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百色眼鏡  作者: 八木うさぎ
第1章 色眼鏡
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無色透明な世界③

 採点が終了したのと時を同じくして、美乃梨の夕飯の支度が大体終わったとのことなので、俺は今一度台所の机につき、鈴鹿と対面する形で椅子に座った。そして入れ替わる形で美乃梨が居間に向かい、そして壁際に座り、寄りかかりながら両膝を曲げて小説を読み始めていた。



 金銭面で苦労しているこの家では、テレビゲームはおろか、テレビそのものがない。そんなわけで、美乃梨は小さい頃から読書の習慣が根付いているらしい。

 これで読んでいる内容が恋愛小説とかであれば年頃の女の子だなと思うところだが、今手にしているそのタイトルが『生きとし生ける屍』という、どうにもおどろおどろしいものだったのは少し気になった。見なかったことにしよう。



 一方で、鈴鹿は俺が採点した答案用紙を一通り自分で眺めているところだった。たまに「あっ、これ」とか、「ここも」とか呟いている。



「全然手が付けられなかったところはしょうがないとしても、こんなにもミスがあるなんて。ここだって自信があったのに」

「でもまあ、最初に見せられたあのテストの凄惨さと比べれば、はるかにマシな方だろ」

「う」

「あれからまだ半年なんだし、その辺を考慮すれば一応は及第点だと思うぞ」

「きゅーだいてん?」

「平たくいえば、『順調』ってことだよ」



 俺が教鞭を振るうこととなった、その最初の日のことだ。

 まず俺は、鈴鹿の現時点での実力を正確に知る必要があった。

 実力に見合った指導をしなければむしろそれは逆効果だし、新たな混乱を招きかねない。時間の無駄にも繋がってしまう。だから参考程度にと、高校に入学してからの学校の定期テストの結果をありったけかき集めて見せてくれと要望した。



 そうして拝見させていただいたわけだが……そこで俺は、生まれて初めて絶句という状況に陥った。

 というのも、見渡す限り、どの教科も一ケタ台だったからだ。偏差値三十ほどしかないこの高校のテストでだ。

 なかでも一番酷かったのが漢字の読み書きで、酷い当て字をしているのが散見された。『多い』を『大い』と書いていたり、『未だに』を『今だに』とか書いていたのだ。これには本気で驚かされた。もう本当、度し難いにも程がある。



 たかが紙切れを数枚を見ただけなのに、俺の中で驚愕と落胆、失意と困惑、それに憤怒と絶望、そして恐怖が一気に沸きだすという未曽有の事態が発生し、一気に血の気が引いてしまっていた。「お、お前……こんなんでよく高校受かったな。ある意味凄いな……」と青ざめながらついつい口にしてしまったのを今でも覚えている。

 余談だが、そのときの鈴鹿は俺とは対照的な、ダルマと瓜二つってくらいに赤面していたわけだが。



 悲惨な現実を叩きつけられて、まだ始まってもないのに俺は打ちのめされていた。

 こんなのが国立に? たかだか一年で? いくら俺が教えたってこれは無理だろ。いや、むしろこいつが国立に行く方法を誰か俺に教えてくれーーなんてふうに困惑してしまった俺は意を決し、鈴鹿に面と向かって話したのだ。

 やっぱり今のお前じゃ一年で合格は無理だ、と。

 浪人を覚悟しろ、と。

 鈴鹿のためにもはっきりと言ってやった。

 いったん引き受けたくせになんとも無責任な奴だと非難されるのを承知で、俺は包み隠さず本音を言った。だがーー鈴鹿の答えは、こうだった。



「仮にそうだとしてもね、今できることは、全力やっておきたいの」



 物腰が低い性格に加えて、小柄でやや貧弱ぎみな外見をしている鈴鹿だが、それとは裏腹に、そう簡単に音を上げたりしない、いい根性をしているのだ。肝が据わっているというか。その辺はきっと今までの過酷な人生で培われてきたものだろう。

 その後どうなったかはーー今現在もこうして実際に指導しているくらいだ。察してもらいたい。



 とはいえ、どんなに聞こえのいいセリフを吐いたとしても、学力が低レベルなのは変え難い事実である。強いて言えば、小さい頃から興味があったらしく、花言葉だけは妙に詳しかったが、そんなものが大学試験で問われることもない。



 燦燦たるテストを見比べながら、いかにして陶冶させるか考えた。そして最終的に、『鈴鹿を一人前にするには、まず学習内容を小学生のレベルにまで落として、しっかりと土台を固める必要がある』という結論に至った。



 幸か不幸か、直近に冬休みも控えていた。こうなったら、その期間でできるだけ掘削されている学力を補填するしかない。それと併せて、鈴鹿自身を勉強する体質に改善できれば御の字だ。

 遠回りでじれったいかもしれないが、それこそが一番の近道だ。そう信じて突き進むことにした。

 


