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下書き  作者: 矢久 勝基
第二節 転機
9/18

その9

 現に、スレッドは依頼をこなすよりマムールを殺してしまうほうがまだ手っ取り早いと考えた。あるいはこのまま逃げてしまおうか……。

 チャンスではあった。マムールは……借金取りの手先は自ら自分へのマークをはずすといっているのだ。

 逃げる。自由になる。もう一度、一から人生をやり直すことができる。

 ……ただ、それはメィファの人生と引き換えであった。

「どうしたの?」

「ああ、わりい」

 メィファはスレッドの目の前にいた。

 翌朝、マムールの指示通り彼女を工作するために呼んでみたのだが、目の前に姿を現しても気づかないくらい、現在スレッドの心の葛藤は忙しい。

「そのぅ……なんだ。ちょっと散歩でもしねえか?」

「出発しないの?」

「ちょっと話があるんだよ」

 あばら家から彼女を連れ出し、畑の風景をしばらく歩いた。だだ広い土の野原にはすでになにかの芽が土をかき分けており、茶色の地面を緑色で覆っている。その葉を照らす太陽の光がやわらかく注がれる、のどかな空気の中を風がそよいでいた。

 メィファは表へ出てはみたものの、男が一向に言葉を発しようとしないので、数歩先でさまざまな草木に触れられる場所まで行っては、ものめずらしそうに葉の匂いをかいだりしている。うつむくたびに目の前にかかる前髪をかきあげるしぐさが驚くほど女性的で、スレッドはその美しさにしばらく声も出さずにいた。

