳が赤い。
「待ってくれ。一人にするな。迷子になる」
レイの隣に並ぶ。彼女とのきょりは手が触れ合いそうになるほど近い。なるべく触れ合う気まずさを避けるようにレイは細心の注意をはらう。初対面の女の子がこんな近くにいてこれから自分の家にあげる、想定外の事が多すぎて頭がパンクしそうだ。
結局日没までに帰れなかった、とレイが思い出したように嘆息すると
「なぁレイ。今日の夕御飯って決まってるのか?」
黒目がちな目で問いかけるミソラの姿があった。
「マイペースすぎるって…」
「?まぁこれから世話になるわけだし、時々ご飯なら作ってやる」
「それはありがたいけども、今言うことかよ」
「お腹がすいたからな」
「そうでしたね……」
レイはまたため息をつく。今度はミソラへの諦めを込めて。
しばらくこのマイペース女に振り回されることを想像すると滅入るが、不思議と楽しさが込み上げてくる。人助けをした達成感が昇華されたのか、可愛い女の子と出会えたからなのか、はたまた別の何かなのかはよくわからない。でもこの謎めいた少女がレイの普通だった日常をねじ曲げて違ったものに仕立ててくれることには確信に近い推測があった。
「お前はどこの人間なんだろうな…」
レイは日の光りもそろそろ消える空を見つめる。
はじめまして紙村滝です。この小説が初めての投稿となります。自分の能力の稚拙さを確認したくて投稿した次第です。
率直な意見をどしどしお願いします!!
追記:作者の胃はよわよわです。