無色透明な世界①
いくら合鍵を持たされているとはいえ、他人の家に独りでいるというのはどうにも居心地が悪いものだ。未だに慣れない。
机について読書をしていた俺は、ふと左の壁に括りつけられている時計を見上げた。
さっき目にしてから、まだ五分と経っていなかった。少なくとも十分は経ったと思ったのに。
仕方なく読書を再開する。だがやはり、こんな調子で蝟集した活字を目で追ってみたところで頭に浸透してくるはずもない。数行としないうちに思い切って本を閉じることにした。
ふう、と思わず口から息が漏れる。
本すら読めないとなると、他にできることといったら……なんだろう。仮眠くらいなものか。
あともう少しすればあいつも帰ってくるだろうし、仮に深い眠りになってしまったとしても問題はないだろう。あいつが起こしてくれる。
そうして俺ーー君島健は、そっと瞼を閉じた。
たったそれだけのことなのに、世界は一瞬にして暗黒に塗り替えられる。そしてそれ以外には何もない――はずだったが、生憎と今は違っていた。
耳が、何もないはずのこの世界に、時間という概念を引き連れてくる。
カチ、カチ、カチ、という単調で無機質な音が、六畳とないこの台所に、木霊したように延々と響いている。
音自体はそれほど大きくもない。通常なら聞き流せるほどの、慎ましい生活音の一つでしかない。なのにそれが今、辺りが静まり返っているせいもあってか、もしくは視覚を遮断したせいで聴覚が鋭敏になっているのか、俺という自我に深く浸透してくる。それこそ、魂にまで攻め入ってきて何かを刻み込こもうとしているかのように。
一定の音程。一定のリズム。
気にすれば気にするほど、眠りの淵から遠のいていく。
……ダメだ。全然寝れやしない。
たまらず、また時計に目を向けてしまった。
見ると、俺がここに到着してからちょうど一時間が経過したところだった。
時計はゆっくりと、だが正確に、動き続ける。
こうして何も変化の起こらないこの部屋さえもひっくるめて、世界全体は動いている。平等に。
そんなことは自明の理、今までの人生で骨の髄まで理解していることなのに、どうしてか今はそれが信じられなかった。奇妙な感覚に囚われていた。この空間だけがまるで現実から切り離されて隔離され、時の流れが滞ってしまっているかのような。
けれど、そんな俺の目を覚まさせるために、それはただの妄想だと言わんばかりに、時計はなおも軽快に針を動かし続けている。
……この時計の音って、こんなに大きかったっけ。
普段ここで勉強しているときにはまったく気にならないのに、どうして今日はこんなにも耳障りに思えてくるのだろうか。
それにしても遅いな。何をしているんだろう、あいつ。
遅れることは予め聞いていたけど、それにしても遅すぎる。
……まさかとは思うが、事故にでも遭ったんじゃないだろうな。
いやいや、さすがにそれはないーーとは言い切れないか。あいつのことだし。ついうっかりしていて赤信号に突っ込んでいったとか、そんな光景も容易に想像できる。残念なことに。
いい加減、電話でもしてみるか?
