その4
この施設にトイレはない。ゆえに彼女は荷物を持って外へ出た。
そこから起こりえる現象を、ミカエルは十分に予測している。一応娘なので、下の処理を遠目で監視……というわけにもいかないが、かといって何もできないわけではない。ここは索敵を目的とした場所なのだ。
精霊が発した"声"をデータ化して蓄積できる装置があり、メィファの位置は把握できる。あのはねっかえりの娘を直接見ずとも監視ができた。
ちなみに後ろで座っている人間とレプラコンがいつ森に侵入してきたかも記録されている。存在している場所が座標で表されるために、具体的に誰とは本来わからないのだが、彼ら二人は今この場所にいるわけだから、逆算すれば彼らのたどった軌跡がわかる。
「あなたがた……」
彼は装置からは目を離さずに言った。
「本当に迷ったんですね……」
断言できるほど、移動に計画性がない。
「そういってんじゃないかょ」
レプラコンの男も不満そうにそう漏らしたが、その実、この人間のぐうたらな行動が招いた単なる偶然であり、この際は助かった。
「困るんですよねぇ……みだりに森に迷われると……」
なんとなく無茶なことを言いながら、ミカエルはメィファの動向を横目に挟みつつ、さらにもう一人の行方を追っていた。
彼女の追っているデスペラード、メルビル=プラムックの所在だ。彼女が吸い寄せられるように彼の元に向かうのなら、彼女を安全な方向へ誘導するのに彼のいる場所を知っていることは必須であるように思える。
しかし、それを中断せざるをえない暴力的な音が、ミカエルの長い耳に飛び込んできた。すぐに少女の顔が思い浮かぶ。
「しまった!」
死神だ。精霊学に明るいこの青年を爪の先まで貫いていく、この黒くよどんだ精霊力。彼女の「生」の匂いをかぎつけられたに違いない。
「おい、どうした!?」
その音とミカエルの悲鳴じみた声に人間が反応した。
「デビルカースです」
しかし不可解だ。
自分たちが逃げた偽装進路と霊波妨害の事を考えれば、これほど早くかぎつけられるわけがない。
「さっきのヤツか!」
「そうです」
「それが分かっててなんでもたもたしてんだよ!」
「……」
助けには行きたい。
が、先ほど「爆竹のような」と表現した結界を張るための、精霊石という道具は使いきった。そうなると自分程度の力では到底デビルカースに立ち向かうことはできず、いたずらに彼女の前に躍り出ても何ほどの効果が期待できるものでもないのだ。
「馬鹿が!」
が、この人間は違っていた。意味を察した瞬間、特に策もないのに躊躇なく駆け出したのである。
(ピータンが……バカで弱いのに男気だけはありやがる)
その背中を目で追ったレプラコンは、彼をそう解釈しながら、苦い顔で見送っていた。
実際、先ほどの暴力的な音はデビルカース側ではなく、メィファが発した音であった。雷の精霊に放たせた巨大な稲妻が木のひとつを真っ二つに切り裂いた音である。
「ゴリアデごめーーん!」
木の精霊の名を叫んだメィファが死神の一撃に、髪の毛の末端を数本切断される。謝ってる暇などないはずなのだが、メィファにとっては木にこれ以上嫌われたくなかった。
先ほどよりも森が深い。大鎌の稼動範囲が自然限られ、それがメィファを先ほどよりも容易に生かしている。ただ、有用な攻撃手段を持たない彼女は追われる限り、これを続けなければならないのだ。
無感情な大鎌が、振り下ろしを中心に彼女に襲い掛かり、確実に精神を削っている。特にその刃が、月明かりに反射して自分の姿が映し出されるくらい肉薄していた時は生きた心地がしない。
(た・す・け・て・よ)
花火の音に逃げ惑う子リスのように木と木の間を転げまわっている彼女の服は汚れ、擦り傷が身体を覆っていく。先ほどのように正面から大鎌の一撃に身をさらして王子様を待つような精神力はもうないが、それでも彼女はどこかで自分の運を信じていた。
~~足を……地を無限に這っている木の根に足を取られるのだ。そして叩きつけられるようにして転び、姫(自分)は木の精霊のいたずらを恨みながら悲鳴を上げる~~
そしてその時に現れる王子様!!!
