その8
街道へ差し掛かる道なき草むらを、男が一人歩いている。
ただし頭の数は三つある。小人の男はその男の肩に乗り、女はその男に背負われていた。二人とも木の葉のように軽く、スレッドは二人を背負っているのに歩くのがまったく苦にならない。
彼らはあの戦場から、まんまとメルピアットのエルフを盗んだ。容姿だけは端麗なこの少女をブローカーと取引すれば一財産になる。人間の肩に乗っている"悪巧みの妖精"マムールは当たりの宝くじを手に入れて当選金を受け取りに行くかのように気持ちが踊っていた。
「一時はどうなることかと思ったけどょ」
浮ついた気持ちが表情に出ていて、上がった口角からよだれをたらしそうな勢いだ。
「ラムウダはワイらを金持ちにしたがっているってこたぁわかったぜ」
ラムウダとはレプラコンが広く崇拝する神のことだ。欲望をさらけ出すことこそもっとも自然な生物の理と教えるこの神の元で、彼らは自分の利になるための手段を選ばずに裏の世界を生きている。
メィファはあれから目を覚まさない。呼吸は整っていて命に別状はなさそうだし、身体を覆っていたやけどや擦り傷などの外傷が、あの不思議な現象を境に目に見える速度で回復してしまっている。
すべての状況がマムールにとって好都合であり、彼が己の運をして神の名前を挙げた気持ちも分からないでもない。
「あぁ、こっちだ」
人間の男が行き先を間違えそうになって正す。あとは取引場所までこの男と、背負われている女を制御しなければならなかった。
「言っとくがこの女にまだ手は出すんじゃないぞ」
「出してねぇだろ」
「それでいい。まずはこの女が騒がないように街まで運ばないといけないょ」
「わぁってるよ」
娘の体温を背中に感じながら、スレッドはなんとなく釈然としない。
その、生きている宝石が目を覚ましたのはたっぷり三日たったあとだった。
野営用のシートの上に寝かされている。木がぽつぽつと生える草原の日は暮れかけて、夜に鳴く虫が、音を奏でる準備をしていた。
「目覚めたかょ」
その声でメィファも、向こうで木の切れ端を片手に何かをやっていたスレッドもマムールを見た。
「ここは……?」
至極当然なことを聞いたこの少女はむっくりと起き上がる。マムールは「ロールっつー人間の街へ向かう途中だょ」と言い、
「奴を追ってる」
と付け加えた。
「奴ってメルビルのことかや!?」
「そうだょ」
「任せぃ」
メィファは寝起きという言葉を知らないのか、ギンギンにさえた瞳で精神を集中させた。が、マムールは予想していたかのように首を振る。
「無駄だぜ」
「なにがじゃ!?」
「髪の毛に仕組んだ精霊を探そうってんだろぅ?」
「分かってんなら邪魔すんなや!」
ところが、その反応はごく近く、手の届く先にあった。
「これだろ?」
話の空気を読んだか、スレッドが持ち出したものがメィファの絹糸のような髪の束だった。
「なっっっ!!」
「奴も低位精霊が忍ばせてあることに気づいたらしいぜ。置いてったよ」
もちろん嘘である。
この髪の束から足がつくことを知ってしまった以上、そのままにしておくことができなかった。ついでにこれは金にもなる。
「あんのクソヤロゥ……」
「だからぁ、お前は品のない言葉遣いやめろって」
スレッドはこの美人が汚い言葉を発することが本当に嫌らしい。顔をしかめて本気で腹を立てているようだった。
ところで、この人間の男は棒切れを片手にしている。メィファの好奇心がうずいてその目がしばらく棒切れから離れない。
棒は、再びそっぽを向いた男の手の中で不器用に踊っていた。振り下ろされたり横に薙がれたり、はちゃめちゃな動きをしてはスレッドをよろけさせている。
「なにやってるの?」
そのうち、いたたまれなくなったメィファが声をかけた。
「ん? 剣の練習だよ」
「あ、そうだったんだ……」
どこかの舞踊かと思ったメィファがあいまいな返事をする。それほどに"剣技"であることを感じさせない情けなさではあったが、スレッドは大真面目だ。
今回の件を通じて、この男は無力であることが罪であるかのようにすら思い始めていた。薄っぺらい虚勢と一時の快楽に身をゆだね時間を無駄にしてきたことが、どれだけあの瞬間をみじめにさせていたか。"仕方ない"と思えたときの、あのえもいわれぬ悔しさはなんだったのか。