「しゃべらなければ最高の女なのになぁ……」

「ん?……イタァァァ!!!」

 そのうちポツリとあがった声に、旺盛な反応速度で振り返ったメィファの首が、いつだかと同じように悲鳴を上げた。スレッドは笑い出す。

「カッカッカ、首捻ったのかよ」

「笑いごとじゃないわぁぁぁ!!!」

 本当に痛い。舌までしびれる感覚がある。何でこう……首というのは時々理不尽なんだろう。

「いたぁぁ……」

「カッカッカッカ!」

「笑うなぁぁ!! いたたたたたた……」

 メィファは「くそぉ……」となぜか悔しがると、草の生える道に転がっている枯れ枝を無造作に二つ拾い上げてその一つをスレッドに放ってよこした。

「憂さ晴らしに付き合わんかい!」

 そして有無を言わさず飛び掛るメィファは一度左へステップしてフェイントをかけると男の右わき腹を横薙ぎに狙った。

「うぉっと!」

 彼の持つ枝がそれを迎え撃ち、攻撃を空しくする。

「お?」

 一瞬感嘆の声が漏らしつつも攻撃をやめない。逆方向へステップしたメィファの身体は、今度は男の左のわき腹を襲った。

 スレッドはそのまま転げるように攻撃をかわす。枝は彼の頭上を音を立てて通り過ぎて行った。

「おお?」

「まて! 終われ! 今はやめろ!」

 中腰で説得する彼の必死さが、ようやく彼女の勢いを止める。空を迅っていた得物はその力を失って、ただの枝に戻った。

「本気で当てるつもりで行ったのに」

 メィファの声が驚いている。今の勢いで彼を捉えられないことは今までなかったはずであった。

「ちょっとは動けるようになってきたってことか」

 続けても討ち取られる時間が多少伸びた程度だったことはわかっている。それでも、メィファからもれた一言は彼を幾分勇気付けた。


「髪」

 彼の視線が彼女の瞳の上にある。

「大事なもんじゃなかったのか?」

「髪?」

 メィファが頭に手をやって、ひどく短いところに髪の末端があることを思い出した。

「あの時はしかたなかった」

 自慢の髪のはずだったが、その声はひどくさっぱりしている。

「あいつを追うためにかよ?」

「うん」

「そんなにあいつが好きなのか?」

「好き……」

 ……そう言ったまま、メィファは黙った。その目はしばらくどこへともなく揺れて、そよいでいる風に同化している。

 やがて鈴を鳴らすような透明感のある声で言った。

「……か、どうかはわからないナァ……。でも初めて会ったとき……うまくいえないけど、「あっ……」って思ったの」

「それだけで?」

 とは、この男は言わなかった。

「その「あっ……」を、だ。俺も、お前に思ったって言ったらどうする?」

 "好き"という感情ではない。だが、百人……千人の異性に出会っても感じられるとは限らない「あっ……」である。

 だが、このショートヘアになったエルフの少女はつぶやいた。

「だとすると残念だなぁ……」

「なんでだよ」

「わたしの「あっ……」も、そういう勘違いだったらイヤだから……」

「俺のは勘違いって決め付けんなよ!!」

 苦笑い交じりに飛んでくる彼の声に微笑み返すメィファ。興奮したところばかり目立つ少女だが、落ち着いてさえいればちゃんと社交的な一面も見せることに、スレッドは数日付き合ってみて知った。

 しかしそう思えばなおさら、その二つの側面がちぐはぐに見える。まるで人格すら入れ替わっているかのようではないか。

 落ち着いたほうのメィファは言った。

「だから確かめたいの。わたしがあのときに持った勘が正しいのかなってことをね。ううん、絶対に正しいと思うから」

「間違ってたらどうすんだよ」

「間違ってるなんて絶対に考えない」

「いや、違うね」

「え……?」

「俺の勘のほうが正しい」

 見栄を張るのは得意なこの男が胸を張った。

「お前は俺と一緒になると思う」

「ないと思う」

「いや、ある」

「ないっていってるじゃろがぁ!!!」

「お前は未来を見てきたのかよ。先のことなんかわかんねえだろ。な、俺にしないか?」

「……」

 半ば唖然とするメィファ。こんな強引なアプローチなど今まで受けたことがない。一瞬噴火したメィファの心は有無を言わさぬカウンターパンチで再びしぼんでしまった。

「……わたしをくどいてるの?」

「そうだよ」

 先ほども言った。スレッドはメィファに恋焦がれているわけではない。しかしその声ははっきりとしていた。

「お前は俺みたいな男じゃなきゃダメだ」

 お前をいい女に変えてやれるのは俺しかいない……彼はそういう意味を込めた。

「結局、メルビルにだって直感が働いただけなんだろ? 直感だけで男と女が全部うまくいくんなら世の中に別れるカップルなんていねぇよ。それにその直感は所詮一方通行なんだよな?」

「あぅ……」

 メィファの口が、再びあいたままふさがらなくなった。メルビルに対して膨れ上がった気持ちは大きくても、理屈で説明できるものではない。事実関係だけを並べられたらまったくそのとおりで、メィファに反論の余地はなかった。

「な? その気持ち、俺に傾けてみねえか?」

 転がりだした自分の舌に任せてスレッドは続けた。

「……別に始まりが大恋愛じゃなくてもいいじゃねえか。だんだんお互いを知って仲良くやっていけるならそれもありだろ?」

「……」

 そういうものなのだろうか。メィファにはわからない。


 少女は相変わらず口をぽかんと開いたままだ。飴玉などを放り込んでみてもまったく気づかなそうな呆け顔で立ち尽くしている。

 初めてだった。今までこのように異性に求められたことはない。

 自分のことはかわいいと思っていた。実際自信を持っていい器量があるし、ストーキングも七度(うち六件は思い過ごし)にも渡っていたから、女として、自信がないわけではなかった。が、実際このような積極的な"告白"ははじめてである。なぜだろうか。

 客観的に説明するまでもなく、もちろんこの性格が災いしていたためなのだが、本人にまともな自覚がないために『自分は美人だから人を寄せ付けないオーラがある』などと理屈をつけて片付けていた。