そう思って座ったまま振り返った。
目の前には玄関がある。俺とは二メートルと離れていない。目と鼻の距離だ。そして玄関の左手側には冷蔵庫があり、右手側にはワイヤレスの細長い固定電話を載せた、上に細長く伸びた小ぶりな机がある。
俺はおもむろに立ち上がり、電話まで詰め寄って、見下ろした。
もしもこれが俺の家であったなら、迷わずに受話器を手に取っていたことだろう。だが、ここは俺の家じゃない。
ワケあって今じゃそれなりに通い慣れてきたとはいえ、それでもあまり人の家のものを勝手にいじくるのは避けたいところだ。だから電話を借りるのだって一応断りは入れたい。だがその断りを入れようにも、この家の住人がいないのだ。
おそらく、普通の高校生なら自分専用の携帯電話を持っていることだろうから、いちいちこんなことで悩んだりはしないのだろう。それさえあればすぐ済む話だし。
だが俺は、そんなに頻繁に連絡を取り合うような仲の相手もいないので所持していない。そんなものを携帯している必要がないのだ。
万一のために持っておくべきだよとあいつは言うけど、なんでも聞いた話だと、仮に一切通話をしなかったとしても基本料金だけで結構するらしいじゃないか。そんな金食い虫はごめんだ。
けれど、あいつはそれを持っているんだよな。家庭の懐事情は俺と似たようなものなのに。
ただまあ、あいつは俺と違って弟と妹がいるわけだし、友達もそれなりにいる。そのうえ学級委員でもあるわけだし、誰かと喫緊の連絡を取る頻度は多いはず。そういった意味でも必需品なのかもしれない。
それはそれとして……さてどうしたものか。
そんなふうに逡巡していると、目前の玄関のドアノブに鍵が差し込まれ、いじくられる音が聞こえてきた。どうやら帰ってきたようだ。少し伸ばし気味だった手を引っ込めて、玄関を見入る。
様子を窺っていると、ドアノブが一度捻られ、すぐさま「あれ、帰ってきてるのかな」という疑問符の付いた声が聞こえてきた。その声に思わず「げ」と声が漏れてしまう。
おいおい、お前の方かよ。
俺が扉一枚挟んだ向こう側にいるとは知る由もなく、声の主は「ただいまー」と快活に、今度こそ扉を開け放った。
「お姉ちゃん、帰って――あれ、おにいさん?」
「や、やあ」
声の主ーー鈴鹿美乃梨は、俺を見るや否や、脱ぎ途中だった靴を足だけでぞんざいに脱ぎ捨て、両手に持っていたビニール袋もその場に置き去りにして、笑顔を浮かべながらドタドタと、まるで抱き着く勢いで寄ってきた。
背後では右の靴が宙を舞ってから不時着し、同時に片方のビニール袋がその内部で音を立てて雪崩を起こしていたが、気付いているのかいないのか、美乃梨は見向きもしない。
たしか、このあいだ中学を卒業したばかりだから、まだ十五歳だったか。
仮に年齢だけで今の一連の様子に意見をするならば『精神が成熟しきらない幼稚な少女』といったところだろう。それが、まがりなりにも彼女のことを知っている俺からすれば、『まだまだ子供らしいところもあるんだな』といった感想になる。
顔ごと斜め上に傾けて、俺の目を見つめてくる。「あは」と顔を綻ばせながら、まっすぐに俺を見ている。本来なら俺の顎くらいの高さにある両の眼が、心なしか少しだけ潤んでいるようだ。
このくらい近い距離だと普段は意識せずとも小麦粉の匂いが香ってくるのだが、不思議と今日はそれがない。そんなことを頭の片隅に思い浮かべている一方で、反射的に体が少し後退していた。
「久しぶりだね、おにいさん」
「どこがだよ。昨日だって会ったじゃないか」
「えー、だって昨日は仕事終わりにたまたま会っただけじゃん。時間にしたら、たかだか一分か二分そこらだよ? あんなの全然会ったうちに入らないでしょ」
「でも、会ったことには変わりないだろ。いくらか話だってしたし」
「あれだって話したうちには入らないって。って、あれ? お姉ちゃんは?」
「あいつはまだ帰ってきてない」
「そうなの?」