スレッドもすでに三十に差し掛かり、自分という人間を知っている。どうせすぐ飽きてしまうかもしれないが、とにかく、やる気のあるときくらいは強くなる努力を……
「うがぁぁ!!」
……しようとする矢先、無理な力が加わって腰をひねってしまう。「あたたたたたた」と身体をよじる自分がまた情けなかった。
メィファはその様をしばらく眺めていたが、ふと立ち上がって肩で息しているスレッドの脇に立つとその棒を取り上げ、言った。
「剣はね、右手と左手をくっつけないで端を持って小指で支えて、振り下ろす最後にこぅ……」
彼女の持つ棒は先ほどのものと同じものとは思えないようなしなりを見せて振り下ろされる。
「手を絞り込むのよ」
別に彼女は特別剣を扱えるわけではない。物語の趣旨に関係ないので深くは触れないが、幼少期にどれだけおてんばだったかということだけはこれで見て取れる。
「……」
そんな幼少期の小さな違いすら、今のスレッドには情けなかった。
とにかく手がかりがない以上、メィファはマムールに従うしかなかった。一人駆け出していくこともなく意外におとなしく同行している。とはいっても、彼女の歩く先には当然のことながらメルビルはいない。
話がやや前後するが、あの"命知らず"はバジリスクとの戦いからしばらくして、何もなかったかのようにあの岩場で目を覚ました。空はうっすらと白く染まり始めている。夕暮れではなく、朝を告げる空の色だった。美しい。
隣を見れば同じエルフ族の青年がすでに目を覚まして、遠く、空を見上げている。風に何かを聞いているようだ。
メルビルはゆっくりと起き上がった。まるで、キツネにつままれたような感覚である。
なぜ自分は生きているのか。なぜ無傷なのか。あの娘はどこに行ったのか。……そして、あの夢はなんだったのか……。
実はメィファの脳裏を通り過ぎていったあの複数の声のやり取りを、彼も共有していた。
誰のやり取りなのかも、どこから流れ込んできたものかも知らない。が、ひとつだけ言えることは、"記憶である"ということが確信できることであった。ただの夢じゃない。
「起きましたか」
ミカエルは気難しい表情を浮かべているメルビルのほうに振り返った。
「その様子だと、状況は飲み込めているようですね」
「いや、全然分からない」
「なんだ……」
彼が状況を把握するなどということは、思えば無茶な話なのだが、ミカエルはそんなことはお構いなしにやや不機嫌そうにそっぽを向いた。
「メィファさんがさらわれましたよ」
「あの娘が?」
メルビルは驚きながらも、輪郭のぼやけた受け答えをした。"あの記憶"に気をとられている。それが自分に膜が張ってしまっているように感情の動きを鈍くさせていた。
その態度がなおさらミカエルという白髪のエルフは気に入らない。
「さすがデスペラードの方はいつも飄々としていらっしゃる」
デスペラードなどまともな人情は持ち合わせていない……これはミカエルに限らず、世間一般のもつ偏見でもある。実際デスペラードと呼ばれる人種は皆どこか浮世離れしているから、あながち間違いでもない。命ギリギリの毎日から培われる精神はやはり常人とは違うのだろう。
メルビルはそのような酔狂者のつもりはないが、ミカエルのしたような、変人を見る目にももう慣れている。
彼は涼しげな表情のまま、しかし内心は忙しく思考を張り巡らしていた。
(あの記憶は一体……)
気になることは内容ではない。まったく覚えのないあの記憶が、胸の奥につっかえてしまったかのように自身の心を捉えて離さないことだ。
手繰りたい、記憶の根元はどこにあるのか。
「メルビルさん!!」
「あ……」
散々呼ばれていたらしい。はっとなった表情の正面で、小柄なエルフが眉間にしわを寄せて睨んでいる。
「あなたは追いかけるべきだ!」
なまじ声が甲高いだけに、彼ががなると耳がつんざけそうになる。
その甲高い声が、今にも殴りかからん勢いで突っかかってきたかと思うと、とんでもないことを言い出した。
