肝試し③
飯山との一件こそあったものの、それ以降はこれといったトラブルも起こらず、ただただ淡々と時間が過ぎゆくのを待つだけだった。
そうして約二時間半が経過してついに、ひとつ前の99番のペアが校舎に入っていくその後姿を、俺と鈴鹿で見守った。これでようやく、いよいよ俺たちの出番だ。
入り口の横には長テーブルが設けられいて、そこに二人の教師が並んで座っていた。
一人は宿に到着したときにもいた、英語を担当している新米の女性教師で、ペアの順番を記したであろう生徒名簿(おそらくはくじ引きの段階で学級委員が制作していたものだろう)を見て次が俺たちの順番であることが正しいことを確認している。
もう一人は校長よりも歳を召しているような外観の、世界史を担当している初老の男性教師で、ストップウォッチを両手にそれぞれ持ちながら、全体の時間管理とひとつ前のペアとの間隔の整合性を確認するようにせわしなく目配りをしている。
一段落したところで、視線が俺たちに向いた。
「次は君島と鈴鹿か……どうです?」
「はい、オッケーです」
女性教師が、手元の用紙から視線を話さずにチェックを入れる。初老の教師は頷き、「それじゃあ、入るときになったら言うから、それまでもう少し、このまま待っていてくれな」と断りを入れた。
計算上は、三分と二十秒待つことになる。今までの待ち時間に比べれば、そんなのはあっという間だ。
初老の男性が、机に立てて置いていた無線機を使って、俺たちの準備が完了したのと同時に次のペアを探し回るよう報告と連絡を入れる。この一報を受けて、焚火の周辺にいる男性教師(さっき俺と不良とのいざこざに介入してきた教師だ)が次のペアを探し、入り口に並ぶようアナウンスする、という段取りとなっているらしい。俺たちもそうしてここに並んだわけだ。
教師たちは、「あともう少しで終わりですね」「ええ、長いようで、これが意外とあっという間でしたな」といった雑談に興じている。会話の雰囲気からは、二人ともに少し楽しんでいたようにも思えた。祭りの終わりが近づいてくるときのようなーー寂寥感というやつだろうか。そんなものも伝わってくる。
鈴鹿は鈴鹿で、ここに並び始める少し前から、すでに何も言わなくなっていた。表情どころか、動きもどこどなく固い。
「そんなにビビるなよ」
「ビ、ビビビ、ビビってなんか、ないよ」
慌てて反論してみせるが、まるでおもちゃの光線銃の音みたいなのを口から発しているあたり、信憑性はゼロだ。どう見ても虚勢でしかない。
そんなに強がらなくてもいいんじゃないか。怖いなら怖いって言えばいいのに。
「もっと気楽にいこうぜ。どうせ先生たちが即興で作った程度のクオリティなんだからさ」
「それはわかってるんだけど。でも、怖いものは怖いんだって」
「おいおい二人とも。私たちの前でそれはないだろう」
話を聞いていた初老の教師が、苦笑いを浮かべる。女性教師も同じだった。
「あ、すいません。今のは言葉の綾で、つい」
慌てて取り繕う俺に、二人ともわかってるわかってるというふうに頷きながら笑っていた。
続けざま、女性教師が「それにしても君島くん、さっきのは凄かったわね」と話しかけてくる。
「何のことです?」
「ほら、飯山くんとのことよ。さっきいろいろともめていたみたいじゃない」
「ああ、あれですか。でも、ここまで聞こえてたんですか」
「ううん、ちょっとお花を摘みに行ってて、その帰りにチラっとね。それにしても君、頭がいいだけじゃなくて腕っぷしまで強いなんてね。ビックリしちゃった」
女性教師は、異性として俺を意識している他の女子たちとは違って、単純に褒めている様子だった。とりあえず「はあ、どうも」と謝辞をしておく。
「でも、気をつけろよ君島。飯山みたいな奴は、あれで意外としつこいからな。二月のときはまだよかったかもしれないけど、今回はこうして、同学年の半分くらいの前であんな恥をかかされたわけだ。あいつの中でも相当鬱憤が溜まってるに違いない」
初老教師の善意で注意喚起しているのだろうが、そんなことは言われるまでもない。げんにこうして、さっきも二月のことが原因で俺に突っかかってきたっぽいし。とりあえず「わかってます」と適当に返した。