「なんか、急に放課後に学級委員の用事ができたとかでさ。もう一時間も待ってるんだけどな」
「ふーん」
俺を見ながら、美乃梨は思案するような声を漏らす。
「じゃあさ、じゃあさ。せっかくだから、お姉ちゃんが帰ってくるまであたしとお喋りしようよ」
「またかよ。昨日もしたし、この前だって散々いろんな話をしたじゃないか。あれからそんなに時間も経ってないんだから、これといって新しい話題なんかないんだけど」
「いいの、いいの。あたしはおにいさんと話がしたいんだもん」
「って言われてもなぁ。それじゃあ一体何を話せばいいんだ?」
「何でもいいんだよ、そんなのは。それにおにいさんだって、お姉ちゃんが帰ってくるまで暇なんでしょ」
「そりゃあまあ」
「じゃあ決まりね」
有無を言わさず、美乃梨はさっと離れ、俺の背後に向かった。それを目で追うと、俺がさっきまで座っていた席の、その向かいの席に腰を落としてこっちを見ていた。
「ほら! おにいさん! 早く座った座った!」
まるで幼児のように机を軽く叩き、催促する。
まったく……美乃梨はいつもこうだ。何かと俺と話をしたがる。しかも、これといって実のない話を。
こんなことがこれで何回目なのかはわからないが、その真意は未だに図りあぐねている。本当にお喋り好きな子なのか。それとも単に構ってほしいのか。あるいは……いや、これ以上は考えないでおこう。藪蛇だ。
ただまあ、確かに時間つぶしにはもってこいだし、しょうがないか。
ため息を零しながらも、渋々腰を落ち着かせることにした。
「それにしてもさあ、毎回言ってるだろう。『おにいさん』はやめてくれ、って」
「えー、どうして? 『おにいさん』で何がいけないの?」
「誰かに聞かれでもしてみろって。変な噂が立ちかねないだろ。そんなことになったら、そもそも俺がここに来る意味がなくなるわけだし。それに、血の繋がった本当の兄貴だっているんだからさ」
「何よ、変な噂って」
「そりゃあ……たとえばだな、俺とあいつが付き合っててもうすぐ結婚間近、あるいはもう結婚していて、だから妹の君が俺のことをお義兄さんって呼んでるんじゃないか、とかだよ」
「何それ。考えすぎだってば」
美乃梨は机に両肘をついて、両手を組んだ形にしてそこに顎を載せてニコニコしている。
口ではそう言うものの、その笑顔は、どちらかというと邪な方に寄ったものだというのがありありと見て取れた。
考えすぎだと言われるのも仕方がない。俺もその通りだと思う。でも、今のこの状態が崩壊するような芽はどんな小さいものでも摘んでおきたいのだ。杞憂ならそれでいい。
「っていうか、おにいさん、そんなこと考えてるの? それって、お姉ちゃんをそういう目で見ているってことだよね、だよね?」
「そんなことは一言も言ってないだろうが」
「隠さなくてもいいじゃん。ほら、そうなったらあたしたち、義理とはいえ結果的に兄妹になるんだし」
「もしも、の話だって言ってるだろ」
「でもなんか、義理の兄妹って、ちょっとエッチな響きだよね。おにいさんもそう思わない?」
「どこが。全然」
「あれ、こういう『イケナイ関係』みたいなのを何て言うんだっけ? 確か、はい、はい……えっと、えっと」
『背徳』とでも言いたいのだろうか。
「あ。そうだそうだ。思い出した。確かね、『梅毒』っていうんだった」
……は?
どこで仕入れたんだ、そんな間違った知識。
「梅毒っていうのは性病の名前だぞ。一応言っておくけど」
「え? そうなの?」
「ああ。相手が俺だからよかったものの、他の奴が聞いたら噴飯ものの赤っ恥だ。今後はそんな間違いをするなよ。聞いてるほうが恥ずかしくなる」
「そっかそっか、性病ね。ふーん。だからか」
「何が」
「おにいさんが何でそんなことを知ってるのかって思ったけど、お姉ちゃんと一緒にいれば、そういうことを知っててもおかしくないと思ってさ」
「知識として知ってただけだ。俺が医者を目指しているってのは美乃梨ちゃんだって知ってるだろ」
「はいはい。とにかく、おにいさん達も気をつけてよね」
