無色透明な世界②
ついさっきまでは玄関を開けてすぐのところにある、台所にの中心に据えられた四人掛けの机--二人分の席が並んで対面する形の、ごくごく普通のものだ--のうちの一席に腰を下ろしていたが、今はその隣の部屋にある居間で、足が折りたたまれて壁に立てかけられていた丸い小さな座卓を組み立てて、そこに俺は一人座り込んで、赤のサインペンを走らせていた。
というのも、今日学校で行われた、学校主催の大学入試の模擬テストにおける鈴鹿の出来具合をチェックするためだ。
俺は、試験の最中、答案用紙に記した答えをまるごと問題用紙にも写していた。そしてそれをもとに、同じようにして用意された鈴鹿のそれと比較をし、鈴鹿の採点をする。
当の鈴鹿本人は水道水を注いだコップを両手に持って、俺がさっきまで座っていた椅子に座り込んでいる。大急ぎで帰ってきたので喉が渇いたんだとか。
不安げにこっちをチラチラと見ている。余程気になるのだろう。俺の採点が。
そして美乃梨はというと、俺に背を向けて台所に立ち、鼻歌交じりに夕食の準備に取り掛かっていた。
さっきから作業音が絶えない。本人も鼻歌交じりで、余裕そうである。
仮にも飲食店で働いているというのも理由の一つかもしれないが、そうでなかったとしても、対して違いはなかったことだろう。なにせ、鈴鹿も美乃梨も、家庭の事情で小学生の頃から料理をしているとのことだから。
正誤のチェックは俺と鈴鹿のテスト用紙を見比べるだけなので、特段難しいことではない。俺はサインペンを滑らせながらも、頭の片隅では別のことを考えていた。
なんか、ここにいるのが当たり前のことのようになってきているよな、と。
なにせ、合鍵まで預けられているくらいだし。今日だってその鍵で住人の誰からも断りなく入室しては、そのままゆうに一時間近くも過ごしていたわけだし。
こんなこと、半年前には考えられなかった。まさかこの俺が、大学入試を控えたこの時期に、同級生の、それもよりにもよって異性の家に通い詰めるようになるとは。本当、人生何が起こるかわかったもんじゃない。
あのときの鈴鹿の申し出に根負けせずに断っていたら、きっとこんなことにはならなかっただろうに。
それは、昨年末のーー二年生の十二月の、その第一週目のことだったと記憶している。
二学期の期末テストの結果が生徒におおむねすべて返却されて、各々が一喜一憂している状態が続いている一方で、来年の大学入試に向けてそろそろ志望大学、しいては将来について考えてみるように、と教師陣が口走りだした頃だった。時期の違いはあるだろうけれど、おそらくどこの高校でも同じようなことがあるだろう。
そんな教師陣の親切心に対して、生徒の方では、真に受けて勉強に励んだり各大学の情報を収集しだす者もいれば、まだ一年も先のことなのにやかましいなと反感と楽観が共存しつつ目の前のクリスマスや冬休み、年越しなどに向けてすでに浮かれ出している者など、大きく二分化していた。そしていうまでもなく、俺や鈴鹿の通う高校では、大半が後者だった。
もしもこれが三年前に俺が通いたかったあの高校であれば、全国有数の進学校である以上、事情はそっくりそのまま反転していたことだろう。いや、むしろ浮かれているような奴は一人もいなかったのかもしれない。そんなのがいればきっと冷笑ものだ。
かくいう俺は、入学した当時から、すでに三年後を見据えてずっと勉強していた口だ。
だから、どちらの雰囲気に飲まれることもなく、残りの一年間をこのままマイペースに淡々と、俺なりに勉強を続けていくだけだった。
そんな俺の前に現れたのが、鈴鹿だった。
鈴鹿とは去年だけ、つまり高校二年のときだけ同じクラスで、今は違う。その当時だって別に仲が良かったわけでもないし(別に今も仲が良いとは思わないが)、むしろ『同じ教室にいて同じクラスに配属されただけの赤の他人』といっても過言ではないほどに接点がなかった。
そんな鈴鹿だが、有体に言えば、休み時間にいつも机に伏しているような奴らの一人だった。