そこにタイミングよく、初老教師の手からストップウオッチのアラーム音が鳴りだした。
「おっと、こんな話をしているうちに、そろそろ時間だ。……よし。君嶋、鈴鹿。入れ」
「行くぞ鈴鹿。準備はいいか」
たとえ空元気でも、うん、と言いきってほしかったが、鈴鹿は首肯するだけだった。
***
わかりきったことではあるが、校舎内は全体的に暗かった。
電気がついているような場所は基本的にない。せいぜい非常口を示す緑色の蛍光灯と、消火栓のある赤ランプが、長く伸びた廊下で点々と光っているだけだ。
そんななか、実際に目にしている光景と見取り図とを、薄っすらと漏れ入ってくる光で見比べてみる。
一つ目の怪談は、『いつも膨らんでいる保健室のベッド』だ。
最初のチェックポイントとされているその保健室は、ここから教室四つ分進んだところの左側にあるらしい。たいした距離じゃない。ちなみに、右側には上階へと続く階段が伸びている。
実際、廊下や壁にも矢印がこれ見よがしに描かれている。蓄光塗料が塗ってあるようで、白とも緑ともとれるような曖昧な色合いで光っている。若干光が弱っているようなのは、設置してからだいぶ時間が経過しているからだろう。
まだ一端しか触れていないが、これが校舎全体の仕様であるならば、たしかに迷いようもないな。
とりあえず進むか。ここで無駄に時間を食っているほどの時間的余裕はないわけだし。
そうして足早に進んで、ーーいくらかして、鈴鹿がついてきていないことに気づいた。
振り返ってみると、入り口地点から一歩も動いていなかった。
「ほら、いつまでそこで突っ立っているんだよ。早く行くぞ」
「ま、待って。足が、うまく、動かない」
「……おいおい、冗談だろう」
返事はない。ただただ本音のようだ。ついついため息が漏れてしまう。
仕方なく今来た道を戻り、歩み寄る。
「お前って奴は、本当にちぐはぐだな。清志が怪我したときは病院とか駆け回ってたんだろ? 俺からしてみれば、そっちの方がこんな肝試しよりもよっぽど厄介だし、普通なら面食らって身動き取れなくなると思うけど」
「う。で、でも、それとこれとは全然違うもん」
「どの辺が? どんなふうに?」
「それは、えっと……とにかく違うんだってば」
何だよこいつ。怯えてるとか言うくせに、俺には平然と噛みついてくるじゃないか。
でもまあ、これで少しは恐怖心も払拭できたのかもしれない。
「とにかく、もう行くぞ。このままここにいたんじゃ、じきに次の奴らが入ってくるかもしれないからな」
本当なら、手でも引いて強引に連れて行きたいところだが、生憎とそれはできない。そんなことしたら、俺の方が鈴鹿のように動けなくなってしまう。だからなんとかして能動的になってもらうしかないのだ。
当の鈴鹿は、一拍置いて、どういうわけか腕を伸ばしてきた。そのまま、俺の服を掴むと、「掴んでてもいい?」と尋ねてくる。
鈴鹿は俺が女性恐怖症だということを知っている。だからこそ手とかではなく服なのだろう。さっきもそうして服を引っ張ってきたし。
っていうか、許可する前に掴むなよな。今の時点で、すでにちょっとだけ背筋がゾッとしている。
「わかったから。ただし、俺のこともわかってるだろ? だからそんなにくっつかないでくれよ」
鈴鹿は申し訳なそうに首肯した。
本当なら、拒みたい。そんな、触れるか触れないか紙一重のような状況を受諾なんかしたくない。だがこの状況、そうでもしなければ鈴鹿が前に進めないと言うのであれば、いさ仕方ないだろう。俺ができる限りの我慢をするしかなさそうだ。
鈴鹿が抱いているのとは別の恐怖心がにわかに芽生えつつも、どうにか保健室の前まで辿り着く。 扉を前にした途端、ただ触れているくらいに脱力しきっていた鈴鹿のその手にぎゅっと力が宿ったのが伝わってきた。暗くてわかりにくいが、表情も少し強張っているように見える。
「最初に言っておくけど、何かの拍子で引っ付かれでもしたら、今度は俺が固まることになる。だから保健室に入ったら、お前はなるべく入り口の近くに立ってろ。どこにあるのかは入ってみないことにはわからないが、とりあえず例のビー玉は俺が探すから」
「そ、そうだね。うん、わかった」
「よし。じゃあ開けるぞ」