「だってあなたたち、結婚するんでしょう!?」
「え……!?」
「け……結婚……?」
たっぷり空白の時間を経てなお、受け止めきれないといったメルビルの声が、バジリスクやデビルカースと戦ったこの岩場に揺らめいた。
「そうです。メィファさん、はっきり言ってましたよ。将来の結婚相手だって」
「……」
脳裏に彼女の姿が浮かぶ。出会ってほんの少ししかたってないのに、ずいぶんと多くの表情が浮かんでくる。そのどの表情を思い浮かべても
(あんなのが嫁になったら……)
メルビルの顔には得意の苦笑いが広がった。
「僕も同行します。追いかけましょう」
一方この学者肌の青年は、別の意味でもメィファが気になって仕方がない。
あの娘はどう見積もっても異常であった。
たとえば、いくら足の速さに自信がある個人がいたとしても、走るチーターに追いつけることはない。
メィファの生命反応の強さは、それを平然とやってのけたのに等しい。とても個人差で語れる範疇ではなかった。
彼女はただのエルフではない。そのような自覚は本人にはないだろうが、精霊学の探求者としてはこのような人外の個体がどうして生まれてきたのか、何をするための特殊な生なのか……ぜひ知りたい。
「メルビルさん!」
さらわれた者を助けるという人道的な精神も手伝って、彼は芯のある口調で喚起した。
「デスペラードとは人道にも劣る存在ですか!?」
「行きたければひとりでいけばいい」
「な……」
メルビルにとっては、この若いエルフに指図されるいわれもなければ、行動を共にする利点もない。
「デスペラードはお嫌いだろう?」
その言葉で彼はミカエルとの関係を絶った。
草原地帯をまっすぐ横切るメルビルの足元を、時よりやわらかい風が通り過ぎてゆく。
その風のいくつかがメィファを見たという。彼は何度か道を変えながら、文字通りの風のうわさを頼りに草原をかきわけて進んでいた。
彼は何も助けに行くことを拒んでいたわけではないのだ。ただ、感情が複雑にからんで攻撃的になっていたあの青年の目を受け止めるのが億劫だったのと、なにより一人になってゆっくり物を考える時間がほしかった。
彼は懐から白いものを取り出した。メィファの母親、ミーシャ=オーフェンが自分宛に書いた手紙である。文字は丁寧で美しく、書面自体が芸術であるかのように整然と言葉が並んでいる。
『 親愛なるメルビル=プラムック
貴方に転機が訪れます。
その時どういう決断をされるか……私は遠い空からお見守り申し上げます。
~メルピアットより愛をこめて~
ミーシャ=オーフェン 』
転機とはなんなのか。
はじめ、これを読んだときは気楽なものとして受け止めていた。「力になりたい」といってくれた彼女が、自分を元気付けるためによこしてくれたものだと……。占い師が転機というなら好転を考えるし、そうでなければ娘を遣わしてまで、そのようなメッセージを届けたりはしないだろう。
彼女の言う"転機"……昨日見たあの夢の記憶が、彼にもう一度その手紙を開かせた。今はその言葉が、初めに開いた時のように軽いものだとは思えない。
ミーシャは彼の苦悩に深く立ち入ってきた唯一の他人だった。
「なぜ……自分の運命から逃げてしまうの?」
その声は透き通るような空気の中を涼やかに流れたが、メルビルは首筋に熱いものを押し付けられたような感覚がした。
「逃げる……?」
「その呪いははるか昔にかけられた呪いなのでしょう? でも貴方の一族の系譜は今まで続いてきた。それは貴方の先祖がその境遇を受け止めながら限りある生を最大限生きたからでしょう? 貴方だけはそれをしない。なぜ、頑なに無を望むの?」
「望んじゃいない!」
大きな声が森に響く。こんなに感情が高ぶったのはいつぶりだろう。本人もそれにすぐ気付いたらしい。目が覚めたように小刻みに首を振ると、
「この呪いを終わらせるための方法は一つしかない。僕が子を残さずに死ぬことなんだ」
「残せばいい……たとえ短くても幸せになればいいじゃない。なぜ貴方だけが呪いを抱いて死なないといけないの?」
ミーシャの目が寸分のよどみもなくメルビルを見上げている。メルピアットの幻想的な森の中で、彼女は再三、この男の奥底を浚おうとしていた。