 ともあれその初めての経験に、この起伏の激しい少女の思考は完全に停止し、その停止が数分たった今でも続いている。

「おーい」

 目の前でパタパタと手を振ってもまばたきもしないメィファに、スレッドもさすがに手をもてあます。

 ……しかたないので尻でも触ってみようと思った。

「なにやっとんじゃぃ!!」

「分かってんじゃねぇか……」

 あえなく身体ごと撃墜され、地面に顔をめり込ませている彼のくぐもった声。

「せっかくちょっとときめいてたのに……」

「まぁ、チャンスと来たらやるだろ。男なら」

「やらんわぁぁぁ!!!」

 そして深呼吸をすると

「メルビルならやらない」

 そう言い直した。スレッドがふんと鼻を鳴らす。

「お前、アレだろ。恋に恋してるタイプだろ」

「え?」

「メルビルのこと、王子様だとか思ってねえか?」

「ぁぅ……」

 図星の表情を浮かべて目をそらした彼女を見て、彼はカカカと笑った。

「王子様は王子様としてとっといて俺にしておけよ。そのほうが現実的じゃねえか」

「意味の分からんことを言ってんなぁぁ!!」

「だってお前、王子様とは一緒になれるかわからねえだろ?」

「ぅ……」

「俺なら間違いねえぞ。しかもたぶん……」

 スレッドを取り巻く空気が急に重みを帯びる。

「……それが選べるのは今だけだ」

「今だけ?」

 今の時点で自分に芽がないようならば、スレッドは卑怯者になることを考えている。

「俺、ちょっと用事があってお前らと一緒に行けない……って言ったらどうする?」

「え? 一緒に行けないの?」

「嫌か?」

 そして、嫌と言えば一緒に逃げることを考えたい。

 メィファはしばらく黙っていたが、

「休憩時間は退屈しそう……」

「カッカッカ!」

 つくづくネコのような娘だ。彼はそれが愉快に思えた。だが彼女の言葉は決して彼を引き止めてはいない。ひとしきり笑った後、スレッドの声は元の重さに戻りもう一押し、

「だから、俺と一緒になるラストチャンスかもしれねえよ?」

「……」

 メィファの心は再び立ち止まった。しかし冷静になってみれば考える余地のないことを考えていることに気づく。

「わたしはメルビルを追いたい……」

「そうか……」

 スレッドの勢いは、それで止まった。半ばムキになってけしかけていたが、当然の結果を当然のように突きつけられただけだ。彼はそれでも胸にむらむらと沸いてきた動揺を隠すために薄笑いを浮かべる。

「じゃあしょうがねえ。気が済むまで追ってみろよ」

 この瞬間、彼は、これから彼女におきる不幸はすべて自業自得だ……などと考えていた。


 その日、程なくしてスレッドはメィファとマムールを見送った。

 彼らの姿が見えなくなると再びあばら家に戻ってくる。そして柱の一角に身体をもたせ掛けた。

 屋根はところどころ朽ちていて空がはみ出している。その隙間を流れる雲をぼんやりと眺めながら、彼はにわかに手に入れた久しぶりの自由を満喫していた。

(さて、これからどうしてやろうか……)

 アラムなどに行くつもりはない。メィファという少女の犠牲を強いて、自分は助かるつもりでいた。

 ……人の弱さやずるさは、時に凶器になる。

 メルビルがバジリスクに対して苦戦しているとき、スレッドは己の弱さに嫌気がさした。変わりたい、強くなりたいと思った。

 が、人間というものはそういう上り坂に対してとても儚い。強く生きたいと願いつつ、嫌気がさすほど弱い自分と長く膝を向き合わせて生きていかなければならないのが現実である。

 その弱さで生き抜くため、人はしばしばずるさを武器にする。

 他を傷つけても自分の面目を保つ。たとえ黒に見えても『白だ』と言って生きる瞬間がある。

 弱さこそ、他人に理不尽を強いる凶器になりえるのである。


 とにかく自由になった。

 もちろんスレッドの行為は借金が帳消しになるものではない。だが、マムールが彼を見失えば、よほどの下手を打たない限りは追うことは不可能となる。実際、この世界は筆者や読者たちの住む世界に比べても情報網が発達していない。

 まぁマムールにしてみてもスレッドが消えれば取り分はすべて自分のものになるわけだから、思えば厄介払いだったのかもしれない。スレッドなど死んだことにしていくらかの銭を払えば命令主もそれ以上の追求はできないのだろう。