 そんな絶望のふちから始まった鈴鹿の受験だが、早いもので、およそ半年が経った。

 登山でたとえるならば鈴鹿はまだ二合目・三合目程度だが、その足取りはゆっくりでも一歩一歩確実に前に進み続けている。



 もっともこれは、指導しているのが学年一位の俺だからどうとか、そういう話じゃない。

 勉強とはつまるところ、努力や忍耐、覚悟がなければできるものではない。本人のやる気がまさに原動力となる。

 とりわけ大事なのは覚悟だ。

 覚悟がいい加減であれば、努力も忍耐も途中で腐ってしまう。だが、覚悟がしっかりしていれば、自分を見失うことはない。心が折れることはない。

 そう。つまり鈴鹿は、出会ったときは根っからのバカだったが、しかし覚悟だけは一級品だったのだ。

 それもこれも、背負うものの重さ故だろうか。

 


「ここと、あ、ここも間違えちゃってる。自信あったんだけどなぁ。うわ、ここなんかなんで間違えちゃったんだろう……うう」

「根本から間違えているのはともかくとして、ケアレスミスってのは単純に集中力の問題だ。問題文を最後まで読まなかったり、わかったつもりで意識が違うところに向ってたり、とかな。そして、そんなふうに注意力散漫になる原因の一つはーー」

「睡眠不足!」

「ん?」

「でしょ?」

「ああ、まあそうだけど……なんでわかったんだ?」

「だって事あるごとに言ってるもん。もう耳にタコができるってくらいに。だからいい加減覚えちゃった」

「そんなに言ってるか、俺」

「え、自分で気づいてないの?」

「まあ……他にはどんなことを口にしている?」

「えっとね、『家に帰ってからまずうがい手洗いをしろ、お前に風邪なんかひいてる余裕はないんだからな』とか、『勉強だけじゃなく適度な運動もしろよ、じゃないと血の巡りが悪くなるしストレスもたまるぞ』とかかな」



 でた。

 さっきも見た、俺の物真似らしきもの。

 一応俺に似せようと頑張っているつもりなんだろう。目つきと口調を変えて身振り素振り織り交ぜているし。

 ただ……外見も声質もまるで似てない鈴鹿がそんなことをすると、なんだか小馬鹿にされているようにすら思えてきてしまう。いやまあ、悪気はないんだろうけどさ。



「君島くんって本当、超がつくほどの健康オタクだよね」

「健康オタク? 俺が?」

「……やっぱり自覚ないんだ」



 鈴鹿が意味深な目で見てくる。

 健康オタクか。始めて言われたけど、俺ってそうなのかな?

 でも、睡眠は重要だろ。睡眠は。



「と、とにかく、もう今度から夜更かしはするなよ。

 あとはそうだな……これも口を酸っぱくして言っていることだけど、そもそもお前が間違った知識を吸収してる、つまり誤解して覚えてるって可能性もなくはない。だからその辺もふまえて、ケアレスミスは俺が帰った後に一通り目を通してちゃんと復習しておくこと。その中で考えてもわからない問題があったら明日また言え」

「うん。ちゃんとやっておく」



 鈴鹿は二つ返事で首肯した。これが子犬とかなら尻尾とか振っていそうだ。

 子犬なら頭を撫でたかもしれない。

 子犬じゃないから、間違ってもそんなことはしない。



「よし。じゃあ予定通り、今日は残った時間でお前が根本からできてなかった問題について解説するぞ。で、どの教科からにする?」

「んー、じゃあこれ。一番わかんなかった数学ⅠAからで」



 そう言って堂々と数学の答案を手渡してきたが鈴鹿だが、本人が今言ったように、数学が一番酷いデキだった。



「そうだな……それじゃあ、まずここだな」



 鈴鹿に見やすいように答案を逆向きにして、要所をペンで示す。

 そこには、必要な情報を盛り込んだ数行の文章がページの上段に、下段には三つの問題がいくらかの空白交じりに連続して用意された、いわゆる文章問題が掲載されていた。



「数学の文章問題ってのは、同じ分野の問題が三つから四つくらいあって、それがひとまとめとして構成されてる。で、そういう問題ってのは高確率で、段階的に解けるようになっているんだ」

「段階的?」

「例えば(1)の問題を解いたとする。するとその答えが(2)以降の問題を解くための鍵になっていたりする、ってことだ。

 つまり、こういった文章問題は、答えが連鎖的になっているんだ。だから、まず文章問題を完全に解くには(1)を解くことが前提条件になるわけだし、裏を返せば(1)もできないようじゃその時点で話にならない。

 そしてほら、ここを見てみろよ。お前は(1)から間違えている。ってことはどういうことかわかるか?」

「……どういうことなの?」

「この問題に関して、しいてはこの分野について、今のお前は誰が見ても明らかなくらいに、決定的な実力不足ってことだ」

「う」



 これは勉強を教えていてわかったことだが、どうやら鈴鹿は、こう見えてプライドが高いのかはたまた意地っ張りなのか、叩けば叩くほど成長するタイプの人間らしい。

 俺が自分でもちょっと言いすぎたかなと思うくらい指摘したことだって今までに何度かあった。それでも鈴鹿は、口ではショックを受けたように「う」と言葉を洩らすものの(これは癖なのだろう、多分)、へこたれず、諦めず、より良い結果をだそうと次の機会までにちゃんと努力をしてくる。

