54.何事もなければいいのに
朝焼けが辺りを照らす。
車輪と馬蹄、木材の軋む音。そして酷い揺れだけだった世界に色がつく。
夜が終わり、朝が来たのだ。
荷台から去りゆく景色を振り返る。遠く離れたところに見えるのは少女の村だった。
少ししずつ、ゆっくりと、さらに故郷が離れていく。
小さくなっていく村を見つめながら、幼い少女は涙を流していた。
家族との別れを理解した。大好きなあの人には、もう会えない。
夜は終わり、朝が来た。少女の日常は、もう来ない。もう二度と。
――――ああ、またこの夢か。
幼き日の夢。過去の光景。少女の記憶。
それを自覚すると、いつものごとく彼女の意識は急速に浮かび上がった。
◇
「久しぶりに見たなぁ……」
最後に見たのはいつだったかは覚えていない。
いつどんな夢を見たかをいつまでも記憶している奇特な人間ではない、ごく普通の私は一般的な方々同様にそんなものはとっくに忘却の彼方である。
ただ、「この夢」は見たことという記憶だけはある。何度も見た夢であり、自分の記憶をもとにしたトラウマの追体験という内容なのだから他の夢の様に簡単には忘れられない。
気分は最悪だ。
これで爽やかな朝の陽ざしが部屋を照らしていたりしていれば、このどんよりした気持ちを軽くしてくれただろう。しかし、残念なことにまだ日は顔を出しておらず辺りは真っ暗だ。私のいまの気分と同じくらいの暗さだ。
それでも起きないわけにはいかない。外は暗く、心も暗いけれど、目が覚めたということはいつもの起床時間だ。前日にいくら疲れていようともきっちりと同じ時間に目が覚める体質なので間違いない。悪夢程度で私の体内時計はぶれたりしないのだ。
「支度しよっと」
見えなくても物の位置は覚えている。明かりがなくとも私は朝の支度を整えていく。
すべての準備が終わり部屋を出るころには、薄っすらと空が白み始めていた。
◇
「散歩に出かけます。アンナ、ついてきなさい」
静かに読書に没頭しているかと思っていると、クレア様は勢いよく本を閉じてそう告げられた。
「唐突ですね」
「そういう気分になったの」
退屈を紛らわせるための読書には飽きてしまったらしい。可愛らしく御淑やかな見目に反して活動的な彼女は少しでも体を動かしたいのだろう。
「どこに行きますか?」
「そこらへん」
アバウトな返答通りクレア様はふらりふらりと適当な足取りで歩き回っている。本当に気ままな散歩だ。
「……私たちお仕事の邪魔をしてませんか?」
「気にすることないわよ」
傅く人たちの前を通るたびに、彼らの仕事の妨げになっていないかと不安になる私とは違い、クレア様はさっぱりとしたものだ。
私には一向になれないこの光景も、彼女にとっては当たり前のことなのだろう。
クレア・フォン・フェニキシア。
それが私の仕える主であり、この国の第二王女殿下の名前だ。
美しいピンクブロンドの髪や可愛らしい顔立ち、透き通った白い肌。私と同じ十三歳とは思えない完成された美貌はまさに物語に出てくるお姫様のようで、出会った時の感動は今でも忘れられない。
すぐにその言動に私の幻想は打ち壊されてしまったのだけれど。
「でも、皆さん誕生祭の準備で忙しそうですし……」
「だから私は部屋で大人しくしてなさいって? いいかげん退屈で死にそうなのだけど?」
未成年であるクレア様はまだ王族としての公務に参加することができない。誕生祭に関しても夜のパーティーに出るくらいで、そのための衣装合わせなどの準備もほとんど終わっている。
王家で自分だけやることがないことに不貞腐れているクレア様は、一人蚊帳の外に置かれているようで相当に鬱憤を溜めていらっしゃる。
「せっかくのお祭りだっていうのに何もさせてもらえないだなんてあんまりよ」
第三王子の誕生祭でいつものように好き勝手されては困るという国王様の判断は裏目に出たらしい。抑えて付けた分だけ反発する精神がすくすくと育っているように見える。
「パーティーだって動きにくいドレスを着て面倒な貴族の相手を笑顔でずっとしなくちゃいけない拷問だし。楽しみなんて久しぶりにお友達と会えることくらいかしら」
「お友達がいたのですか? クレア様に?」
「……怒るわよ?」
だって、クレア様ですよ?
楚々としたのは見た目だけで、中身は周囲のことを考えない自己中で我儘で自由人な、大よそ一般的な貴族のご令嬢とは合わない感性の持ち主であるクレア・フォン・フェニキシアですよ?