「どういう意味だよ」
「どういう意味って、もー。そんなことを年下の女子に言わせないでよ」
「どの口が言うんだよ。梅毒とか性病とか平気な顔して言ってたじゃないか。さてはわざと間違えたな?」
「またまたー。そんなわけないじゃん」
さっきにも増して笑っていやがる。この野郎。
「っ……何度も言ってるけど、俺たちはそういう関係じゃないから。ただ勉強を教えてるだけ。それだけだ。それ以上でも以下でもない」
「今はね」
「今後ともそうなんだよ」
「はいはい。一応そういうことにしておいてあげるよ。でもさ、でもさ。もしもおにいさんがお姉ちゃんと付き合っていなっていうのが本当なら、もしかしてもしかすると、おにいさんは、このあたしと結婚しちゃうってことだって可能性としてはあり得るってことだよね。だよね?」
「……知るか」
ああもう。毎度のことながら、本当にやかましい奴だ。ああ言えばこう言う。
だからこの子とはあまり顔を合わせたくないんだよな。何かといえば同じ話題ばかりだし、何か言えばそれが二倍にも三倍にもなって返ってくるし。端的に言って面倒くさい。
でもまあ、このくらいの子はみんな似たり寄ったりなのかもしれない。学校の女子もだいたいこんなものだし。
それにしても、冗談とはいえ異性の前で梅毒なんて言葉を口するのはいかがなものだろうか。それもあんな能天気な調子で。
大胆というか軽率というか、とにかく美乃梨の将来が少し、ほんの少しだけだけど心配になる。
あいつとは大違いだな。本当に血の繋がった姉妹なのか疑問に思えてくる。
ここで俺は、面倒な言及から逃れるため、尋問をされる側からする側に移った。
「そんなことより、今日は休み? 確か木曜と金曜だったと思ったけど。俺の記憶違いかな」
「ううん。ちょうどね、今週から木曜休みが火曜休みに変わったの。金曜はお店自体が休みだからそのままだけど」
「ふうん。で? もう仕事には慣れた?」
「まあね。でも、もう始めてから半年も経ってるわけだし。それなりのことはもうできるようになってるからね」
「でも、今までと比べたら働く時間数が違うわけだろ?」
「そのへんは別に気にならないかな。時間が過ぎるのだって働いているとあっという間だから。前と違って、働いた分だけお給料がちゃんと発生するってところもいいね。働いているって実感がわくし」
「そりゃあ何よりだな」
「でもまあ、しいていえば朝がちょっときついかなぁ」
「ああ、確かにパン屋は朝が早いって言うよな。『エトワール』って何時から開店だったっけ?」
「一応七時からだけど、出勤は六時。だから、起きるのはいつもだいたい五時くらいかな」
「五時か。それは辛いな」
「でも、妹尾さんーーあ、店長のことね。妹尾さんは、あたしよりもさらに一時間早く起きて、準備も五時には始めてるって話だからさ。本当に頭が下がる思いだよ」
ということは、その店長はだいたい四時に起きているということになる。
実のところ、わけあって俺もその店長と同じで毎朝四時に起きている。だが、そんなことはおくびにも出さずに、相槌を打った。
朝五時に起きて、六時から働き、あいだに一時間の休憩を挟んでの八時間労働。計算上では十五時に仕事が終わるわけだが、翌日の仕込みやら掃除やらに追われて、大半は夕方まで残業をすることになるらしい。それを何でもないことのように美乃梨は飄々と口にするが、高校三年にもなってアルバイトの一つもしたことがない俺からすれば、頭が下がる思いなのは俺の方だと思った。
美乃梨は、ついこのあいだの三月に中学を卒業したばかりだ。けれど高校には進学していない。
就職する道を迫られたのだ。
そう、『選んだ』のではなく、『迫られた』のだ。家庭の事情で。
そうして中学を卒業した今、ここから歩いて五分もかからないところにある、『エトワール・フィラント』という名称の、いわゆる町のパン屋で先月から正式に働いている。
もっとも、厳密に言えば、働き始めたのはもっと前からだ。