 だから俺は、反感を買われない程度に加減はするが、それでも意図的に、厳しめの発言を多くすることにしている。成長を見込んで。



 そんなふうにして数学の答案の全体的な注意事項を説明してから、より詳しく計算過程を解説するため、俺は鈴鹿の席の真横に移動する。

 数学や物理など頻繁に数式を扱う科目を教えるときは、面と向っているよりも真横にいる方が格段に効率がいい。なぜなら、理解する側は、指導する側の数式を組み立てるその過程を真横で解説つきで見ていられるからだ。



 そんなこと当たり前だろ、とか思うかもしれない。だが、数学の難しさは『数式を解く』ところにあるのではなく、『問題文にそった数式を瞬時に頭から引き出し、そして正しく当てはめる』ところにある。ようはパズルみたいなものだ。だからこそ指導する側は理解する側と同じ視点になるために真横で解説を交えながら丁寧に数式を組み立てていくのが効果的だと、少なくとも俺はそう思ってる。



 だが、当の鈴鹿はこの教え方に異論があるらしい。最初はそんなことなかったのに、不思議と最近、「君島くんが横にいると、なんか逆に集中できない」とか何とか言って居心地の悪そうな顔をするようになった。

 そんなつもりはないが、監視されているような気にでもなっているのだろうか? 今だって、しきりに俺を横目で見ている気がするし。

 ……というか、なんか顔が赤くないか?

 さっき帰ってきたときもそうだったが、あれは単に急いで帰ってきたせいで血流がよくなっていただけだ。けれど、もうだいぶ時間も経っている。それが原因ではない。



「おい鈴鹿。お前、熱でもあるんじゃないか?」

「え? なんで?」

「不自然に顔が赤いぞ。それによく見るとーー目の下にクマもできてるし」



 そうして正面から覗き込むと、何故だか固まる鈴鹿。心もち顔がより赤みを増した気がする。



「ね、熱なんかないって。きっと必死に自転車こいだせいじゃないかな。まだ顔がほてってるんだよ、きっと」



 目を泳がせながら、とってつけたように両手で頬を覆った。

 ……どうにも怪しいな。



「ひょっとしてお前、昨日も夜更かししたんだろ」

「う」

「おおかた、今日のテストでいい結果を出そうとしたとか、そんなところか」

「う……うぅ」



 図星なのだろう。

 たまらず俺の口から嘆息が漏れる。

 やれやれ、これで何度目だろうか。俺の言うことを素直に聞くくせに、どうしてなのかこれだけは何度言っても辞めない。



「あのなぁ。いつも口を酸っぱくして言っているだろ。眠いのを我慢して勉強したって、何にも頭には入らないし、それに次の日の勉強にも悪影響だ、って」

「だって……今日はさぁ、君島くんから勉強教わり始めてから、初めての模擬テストだったから。

 ゴールデンウィーク中だってずっと教わってたんだし、これで点数が上がってなかったら、君島くんに申し訳ないと思って」

「だからって、それでテスト中に眠くなったったら本末転倒だろ。それにーー」



 そこで俺は気づいた。俺が糾弾し続けるせいで、申し訳なさそうに下を向く鈴鹿の顔が、だんだんといじけているようなそれに代わってきたことに。こうして見ると、俺に勉強を教えてくれと啖呵切ったあのときとは全くの別人だ。



 ちょっと叩きすぎたか。

 ……まあ、もう済んでしまった事をこれ以上責め続けても不毛なだけか。こいつが夜更かししているのはいつものことだし。それに、遊んでいたとかでもないわけだし。



 ふぅ、と自分の感情を入れ替えるために深呼吸し、そして少し間をおいてから、落ち着いた口調を意識して、諭すように、鈴鹿になるべく伝わりやすいように、遠回しに叱責することにした。



「お前のやる気が十分なのは認める。でもな、それで体調不良にでもなったら元も子もないだろ。健全なーー」

「『健全な精神は、健全な肉体に宿るんだぞ』」

「……それも俺が?」

「うん。事あるごとに言ってる。君島くん、そういうことは覚えていないんだね」



 そう……なのか? 言われるまで気づかなかった。

 それにしてもこいつは、何でこうも俺の真似ばっかりするんだ? 

 ……まあ、今はそんなことはどうでもいいか。

 


「と、とにかく、熱がないっていうことなら続けるぞ。ただし、体調が悪くなったらすぐに言え。あと、夜更かしはなるべく控えろよ」

「うん」

「それじゃあこの(1)からな。とその前に、まずは俺が前に教えた『文章問題を解くときの注意事項』を言ってみろ」

「えーっと『まず始めに文章をよく読め』でしょ? それと『文章の中にある数字には丸を付けるようにしろ』。あとは……」



 こんな感じで飴と鞭(やや鞭が多めだが)による指導は、あいだに休憩を挟みつつ、二時間近く続いた。


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