「だから、お前じゃねぇぇぇ!!!!」
実際にその通りのことが起きた。が、具現化している死の精霊を羽交い絞めにしているのは先ほども自分を救った人間である。
「お前、かわいいけど性格最悪だな……」
「え……」
力を込めたままのどの奥から吐き出された男の声がメイファに刺さる。
(仕方ないじゃん……)
運命の出会い……助けてほしいのは王子様に、なのだ。今してくれたことの大変さはわかる。わかるけど、好きな人とそうでない人と、たとえ同じことをされても、うれしさは全然違うのだ。
「とにかくなんとかしろ!」
羽交い絞めにしているスレッドのほうが逆に身動きが取れない。背中にべったりくっついていればさすがに死神にもハリネズミのような能力はないわけだから死ぬことはないわけだが、牛の背中にいるようで、その気になればすぐに跳ね飛ばされてしまうほどの力の差は彼にも感じられていた。
(なんとかっていわれても……)
彼女が操れる一番破壊的な力は雷神の眷属を呼び出すものだ。しかし先ほどもそうであったように、木々が乱立するこの場所ではそれらが避雷針となってしまい、どうにも使えない。光も先ほど無駄であったし、彼女に思いつく方法がなかった。
その三人を見て、その妙に一番初めに気付いたのがスレッドを追って穴倉から顔を出すだけ出していたミカエルだった。
(なぜ人間を狙わないのか……)
圧倒的な力で身を翻して大鎌を凪いでしまえば、それで人間の首は飛ぶ。本来無差別であるはずのこの死神が、メィファに執着しているように見え、それが明らかに不可解だった。
考えられることは彼女の生命の匂いが異常に強いこと。
相手は死の精霊だけに、相反する"生命"というものに強く反応する。片方が強い匂いを放っていればもう片方の匂いはかすむわけだ。
そうだと仮定すれば、なぜ先ほど目をくらませたはずの死神がまっすぐここをかぎつけてきたかもわかる。
もちろんそんなものを人(人間やエルフなどの人型)が感じることはできないが、それが正しければ、彼女は、人としては異常な濃度で生命の息吹を撒き散らしていることになる。
「いいかげんしつこいぞぉぉ!!!」
見れば、スレッドを振り払い再び肉厚の刃を彼女の方へ向けた死神に、腰を低くして右へ左へ転げながら好き放題ののしっているメィファの姿。
蛇ににらまれた蛙……というが、彼女を見てるとそのような悲壮感はまるでなく、目の前の死に対して圧倒的な生を主張しているようにも見えた。
ミカエルは一つの結論を出し、穴倉を飛び出した。
その目には決意の色が宿っている。その生命力にいちかばちか、ここを切り抜ける方法を見出すしかない。
「ばかぁぁ!!! はやく来いやぁぁ!!!」
メィファがかわらず思い描いているのは、王子様が、大昔に風が自分の靴下をそうしたように自分をこの場から連れ出してくれる未来だ。逆に言えば、それ以外に自分が助かる方法が見出せない。自分の前髪のすぐ先を、うなりをあげて通り過ぎていく大鎌を前に、その希望だけが彼女のよりどころとなっていた。
大声はすくむ自分の足を奮い立たせるためのものでもある。
「人間!」
戦場から十メートルほど離れた茂みに投げ出されてうめいていたスレッドにミカエルが駆け寄る。
「さっきみたいに少しだけ時間を稼げませんか!?」
「無理だ阿呆!」
茂みがクッションとなったとはいえ背中をしたたかに打ちつけたらしく、苦しそうにミカエルを睨みつけて言った。
「お前こそ時間を稼げよ。その間に俺はあの女を連れて逃げる」
「無駄です」
たとえそれができたとしても、デビルカースの標的はあの少女なのだ。
「なんであの子が標的になるんだよ」