 ともあれ、

「さて、どうすっかなぁ」

 誰も聞いていない空間で、わざと不釣合いな声を上げるスレッド。

 開放された。すべてから。

 借金も過去のしがらみも、すべてをこのあばら家に置いて、明日からを生きることができるのだ。なんとすばらしいのだろう。

 スレッドは長いトンネルを抜けて視界が大きく広がったような爽快感を味わうために、身体を横たえるとぐっと力を入れて伸びをしてみた。

「イタタタタ……」

 身体がきしむ。連日の素振りが彼の肉体を変えるために強いている筋肉の痛みであり、最近は毎日、全身ギプスをはめたようにカチカチに固まっている。

「うー……」

 その痛みはいままで、わずらわしくもどこか心地よさがあった。だが今はひたすらに重い。結局爽快感どころか軽いイラつきを覚え、しかしその理由に気づかぬふりをして大きくあくびをかいた。

 ……その時だ。

 風が、あばら家を通り過ぎた。

 その風ははじめスレッドの頬をなでるようにやわらかく流れたが、やがてあばら家をガタガタと揺らすほどの突風となって彼の回りをとりまいてゆく。

「兄者、見つけたよ」

 どこからともなく声がした。スレッドは思わず立ち上がったが、いつのまにか朽ちた室内には風が渦を巻いており、容易に動くことすらままならない。

「誰だよ!?」

 虚勢を張って大声を上げるスレッド。声には動揺の色がありありと浮かんでいる。風はそんな姿をあざ笑うように踊り、やがて女の形に定まっていった。

「誰……だよ……」

「あなたを探してた通りすがりです」

 ぺこりと頭を下げると、今度はスレッドの背中から声が追いかけた。

「いいよ、そんな挨拶しなくて」

 それに反応して振り返ろうとすると、機先を制して喉下を冷たくする刃が、背中から伸びた。

「メィファさんはどこにいる?」

 甲高い声。聞き覚えがあった。

「お前……」

「聞きたいことはたくさんある。だがとにかく今はメィファさんだ」

 一つに束ねてある白髪はくはつが、怒りに揺れている。この男……ミカエルは彼らを一瞬でも信じたことを心底後悔していた。

「返答によってはあなたを許さない」

「待ってくれよ……」

 背中のエルフをなだめつつ恭順の証に両手を挙げるスレッド。首筋に添えられているナイフから放たれる樹液の匂いが鼻についた。彼らが森の毒草を調合して精製する"エルフ毒"と呼ばれるものだ。

 以前説明した通り非力なエルフが殺傷力を補うために用いる猛毒であり、ある程度の皮膚を裂けば、それだけで十分な致死量が身体に流れ込む。

「メィファさんはどこだ」

「……」

 スレッドに毒の知識はないが、その匂いがまるで背中から腕を回しているエルフの男の殺気であるように鼻腔を突き抜けてきて息をすることもままならない。

「兄者、殺す?」

 正面の少女は超一流の彫刻師の傑作のように美しい。が、その美しさにメィファのような温かみはなく、空気が凛と静まるような鋭さを感じて、スレッドにはその「殺す?」が冗談には聞こえない。

「待ってくれ……」

「どこだと聞いている」

「話すから……」

 スレッドはかすれた声を上げながら、"せざるをえない"にもまれて流されていく自分の運命が、また情けなかった。


 事情を正直に話すスレッドは『しかたなく』という言葉を幾度使ったかわからない。

 『しかたがない』という言葉……ある一つの行動をもって"そうせざるをえない"時に頭に浮かぶ免罪符のようなものだ。彼の人生は今話している経緯の、『しかたがない』の数だけ、ただ流されて生きてきたことになる。

 ~~ 『しかたがない』が元で後悔をしたまま生き続ける苦しみと、『しかたがない』をぶち抜いて華を散らすような生き方をする苦しみは、どちらが苦しいのだろうか ~~

 スレッドは今日、そんなことばかりを悩んで、右に左に心が揺れている。逃げ出そうとするずるさと、男はこうであるべきだという心に従いたい男気の中で、彼は消えてしまいたいくらいに苦悩している。

 それは過去、彼が転げ落ちてきた人生があってこその苦悩であった。

「お前は怖くないのかよ」

 ひとしきり話したスレッドは、メィファを救うことへの困難さを総括してそう問うてみた。状況は、たとえ彼らでも容易に解決できる状態とは思えない。

(怖いに決まってる……)

