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百色眼鏡  作者: 八木うさぎ
第1章 色眼鏡
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無色透明な世界④

 鈴鹿の家を出たのは、十九時をちょっと過ぎたあたりのことだった。

 もっと勉強する必要があるのは互いに理解しているところではあるが、俺はいつもこのくらいの時間でお暇することにしている。



 勉強を教えるといっても、ただ長時間つきっきりになる必要性はない。

 そもそも勉強とは自主的なものなのだし、それに無理もよくない。無理をすれば体調を崩すし快復の時間も必須となる。受験生にとっては二重に無駄な時間だ。



 鈴鹿の家がある都営住宅は、埼玉との県境となっている川の傍にあって、まとまった傾斜を切り開いた一帯に乱立している。そのため、比較的風通しがいい場所だ。

 川沿いに歩いていくと、ついこのあいだまで咲き乱れていた桜もすっかり消え去っていた。可憐な装いを失くした枝木が、今は葉を点々と芽吹かせている。



 季節の変化というのはまるで砂時計のようなものだと思う。少しずつゆっくりとしか落下しない砂粒の動きは鈍重で大した変化もないように見えるのに、それでも確実に砂粒の量は変わっていくし、時間も過ぎ去っていく。後になって振り返って、そこでようやく実感が立ち込めてくる。

 ……本当、この半年はあっという間だったな。

 


 川沿いから逸れて、大通りにでた。次々と風を切る車の音を背景に、等間隔に点在された外灯にわずかに照らされながら、とぼとぼと一人歩いていく。その時間を利用して俺は考えていた。

 どうすれば今より効率的に鈴鹿を成長させられるかを。

 そして、どうすれば今より効率的に俺が自分の勉強ができるかを。

 


 焦ってはいけない。そして、失敗は許されない。俺とあいつの、それぞれの未来のためにもーーと、そんなことを考えながら帰宅するのが今ではある種の日課になっていた。

 ズボンのポケットに突っ込んでいた手が、合鍵を弄ぶ。



 俺が鈴鹿に勉強を教えることになった際に、二つほど条件を付けさせてもらった。 

 まず一つ目が、『とりあえず、三ヶ月後の学年末の試験までは問答無用で勉強を見てやる。そこである程度の結果が現れなかったら、申し訳ないがこの話は無かったことにする』というものだ。

 前にも述べたが、今までのテストの凄惨な結果をあんなにも大量に見せられ、そんな底辺の奴をたかが一年で大学に、しかも国立に合格させるというのだ。下手をしたら、俺の方が先にやる気をなくしてしまってもおかしくない。

 だが、この条件を鈴鹿は嚥下し、そしてなんとかクリアした。

 そして二つ目が、『勉強は、なるべく人目がつかないところで行うことにする』というものだ。



 これを聞いて最初、鈴鹿は首を傾げていたが、これにはれっきとした理由がさらに二つある。

 一つは、当然のことながら、勉強に集中するためだ。

 雑多な場所よりも静かな場所で勉強する方が集中できるのは確実だし、周りからの干渉によって時間を割かれることもなくなる。

 そしてもう一つは、鈴鹿のためだ。



 自分で言うのもなんだが、蛆虫どもを逆に利用してやろうと画策してきた俺は、いまや学校内では色々な意味で人目をさらう存在となってしまっていた。

 たまに女子から体育館裏に呼び出されることがある。迷惑なことに。

 そして男子からも体育館裏に呼び出されることがある。非情に迷惑なことに。

 それらを鑑みると、普段他の奴が勉強の質問を聞きにくるような類の割り切ったような関係ならいつものことだから問題視もされないのだろうが、俺と常々一緒にいるとなると、話は変わってくるに違いない。



 仮に学校の誰かに目撃されようものなら、きっと今以上にいろいろと面倒なことになる。

 そうして迷惑を被るのが俺だけならまだしも、こういう場合、連れ立って鈴鹿も巻き添えをくらうかもしれないということが予想される。そんなことになろうものならもう勉強どころじゃない。すべてが水の泡だ。



 だから俺たちは、互いに学校では関わることをしない。

 今まで通り、たまたま同じ学校にいるだけの関係を表面上は続けなければならない。

 そんな理由から、少なくとも学校では勉強を教えることができない。そしてそれは、放課後であっても例外ではない。



 それなら図書館で、と無難に考えるかもしれないが、学校の連中が全く近づかないようなところとなると、結構遠出をしなければならなくなる。だが、いちいちそんなことに裂ける時間もないと言っていい。

 土日なら問題ないかもしれないが、万が一にも知り合いに見つかったりしようものなら、余計にやっかいなことになる。いい年をした男女が二人きりで土日に図書館だなんて、十人が見聞きしたら十人ともにカップルと思うことだろう。断じてそれはないのだが、否定しても聞く耳を持たないだろう。

 