友達がいないというわけではない。男女問わずに会話をしているところだって何度か目にしている。ただ、心ここにあらずというか、基本的にいつも眠そうな顔をしていた。
日中をそんなふうに過ごしていれば、学業成績が振るわないのは自明の理だ。定期テストのたびに廊下に張り出される成績順位表では、鈴鹿はいつもワーストスリーに収まっていた。
ちなみに、女子だけでくくれば、俺の知る限りいつも最下位だった。
そんなわけで、俺としては『こいつ、学校に何をしに来てるんだろう』と、疑問と非難の両目で見ているうちの一人だった。そういう認識でいた。
そうして二学期の終業式もあと数日と迫ってきたある日のことだった。
地の底とも呼べるこの学校の、その最底辺と思っていた鈴鹿が、放課後に突然俺を呼び出し、人気のないところにまで連れていくと、急に深々と頭を下げてきたのだ。
勉強を教えてください、と。
かくいう俺は、普段から同級生に勉強を教えてくれと頼まれることが頻繁にある。
なまじ俺の学力が群を抜いて高いせいで、そして同級生だから気軽に聞けるということもあってか、揃ってみんな俺のところに聞いてくる。誰も教師のところには行こうともしない。そんなことが一年生のときから続いている。
鈴鹿もきっと、そんな場面を幾度となく目撃していたに違いない。だからこそ、他の誰でもなく俺のところへ来たのだろう。
俺が誰にでも勉強を教えているのは確かだ。だが、率先して行っているかと聞かれれば、違うと即答できる。
正直な話、面倒くさいことこの上ない。
どうして俺が、勉強しない怠惰な奴の面倒をみなければならないのか。
俺は教師じゃない。俺は生徒だ。それなのに、なんで教師の代わりに俺が教えることになる?
そんな本心をひた隠しにして、今も俺は笑顔で応対している。体面を整えている。
それもこれも、すべては俺の為だ。
今の学校には、こと学力面においては入学する前から毛ほども期待していなかった。
なにせ、学力が低い連中がより収斂しているわけだから、その質の悪さは無作為に招集された小学校や中学校の比ではない。学校全体が低レベルなのだ。その中で優劣があっても五十歩百歩でしかないだろう。
そしていざ入学してみて、予想以上の現実を思いしらされた。予想以上に酷かった現実を。
そのままいくらもしないうちに、一学期の中間テストですぐに露呈してしまった。この学校内で俺の学力が以上に高いことが。
その結果が、質問攻めーーいや、質問地獄である。
最初はフラストレーションが溜まりに溜まったものだ。
こんな問題もわかないのかよ。本当にお前、中学卒業したのか?
今説明したじゃないか。何を聞いていたんだよ。お前、今頷いていただろ?
さっきもそれ聞いてきたよな? 聞いたことすら覚えてないのかお前は?
あまりに酷くて、もしかして俺はこいつらにバカにされているのだろうか、とも考えたくらいだ。だがそんなわけもない。この学校にいる奴はみな、そんな頭すらもないのだから。
教師は教師でみな、自分のところに質問が来ないから楽ができていいというのが共通の認識らしく、俺を褒めるだけ褒めてその実、手伝おうともしない。
いくらかして、俺は悟った。こいつらは蛆虫だと。
自分じゃ何もできない蛆虫ども。この学校にいる生徒も教師も、全員蛆虫だ。
『世の中には利用する奴と利用される奴の二つに分かれる』なんて話をよく耳にする。
通常であれば、利用する奴とは有能で才に溢れている者であり、その逆が利用される奴という認識で間違いないだろう。
ただ、実際は違っていた。
無能な奴は、無能なりに有能な奴によってたかってーーつまり、利用しようとするのだ。いや、利用というよりかは寄生と言った方が正鵠か。
とどのつまり、この俺がの学校の連中に利用されているのだ。いいように扱われているのだ。それが客観的事実だ。
それがどうにも受け止めきれず、いっそのこと学校をやめてしまおうかとすら思ったほどだ。
だがそこで俺は考えた。
逃げ出してどうする?