「彼女は僕らにはない生命力をもっているようです」
死と相反する生の力を駆逐しようとするのがデビルカースだ。しかし逆に言えば、旺盛な生の力は死の力を駆逐できるのではないか。
「試しに、メィファさんの生命力をさらに促進してみます」
「そんなことができるのかよ」
「"死"に、それを司る精霊と神がいるように、"生"にも精霊と神の力が働いています」
精霊の力であれば、エルフたちはその活動を促進させることができる。火を煽ったり、風をより強く吹かせたりと、自然現象を増幅させる働きだが、それを行うことによって相反する精霊力を抑える効果もある。
健康で体力のある者が少々のウィルスに負けないのと同じで、強い生命力は死を跳ね返すのではないだろうか。治療薬も、度が過ぎれば毒なのだ。彼女の生命力が結界となる可能性はある。
あくまで仮定だが、ここをしのぎきるのに他に方法が思い当たらない。
「とにかく、メィファさんの生命力を促進するために、一瞬の時間がほしいんです」
「そう言われたってあんな奴に何度も飛び込んでいくのは無理に決まってんだろ!」
「一瞬気をそらせばいいのかょ」
「え?」
二人は、不意に背中からかかった声に素っ頓狂な反応をした。誰もいない。
「だれだ!?」
「下、下!」
見れば顔にしわを蓄えて不敵な笑みを浮かべている鼻の大きな小男が地面から雑草のように生えているように立っている。
「一瞬ならなんとでもなると思うぜ」
「本当か?」
「ワイらレプラコンは口だけじゃねぇんだぜ。ただし条件がある」
「なんだ」
「ワイをもうそろ信用しろゃ」
「……」
もうそろ……は"もう少し"ということだ。意味はさておきこのエルフの青年は一瞬返答に詰まる。それほどにエルフのレプラコンに対する偏見は激しいものであった。その上で彼は言った。
「まずは信用させてみろ」
「ふん」
マムールは鼻を鳴らすとスレッド、ミカエルの前に躍り出る。距離は長くはないが、瞬きする間に彼らを追い越す移動をみせた。
「(女、こっちに走ってこいゃ)」
そして、いつもは人間に送っているテレパシーをメィファに送る。交戦中の彼女はその声に驚き、一度背中をビクンと震わせたが、意味を理解したのか、目がマムールの……いや、正確にはそれを飛び越えて二人のほうに向いた。
息を荒げて走り出すメィファ。疲れも知らずに追う死神。数瞬早く娘のほうがマムールの脇を通り過ぎた時、レプラコンの呪文の詠唱は終わっていた。
「ほりゃ!」
掛け声と共にそこらじゅうの木をひしゃげさせながら巨大化するマムール。デビルカースはその生命反応に一瞬たじろぎ、初めてメィファ以外の目標にその大鎌を振り上げる。
しかしそれが袈裟懸けに振り下ろされた時にはすでに彼は元の小男に戻っていた。彼は今、文字通り一瞬だけ、死の精霊すらたばかるようなリアルな幻を見せたのである。
しかし、後衛のミカエルたちにとってはその一瞬で十分だった。
「八百万を総べる精霊の鼓動よ。更なる流脈をもって体を成せ」
彼の眉間が全身に集中力を呼びかけると、その身体からメィファに向けて、何かが飛び込んだような力場が見えた。
「うわっ!」
まばゆいばかりの光が炎のように燃え盛り、その中心で彼女の身体がふわりと浮き上がる。
驚愕の声を上げたのは当のミカエルだ。
今行った精霊力の促進にこのような効果はない。彼女を取り巻く光は闇の森を照らしだし、金色に光る空間があたりに広がっていく。
少女を見れば、さなぎや胎児に戻るかのように小さく丸まりながら、静かにまぶたを閉じた姿が見た者たちの目に映っていた。
……それに押されるように後退を始めるデビルカース。まるでいやなものでも見てしまったかのように体を引き、落ち窪んだ目をそむけながら、影で身を覆い、遠ざかっていく。