メルビルにはなぜ彼女がそのように関わろうとするのかがわからなかったが、それ以上に自分自身のことがわからない。
無視をすればいい。自分はデスペラードであり、根無し草なわけだから、有無を言わさず旅立ってしまえばそれで終いのはずであった。
にもかかわらず腰を落ち着けて、わざわざ彼女の話に耳を傾けている。彼女の言葉は苦悩の末に課した決心を覆そうとしているのだから、うっとうしくてしかたない内容であるはずなのに、わざわざすべて聞こうとしている自分がわからない。
あるいはここまで立ち入ってきた彼女にだけは、自分の本当のところを分かってほしかったのかもしれなかった。声を荒げるのは感情がむき出しになっているからに他ならないのだから。
「呪いを受けた貴方の先祖はどんな気持ちで子を残したと思っているの?」
「知るもんか。だけどこれだけは言える」
メルビルの刺すような視線がミーシャを貫く。
「その男は、子を生すべきじゃなかった」
「……」
眼光があまりに鋭かったのだろう。ミーシャは目を背けてしまう。しかしメルビルは構わず続けた。
「なぜその男は気がつかなかったんだろう。子を生せばその子がまた自分と同じ苦悩を抱えるって事を……」
「……」
「恋をすればその人の悲しみになってしまうことを、なぜ考えなかった」
たとえその恋が結ばれたとしても、己はその人を幸せにすることなく、この世を去らなければならない。彼の性格はそれを無責任とすら捉えていた。
だから無でいたい。なにもなければ、悲しみもない。
「僕は見たくないんだよ。僕に好意を持ってくれた人が悲しむ姿も、途中からページが破られている物語も……」
彼は自分の断ち切られている人生をそう表現し、一呼吸を置いて、言った。
「だから……この呪いは、僕が責任を持って終わらせる」
……が、メルビルは次の瞬間、ひどく狼狽することになる。
いつの間にか顔を伏せていたミーシャの瞳から、とめどない涙がこぼれていたのだ。
「ご、ごめん。ちょっとムキになりすぎたね」
まるで人が変わったようにおろおろと落ち着かなくなるメルビルをよそに、ミーシャは無言のまま、そのまぶたをただひたすらに泣き腫らしていた。
彼女がなぜ泣いたのか。泣き続けたのか……。メルビルの中で、その答えはついに出なかった。
ただ、彼女は泣きながら、
「力になりたい……」
とだけ言った。その涙と音色がいつまでも彼の耳の裏から離れない。
……そんな彼女があの夢を見る直前に転機を示唆したのだ。背中を羽交い絞めにされているように自分を圧迫しているあの"記憶"が"転機"だとすれば、ミーシャはなにをもって"決断"と言及しているのか。その決断によって、自分は己の運命を変えることができるのか。
……考えても分からないことを、今、メルビルはとにかく一人で考えていたかった。
メィファと、スレッドが対峙している。
手に納めているものは互いに、触れれば折れてしまいそうな貧弱そうな木の枝だ。実際に彼らの傍らにはすでに折れてしまっている枝が何本も転がっており、それと同じ数だけのミミズ腫れが、男のほうに刻まれていた。
「うおおおおお!!」
はじめは手加減などを考えていた大男、スレッドだが、どのような趣向をこらして撃ちかかっていっても彼女はまるで柳のようにつかみどころがない。一瞬で見失ったかと思うと
ビシィ!!
鞭がしなったような容赦のない音がして、痛みが一つ増えてゆく。
終いには相手が少女であることも忘れてかかっていったが、結果は変わらず、ついに小枝と共に彼の心も折れた。
「女なんだからもうちょっとしとやかにしろよ……」
「男だったらもうちょっと強くならんかい!!」
へたり込むスレッド。老いを感じるというのはこういう瞬間なのだろうか。
「お前……顔はかわいいんだけどなぁ……」、
「心もきれいだがや!」
「その言葉遣い、何とかならねぇのか?」
だいたい、どこの方言なのだ。世界中どの地方に行ってもこのような語調は聞いたことがない。
「ワレはその弱さをなんとかせんかぁぁ!!」
「わかった。俺が強くなったらお前もそれを何とかしろよ」
「ハァ? なにいっとんじゃい!!」