それはすなわち、負けを認めたようなものだぞ。俺はこいつらに負けたということを。
こんな蛆虫どもに負けるようじゃ、大学に進学したり社会に出たところで必ず躓く。
それでいいのか? 嫌だ。そんなのは俺じゃない。
考えに考えた末に、『この学校に通うのは処世術を学ぶためだ』と位置づけることにした。
学校という場は社会の縮図だとよく言われている。つまり、もしも学校生活を思い通りに過ごすことができれば、それはすなわち、社会に出てからも思い通りに生きていけることを示唆していると言える。
ただ闇雲に勉強ばかりしていても、さすがに人間相手の処世術は学べない。
だからこの学校で、周りの人間の心を掌握し、そして利用する、その方法を学ぶ。
この経験は、知識は、後の人生にも必ず役に立つ。忍耐力なんか相当鍛えられることだろう。
だから、この学校に入ってよかったんだ。俺の通いたかった高校だったらこんなことは絶対学べないだろうし、そもそも思いもしなかっただろうーーと、そう思い込むことにした。
そしてその次の日から、蛆虫どもを相手に、実験するような感覚で、勉強を教えることにした。
するとどうだろう。損ばかりしていると思っていた昨日までとは違って、それほどストレスが蓄積していくこともなくなった。同時に、狙ったわけでもなければ嬉しいことでもないが、蛆虫どもからの好感度も沸々と上がっていってしまった。
そうして数をこなしていくうちに気づいた。他人に勉強を教えていると、俺の知識の復習にもなっていることに。これは予期せぬ賜物だった。
結局、すべては俺のため。
処世術を学ぶため。蛆虫どもの心を掌握するため。そして、知識の復習のため。その為だけに、自分の為だけに俺は他人に勉強を教えている。
今では質問をしにやってくる連中の大半が女子に偏ってきてしまっているが、女性恐怖症の俺からしてみれば苦行でしかないし、そのうえ女子というのはどうしてなのか要点をまとめた質問をしてこない。雑談が要所で混じってくる。必然的に体力の消耗が倍になるので、最近では再びうんざりしてきているところだが。
そしてそれとは別に、一部の男子からたまに因縁をつけられたりもしている。
直近だと、つい三か月前ーー二年生の二月のことだ。結果から言って俺も手を出したのだが、そのときは正当防衛が成立しておとがめなしで済んだ。事実そのとおりではあるけれど、罰則もなければ一切糾弾されなかったあたり、教師陣の心を掌握できているような気がする。
ーーとまあ、こんなふうにいろいろと問題もあるが、それらもまた俺なりの処世術を学ぶための一種の試練だと考えるようにしている。
それはさておき。今は鈴鹿の話だった。
そんな背景があって、鈴鹿に声をかけられたときも普段の感覚で「いいよ」と答えた。
最底辺の蛆虫ではあるが、さすがにこいつも焦り始めたんだな、と思った。
たとえ万年ワーストスリーとはいえ、少しはわかっているようだ。自分の置かれている状況が。まだ遊び惚けている他の蛆虫どもと比べれば幾分マシな方だな、と評価を数ミリほど上げた。
そして「どこがわからないんだ?」と尋ねると、鈴鹿は何故か、「そうじゃなくて」と、もどかしそうに声を漏らしながら俯いてしまった。
俺が首をひねっていると、鈴鹿は縮こまり、消え入りそうな声で、もう一度丁寧に、懇願してきたのだ。
「国立大学に入学できるくらいになるまで、これからずっと勉強を教えてくれませんか」と。
これにはさすがに俺も動揺を隠せなかった。
急にこいつは何を言いだすんだ、と思った。
他人に勉強を教えるのは、俺の為だ。俺に利益があるから行っていることだ。けれど、あくまでそれは、自分の勉強時間を削ってまでして、率先してすることではない。
俺が高校生活で真に成し遂げるべきは、教師の真似事とかでもなければ好感度を上げることでもない。志望する大学への合格。これだ。処世術は二の次である。
それなのに、そんなに親しくもなく、そのうえ学年ワーストスリーの不出来な奴のために割くようなまとまった時間など、いったいどこにもあるというのか。
余裕がないわけじゃないが、万が一にも受験に失敗するような可能性を排除しておきたいのだ。
第一、こんな奴に約一年も勉強を教えて、俺に何の得がある?
