その18
戦いの音が近づいて来る。空はすでに夜の闇に包まれているが森はやけに明るい。燃え広がった炎が他の精霊を圧倒しながら、闇であるはずの場所を支配しているためだ。
ミカエルはその喧騒から遠ざかるように一人足を引きずっていた。
前線はすでに崩壊している。風に聞くまでもなくこの地鳴りを聞けば分かる。
そこから先、同胞がどれだけ持ちこたえるかは分からないが、どちらにせよ森の修復は百年ではおさまるまい。よろけながら進む自分の脇を泳ぐ精霊たちが、森の行く末を案じて悲嘆している。そんな様を見るのがつらかった。
戦場に戻るべきだった。戦えるか戦えないかではない。森を失えば生きる場所を失うことと同じだし、エルフの命は森よりも軽いと教えられてきた。恐らく同胞たちは戦局が絶望的になっても撤退することはないだろうし、死に際も弓を離すまい。
ミカエルもその考え方を色濃く受け継いでいるから、今、自分自身の向かっている方角の矛盾にはずいぶん葛藤があった。
足が石のように重くなってきた。どのような毒だかは知らないが、もうほとんど動かない右足を励ます彼の脳も鈍くなってきている。時によろけ、時に転び、それでも木々を頼りに立ち上がってまた進み始める彼の行く先には霊苞庭がある。
毒を抜く治療さえ受ければ助かる可能性もあるだろうが、その時間すら今の彼には惜しい。
(ラナ……)
霊苞庭のさらに先に浮かぶ姿はメィファではない。あの娘に抱いたほのかな憧れは、満身創痍の男の原動力ではなかった。
思えば、すべてはメルビルに対する嫉妬であった気がする。絹のようにきめの細かい二色の髪を持つメィファはすべてが美しかった。彼女の得体の知れないバイタリティに触れて彼の興味は加速した。しかし、その目は自分にではなく、ずっと自分以外の男に向いていた。あまつさえ彼女は大切な髪をあの男にささげた……。
そこから……不思議な感情に支配された毎日だった気がする。
恋というのはそれに気づかない間、とにかくすべてを関連付けてその対象に関わろうとするものだ。彼は彼女のためにいくつもの理由を付け、時に冷静な判断を欠き、彼女との短い時間を共有した。思えば彼女に会ってから今まで、夢のような時間が過ぎた。
しかし、その感情は恋というものに昇華するまでには至らなかったことが、霊苞庭を求める今の彼の、閉じられかけながらも強い意志が感じられる目の色で分かる。
ラナを……世界でもっとも大切な妹を救うため、彼はある意味で仲間たちを裏切り森を裏切り、任務を放棄してその場所にたどり着いた。霊苞庭は無事である。
意識が断ち切られるまでに事を終わらせなければならない。今回は時空と時空が接触するわけではなく最接近するだけなのだから、自分の計算式どおりの方角を指し示せば時空妖精ヴェンドゥルヴォーチェは多少時間がずれても道を作ってくれるはずであった。
あとは、光が貫かれる場所に三人がいてくれることを祈るしかない。
なお、現在の時刻は、遠い時空で二人のフェルメンセ……ラナがメィファを説き伏せようとし、再会した時刻と重なる。
ミカエルは霊苞庭の脇に立とうとしたが、身体がそれを許さなかった。意識は朦朧とし、霊苞庭が二重にかすんで見える。彼は身を投げ出すように木に身体を持たせかけて座った。
(大丈夫だ……)
彼はまだ自分が正気であることを認識している。後は時空の仕組み次第だが、しばらくの時間は集中を続ける自信があった。
ただ、彼の長い耳には絶えず暴力的な音が流れ込んできている。トロールの荒い鼻息ですら聞こえそうなその音の近さからして、彼らが森の相当深くまで入り込んでいることは間違いない。
あれがここに到達する前に何とかしなければならない。
「;foie/a]h!!」
彼の精霊術はそういう精霊語から始まった。力を帯びてぼぅ……と揺らめく霊苞庭。大地に刻まれた複雑な紋様が正常に応えたことに彼はまず安堵した。
力を増幅させる精霊石を霊苞庭に転がす。力を送り込む。そして文を詠唱する。揺らめきは徐々に大きくなり、やがて黒い種火となって高さ数センチの渦を巻いたのを見ながら、ミカエルの詠唱は最高潮に達した。