俺が美乃梨と出逢ったのは今年の一月のことだが、そのときにはもうすでに、美乃梨は学校終わりの放課後になるとエトワールにほぼ毎日通いつめ、実際に工房で働いていた。
もちろん、賃金は発生していない。
最初にこの話を聞いたときは俺も引っかかるところがあって少し調べてみたことがある。そこでかじった知識によれば、日本国憲法の第二十七条には勤労についての権利と義務が明文化されているわけだが、そこには『児童酷使の禁止』がはっきりと謳われている。また、同様にして労働基準法にも、その第五十六条に『最低年齢』という項目が盛り込まれている。
それらを束ねて要約するとーーいくつかの特例を除いて、原則、『満十五歳未満の労働は認めない』ということになる。
ただしこれは、あくまで相互の間に雇用関係があれば、の話である。
たとえば、両親が蕎麦屋を営むその子供が流しで皿洗いをしていたって何の問題にもならない。なぜならそこには賃金が発生していなくて、つまりは雇用関係ではないからだ。労働ではなく、ただのお手伝いだからだ。
その線引きを逆手に取って、美乃梨は昨年の十月頃からすでにお手伝いをしていた。中学を卒業したらそこに就職するという前提の下で。
前述のとおり、もちろん賃金は発生していない。ただし、エトワールの妹尾という店主が人情に篤いタイプの人だったので、お手伝いの対価が全くなかったというわけではなかったようだ。
あまり大きな声では言えないが、『現物支給』と言えば察しが付くだろう。ある意味、そういうところは飲食店の強みでもある。
「そういえばさぁ。おにいさん、未だにお店に来てくれてないよね」
「いろいろと忙しいんだよ」
「お姉ちゃんの面倒を見る時間はあるくせに」
「その『お姉ちゃんの面倒を見る時間』のせいで忙しいって言ってるんだよ。俺たち、こう見えても受験生なんでな」
「でも、さすがにパンを買うくらいの時間はあるでしょ? 現に今日だってこうして暇してるんだし」
痛いところを突いてくる。
それに、気付けばまた美乃梨のペースだ。
「行ったとしたら、知り合い割引みたいなのがあるのか?」
「さすがにそれはないかな。妹尾さんは自治会とかに入ってて顔広いし、そのうえあたしみたいなペーペーの知り合いにまでそんなことしちゃったら経営なんかできないって」
「それはそうか。それじゃあ、今日みたいにあいつに急用ができて待つことになったときとか、そういうときに帰りがけに寄ってみることにするよ」
「それ本当?」
「ああ。ただし寄るだけだぞ。パンは買わない」
「それはまあ個人の自由だからしょうがないけど……あ。もしかして、あたしがいない日に来るつもりなんじゃないよね?」
「ハハ。まさか」
鋭いな。
さっそく翌週にでも訪れてとっとと済ませようと考えていたところだ。くそ。
名案だと思ったけど見透かされていたか。こうなったら仕方ない。俺が今自分で言ったように、あいつが遅れるようなときには時間を潰しがてら本当に様子を見に行ってやるか。
「火曜と金曜が休みなんだろ? ちゃんと覚えておく」
「絶対だよ。それと、もし本当にお店に寄ったなら、ちゃんとあたしに声掛けてね」
それだけ言うと、美乃梨は満足したのか、さっきまでの笑顔に戻った。
心からの笑顔だ。それを目にして、これまでの軽口はさておき、強い子だなと心の奥底で思った。
自分の置かれた境遇に嘆きもせず、誰を恨むわけでもなく、今を生きるのに心血を注ぐ。
こういう、頑固というか、自分の意志を貫き通すところはあいつとそっくりだ。
やっぱり姉妹か。
美乃梨とこういう話をすると、俺自身が中学三年生の頃に味わったあの葛藤が沸々と蘇ってくる。
当時、俺には通いたかった高校があった。
だがそこは私立で、そして俺の家からでは通えないほどの距離にあった。だけどそこに寮はなかった。つまる話、単身者用の部屋を借りたりすることを避けては通れなかった。
そうなると必然、金がかかるのだ。