どうあっても断らなければならない。
だから、俺は少しだけ胸襟を開くことにした。同情を引こうとしたのである。
俺の実力との間にだいぶ乖離があるこの高校にあえて入学したその理由。
両親はおらず、じいちゃんとばあちゃんと三人で、二人の年金で慎ましく暮らしているという俺の家の事情。
そして、自分にはここ一番の大事な受験が控えているので、そんな余裕はないし、自分の事に集中したいという本音。それらの事実を要所要所に盛り込みながら、俺はなるべく穏便に、丁寧に、低姿勢で、しかし頑なに拒んだ。
けれど、それでも鈴鹿は一向に立ち去ろうとはしなかったのだ。
だから俺は、今までとは打って変わって鬼面を被り、「そんなに国立大に入りたいのなら、前々から努力して、勉強をしておけばよかったんだ。そして、その努力をしてこなかったのが今のお前だ。その責任を俺に背負わせようとするな。擦り付けるな。すべては、お前の責任なんだから」と少しだけ声を荒げて直截的に詰り、いっそのことその胸を抉ってみた。
酷いことを言ったという自覚はある。
だが、発言の内容は紛れもなく、客観的事実でもある。
そしてそれを、こうして頭を下げに来ている以上は、俺に言われずともきっと鈴鹿自身も自覚しているに違いない。
これが普通の奴だったなら、癇に障って俺に嫌悪感を抱いてもおかしくない。そそくさと立ち去ったことだろう。でも正直、それを意図的に狙っての発言だった。そうすることで、依頼者を諦めさせる。俺への心象はさておき、もうそれなればその時点でこのやっかいな話は終わりなわけだから。
けれど、鈴鹿は違った。
俺の棘のある口上にもめげずに、それでも懇願し、頭をずっと下げ続けていたのだ。くどいって程に。
あまりにもしつこかったので、なぜそこまでするのか、仕方なく鈴鹿の抱えている事情を聞いてみて――そこで俺は、不覚にも、逆に俺が考えを改めさせられてしまうハメになった。
なんでも、鈴鹿の家庭はだいぶ昔からいわゆる寡夫らしく、そして鈴鹿には二つ下の弟と、三つ下の妹がいた。母親が亡くなったのは、妹を生んですぐのことらしい。
そんな家族を養うために朝夕関係なしに働いていたことが祟って、一家の大黒柱である父親も病を患い、鈴鹿が高校に入学してから半年ほど経ったあたりから入院生活を送っているのだとか。そして、俺とは違って祖父や祖母は一人も存命していないらしい。
さっきも述べたように、父親は休み暇もなく働きづめだった。けれどそれだって三人もの育ち盛りの子供の養育費に溶けるように消えていき、預金残高は雀の涙程度でしかなかった。
それでも、社会保険による負担費用の軽減、所得補償、さらには高額医療費限度額が適用になったことにより、入院費や治療費などの工面はどうにかできたらしい。
だが、問題はその後だった。
鈴鹿家が貧しい生活の中にあったなかで、父親は民間企業の医療保険等に入るほどの余裕はなかったのだ。入院ともなれば通常であればそれ相応の一時金が見舞われるような事態だったが、鈴鹿家にはそれがなかった。
加えて、当初想定すらしていないほどに入院が長期化してしまったことも大きい。
平時の給与の約三分の二もの金額を受給できる所得補償も、最大で一年半という期限付きのものだったのだ。そうとは知らず、ずっと受給できるものだとばかり考えていた鈴鹿は、事実を知っておおいに慌てた。