 ミカエルはその言葉を飲み込んだ。彼にとって人間は異種族だ。文化の違う彼らの"暴力"はミカエルにとっては得体が知れない。

 が、彼は何度か口を開きかけ、やめ、妹に「行くぞ」と声を掛け背を向けた。彼にしてみればこの無力な男を説き伏せても何の価値もない。

 崩れかけた建物の隙間から吐き出されるように出て行く彼の背中を呆然と眺めた後、スレッドは眉をしかめながら床につばを吐いたが、ひたすらに空しい。


 さてメィファ。

 肩に"悪巧みの妖精"を乗せた耳の長い少女は、野に生えていたガーベラのような花を何輪か摘んで、片手に束ねて歩いていた。太陽は西の山に落ちかけて、メィファの影を長く伸ばしている。

「なにやってんだょ」

「別に……」

 少女はせっかく美しいその花びらを右手で一つ一つもいで散らせながら歩いているのだ。

(メルビルはわたしのことを……好き、嫌い、好き、嫌い……)

 古典的な花占いである。花びらが多いので一目では最後にどちらが残るかを判断することはできず、一応の指針にはなりそうだ。

「~~~~~!!!」

 彼女の顔が、夕日に照らされた以上に真っ赤に染まる。どうやら吉とでたらしい。それならば次を行おうと思っていた。

 こっちから告白したほうがいい、やめたほうがいい、したほうがいい、やめたほうがいい……

「ぁぅ……」

 ……告白決定らしい。

 表情を豊かに変えていくこのエルフの少女を迷惑そうな顔で見るレプラコン、マムールは、すでに人間の街道を歩いている彼女を街の中心地へと操作していく。

 スレッドなどを待つつもりはない。アレに契約書が取ってこれるものなら百年前に自分がやっている。アラムにあるダプト=ロアは支部とはいえ、そんなに甘い集団ではなかった。

 いや、それでなくてもメィファのことはできる限り早く売ってしまいたい。ただでさえ制御が難しいこの女を一月もおとなしくさせておく自信などありはしなかった。

「その角曲がって突き当たったとこに酒場がある。そこはデスペラードが集まる場所だからまずそこで聞こうゃ」

 そんな言葉を耳元に、メィファがうなずく。なるほど、デスペラードは保守的なエルフよりも、何をしでかすか分からない人間に多いのだろう。だからメルビルの情報集めに人間の街を選んだ……そういう風に自己完結したメィファは彼の操作を信じた。いや、今に限ってはそれよりも先ほどの花占いに心奪われていたりもする。

(……さっきのはちょっとした間違いだったかもしれない。別の占いで確かめてみよう。例えば……)

 今から行く酒場を見渡して十人以上人がいたら告白することにしよう。


 そこはやけに木の匂いのする薄明るい社交場であった。

 蝋燭が立てられたシンプルな造りのシャンデリアの火を、鏡で反射させた光がほっこりと紅く室内を照らし出し、テーブルで笑っている客に降り注いでいる。 時間的にはもっと明るくてもいいはずなのだが、そのことがこの酒場が地下にあることを物語っていた。辺りを窺えばさまざまな部分に空気孔がありそのため締め切られても窒息する心配はなさそうだ。

 どこか屈強そうな面構えが並ぶこの地下酒場で、

「ぁぅ……」

 彼らの顔を一瞥していたメィファの脳内で足し算が終わったのだろう。思わず口から嗚咽がもれた。人数は十名どころの騒ぎではない。

「絶対におかしぃ……」

「なにが?」

「あ……なんでもない」

 つい言葉に出てしまったようだ。マムールも後ろ暗い感情を抱いて彼女を誘導したから、今の言葉には敏感に反応した。

「ここで情報を集めるんだぜ。あの男がここにいつもいるわけじゃないょ」

 彼にしては珍しく動揺して申し開いているが、メィファの関心は今、そこにはない。

「座るの? 親父さん」

 とりあえず指示を仰いだ。最近彼のことはオヤジ、もしくは親父さんと呼んでいる。

 その"親父さん"はこの店の主に用がある。

「ちょっとここに座っててくれょ」

「なにか飲んでもいい?」

「酒飲めるのかょお前は」

「お酒じゃないけど……」

 まぁいい。今はともかく機嫌を損ねてはならない。マムールは「手をだせょ」という言葉と共になにがしかをつぶやいた。

 とたんにあふれる銅貨の束。彼女の手のひらを覆い隠してそのいくつかはテーブルに落ちた。

 レプラコンたちは皆、このように"異界"の収納スペースを持っている。身体の小ささを補って他の通常サイズの人型ヒューマノイドと同等に暮らすための適応能力の一つだった。