日頃からイヴァン老師に「どうせなら男児に生まれてくればよろしかったのに」と言われるほど腕白で、姫らしいのは見た目と口調だけのクレア様にお友達がいるだなんて信じがたい事実だ。
「あの、失礼ですが……そのご友人は実在する人物ですか?」
「本当に失礼ね」
いるわよ、生身の人間よ。と憮然と答えるクレア様。どうやら妄想上の存在ではないらしい。
「……まあ、嘘みたいな存在という意味では間違っていないけど」
「クレア様?」
「何でもないわ」
クレア様がなにを言っていたのかはよく聞き取れなかったけれど、心なしか機嫌が良くなったように見える。
どうやら思いのほかそのご友人に会えるのが楽しみであるらしい。
「……」
「アンナ?」
「いえ、クレア様の友人という方はどんな変人なのだろうかと」
「まるで、私には変人の友人しかできないみたいな言い方ね?」
目の笑っていない笑顔で咎めるように私の唇を摘まむ。そして徐々に力がこもり
「いたいれふっ」
「悪いことを言うのはこのお口かしら、ふふふふ」
ちょっと口が滑りすぎたかもしれない。
私の唇が形の良い細い指に万力のように占められて悲鳴を上げている。このままでは引きちぎられる、というところでクレア様は指を放し、間髪入れず思い切り抱き着いてきた。
「ひゃっ!?」
「まったく、やきもちだなんて、可愛いんだから」
やきもちなんて焼いてないと否定したかったが、先ほどまであった不満が嫉妬が原因であることはわかっていた。
自分以外に友達だと思われている人間がいるのだと知って酷く動揺してしまった。誤魔化すように悪態をついてしまったのだけれど、どうやら完全に見透かされていたらしい。
「アンナ、大丈夫よ。私は貴女のことも大切な友達だと思っているから」
「クレアちゃん……」
私も手を彼女の背に回してぎゅっと抱きしめる。
服越しに伝わる彼女の温もり。その温かさに、自然と彼女との出会いを思い起こす。
絶望の中にあった私を救い出し、惜しみない優しさを与えてくれた恩人。そして、人生で初めて友達となってくれた無二の存在。
王族として華やかだが不自由の多い彼女に友人と呼べる相手がいることは喜ぶべきことなのだろう。けれど、本音を言えば寂しく、彼女の友人は私だけでいいという自分勝手な独占欲もある。
「……ごめん、私、嫌な子だ」
「そんなことないわ。親友をそんなことで嫌ったりしないし、アンナのそういう独占欲の強いところ、私は好きよ」
「……親友」
その言葉の甘い響きに頬が緩む。同じくして、にんまりと親友の口元が弧を描いていることに私は気づくことはなかった。物陰から聴こえてくる不気味な物音のほうに意識を取られてしまったからだ。
物音というか、声?
「クレアちゃん、これって……」
「しっ、静かに」
抱き合った姿勢のまま、音の発生源を探るべく意識を集中させる。
そっと様子を窺えば、茂みの奥に誰かが隠れていた。クレアちゃんも気づいたらしく、「うへぇっ」とお姫様が出してはいけない声を漏らす。
「デュフフフ、美少女たちの絡み合い……滾る、滾るでありますっ」
こちらに向けられた邪な視線。認識した途端、気色の悪いねっとりとした感触を覚えたのは幻覚だと思いたい。
生理的に受け付け難い視線に耐えられなくなったのはクレアちゃんの方が先であった。
「アルフィー、やっちゃって!」
「ヘゴッ!?」
潰されたカエルのような声を上げて茂みから転がり出てきたのは、とても見覚えのある女騎士だった。
背後から鈍器で殴られたかのように頭を押さえて悶えている。声に苦悶だけではなく喜悦が混じっているように感じるのは気のせいだと思いたい。そんな気色の悪い存在の頭をクレアちゃんは容赦なく踏みつけて追撃をかけた。
「おうっ!」
「ロザリアったら地べたを這ってなにをしてるのかしら?」
「はいっ! ただいま姫様からの折檻を堪能しているところであります!」
「うわぁ」
踏みつけられた状態のまま目をくわっと見開いて堂々と言った彼女から距離を取ってしまったのは仕方ないことだと思う。
ロザリアはクレアちゃん専属の護衛騎士なのだが、性格とか性癖とかに若干どころか大いに問題のある人物だ。彼女が近くにいる方が身の危険がありそうだと思うのだが、クレアちゃん曰く「自分からは手を出せないヘタレチキン」だから大丈夫らしい。
「あいも変わらず気持ちが悪いわね」
「ありがとうございます!」
「褒めてないわ」