父親の件は鈴鹿が高校に入学する直前で発生した。そんなわけで、少しでも家にお金を入れるためにと入学した当初からアルバイトをしていたらしい。そんなものは焼け石に水でしかなかったが、それでも社会保険の恩恵により、しばらくはそれでもある程度の生活ができていた。
けれどそれは、その恩恵が薄れれば鈴鹿家は一気に瓦解してしまうことに他ならない。事実、その程度の賃金で家族四人を養うのには全然足りず、一方で、いつ快復するともわからない父親の入院費用やら治療費はどんどん膨らんでいく。そうしてついに預貯金の底が見え始め、鈴鹿家にも『破産』の二文字がチラつきだした。
鈴鹿にできることといったら、せいぜいアルバイトを増やすことくらいだった。すると必然、学生の本分である学業が疎かになってしまう。実際、鈴鹿は定期テストで目も当てられないほどの点数を連発してきている。しかし、そうなってまでしても、生きるため、アルバイトを減らすことはできなかった。
非情にも成績は悪化の一途をたどり、それが累積されたことで、なんと留年すら経験したこともあるらしい。つまり驚くべきことに、妹である美乃梨よりも拳一つ分身長が小さくて、本当に高校生かってほどに精神年齢が低そうなこの鈴鹿が、なんと俺よりも一つ年上なのである。信じがたいが、事実らしい。後でそれを知ったときには鈴鹿に敬語を使った方がよいかと誠意から一応尋ねてみたのだが、冗談と受け止められたらしく「やめてよもう、恥ずかしい」と苦笑いしていた。
これからどれだけ金がかかるのかもわからなければ、いつまでこの状況が続くのかもわからず、不安だけしか寄り添ってこない毎日。
こんな状況で呑気に高校に通い続けることなどできるはずもない。ましてや留年しているわけだし、日中は寝て過ごすだけ。通っていてもほとんど意味はない。この分だとまた留年するに決まっている。だから、鈴鹿はまず最初に高校を中退して就職する道を考えた。
だがそれを、父親の奇策と弟の覚悟が制止させたのだった。
まず、父親が会社を正式に退職する算段となった。
そうすれば退職金というある程度まとまった金が手にはいる。ただしそうなると社会保険の三割負担の恩恵は切れてしまうので、代わりに国民健康保険に入る。年間にすると保険料だけで三十万近い出費だし、無職になってしまうことは非常に大きなリスクだが、現状こうする他なかった。
だが、こんなのは一度きりの、そして一時しのぎの処置に過ぎない。退職金だっていずれは底をつく。
そこに当時中学三年生だった弟が声をあげたのだ。高校進学の道を断念して就職する、と。
それを聞いた鈴鹿は、もちろん反対した。小学校の頃からずっと成績が振るわない鈴鹿と比べて、その庇護下にあった弟や妹は共に成績がよかったからだ。
自分よりも将来性のある弟の未来をこんなところで断ち切るわけにはいかない。だから弟を働きに出させるわけにはいかない。働くなら高校でろくに勉強していない自分の方だ。
合理的に考えれば確かに、それが上等なのかもしれない。だが、そこに弟からの、今まで面倒を見てきてくれた姉に対する愛情がその合理性を阻んだ。
そんな経緯があって、結果的に鈴鹿は、弟が働きに出ることによって、痛痒な思いを嚥下できないまま、しかしそのときはアルバイトも高校も辞めずに済んだのだった。