言葉遣いが汚いつもりはない。気持ちが高ぶってしまうことはあっても、自分の中では乙女であることを忘れないよう努力をしている。
「うそこけーーーーーーーーーー!!」
しかしそのようなメィファの力説を男はありったけの声で跳ね返した。
「意識しててそれかよ!!!!」
「なんかおかしいのかぁぁ!!!!」
「っっっったりめぇだ!!! どこがおかしくねぇんだよ!!」
「え……」
少女がその頑強な抵抗にしばし絶句する。スレッドのほうも口をぽかんと開けたまま動かなくなったその反応が意外で思わず黙ってしまった。
「わたし……言葉遣い、悪い……?」
「悪すぎだ!!」
「…………」
彼女なりにショックらしい。まんまるくなっていた目は徐々に伏し目がちになり、バツの悪そうな表情を作って、「じゃぁ気をつける……」とぼそりと口を尖らせる。そのしめっぽさがやけにかわいらしく感じられてスレッドも思わず顔がほころんだ。
ついでに空気を一度大きく吸い込むと、周囲は草のにおいがする。
自分はへたり込んで座っているのだ。立ちすくんだまま見下ろしているメィファとの構図がこの見栄っ張りには具合が悪い。
「ちょっとまぁ……教えてやるから座れよ」
二人の関係が如何にしたら自分優位の状況になりえるか、そんなことばかりを考えているスレッドだった。
それともう一つ、この意外に素直で純粋なエルフに、自分の状況……つまり、借金にあえいでいる姿、しかもその犠牲を彼女に強いようとしていることを知られたくない、と思うようになっている。都合がよく馬鹿馬鹿しい見栄かもしれなくても、かわいい女の前では、かっこいい姿だけを見せていたい。
いや、今までさんざん情けない姿を見せているのだから十分に手遅れなはずなのだが、メィファ同様、自分の意識が向いていないところに関して、人間というのは極端に視野が狭いものだ。でなければ「自分のことを棚にあげて」という言葉は存在しない。
「どうしたの? 元気ない?」
街が近づくにつれ、それが態度に表れてくるスレッドの視界に、数日間共に生きてうち解けたメィファの華奢な姿が映る。
彼女は素振りの真似をすると
「相手しようか?」
「いや……」
スレッドは首を振る。
例えばこの女を売りに出すのはあきらめて別の方法で借金を返すことをマムールに提案してみたらどうか。
……明らかに不可能なことばかりが頭に思い浮かんでしまう。代わりに金山でも用意できれば諦めもするだろうが……
「ぼぉーーっとすんなぁぁぁ!! ワタシが暇じゃろがぁぁぁ!!!」
「ぐぇぇ!!」
背中から腕を回し、体を密着させて首を絞めてくるこの娘は、うちとけると非常に人懐っこい一面があるようだ。女性的なかわいさや色っぽさはないが、少し質の違う……いってみればネコのような無邪気さが、この男に愛着を感じさせた。
「お前みたいなのを天真爛漫っていうんだろうなあ」
「なんじゃそりゃ」
スレッドは微笑う。
「ま、褒め言葉だ。ぐえぇ!!」
「わけのわからん四字熟語つかうなぁぁ!!」
「意味をしらねぇのかぁ!!」
……そんなやり取りが楽しくなってくるほど、彼は彼女の瞳に自分の情けない姿を映したくなくなってゆく。
この人間の男がマムールを暗い目で見るようになったのはその辺りからだった。
そもそも自分の知られたくない過去を知っているというのは、それだけで煙たいものだ。スレッドの場合はそれが過去ではなく現在も継続しているわけで、どんな例でもよければ『浮気相手が女房の前にいるような』……そういう危うさがあった。
(いなくなれば……)
当然、スレッドは思う。実際この物語がミステリーであれば、殺人の動機としては十分だろう。しかしこの男にはあの妖精を手にかける度胸も実力もない。しかも寝首をかけるほど、マムールはスレッドという人間を信用してはいなかった。
夜、どこへともなく姿を消し、朝になれば隣にいる。その立ち居振る舞いには隙がなく、しかも常に二人を監視していて、こっそり逃げ出すという選択肢も選べそうにはない。
囚われているのはメィファだけではないのだ。スレッドもマムールに操られて護送されているだけの人形に過ぎない。
(くそ……!)