ゆっくりと、扉をスライドさせていく。
待ち受けたのは、間隔をあけて存在する二台のベッドと背もたれのない二つの丸椅子、そしてちょっとした医療用具・薬品が収納された棚など、どんな学校にでも見受けられるような有り触れた景観だった。ただ、微妙に窓が開いていて、無駄にカーテンが揺らめいていた。この暗闇で動くものがあると、どうしても気になって仕方ない。これも恐怖感を煽る一種の演出なのかもしれない。
そんなごくごく普通の光景なのに、背後から生唾を飲む音が聞こえてくる。そして俺の服が一層力強く掴まれた。というか引っ張られた。もはや苦しいほどに。
「お、おい鈴鹿。怖いのはわかるけどさ、さっき俺が言ったことを覚えてるか?」
「あ、そっか。ごめん」
やれやれ、本当に怖いんだな。
まだ一箇所目だっていうのにこれだ。仕方ない、怖がってる鈴鹿のためにもさっさとビー玉取ってくるとするか。
ゆっくりと開放された背中にほんの僅かだけ余韻を感じながら、足早に手前のベッドに近づき、その一歩前で止まると、それとなく全体を眺めてみた。
ベッドの上は平らだった。特に変わったところはない。ということは、奥のベッドか。
そうして見れば確かに、手前側とは歴然と違った、どうにも奇妙な膨らみができている。
……さてと。こういう場合、驚かす手法なんかは大まかに三通りに絞られるが、はたしてどれでくるのか。問題はそこだな。
まず、保健室を再度見回してみた。これといって人が隠れられるような戸棚やスペースはない。ということは、俺たちがベッドに意識を集中しているその隙をついて背後から奇を衒った奇襲する、という可能性はまずなさそうだ。
次に、その場でしゃがみこんでみた。二つのベッドの下を確認してみるとーー案の定、奥のベッドの下に何かしらのシルエットが、大まかだが確認できた。できてしまった。
ということは、『ベッドの膨らみを確認している間に、ベッドの下から足でも掴んで驚かす』という、なんともオーソドックスな展開にこれからなるらしい。予定では。
いとも簡単に見抜いてしまったが……さて、どうする? あんな場所でじっとして頑張ってくれてることだし、一応驚いたフリでもしておくべきだろうか?
「ど、どう君嶋くん。ビー玉あった?」
そこに鈴鹿が、近くまで来て、そっと尋ねてくる。
「いや、こっちには何もないな」
「じゃあ、こっちのベッド、かな」
そして鈴鹿は何を血迷ったのか、もう一つの、その下で教師が潜伏しているベッドに、オドオドしながら近づいていく。あ、え? ちょっとお前、何をやってーー。
そんなふうに憂慮したのが少し遅かったらしい。鈴鹿の絶叫が、保健室中に轟いた。
慌てて鈴鹿のそばに駆け寄ると、ベッドの下から青い手が伸びていて、それが鈴鹿の足を鷲づかみしていたーーのだが、
「キャアアッ! き、きみ、く、みじ、き、みじまくうぅうんっ!」
鈴鹿はまるで呪い殺すかのように俺の名を不気味に連呼しながら、……うわぁ。これがまた、その手をまあ容赦なく蹴るわ蹴るわ。
すでに教師の悲痛な声が漏れ聞こえてくれるという事態に発展している。だが、姿を見せずにどこからともなく聞こえたその声が、なおさら鈴鹿の恐怖心を煽ったらしい。暴走に拍車がかかる。
未だ掴んだままの腕を、上から踏みつけ始めたのだ。もはや狂気の沙汰である。
さすがに教師もこんなことをされては我慢できなくなったらしく、すぐに掴んでいた手が離れた。
これでようやく鈴鹿も収まるだろうーーと思いきや、「えい、えい」と、まるでゴキブリを執念深く追いつめているかのように、攻撃の手を緩めない。
そうして七回ほど踏んだーー踏みにじったところで、ようやく気が済んだらしく、百メートル走でもしたかのような酷く荒い息を上げながら、首尾よく俺の背中に回りこんでくる始末。
いやいや、もう幽霊やっつけたから。お前のその手ーーじゃなくて足で。
なんとも酷くえげつない一方的な今の有様を見てしまった俺は、医者志望とか関係なしに教師が気になってベッドの下から引きずり出して様子をうかがうことに。
……こりゃあひどいな。
先生は弱弱しく「鈴鹿……お前、なぁ……」と呆れとも恨みとも受け取れる言葉を発していた。目には涙が浮かんでいる。よほど痛かったのだろう。