だがやはり、いくら新しい稼ぎ手ができたといっても、中学を卒業したばかりの弟の初任給はたかが知れている。退職金だってあくまで医療費にかけるのが前提なので手を付けるわけにもいかない。結果的に鈴鹿家は、鈴鹿のアルバイトの稼ぎと弟の稼ぎを合わせても糊口をしのぐにとどまるだけでしかなかった。
そんななか、父親の容態が悪化し、二度の大きな手術が連続して施された。それが起因して出費が跳ね上がってしまった。退職金で一時は潤った預貯金も一気に目減りし、再び底をつくのも時間の問題となってきていた。
そこで鈴鹿は、やはり自分も本格的に働くしかないという結論に至る。
だが、今度は妹が、中学を卒業したら働きだすと言って、それを食い止めたのだ。
まるで示し合わせたかのように、口にする理由は弟と同じだった。
二人は、別に進学したくなかったわけじゃない。むしろ、同級生たちと一緒に進学したかったことだろう。
だがそれを、二人は断念した。
全ては、今まで苦労を掛けてきた姉を尊重するために。姉の愛に報いるために。
俺も高校入試にある程度の我慢を強いられた口だが、二人の抱いたほどの覚悟はなかったと思う。
俺だって最悪、高校に行かずに家に引きこもって勉強を続け、そして高認ーー『高等学校卒業程度認定試験』のことで、つまり高校を卒業していない者でも大学受験が可能なほどの学力を有しているか、その判定を受けるための試験だーーを経て、志望する大学を受けるという選択肢だってあったんだ。
ただ、俺は臆病だった。
いくら勉強ができても、中卒というレッテルを張られ、世間の笑いものにされることに恐れをなしたのだ。情けなくも。
そういう意味では、俺にできなかったことだ、二人には素直に脱帽するし、憧憬すら覚える。
そしてーーそんな二人から尊重され、愛されているのが、恥や外聞をかなぐり捨てて、必死になって頭を下げ続けていた鈴鹿なのだ。
似ている。俺と境遇が。違うのは、せいぜい家族構成くらいなものだ。
ただ、同情だけでこんな俺ばかりにリスクのある話を承諾するわけにもいかない。
やはり断るべきだ。けど、果たしてどうやって断るべきか。
一刀両断できるほどの材料を持ちえなかった俺は、考えあぐねるフリをしつつも少しずつ鈴鹿から情報を引き出し、弱点を見つけ、そしてそこを突こうとした。だから、家に金がなく、弟と妹が働いてまして生活するのがやっとの状態で何故また費用がかさむような道を選ぼうとしているのか、その疑問を投げかけた。
そうして返ってきたのは、「弟と妹が、揃って私が大学に進学するのを願っているから」という、やや不可解なものだった。
弟や妹は姉を愛している。今まで苦労を掛けたぶん、自分たちの代わりに華やかな高校生活を送ってほしいと、そう思っている。そんな二人のことだ、大学にも進学してほしいという願望を抱くのも、すくなからず理解できる。現実味の有無は度外視して、その気持ちだけは一応わかる。
ただ、そんな二人に願われているから、願望を拒むことができないから、本当は進学のための勉強なんかしたくもないが義務感でこうして頭を下げている、ということであればさすがに俺も冷めてしまう。それってようは、やる気はないってことだろ?