「時空を繋ぐ大いなる力よ! 時を貫く橋となせ!」
その呼びかけに応じたように、ちろちろと管を巻いていた黒い渦が空に舞い上がる巨大な火柱となる。同時にミカエルが別の手順を踏むと、そこにはある一方向へ進む光が生まれ、黒い火柱はそれを追った。
それがメィファたちのいる時空に噴出したのが、メィファが気を失ってメルビルが彼女に刃を向けるかを迫られていた瞬間である。
二人はすべてを中断し、風をはらんで空に舞い上がった。黒い火柱がいつまで突き立っているのかが分からない。ラナは不本意ながらメィファまでを抱いて空を迅っている。二人が重いということはないが、あの距離まで全速で飛ぶとなれば気を確かに持たないと息切れで失速する。ほかのことを考えている余地はなかった。
そしてミカエルのほうも集中を解くことができない。毒が脳を停止させようと覆いかぶさってくる。まるで頭の中に墨汁がしみこんでくるようで、視界が、意識が徐々に狭くなっていく。
彼は煤けてしまっている自慢の白髪を乱暴にかき乱して我を保ち、集中を続けた。
砂時計の上室をほぼ空にして、砂は最後の一つまみが流れている。
その一粒一粒を惜しむように、灰色の空を弾丸と化した風が行く。
空気はその速度が上がるほどに重く硬くなってメルビルたちに襲い掛かった。少しでも顔を上げれば首がもげてしまいそうなほどの重さに前も見えず、その向かい風を受けて重量が数倍にも感じるメィファを支える腕も限界に震えている。
かつ、ラナは見た。
舞い上がった黒炎が急速に枯れ始めている。一度は天を突きぬくほどの勢いを見せたそれが、まるで地表から崩れる塔のようにしぼみ始めたのである。
遠い時空で、ミカエルの意識が絶たれたか。いや、そうではなかった。
木がなぎ倒されたのだ。彼のすぐ近くで。轟音を立てて横倒しになったその向こうには蛮族の姿が見えた。
黒い火柱は誰にも見えた。当然トロールにも見え、それが目印となった。
間近で見る巨人は思った以上に大きく、分厚い皮に覆われていてなにかで殴ったくらいでは蚊に刺されたほどでもなさそうだ。仲間とはぐれたか、手分けをしているのか、単体でミカエルを見下ろしている。
ミカエルは集中をとかなければならなかった。死を恐れてではない。確かにそれも怖いが、それ以上に霊苞庭の紋様を少しでも荒らされたら時空を越えて架かる橋は一瞬にして消滅する。
集中を解いた瞬間からおそらく向こう側まで貫かれたその橋は消滅を始めているだろうが、霊苞庭がある限りは一瞬ということはない。
そのわずかな時間に賭けてもらうしかなかった。ミカエルを蝕む毒や相手の頑丈さを考えても、彼にできることは防衛線を張りめぐらせる、時間稼ぎしかない。
トロールの出現は背中からだ。彼我の距離は約十メートル。霊苞庭を背にして、彼は死力を尽くして立ち上がると精霊石のついたバッジを引きちぎり、ろれつも回らなくなってきた舌でこのような意味の言葉を叫んだ。
「戦乙女!! その戦槍を持って立て!!」
その言葉は半分聞き取れないものであったが、戦乙女と呼ばれる特殊な精霊は不完全ながらも現れ、すでに消え入りそうに揺らめきながら巨大な弓を引き絞った。
間に合わない。
しぼみゆく炎とその炎までの距離、時間を考えて、ラナはそういう判断をした。
「メルビル様。そのお命、私に預けてもらえますか?」
全速で飛ぶことを続けながら、息を切らした風の声がメルビルの長い耳に入る。
「……あの炎に間に合うとしたら、下降しながら加速して、地面に叩きつけられる角度で突入するしかありません。でも……」
もし、間に合わなければ跡形もなくなるほどの衝撃力で地面と接触することになる。
「私も突入の直前に人に戻ります。あなた様だけを死なせることはしませんから……」
「何を言ってる。風のままでいられるなら君だけでも生き残るんだ」
「こんな世界で一人生き残っても……」
ラナは吐き捨てるように言うと、その話をやめて次に進めた。