遅れて理性を取り戻した鈴鹿が「すいません、すいません、本っ当にすいません」と頭を下げっぱなしだった。
なんともショッキングな出来事で幕開けをした鈴鹿との肝試しだったが、ある意味これで落ち着くかと思いきや、その後も鈴鹿の暴走は止まらなかった。
次に訪れた音楽室では、室内に入る前から鳴りやまないでいたメロディが突然途切れ、静寂となったところを教師が驚かすという段取りだったようだが、鈴鹿が終始両耳を塞ぎながら叫んでいたため、全く意味をなさずに終わった。
その後の理科室では教師が扮する人体模型の股間に直接フリーキックを決めて悶絶させるし、更にその後に訪れた校長室では赤い絵の具で染まっていく校長の写真に対し近くにあったものを形振り構わず投げつけて額縁のガラスを割ってしまったりもした。
怖いのが苦手という話だったはずが、怯えるどころか、現れる怪異に立ち向かい、次々撃退していやがる。エクソシストかお前は。
正直、鈴鹿の方が何倍も怖く感じる。
「あれ、どうしたの君嶋くん。なんかニヤニヤしてるけど」
「ニヤニヤって、俺が?」
「うん。そんな君嶋くん、初めて見た」
「そんなはずはないだろう。俺は今、お前の凶行にしみじみゾッとしてたところなんだぞ」
「凶行って。もうちょっとマシな言い方とかあるよね?」
「そうか? うーん、情緒不安定とか? もしくは乱心?」
「……なんでもいいよ、もう」
「それにしてもお前、そろそろ勘弁してくれよ。いい加減、俺も謝り疲れてきたし」
「う。わ、わざとじゃないんだけどなあ」
「だから、わざとじゃなくああいうことをやる奴が人間として一番怖いんだって。そういう話だってことだよ。よく言うだろ。一番邪悪な存在っていうのは、結局のところ、純粋無垢である子供だ、って」
「何それ。そんなの聞いたことないけど」
「そうか? でもまあ、鈴鹿ほど大げさに驚いてくれる奴は他にいないだろうし、ある意味で先生達もやりがいってものを感じているのかもな。きっと大目に見てくれるだろうけど。なにせ修学旅行だし」
「そうだといいけど。……これが終わったら、後でもう一回謝りに行っておこう」
最後のそれは独白に近かった。この修学旅行が終わったらもう自分は教師と関わることができない、という消極的な考えによるものだろうか。
その言葉で、俺も現実に戻される。
そう。この修学旅行が終われば、鈴鹿は学校とも、そして俺とも、完全に縁が切れるのだ。
改めてその事実を受け入れてみると、なんとも妙な気分だった。
まるで胸に穴が開いたような。何かが失われていくような。
それは、今まで一度も感じたことのない感覚だった。
……いや、そんなことはない。
本当は、これに近い感情を毎日抱いていたんだ。
鈴鹿の家を出る、その瞬間に。
ただ、今はその度合いが違うだけにすぎない。こうして明確に実感できるほどに。
ここで不思議と、『洸のことはどう思ってるわけ?』というさっきの宮城の言葉が頭に浮かんでくる。
あのときは飯山が現れたおかげで返答せずに済んだが……実際のところ、俺自身、鈴鹿をどう思っているのか、わからずにいた。
宮城や他の学校の連中に対するそれとも違うし、かといってじいちゃんやばあちゃんに対する感情とも異なっている。
今まで抱いたことのないようなもの。この気持ちの正体はーー何なのか。
「君島くん?」
あんなに元気よく暴れまわってきたというのに依然として服を掴んでいる鈴鹿が、俺の足取りが少し遅くなっているのに気付いたのか、様子を窺ってくる。
「悪い、何でもない」
「何? 考えごと?」
「まあな。今度はどんなふうにすれば、お前を暴れさせないで済むかってことをーー」
「もう!」
鈴鹿が不貞腐れたように唸る。しかしながら服を掴んだその手は離さないでいる。
まるで百面相のようにコロコロと表情を変える鈴鹿を見て、俺は考えるのを止めた。
もう、考えるのはあとでいい。
今はもう、残り少ないこの時間を楽しむことに専念しようと、そう思うことにした。
そう。このときの俺は、たしかに、この時間を楽しいと感じていたのだ。
けれどしばらくして、それが一気に破綻することになる。
飯山が、再び俺たちの前に現れたのだ。