俺からしてみれば、やる気のない奴に勉強を教えることほど不毛なことはない。ここだと思った。畳みかけるチャンスだと思った。
「普通に考えて、お前みたいな奴が、たったの一年で国立大に行けると思うか? お前みたいな奴が覚悟もなしに義務だけで勉強したって、時間の無駄でしかないぞ」
それに鈴鹿は顔を上げ、普段見せないような強い眼差しを俺に向けて、こう言った。
「行けるかどうかじゃなくて、行くの。行かなきゃならないの。
そうだよ。君島くんのいうとおり、これは義務だよ。
正直、私は別に大学生になんかなりたくない。自分だけ働かずにあの二人を働かせて、そのお金で自分一人が大学に行くだなんて、本当ならそんなこと、絶対にしない。
でもね、あの二人がそう願ってるの。それを望んでるの。
いい大学に進んで、卒業して、そしていい仕事について、うんとお金持ちになってくれって。そうすることが結局は、家族が幸せになれる可能性の大きい道なんだって。
だから……だから、私はなんとしても大学に受かって、ちゃんとした会社で働いて、うんと稼いで、それであの二人に、きちんと恩返しをしたいの」
鈴鹿は、独白しながら、握りしめた拳を振るわせて、オレンジの日光に顔を照らされながらもたじろぐ素振りも見せず、ただ頑なにじっと俺を見続けていた。潤んだ瞳が、煌びやかに輝いていた。
「……いいか、お前は負債塗れだ。金じゃない、勉強のことだぞ。
どんなに深い事情があったところで、そう簡単に今までの負債を取り戻せはしない。
今からいくら勉強したところで、そう簡単に大学の、それも国立の試験は受からない。
それに、たとえ国立に合格できても、いい職に就けるかどうかもわからない。
理想はそう簡単に手に入りはしない。それが現実だ。
そして、現実はそう簡単には変わりはしない。それが真実だ。
それでもお前は足掻くっていうのか? この学校の底辺のお前が」
本来の俺ならば、これは胸の奥にとどめておくだけで、決して口には出さなかったことだろう。
だが、鈴鹿の、見かけによらないしたたかな一面を目の当たりにして、自然と口が動いてしまっていた。一種の挑発というか。ここまで言われても目げなければ本物だ。
案の定、鈴鹿は微動だにせず、何も言葉にせず、ただ俺を見ていた。
その姿が、まるで昔の自分を彷彿としていた。
母親だった女がよそで男をつくって出て行き、それを忘れようと取りつかれたように仕事に狂った挙句に体を壊して入院し、そのままいくらもしないうちに帰らぬ人となった父。
亡くなる瞬間、病室も夕暮れに染まっていた。カーテンからはみ出した赤い日差しに目をつむることもなく、ある誓いを胸に抱きながら、涙をこぼしつつも表情だけは決して変えずに父さんの最後を看取った、幼い頃の俺のようだと……。
どうしてそこでそんなふうに思ったのかはわからない。ただ、それとは別に、自然と俺の口から「わかった」という言葉がでていた。
正直、そのことについて、後になって悔やんだことも何度かあった。
しかしなんだかんだでその感情も徐々に薄れていき、半年が経って、もはや日常と化している今では特に何とも思っていない。
むしろ不思議なことに、鈴鹿を指導し、成長していくその様子を傍で見ていることに、一種の楽しみを覚えているふしがある。これには俺自身驚いたものだ。相手にしているのは蛆虫の底辺の、しかも女だというのに。
けれども、これは道楽でも何でもない。俺の誇りと鈴鹿の信念、そして鈴鹿一家の未来の、その全てがかかった、いわば命がけの戦なのである。
そんなふうに思考を遊ばせていると、いつの間にか採点が終了していた。そこに「ねえ、せっかくだし、おにいさんも食べていく?」と、美乃梨の声が飛び出してきた。
「いや、俺は遠慮しておくよ」
「えー? せっかくあたしがおにいさんのためにって愛情を込めて作ったのに」
「嘘つけ」
「あ。何その反応。酷っ」
「だって、俺が食べるかどうかもわからないのに愛情込めたとか言われてもなぁ」
「むむ……でもさ、でもさ。それじゃあどうして食べないの?」
「申し訳ないじゃないか。こうしてほぼ毎日上がり込んでいる奴が夕飯までご馳走になるなんていうのは」
「何かたいこと言ってんの。おにいさんだってもうあたしたちの家族みたいなもんじゃん。っていうか、もうすぐなるんじゃん」
「お前の妄想はともかくだな、そういった申し出を一回でも受けてしまったら、それが当たり前になってくるだろ。それが嫌なんだ。こんなことを言いたくはないけど、毎日ご馳走してもらっていたら、食費だってバカにならなくなってくる。この家にそんな余裕はないはずだぞ」
「うーん、でも……」
俺のいかにもな抗弁に、美乃梨は理解を示しつつも納得がいかないといった様子だ。
だがそこに、鈴鹿が口を挟んできた。
「みぃ、無駄だって。君島くんはああ言っているけど、本当は、単に食べたくないだけなんだから」
「えぇ? そうなの?」
「そ、そんなわけないだろ。おい鈴鹿。変なことを言うんじゃ――」
「だって君島くん、この前、私が料理を作ったときに言ってたじゃん。『俺は、何の材料で作られたのかわからないような料理は添加物まみれかもしれないから不気味だし、怖くて口にはできない』って」
鈴鹿は少し声を低くして、どことなくきざっぽい口調でそう言った。
まさかとは思うが、今の、俺のまねのつもりじゃないよな?