「突入の直前までに精霊石の手順をこなしてくださいませ。それが一瞬遅れても結果は同じになります」
最後に、よろしいですか?と念を押す。メルビルはうなずいた。
あるいは、このまま二人で死ねるならそれが一番幸せかもしれない……ラナはおぼろげながらにそう感じている。この男の心は乾き果てているようでその実、情にもろすぎる。メィファを殺すことが本当にできるか。いや、究極、メィファと自分を選ばなければならない時、彼はどちらに刃を向けるのか。
「ラナ……」
彼の声がした。
「ごめんなさい。私はもうしゃべる余裕がない……」
息も絶え絶えだ。暑くもないのにしきりに汗が噴出して、メルビルを抱いて飛ぶその身体が水を浴びたようになっている。力を制御するための集中力が、脳を焼ききってしまいそうなほどのストレスとなり激痛となって彼女を襲う。
しかし彼女は俯角に傾き侵入角度を四十五度に向け、重力の助けも借りてさらに加速をした。
メルビルも同じである。腕は限界に達し、感覚を失っている。それでも今、彼は伝えなければならない。
顔をゆがめながら、歯を食いしばりながら、「聞くだけ聞いてくれ」と言った。
「……ずっと考えたんだ。僕は君を憎むべきなのか、君に謝るべきなのか、君へ……感謝をするべきなのか……」
感謝……それだけがラナの耳の端に引っかかった。感謝とはなんだろう。
……しかしもはや声すら出ない彼女の耳に言葉は続いた。
「……結局わからなかった。君には本当にたくさんの気持ちがあるんだ」
地面が迫る。四十五度というのは数字を見れば鈍角に思えるが、実際急降下をしてみるとほぼ直角に落ちているようにすら思える。風に守られているという前提がなければ本来しゃべることもできずに気を失ってもおかしくない加速と速度である。
そのような極限状態で多弁になるメルビルの言葉は、あるいは遺言のようであった。
「それを全部話してる余裕はないけど……でも、これで最後かもしれないなら一つだけ聴いておいてほしいことがある」
メルビルはラナの目を探した。目を見て言いたかった。しかしそれがかなわぬと思うと、ぽつり、声を発した。
「僕は、君を赦したい」
「あ……」
……ラナは声を上げて泣きたかった。誰もいない自分の部屋で、白い布団に身体を投げ出して、ただただ、大声で泣きたい気持ちにかられた。
救われたのか。数千年の時を越えて、自分は、はたして救われたのか……?
だが、今はそれどころではない。メルビルもそれを理解しており、その言葉を最後に精霊石に力を込め始める。ラナも集中を解いた。あとは落ちるに任せて、もし、うまくいかなかった時はメルビルと運命を共にする。自分は赦されたのだ。怖いものなど何もない。
が、彼女が風を振り切ってその姿を現したその矢先。
「あっ!!!」
得体の知れない力に弾かれた。そのせいで彼女だけ落下方向が変わる。
「ラナ!!!」
その様にメルビルはすぐに気づいたが、すでに精霊石は光を帯び、包むはずだった三人をひとり残したまま、消えかかった黒い炎に飲み込まれて消えた。
「ズット、ダマサレテタ……」
……地上に投げ出されたラナの耳に、そんな声が流れてくる。
彼女は生きていた。弾き飛ばされた方向に大きな茂みがあったのと、もはや地面に程近かったこと、……なにより風が彼女を死なないように落下を操作したことで、彼女は心臓を動かしたまま、その声を聞いている。
「誰……?」
茂みに突っ込んだせいで全身を擦り傷だらけにしながら、手足を地面につけて空を見上げる。
呆けていた。今の一連の出来事がまったく理解できない。今の声だって誰かわからない。
「誰かいるの?」
炎は完全に消滅している。しかしあまりの興奮の後で、それが何を表しているのか、考えすら及ばなかった。
「アンタニ、ズット、ダマサレテタ……」
「誰?」
「ティーチェル。ティーチェル……」
「ティーチェル!?」
この娘もメィファと同じような驚き方をした。精霊が自らの意思で声を発することなどは常識から逸脱していることを当然ながら彼女も知っている。
ひょっとすれば夢なのか……?