 勉強するのにいい場所が思いつかないでいた俺に、鈴鹿はこう言った。

 私の家じゃダメ? と。

 は? と思ったが、頭ごなしに否定せず、その発言の裏付けを聞いてみたら、これが意外と理にかなっていた。



 鈴鹿の家は、とある都営住宅の一室なのだが、先にも述べたように、父親は入院していていないし、弟は十時に家を出るとそれから夜遅くまで帰ってこない。そして美乃梨は、放課後になると例のエトワールで十九時くらいまでくらいまで働くという(あくまで美乃梨が中学生のときの話だが)。

 つまり、十時から十九時までのあいだは誰もいない。もちろん誰の目にもつかない。



 それを聞いてしまったら、なるほど、条件を満たす場所はここしかないんじゃないかという気になっていた。

 まがりなりにも女子の家、というのがいささか引っかかったが、別にその家に入っただけで発作が起こるわけでもないだろうと、とりあえず下見をしに行くことにした。

 


 幸運なことに、俺と鈴鹿の地元は同じだった。住んでいる場所の関係で学区域が異なっているせいで小学校、中学校と今まで顔を合わせることがなかったに過ぎない。だから、鈴鹿の家がある都営住宅も話を聞いているだけでおおかたの場所が特定できた。

 というのも、俺も同じ市内の、鈴鹿の住む都営住宅から徒歩でおおよそ三十分のところにある、別の都営住宅に住んでいるからだ。

 


 初めての訪問は、先に鈴鹿が家に帰り、時間をずらして、部活動に励む学生ですら帰宅しているであろう夕方過ぎに俺がその家に一人で直接向かう、という段取りのもとで行われた。

 そして、広大な面積に何棟もの共同住宅然とした家屋が立ち並んだ一団地にたどり着き、部屋番号を書いたメモを頼りに鈴鹿の家を探した。



 美乃梨と初めて顔を合わせたのは、そのときのことだった。

 該当の建物を探り当てようと下から周囲を見上げていたが、どれも似たような建物で、そのうえ冬の夜ということもあって、どれがお目当ての棟なのか初見でははっきりしなかった。そんなところに、「何かお困りですか」と声を掛けられたのだ。



 振り向いて、これが鈴鹿の妹だと一目でわかった。

 外灯の一つに照らされたその顔立ちはやはり鈴鹿に似ていて、違うのは身長くらいなものだった。強いて言えば、あとは髪型が違った。鈴鹿は美容院に行くお金がもったいないとかで腰辺りまで髪を伸ばしていて、美乃梨も少し前まではそうしていたようだが、このときにはすでにエトワールと繋がりがあったから、食品衛生上の関係からせいぜい肩にかかる程度に揃えられていたようだ。

 制服姿ではあったが、近寄らずとも小麦の匂いを漂わせていて、『売れ残り』と称されたのであろうパンが詰められたビニール袋を片手に握っていることもあって、前情報と一致していたというのもある。

 


「ひょっとして、君が『鈴鹿美乃梨』さん?」

「……そうですけど。誰です?」

「ああ、ごめん。先に名乗るべきだった。俺の名前は君島健っていうんだ。君のお姉さんの同級生なんだけど」



 それだけ言うと、いかにも怪訝そうだった美乃梨の鋭い視線が、ぱっと緩和された。どうやら鈴鹿に予め俺が訪れることを聞いていたらしい。

 だが、「うそ、こんな……」と、謎の狼狽を見せてビニール袋を床に落としたりしていたのは……何だったんだろうあれは。今でも謎のままだ。



 そういえばあのとき、先導する形で美乃梨が前を歩いて、その後に(ある程度距離を取って)続き、そして現れた家の玄関を「ただいま」と開くと、先に入ることはせずに「お先にどうぞ」と客をもてなすように横にはけた。そこで「案内してくれてありがとう、美乃梨ちゃん」と普段学校の女どもに話しかけるような調子で感謝しただけなのに、眼を泳がせてどこかに引っ込んだのも謎だったな。今考えてみれば。



 そのときは単に嫌われてしまったのだろうかと思ったが、別にそんなことはどうでもよかったので気にせずいた。だがどういうわけかその日以来、美乃梨は俺を『おにいさん』と呼ぶようになった。初めはあんなに余所余所しかったのに、それが一転して、馴れ馴れしいくらいになったのだ。さっきみたいに怒涛の如く話しかけてくるほどに。一体何故? 



 余談だが、実の兄である清志きよしに対しては『お兄ちゃん』と言っているので、俺との間に一応の差別化はされているらしい。



 そのお兄ちゃんは……って、なんか飛躍してしまったけど、そもそも何を考えていたんだっけか?