「言ったっけ? そんなこと」
「言ってました。ちゃんと覚えてるもん」
……くそ。
そういうことだけはちゃんと覚えているんだな。
ああ、確かに言ったよ。言いましたよ。俺もちゃんと覚えている。
勉強を見てもらっているのに何のお返しもできないのは嫌だから、という理由で料理を振舞われたことがあったが、今のはそのときの会話の一端だ。
でもあれは相手が鈴鹿だからこそ遠慮なく言ったのだ。それが今は美乃梨が相手だったので、俺も一応の配慮をしたつもりだったのに……それを、こともあろうに実の姉がぶち壊すとは。
ちょっとだけ恨みがましく目を細めて鈴鹿を見ると、その何倍も目を鋭くして、鈴鹿が俺を見ている。何か言いたげな顔で。
姉妹揃って向けてくる射るような視線に、ばつが悪い思いをした。
「そりゃあね、確かに今作ってるのだって添加物は入ってるだろうけどさ。なに? おにいさんってもしかして潔癖症? もしくはアレルギー体質?」
「いや、そういうわけじゃないけど。でも、美乃梨ちゃんだって添加物は怖いと思わないか?」
「まあね。でも、そんなこと言ってたら何も食べられなくなっちゃわない? 普段何を食べてるの?」
「それは……」
経験上、俺の食生活をつまびらかに語ると、十人が十人ともに引く。そのことが頭をかすめて今回も言い淀んでしまった。
そこに鈴鹿が、「昼食の時間になると、いつも図書室でチョコレートを食べてるよね」と再び挟まなくていい口を挟んできた。
「え、チョコレート? チョコレートってあのチョコレートのこと?」
「うん。でも、君島くんが食べるのは全然甘くないの。確かカカオが、えーっと、七十パーセントくらいだっけ?」
「……八十五パーセントだ」
「あ、そうだった」
「八十五パーセントって。あたしもエトワールでチョコを使うことがあるから知ってるけど、そんなんじゃ全然甘くないじゃん」
「うん。ちょっとだけ試しにもらったことがあるんだけど、なんかもう、チョコっていうよりかは薬みたいだったよ。甘くないし、凄く苦かった」
「うへぇー。それで他には?」
「何も。君島くんは、いつもお昼はそれしか食べてないの」
「それだけって、え、本当にそれだけ? ウソでしょ?」
「……悪かったな」
美乃梨が新種の生き物でも発見したかのような目をして動きを止めている。
何かいろいろと誤解されているような気がする。それもこれも、鈴鹿の杜撰というか露骨というか、とにかくいい加減な注釈のせいだ。なんとなく意図的なものにも思えるが……。
反論したい気持ちがないこともないが、別に美乃梨の料理にケチをつけているわけではないことだけは伝わっているようだし、とにかくこれで俺が夕食をご馳走される流れはご破算になったので、これ以上は変に騒がず、そっとしておくことにしよう。
「ところで君島くん。採点は終わったの?」
「ああ」
「出来具合はどうだった?」
採点済みの答案用紙を束にして手に持ち、順に点数を確認していく。
「そうだな、全体的にいって正解率はだいたい三割ってところだな」
「三割かぁ……これがチョコレートだったら、苦い思いをしなくて済んだんだけどなぁ」
俺からの凶報で、今までの調子から一転、鈴鹿は嘆息交じりに、落胆した素振りで視線を下に向けて、自嘲気味にくだらない冗談を言った。
健康保険などに聡くないので、もしかしたら間違った内容を書いているかもしれません。
詳しい方がいらっしゃったら、ご指摘していただけると幸いです。