その影が再び前進を始めることはついになく、メィファがその後無意識のまま地上に降り立った頃には、その姿はミカエルらの視界から消えていたのであった。
「あなたは何者ですか……?」
先ほど物見やぐらと表現した穴倉に戻ったミカエルは、やっと目覚めたメィファにそう問いかけた。
「ふぇ?」
寝ぼけている。彼はハンカチを取り出し彼女のあごを軽くなでると、「よだれ垂れてますよ」と苦笑いした。メィファははっと我に返り真っ赤になって「そんなことあるかぃ!」とそっぽを向く。
あの時、彼女は同時に気を失ったらしい。デビルカースがどうなったかも、なぜ自分は穴倉に戻ってよだれを拭いてもらっているのかも、よくわかってはいないようだ。
ミカエルは聞くのを諦め、彼女に再び椅子を促した。
「お二人もどうぞ」
その後ろからおずおずとついてきた人間にも、そしてその肩に陣取っている小妖精にも椅子をあてがう。
エルフの青年は彼らを完全に信用したわけではないが、急場の際を救われた。その厚意を邪険にするほどの個人的な恨みをレプラコンに抱いているわけではない。
「皆さんにはここで一泊して頂きます」
「そんな暇なんざないんじゃ!」
メィファが思い出したかのように立ち上がろうとするが、ミカエルはそれを制した。
「デビルカースは一度距離を置いただけです。まだその辺をうろついている。それに、あなたの目当てはメルビルさんでしょう?」
彼は先ほどの装置の前に取り付き、一つのデータを取り出した。
「明日には会わせてあげることができると思います」
「え?」
「いる場所がわかりました」
「どこ!?」
メルビルは、この青年も驚く場所にいた。なんと彼の居場所は、
「言えません」
「ふざけんなぁぁ!!!」
言えばどうせ制止も効かずにここを飛び出していくのだろう。あの不思議な現象に頼るのは危険だし、他の方法でデビルカースに対抗する手段は今のところ考えられなかった。
「だからダメです」
「ぐぅぅ……」
メィファも黙るしかなかった。出会って数時間しかたっていないのにすでに行動が見透かされている。しかも、死神は撃退しただけでいなくなったわけではないらしい。
「でも、その不思議な現象って……?」
聞いたメィファは本人に起こった事を知らないわけで……。
「だから、それをこっちが聞きたいんですよ。あなたは何者ですか?」
「何者って……?」
「……ですよねぇ……」
本人が自分の特異性に気付いているとは思えない。しかし堕ちた死神を、存在しただけで忌避させるような生命力などというのはとてもただの特異で片付けられるものではないのだ。
「なにかしたの? わたし」
「いえ……」
あるいは、知らないほうがいいことなのかもしれない。特異な体質というのは必ずしもその本人を幸せにするものではないだろう。
「とにかく、今日はここにいてもらいます。僕は寝ませんので安心してお休みください。それと……」
ミカエルは表情も変えずに言った。
「下着は大丈夫ですか?」
……メィファはしばらくの沈黙のあと、黙ってもう一度外に着替えに行った。
その夜の話は続く。
身なりを整えたメィファは、顔を見合わせていはいるがお互い一言も発していないという奇妙な二人の前に立った。
そして人間のほうへ膝を向けると、ぺこりと頭を下げる。
「さっきはありがと」
「んあ?」
「助けてくれたから……」
「あぁ……」
先ほどとまったく態度が違うので、何のことだかわからなかったスレッドだったが、初めてこの娘と会話ができる機会ができたことに気づく。
「名前は?」
「メィファ」
「そうやっていればかわいいじゃねえか」