 ああそうだ、二つの条件のことだった。



 とりあえず、鈴鹿の家で勉強することになったのは、そういう経緯があってのことだった。そして、合鍵を渡されることになったのは、それから間もなくのことだった。

 ちなみにその鍵は、入院する以前まで父親が所持していたものだという。



 そんなこんなで始まった鈴鹿の家での勉強は、予想以上に効果的だった。

 だが、あるとき鈴鹿が言ったのだ。「教えてもらう立場なのに君島くんに足を運んでもらってばっかで、なんか申し訳ない」と。

 そんなふうにして日ごろの感謝を形にして振舞われた料理を俺が断って食べなかったわけだが、意外なことに鈴鹿はそれについて根に持っているのがわかった。さっきの様子からして。

 まあいい。恨みたければ勝手に恨め。それでも俺は食わん。



 そしてそのとき、料理とは別に、気分転換をする意味でも新しい勉強場所を探さないかという話もでた。鈴鹿の一言にはそういった意味も含まれていたらしい。



 けれど、代替となるような場所などそうそう見つかりはしない。そもそもそんな場所があれば俺が最初からそこに決めている。選択肢がないからこそ、苦渋の選択で、女子の家に上がり込んでいるのだから。

 そう思っていると、「じゃあ、君島くんのお家とかはダメ?」と言ってのけた。



 なるほどと思った。ようは今の逆だ。鈴鹿が俺の家に来る。そうすれば結局、周囲の目に晒されることはない。

 と、そんな理由から、今度は鈴鹿が俺の家に来るようになった。



 とはいえ、こんな鈴鹿も一応は年頃の女子(というか、もうすぐ成人だけど)なので、夜な夜な歩いて帰らせるのはさすがに気が進まない。だからといって並んであるくなんてことはできない。本末転倒だ。

 それらを踏まえ、最終的には、月曜から金曜の平日は今まで通り鈴鹿の家で、そして土日は朝から夕方前まで俺の家で勉強することとなった。



 家を使わせてもらうためにじいちゃんとばあちゃんに事情を話したときには、二人とも快諾してくれた。そこは素直にありがたいと思っている。

 けど、二人して俺を、俺と鈴鹿を未だに()()()()()で見ているようだから、それにはちょっと辟易している。

 まあ、そうはいっても毎週の土日に加えて冬休みに春休み、そして昨日までのゴールデンウィークのあいだに頻繁に家を使わせてもらったんだから、甘んじて受け入れるしかないだろう。二人とも俺が女性恐怖症だってことは一応知らないはずだし。

 

 

 紆余曲折ありはしたが、こんなふうにして俺の指導は中断されることなく、今の時点でおよそ半年続いたことになる。



 これまでは主に義務教育までの基礎を徹底的に固めることを第一目標とし、それと平行して、高校の内容については正直授業そっちのけで漢字や英単語の暗記物、そして単純な計算問題など、深く考える必要のないものばかりをさせてきた。



 今日のテストであまりいい結果は出せなかったとあいつは嘆いていたが、高校の内容ばかり盛り込まれた試験じゃあそれも仕方がないことだ。今回の件であいつの中にマイナスイメージが定着しないようにと、そのあたりはちゃんと説明してある。



 ちなみに、基礎固めについては清志や美乃梨にも助力を要請した。

 清志は主に理系に、そして美乃梨は主に文系に精通していたようだから、お互いの持ち味を生かしてくれれば、一丸となって姉をバックアップできることが期待できると踏んでのことだ。

 


 当然のことながら、二人は了承してくれた。自分の自由な時間を割いてまでして、共に姉に尽くしてくれてた。

 その甲斐あって、今の鈴鹿は俺が揶揄したような知識の負債を回収しつつある。半年前とは雲泥の差だ。



 いい家族だな、と思った。

 まだ鈴鹿の父親にはお会いしたことがないが(正直会う必要はないんだけど、家に頻繁に出入りしていることだし、一応礼儀として面会に行った方がいいような気がしている。ただそれとは別に、この三人から愛され続けている父親というのがどんな人物なのか、興味がなくもない)、俺もあの家に通い詰めで毒されたのか、あの家族が揃って笑顔になれるのを、密かに願うようになっていた。

 自分でも、この半年で俺という人間が少し変わったような気がしている。



 ただ、どこまでいっても俺にできることは勉強を教えることだけだ。それ以上のことはできない。

 このままいけば、大学に入るだけの学力は余裕で身に着くはずだ。だが問題なのは、国立大に入れるレベルにまで到達できるかどうか、その境界を越えられるかどうかということだ。



 今の様子だと……実際の入試まであと半年といったところだが、それでも結果がどうなるかは正直予想もつかない。間に合うかもしれないし、間に合わないかもしれない。こういう表現はどうかと思うし使い方も間違っているだろうが、『お先真っ暗』というのが今の心境にピッタリな言葉に思える。



 理想はそう簡単に手に入りはしない。それが現実。ーー俺が鈴鹿に言った言葉だ。それが今、あろうことか俺を貶めようとしている。



 そこでちょうど、雲間に隠れた月がうっすらとその小さな顔を覗かせた。世界全体が、ほんの少しだけ明かりを取り戻す。

 ふと立ち止まって、周囲に目を向けてみる。ちょっと前までは全く知らなかったこの辺りも、今ではだいぶ見知ったという実感があった。

 


 ……俺たちだって、ただ何もせずにこの半年を過ごしてきたわけじゃない。俺もあいつも、努力してこなかったわけじゃないんだ。

 そうだ。俺がこんな気持ちでどうする。俺があいつを信じないで、誰があいつを信じるっていうんだ? 


 積み上げてきたものを信じろ。そしてこれからも積み上げていけ。  

 決して届きそうにない夢も、自分の方から歩み寄らない限り、手を差し延べてくれはしないのだから。


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