そんな自分が情けない。剣の腕もそうだが、堕落していた過去がこのような惨めな現在を作っている。
変わりたい。そんな自分を、今はとにかく変えたい。
彼は無我夢中で素振りをしながら、その方法を考えることに没頭していた。
悶々とした日々をすごし、徐々に近づいてゆく街に焦りを感じながら、ある夜、スレッドはメィファが寝静まったタイミングでマムールを呼んだ。彼らはとある集落にたどり着いている。いよいよ人間の領域であり、彼が何か行動を起こすならリミットが迫っていた。
周囲には畑が広がり、堆肥の匂いが鼻につく。なだらかにアップダウンのある平原の一角に、崩れかけた木造のあばら家があって、エルフ、人間、レプラコンという奇妙な組み合わせの三人に羽を休める場所を提供している。
スレッドはひとしきり言葉を発すると目の前にそびえる小さな巨人を見た。
彼の表情は変わらない。あくびをせんばかりの緊張感のなさで言った。
「なんとなくそういうことを言い出すんじゃないかとは思ったぜ」
「じゃあいいのか?」
「ダメに決まってんだろぅ!!!」
声を荒げれば当然メィファにも届く狭い空間だが、彼女は起きる気配がない。ただし真っ暗なのは不安なのか、彼女は夜になると必ず光の精霊を枕元に添わせている。二つの光の塊が、まるで少女を護衛するかのようにつかず離れず漂っていて、むしろそれが反応したような錯覚を覚えた。
「もちろんタダでとはいわねぇよ」
「ほぅ……何をするつもりだょ」
「バイトでもして少しずつ返す。まぁ月二十ペリカくらい」
「あほかぁぁ!!!」
日本人にも分かりやすく言えば、数十億円の借金を時給六百円程の仕事で返そうと言っている。
「一応聞いとくが、どうしてそんなことを言い出したょ? まさか本気で"これ"がほしくなったか?」
妖精がその小さな親指をメィファにさせば、スレッドは首を振った。
「そんなんじゃねぇよ」
スレッドは自分の半生を振り返るように目を空に泳がせた。
「いやなんだよ。もう……」
「ピータンが。いやな状況に陥るまで惰眠を貪ってきたのは誰だょ」
「わかってる」
「そんなお前の馬鹿に付き合ってるワイの身にもなれゃ」
スレッドが愚かでなければ、メィファを人買いに晒すこともなかったわけだ。マムールとしてはそのような男がせめて有能であれば救われたのだが、御覧の通りの無能である。
ついでにその無能が、一層頭の痛いことを言い出している。今回の仕事はマムールにとっては本当に貧乏くじだった。
「とにかくお前をいくら切り刻んでも、逆さにしても、丸めて崖から突き落としても、他に借金を返す手立てはない。あきらめなょ」
「例えば」
「ん?」
彼の必死な形相が、マムールを黙らせる。
「お前はほしいものはないか?」
「金」
「それは分かってる」
メィファと同等の価値のあるもの……それが"物"であればどんなものでも調達してくる。盗んでもいい。困難でもいい。とにかくどのような手を使ってもそれを持ってくる。
「だから、そいつを許してやってくれないか」
「けっ!!」
胃に沸いた虫唾を吐き捨てるような顔をして、マムールはスレッドを睨みつけた。
「お前のような無能に何ができるょ。何もできねえくせにいきがんなゃ」
人間というものは何も売るものがなくなれば誇り(プライド)を売って生きるしかない。それを無くせば、人としての尊厳を売って生きるしかないのだ。
「お前、今から生き方が選べる状態に戻れると思ってんのかょ」
「戻るさ」
「けっ」
鼻を鳴らしたマムールは、じゃあ……と、スレッドに向けて指を差した。
「ダプト=ロアって知ってんな」
「ダプト=ロア……」
この世界の闇の部分を掌握する地下組織で、平たく言えばマフィアだ。
「アラムの支部にワイの契約書がある。それを持ってこいゃ」
「契約書?」
マムールが言っているのは朱の契約書という呪術書のことである。
見た目はなんてことのない朱色の羊皮紙なのだが、紙自体に魔力がこめられており、互いの了承の元その契約書が正しい手順で作られると、破棄されるまで書かれた文言を破ることができなくなる。世間一般では使用が一切認められていないのだが、地下では奴隷契約などによく用いられている。
メィファの気性が荒くても高値がつくとマムールが信じて疑わないのはこの書があるためだ。そうして巨万の富を得ようとしている彼もまた、一枚の紙っぺらに束縛されていた。
「この娘はそれまでワイが預かる。アラムの南西二百三十バースのところにこの娘の契約を取り付けるつもりのロールの街がある。そこで一ヶ月だけ待ってやるょ」
「無茶言うなよ! ダプト=ロアって……」
「さっき「ほしいものはないか?」と聞いたぜ? お前は」
「一人だぞ! 無理にも程がある!!」
「今まで楽に滑り降りてきた絶壁……」
マムールの言葉に、重いとげが見え。それが言葉と共に突き刺さるような感覚を得る。
「……簡単に、元の場所まで這い上がれると思うなょ……?」
「……」
その比喩には実感がこもっていて、一瞬、スレッドは彼が自分自身の経験談を語ったのかと思った。
「……それと明日時間をやるぜ。お前がいなくなることでこの娘がおかしなことを考えないようにしとけゃ」
その答えを聞かず、マムールは部屋を出て行った。長居すればこの愚かな男は襲い掛かってくるかもしれない。