「え? そうやっていれば……?」
「おとなしくしてりゃってことだよ」
「……」
よくわからない。
「どんなにしててもかわいいと思うよ? わたし」
「は?」
「だって、どんなにしてても顔なんて変わんないでしょ?」
彼女は自分の容姿には自信がある。性格だってちょっとお茶目で憎めない感じの、どこか子猫的なものだと信じて疑っていない。
「ま、まぁ、いくらかわいくてもそういう気持ちじゃいけねえ」
「え?」
「俺としては、ナルシスト、下品、黒縁眼鏡は女のポイントダウンだ」
「はぃ……?」
「いいか、女に大事なのは気品と謙虚さだよ。かわいい期間はいずれ終わるんだからよ。その時に女が持っておきたい部分はそこさ」
「は、はぁ……」
急に勝気な顔で説教を始めた人間にメィファは目を白黒させている。
この男、見た目はメィファよりも年上か。温厚そうだが精悍な顔つきのメルビル。朗らかで童顔ながら"うつくしい"と表現できるミカエル。それに比べてしまうと平々凡々な顔つきで、たれ目にしまりがなく、なんとなく鈍そうな雰囲気のさえない男である。だが身体だけは縦にも横にも彼らの中で誰よりも大きく、その大きさゆえ、彼の説教には迫力があった。
「わかったか?」
「え、でもわたし、かわいいよね……?」
「かわいいから気をつけなきゃいけない部分を言ってるんだよ」
「あ、はい……」
メィファもなぜいきなり説教されているのかもわからないままにその迫力に押されてうなずく。スレッドは満足げに彼女の頭をなでた。
「よしよし。俺はスレッド。お前は俺がちゃんといい女にしてやるから安心しな」
「……」
この男は何を言ってるんだろう。なんだかよくわからない雰囲気の中でメィファはあいまいにうなずいている。
メルビルはほぼ真上にある太陽を一度まぶしそうに仰ぐと長剣を背中に袈裟懸けにした。目標はこの森のある山をずっと登り、木よりも岩肌が目立ってくる高地にいる。尻尾まで含めると十五メートルはあろうかという巨大なトカゲである。コブラのように頭をもたげることがあれば、自分の数倍の高さから見下ろされるのだろう。
それが、なんでも数ヶ月前に巣を作ったとかで、岩壁の一角に巨大な横穴が開いているそうだ。 到着は日没辺りになるが、彼がその時間を選んだのは、一番活動が鈍くなるらしい時間が夕方であるという情報を得ているためである。トカゲは変温動物だから、この時期の昼と夜の寒暖の差に身体を適応させるのに時間がかかるのかもしれない。
彼は街を出ると草木の生い茂る斜面を蛇行しながら進んでいった。木はしっかりと根を張り、おかげでそれを足がかりに進んでいける。斜面にすべる心配はない。
行く先、難所もなさそうだ。と、幾分気持ちを軽くしたところで、あの"目"に出会った。
「うわ!」
あごを引いての上目遣い。少し悔しそうな顔をしてこちらをにらみつけてる娘は、見覚えがあるどこの騒ぎではない。
「怖いだろ。そうやって木の陰に半分隠れて黙って突っ立ってると……」
その後ろには見覚えのあるエルフの青年と、見覚えのない人間が立っている。
メルビルは睨み人形のようになっている少女を越えて、そちらの青年に話し始めた。
「この子に何も言うなと言ったろ」
「何も言ってないのですが……」
自分で飛び出したという。苦笑するしかない。
「街にいるとゎ思わなかった」
"た"を強調し、相変わらず恨みがましい表情で睨んでいるメィファ。
「いや、だって、デビルカース出てるっていうから危ないと思って」
「それならそう言えやぁぁ!!!」
「ごめごめごめごめ」
しかし、彼は彼女と二度と会うことがないように夜の内に姿をくらましたのだ。言えるわけがない。