そもそも私立高校という時点で金がかかるというのに、部屋の賃貸料や光熱費、食費といったものが加算されてくる。それも三年分。
そんな金を用意できるあてはなかったので、俺はその高校を早々に諦めた。そしてまさに真逆の、交通費すらかからない最寄りの公立高校にさっさと推薦で入学を決めた。
自分の実力とその高校の偏差値との間に、とてつもない開きがあることを承知で。
本当のところ、家に志望校に通うだけの最低限の蓄えがなんとかあったようだ。
だがそれは、そこで財産のほぼすべてを使い果たすことを意味しているらしく、裏を返せば、大学に進学するための金がなくなるということだ。それは俺の望むところではない。
俺の真の目的は行きたい高校に通うことじゃない。きちんと大学を卒業して、医者になることなのだから。
俺は俺で家庭の事情があって、多少なりとも進路を変更せざるをえなかったわけだが、それでも美乃梨が背負った苦労と比べれば、まだ易しい方だろう。
同級生が揃って一様に『高校受験』というレールに乗って勉強に取り組み、入試のストレスに晒され続けながら毎日を過ごすなかで、美乃梨は早々にそのレールからはずれた。
そうして生まれた解放感を妬み羨むように、非難の目が向けられたことだってあったことだろう。美乃梨は美乃梨で、自分の家計を助けるために、すでに働いていたのに。
『進学』という共通のゴールへと向かう同級生の中に、今まで以上の連帯感のようなものが築かれていく。その傍らで、美乃梨は毎日働き続けた。
そうして生まれた疎外感を、人生の分岐点に立たされて必死なはずの同級生の前で口にすることなどできるはずもない。
生きるため、最も必死になっていた者こそが美乃梨だと俺は思うが。
そうして今、かつての同級生はそれぞれが新しい学び舎に分かれ進み、新しい友と出逢い、交流を深めていることだろう。その傍らで、美乃梨は今も働き続けている。ただひたむきに、振り返ることもせず、ただ前だけを向いている。
そんな美乃梨に対して同情や憐憫といった感情を抱くのは、むしろ失礼に値する気がする。別に美乃梨は孤独なわけじゃないのだから。
そう。美乃梨は孤独じゃない。言うならば孤高なのだ。
「それじゃあさ、『指切りげんまん』しよう」
「指切り? いや……さすがにそれはちょっと」
「えー、なんでーーああそっかそっか。そういえばそうだったね。でも指切りだよ? それもダメなの?」
「やってみたことなんてないからわからないけど、一応念のためっていうか。ごめんな」
「ううん、いいの。こっちこそごめんね。言われるまで忘れてたし」
勘のいい奴ならば今の会話からして察することができると思うが、念のため、一応ここで注釈を入れておこう。
端的に言って俺は、いわゆる女性恐怖症なのだ。
どこが、と言いたいかもしれない。美乃梨と普通に話しているじゃないか、と。
会話はできるんだ。会話は。
顔を見て話すこともできる。それが至近距離であったとしても、まあ我慢すればできる。どういうわけかそういう頻度が昔から多いため、さすがにもう慣れている。
ただ、触れ合うことは絶対にできない。一切できないのだ。
たとえば落とし物なんかを拾って相手に渡すときにちょっとでも指先が触れ合おうものなら、それだけでどうしてか鳥肌が立って脂汗が出てきてしまうのだ。だから、たとえ指切りであってもおそらくできない。恐くてできない。
前に一度、出会ってすぐの頃に美乃梨がふざけて俺に抱き着いてきたことがあったが、あのときは貧血でも起こしたかのような眩暈に襲われ、額に脂汗が沸きだし、たちまち過呼吸にもなってしまった。それが落ち着くまで、少しのあいだ横になっていたくらいだ。
余談だが、美乃梨が俺の持病を知ったのはその件があってからのことなので、実際に俺が発作を起こして苦しんでいるのを目前にしたときは、とにかく焦っていた。しまいには涙をこぼしていた。何が何だかわからず、しかし自分のせいだという事実だけは明白だったからだろう。
「それっていつか治ったりするの?」
「さあ。どうなんだろうな」