 この世界、酒場に女が座っているのは珍しい。

 なぜかと聞かれればそれがこの世界の風俗の一つであり、深い理由はない。

 おまけにその女ときたら、人間にはない髪の色が、流れる水のように艶めいている格別の美人なのだ。注文をとりにきたウェイターは思わず色めきたった。

「人間の街へようこそ」

 弾んだ笑顔にメィファも愛想笑いを返す。

 が、その愛想笑いは差し出されたメニューを見たとたん、しかめ面へと変わった。

「……」

 ここは人間の街なのだ。当然のことながら書いてある文字が人間のものであり、メィファは読めない。

 なお、言葉についてはそれぞれの種族の言葉とは別にユトシューン語という、いわゆる共通言語が存在し、これが数百年も前から全種族に浸透している。これはこれで紆余曲折の結果なのだが、この物語とは関係ない話だ。

「悪いけど……」

 メィファはメニューを自分から逆さにしてウェイターに返す。

「読んでくれる?」

「ああ……失礼しました」

 意味はウェイターもすぐに理解した。丁重に詫びて上から読み上げはじめる。

「ブルビ、ロクラテス、メラロン、マーラルール……」

 ……メィファの表情が再びしかめ面に戻る。

(……まったく分からない……)

 酒場だからずっと酒の名前である。だがぶっちゃけた話、飲み物は水と、サイラという羊に似た動物の乳しか飲んだことのない彼女にはそれが酒かどうかすら分からない。

 もっといえば酒場が初めてなこの少女は、ここには酒しか置いてないという事実を知らない。

「……パルマイソル、アゼレア、ミルサイラ……」

「あ」

 ミルサイラ……初めてちょっと分かる言葉が出てきた。

「じゃあそれ」

「え、どれですか?」

「何とかサイラ」

「ああ、ミルサイラですね。かしこまりました」

「あ、それと……」

 メニューを小脇に抱えて背を向けようとしていた彼を呼び止め、一瞬辺りをぐるりと見回すような動作をした。

「デスペラードの人って誰か分かる?」

「"命知らず"のことですか……?」

「うん」

 ウェイターも先ほどメィファの通った視線の軌道を一度なぞってから言う。

「ある意味ほとんどの方が"命知らず"かも……」

「あ、そうなのね。ありがと」

 彼はならず者の多いこの酒場の客を軽い気持ちでそう評したから、メィファの指すデスペラードからはやや外れてはいた。


 マムールにしてみると、この店の支配人バルジは旧知の仲である。

 友人というわけではなく、ブローカーという裏の顔を持つ店主にとってマムールは得意先の一人であった。

 ワインの匂いのする小部屋で二人は酒を一杯、簡単な挨拶を交わして久しぶりの雑談を楽しむと、共に部屋を出た。

 今回の商品を見に行こうというのである。マムールは紹介するに当たって相当の自信を見せていたから、店主の足も軽くなろうものだ。

 が、その足は地下一階へとあがる階段の途中でハタと止まる。

「なんだ、あの音は」

「……」

 自分に聞かれたわけではないだろうが、いやな予感しかしないマムール。

「ちょっと見てくるぜ」

「頼む」

 面倒ごとには一切顔を出さない。後ろめたい仕事をしている者にとっては鉄則であった。……つまり、そういう面倒な音が、表稼業の地下一階からとめどなく鳴り響いている。

 マムールはストロボに照らされているように見え隠れしながら瞬間移動を繰り返し、隠し扉のような出入り口をくぐって薄明るい部屋に出て……そして、言葉を失った。

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