「みめよいおなごが悲鳴を上げてるっていうのに助けにも来ないで、どこにいたかと思いきや街で寝てたとか……」
メィファは怒りなのかなんなのか、身体をぶるぶる震わせている。顔は表情も見えないほどにうつむいて、握り締めたこぶしからは血が滴るのではないかというほどの力を感じた。
これは……殴られる……。
「馬鹿かぁぁぁぁ!!!!」
直感した一瞬後には案の定殴られた。
「ずっと期待してたのに……」
「それはごめん」
しかし、その「ごめん」は乾いていた。
期待というのは勝手な感情だ。当人の意思に関係なく勝手に膨らんで、勝手に裏切って無用な恨みを買うという厄介なシロモノである。こちらの不可抗力を期待されていつのまにかがっかりされても、どうにもしようがないのだ。
「それで?」
メルビルは特別その"期待"に不愉快を感じたわけではなかったが、努めて突き放すような物言いをした。
「僕にまだ用事があるの?」
「……」
殴られた左頬がまだ痛い。この娘がなにを言い出すかはわからないが、すべて拒否をする準備だけはしておかなければならない。
メィファはうつむいて黙っている。考えなしに彼の背中を追ったわけだが、ゴールを目前に有刺鉄線があるかのように彼の元まで手が伸びず、その目は地面をさまようばかりだ。
「気が済みましたか?」
しばらくして、声が少女の背中からかかった。
「彼はデスペラードなんです。あまり深く思い入れないほうがいい」
そして彼女と肩が並ぶ場所に来る。
「一度戻りましょう。メルビルさんもそれを望んでいます」
(望んでなどはいない)
メルビルはそう吐き捨てたい。少女の無邪気な好意は彼にも伝わっている。それがまさか恋心であるとはまだ彼は気づいていないが、自分をなにがしか求めてくれているその感情に対して、それと裏腹な行動に出なければならない自分の運命に、彼は唇をかんだまま黙っているしかないのだ。
「あの……」
メィファは、ようやく顔を上げた。
「今日はなにをやっつけにいくんですか……?」
「え?」
「お前はなにを退治しに行くのかと聞いてんだ。一回で理解せんかぁ!!!」
理解している。意外だっただけだ。答える義理もないのだが、彼はその名を口にすることにした。
「バジリスク」
「え……?」
……メィファの表情に驚愕が浮かぶ。
「石化トカゲ……?」
「よくしってるね」
メデューサ、バジリスク、コカトリス。
共に、"霊力を破壊する者"と呼ばれる呪われた種族である。"石化"とよく言われるが、見る者を石に変えるのではなく、体内を維持している精霊の力を破壊し、機能を殺してしまうところから、比喩を用いてそのように言われている。
まぁ石でも精霊力の破壊でも、戦えば一生ものの障害が残る可能性がある事にはかわりがなく、一般的には対峙するのも尻込みをしてしまう相手であった。
だから、彼はこの少女に、あえてその名前を告げた。
「ミカエル。そちらの人間は?」
地蔵のように固まったメィファから彼は視線をずらして、スレッドのことを聞く。
「森に迷ったそうです。今から送り届けます」
「それはご苦労様」
「なんでやぁっ!!」
そのやり取りに大声が割って入ってきた。振り返れば、美しい娘の見るも無残な硬い表情が目に入ってくる。
「そんなヨゴレはちょっとくらい顔の形が変わったって人生変わりそうにないヘチャムクレにやらせりゃいいんじゃボケェ!」
「こらこら、そんな暴言はいちゃ……」
「暴言なもんかい! あんな呪いトカゲなんぞと戦ったらくちゃくちゃのプーやぞ!! お前ワタシに心配かけさせて貧血で殺すつもりか!! え!?」
「あ、いや、昨日会ったばっかなのにそんなに心配してくれるのはうれしいけど……」