「そういうのってさ、何かの病気っていうよりは精神的なものなんじゃない? 病院には行ったの?」
「まさか。こんなことで病院なんか行けるわけないだろ。恥ずかしいし、それ以上に金がもったいない。それに、医者とかから『こいつ、そんなことで悩んでいるんだ』って目で見られるのも嫌だからな」
医者を目指している俺が自己診断しても、何が原因なのかはやはりわからない。そもそも俺が目指しているのは外科なので畑違いってっこともあるが。
ただ、生まれたときからそうだったわけではなかった。記憶の上では、少なくても幼稚園くらいまではそんな症状に襲われることはなかったような気がする。
とにかく、今の俺にはそういう症状があるから極力女と物理的に接触しないように注意している。
本当は間接的にでも関わらない方がいいに決まっているし、俺だってそうしたいところなのだが、それが中々に難しい。
「ふーん。もっ……ないなぁ」
「ん? 何か言ったか」
「ううん、何でもない。おにいさんも大変だね、って言ったの」
「そうでもないさ。ようは触れなきゃいいだけだ」
「それだけ聞くと、まるで痴漢の言い訳みたいだね。いずれにしても、早く治してよね。お姉ちゃんのためにも」
「どうしてそこであいつが出てくるんだよ」
「だって、おにいさんがその持病を直してくれないと、お姉ちゃんとキスの一つもできないじゃん」
「……あのなあ」
またそっち系の話か。
一気にげんなりした顔の俺を見て美乃梨が露骨にニコニコしているのがこれまた癪に障る。
もしかしてこいつ、俺を洗脳しようとしているのか? こうやって事あるごとにそういう話題を振って、俺にあいつを意識させるために。
怒るつもりはない。だが、いい加減にしてほしい。
俺には一切その気がないし、あいつとの関りはせいぜい大学入試までの間だけだ。そして、こと勉強に限っての関係だ。
美乃梨にはそういった話をすでに何度もしている。それでもなお、美乃梨はめげずに、この話を事あるごとにしてくる。ということはつまり、頭ごなしに否定しても意味がないってことか。ならば……いっそのこと、背水の陣を敷いてしまうか。
「そんなに俺たちをくっつけたいのか?」
「さあ、どーだろうね」
「じゃあ、敢えて言わせてもらうぞ」
「何を?」
「そんなことには絶対にならない。だから、やれるものならやってみろ」
「あ! ついに言ったね、おにーさん! そんなことを言われちゃったら、もう黙っちゃいられないじゃん。本気を出しちゃうからね!」
途端、まるで言質でもとったかのように美乃梨は勢いよく椅子から立ち上がった。わかりやすい奴だ。
今までだって全然黙ってなかっただろうが、なんていう反論は噛み殺して、俺は余裕の笑みを浮かべて返す。本当、やれるもんならやってみろっていうんだ。
ーーと、そこで勢いよく扉が、さっきよりも短く甲高い悲鳴を上げて開いた。
俺と美乃梨が揃って目を向ける。するとそこにあいつーー鈴鹿洸がいた。すでに眉間にしわを寄せて、仰々しく合掌している。扉が開ききるよりも前にそうしていたんじゃないか、と思わせるくらいの早業だ。
「遅くなっちゃってごめん、君嶋くん」
若干頬が紅潮している。息遣いもまだかなり荒々しい。両の肩を上下に揺れているほどだ。できる限り急いで帰ってきたのだろう。
これでようやく待ち人が現れたわけだが……さて、何て言ってやろうか。
なんて考えていると、脇にいた美乃梨が、ごくごく普通に「あ、お姉ちゃん。おかえりなさい」と声をかけた。鈴鹿は合掌したまま、ゆっくりと目を開き、パチパチと二度瞬きをすると、しばらく呆けていた。
「みぃ(美乃梨のことだ。鈴鹿はそう呼んでいる)? あ、そっか。今日は休みなんだっけ」
「うん。それよりもお姉ちゃん、とりあえずドア閉めたら」
美乃梨は鈴鹿の後方を指さす。それに「あ」と声を漏らすと、恥じらったように反転し、開いたときとは打って変わって、音も経たないほどゆっくりと、そっと扉を閉めた。そしてそのまま、ふう、と何故か大きく息を吐いた。