ぐりぐりと頭を踏まれているのに寧ろ気持ちよさそうにしているのが救えない。私なら即座に足を引いてしまいそうなのだが、我が親友は気持ち悪いと言いつつも楽しそうだ。
ちなみにこういったやり取りは日常茶飯事で、それに順応してきている自分に時々危機感を覚える今日この頃である。
「私が定例報告に行っている間に姫様の姿が見えなくなったので探していたのであります。そしたらお二人が仲睦まじく抱き合っていたので、邪魔をしないようにと隠れて視姦していたしだいで」
「邪念が言葉に漏れてるわよ」
「これは失敬」
まるで悪びれた様子がない。踏まれて寧ろ恍惚とした表情を浮かべている。見ているだけで精神が摩耗していく光景につかれてきた私はそっと目を逸らす。
ああ、あそこに可愛らしい花が咲いているわ。
「それで姫様、今日より誕生祭が終わるまで警備を強化することになりまして、できれば常に護衛を傍から離さないでほしいのであります」
「はい?」
「なにやら不穏な企てをしている輩がいるらしく、王族の護衛を増やすことになったのであります。あっ、これは陛下の決定ですので拒否できないでありますよ」
現実から逃避していた私の耳にも何やら物騒な話が届く。他国も人が集まる催しなのだから、そういった不穏な話もやはり出てくるのだろう。けれど何の力も持たない一介のメイドである私に、それを知ったところでできることなどない。静かに話しの続きに耳を傾ける。
「つまり、今みたいな散歩も控えろってこと?」
「そういうことでありますな。護衛さえ伴っていれば普段通りに行動してもらっても構わないそうでありますが」
「そんなの余計に息が詰まるじゃない!」
がおーっ、と気炎を吐く主を見上げながらロザリアは申し訳なさそうに眉を垂らす。
「姫様が現状に鬱屈としているのは知っているでありますが、これも姫様の身を守るためとご理解してほしいでありますよ」
「城内にまで賊が侵入してくるっていうの? 今でも頑丈な警備なのに心配のし過ぎよ。それに私にはアルフィーがついているわ。自分の身くらい守れるわよ」
「我儘を言わないでほしいであります。それにいくら精霊がいるといっても万が一というのはありましてですな……」
「そんなの護衛の騎士がいたって同じでしょう! いくら備えたって襲われるときは襲われるし、逆に何事なく終わることだってあるわよ!」
「可能性としてはそうなのでありますが、かといってできる備えをしないわけにもいかないでありますし、何よりもそもそも私に決定権がないといいますか……」
「貴女が使い走りなのはよーく知ってるわよ! お父様に文句を言っても無駄なのもね!」
苛立ちをぶつけるようにロザリアを蹴り飛ばし「ありがとうございます!」と気持ちの悪い叫びを上げながら転がっていくのを見送っていると、強引に手を引かれてバランスを崩しそうになった。
怒り心頭なクレアちゃんはそんな私のことに頓着することなくずんずんと足を踏み鳴らしていた。手を引かれている私もそれに合わせて慌ててついていく。
「……えっと、ロザリアさんのいうことは間違ってないよね?」
「ええ、正しいわ。間違いなく正論よ。でもそれに私が納得できるかは話が別なのよ!」
何か危険があるらしく、王族の警備を増やそう。当然の話の流れだ。
けれど、やることがなく暇を持て余し、鬱屈とした毎日に耐え切れなくなっていたところで、さらに彼女の行動を見張る護衛の登場。護衛の仕事は監視ではないけれど、行動に目を光らせ、危険から遠ざけるために時にはそれを止められることもあるのだから監視と言えなくもない。普段なら護衛の存在なんて気にも留めないのだろうけど、ここ最近はストレスが頂点に達しつつある。必要とわかっていてもどうしたって煩わしく感じてしまうだろう。
「ああ、もう! 暇、退屈、つまんないっ! お父様のバーカ、お兄様のバーカ、ついでにロザリアのロリコンド変態バーカ!」
「お、落ち着いてクレアちゃん……」
「このまま部屋に戻るのはなんか癪だから、いまからアンナの部屋に行くわよ!」
「なんでそうなるの!?」
宥めようとしてもクレアちゃんの暴走は止まらない。
私の部屋なんて狭いし、何もないし、面白い物なんて何にもないよー!
「アンナの部屋で遊ぶわ! 女子会よ! 連れ戻されないように入り口を塞いでね!」
「それは籠城というんじゃないの!?」
「デモンストレーションともいうわ!」
デモに私を巻き込まないでぇ!
誕生祭まであと残り数日。それまで親友の機嫌が収まることはないだろう。
……当日は何もなければいいのだけれど。