「心配なんかするかバカァ!!! お前心配するくらいなら尿漏れするわ!!」
「ちょ……ちょっと落ち着いて……今心配って……」
「うるさぃ!! なんでバジリスクなんじゃ!!」
「……殺されたんだ。僕の姉」
「え……?」
わめき散らすメィファに、彼のつぶやいた一言は、まるで氷水を浴びせたようだった。
「殺された……?」
「……ああ……」
「お姉さんが……?」
「正確には僕が姉と慕ってた人のお父さんの帽子を編み上げた職人さんの飼ってたネコの子を引き取ったクヌギーという子供の姉だけどね」
…………
……
「誰だーーーー!!!!!」
「いや、だから姉と慕ってた人のお父さんの……」
「繰り返すなーー!!!」
全然赤の他人じゃないか。
「とにかく、戦うことは僕が望んだことだ。取り消すつもりはないよ」
「ぐぅぅぅ……」
彼女は一度、筆舌に耐えない表情になる。が、それ以上の顔面の破裂をからくも抑えて、やや静かに言い放った。
「じゃぁ……つれてってよ……」
「だめだ」
その言葉を、メルビルはずっと予測していた。そこで気持ちが揺らがないように冗談を言いながらずっと準備をしていた。
それよりもメィファだ。彼女は彼の答えを聞くなり、初めからそうするつもりだったかのように手際よく精霊の言葉をニ三言つぶやくと、ぺたんとその場に座ってしまう。
「え!?」
……そして彼女がとった行動に、場のすべてが息を呑んだ。
腰まである髪に隠れて誰も気づかなかったが、彼女は背中側の腰に小さなセラミック刀を下げていた。それを抜き、グラデーションの美しい髪を首の辺りでむんずとつかむと、一呼吸で切り裂いたのだ。
「ああああ!!!」
彼女の手の元にふさリと落ちる長い髪の末端。その髪のことを愛おしくさえ思っていたミカエルが悲鳴に近い声を上げるのを尻目に、彼女は立ち上がってそれを差し出した。
「……お守り」
「……」
メルビルも唖然としていた。彼女が今なにをしたかくらい、自分にもわかっている。
その束は長さにして五十センチはある。それは高級な絹織物のように艶めいていて、長旅で思うように体を清めることもできなかったであろう中で、彼女がどれだけ長い時間、その髪を大切に手入れしてきたのかが一目にしてわかる。
「持っていって」
「……」
言葉に詰まった。
こんな気持ちを受け取るのはいつ振りだろうか。彼は、いつしか失ってしまっていた感情までもを呼び起こされた気がして立ち尽くしている。
自分の人生は、こういう感情からすべてを切り離そうと決めた人生なのだ。こういう感情が一つ芽生えれば、一つ、臆病になっていく。
「……」
その髪を見るたびに彼女の顔がちらつくだろう。あの時に彼女を抱きしめていれば……という気持ちが芽生えたりしないだろうか。
「……」
ただ、これを受け取らずに去ることは、この男にはできなかった。
彼はその何万本もありそうな髪の一本もこぼさないように慎重に掬い取ると荷物をくくる紐を一つ解き、腰にくくりつける。
「なにがあっても手放さないで」
「ああ、約束するよ」
メルビルがぎこちなく笑いかければ、メィファは無言でうなずく。目の力の強い彼女にまっすぐ見つめられると、自分の弱さを見透かされるようで怖かった。
やがて、彼女は彼から一歩、後退した。
「いってらっしゃい」
「……」
メルビルは沈黙の中で、この光景を思い出した。彼女の母であるミーシャ=オーフェン……彼女が自分を送り出すときも、同じ台詞を、やけにスッキリした笑顔で言った。
情の通った別れはつらい。だからなおさら、自分は人を避けてきたのに……
「じゃあ」
言いたいことをすべて飲み込んで、彼は、小さな別れの言葉を呟いた。