それから靴を片方ずつ右から順に脱ぎ、脱ぎ散らかされた美乃梨のも含めて、きちんとつま先側が扉に向くよう向きを揃える。そして反転して、美乃梨が持って帰ってきたビニール袋の片方――まだ袋の中身の秩序が乱れていなかった方――に足を取られ、「わっ!」と声を漏らしながら床に倒れ込んだ。
その光景が目に飛び込んできた瞬間、とっさに腕を掴んで助けようという意思が芽生えた。体が前傾姿勢になる。が、それと同時に、俺の中の女性恐怖症がそれを阻んだ。腕を掴むだって? そんなのできるわけがないだろーーと。今にも動き出そうとしていた体が固まる。
そんな板挟みにあっているあいだに、鈴鹿はそのままみっともなく転んでしまった。
「あたた……あ、あはは。急いで帰ってきたから、ふらついちゃったのかな」
普通なら『こんなところにビニール袋を置いたのは誰?』と当たり散らしそうなものだが(なんなら美乃梨はそうするだろうが)、鈴鹿はそんなことはしない。
自分より先にあったビニール袋に自分が躓いた。ただそれだけで、それ以上でもそれ以下でもない。だから、自分が悪い。不注意だった自分が悪い――とまあ、こんな具合に事態を嚥下してしまう。それが鈴鹿の感性らしい。
いつも悪いのは自分。嫌なことが起こるのは全部自分のせい。そんな価値観を、俺は諸刃の剣だと思っている。
鈴鹿は立ち上がると、改めて合掌し、「君島くん、本当にごめんね」と謝った。
「ホームルームが終わってからすぐに来たんでしょ? だとすると、だいぶ待たせちゃったよね」
「まあな。ざっと一時間半ってところか」
俺が壁に掛けられている時計を横目で見ると、「う。ご、ごめんなさい」と、今まで以上に、まるで萎れた花のように意気消沈の色を見せた。両手も崩れていく。
本当、何度謝れば気が済むんだこいつは。悪い癖だ。
「それよりも、どうしてこんなに遅くなったんだ? 学級委員の集まりとか言ってたけど」
「うん。なんかね、今度の修学旅行の行程の一部に急遽、調整が必要になったんだって」
「調整ねぇ。それってどんな?」
「うーんと……ごめんね、これは口外しちゃいけないって言われているから」
「ああ、それなら仕方ないな。いずれにせよ、無事でよかった」
「え?」
「あまりにも帰りが遅いからさ、もしかして事故にでも遭ったのかって心配してたんだよ。そこにある電話を勝手に借りてお前にかけようとしたくらいだ」
鈴鹿の口元が、ゆっくりと綻んでいく。
もうだいぶ呼吸も落ち着いているようだが、未だに頬は紅潮したままだ。そこにーー。
「アツアツだねぇ、お二人さん。まるで新婚の夫婦みたい」
美乃梨が頬杖を突きながら、酔っ払いが野次を飛ばすかのように余計な一言を入れて場を乱した。
鈴鹿は現実に戻ったように我に返り、それから「も、もう、みぃ! 君島くんの前で何を言うのよ!」と顔を赤らめて、俺をチラチラと見つつ反論する。
おい鈴鹿。そういうふうに露骨に反応するのがいけないんだって。いい加減、察しろって。
……いや、逆か。こう言えば鈴鹿が面白い反応をするって知ってるから、美乃梨はわざと炊きつけるようなことを言うのか。これはなかなかにあくどい手口だ。
こんな様子だと、まるで美乃梨が姉で鈴鹿が妹のように思えてくる。
「そんなことより、さっそく答え合わせをするから、今日やった模試の問題用紙を出してくれ」
「うん。……あ」
「どうした?」
「カバン、自転車の籠に置きっぱなしにしてきちゃった。ちょっと待ってて」
そうして鈴鹿は、誰の返事を聞くでもなく、再び靴を履きだした。
鈴鹿に関わっていると、こんなことは日常茶飯事でしかない。嫌でも慣れてくる。だんだんと気にならなくなってくる。だから、「階段で転んだりするんじゃないぞ」と、それこそ過保護な親が幼稚園児の面倒でも見るかのような発言が無意識に出てしまうようになってきていた。
そんな俺を見て、またしても美乃梨がニヤニヤしていたのは言うまでもないだろう。