……そういうふわっとした心持ちの中で、風の声が続いた。
「フェルメンセ……アンタサエイナケレバ、バルトスト、スティンクリットハ、ウマクイッタ」
「アタシタチ、ズット、シュクフクシテタ」
「……」
その言葉はフェルメンセである彼女にとっては記憶をなぞるような事実である。バルトスと、スティンクリットという娘の仲を裂いてバルトスと結ばれようとした。
「ヤリカタガ、キタナイ」
「ノロイ、カケタ」
「ダイキライ、フェルメンセ、ダイキライ」
ラナは唇をかみ締めた。
「だから私だけこの時空に残したの……?」
そして、言葉が口から先に出た。言ってはじめて、その事実に気づく。
……それは崩れ落ちるような絶望だった。呼吸も止まりそうになるほどの事実。
~~ 自分は、取り残された…… ~~
しかしこの無邪気な風たちはお構いない。
「アンタノハナシ、キイタ」
「ゼンブ、キリハナシタ、ハナシ」
「オカゲデ、ダマサレタ。ズット、キョウリョク、シテタ」
「クヤシイ」
「ユルセナイ」
「……」
ラナと風の仲がよかったことはいまさら書き起こすこともあるまい。彼女の不思議な魅力に風の精はとりつかれ、彼女にだけ許された風の精霊術も多かった。ラナ自身望まなかったのでそういうチャンスはやってこなかったが、もっと攻撃的な力を要求しても風は受け入れただろう。
「アンタガ、フェルメンセト、ワカッテイレバ、キョウリョク シナカッタ」
「クヤシイ」
「もういい、わかったわ……」
つまりティーチェルはラナだけをこの時空に残すということをして、悔しさに対する仕返しをしたようだ。
赦された。自分は赦された。……だが彼女の罪は、当事者に赦されるだけではすまないことだったらしい。
彼女はそれを、不思議なほどにすんなり受け止めた。
実はメルビル……バルトスには、愛されたいと思ったし結ばれたいとも思ったが、赦されるとは思っていなかった。それだけ彼女の贖罪の気持ちは深く、「赦したい」という言葉は、ほんの少しの時間を経ただけで、まるで陽炎のように儚く揺らめくのみとなっている。
つまり、彼女にとってはティーチェルの反応のほうが腑に落ちたわけだ。
(ステキな夢だったわ……)
……服についた汚れを払って立ち上がったラナ……いや、フェルメンセの表情には笑みさえ浮かんでいる。
美しい、そして清々しい……人とは思えない神々しさを纏った娘が、静かな笑顔を湛えていた。
「ティーチェル」
その声に、まるで少し驚いたかのように周辺で震える風。
「私が私の罪を軽く見たように、あなたは今、あなたが思うよりもはるかに大きな罪を犯したのよ」
「……」
「今からの私の生き様を見れば分かるわ。だから……」
ラナは言った。
「これで、私を赦してほしい」
「……」
つまりフェルメンセは、満足してしまったのだ。
自分はバルトスに赦された。幾千年の時を越えて……。
また幾千年待てばいい。一つ一つの赦しを得て、真っ白な自分でまたバルトスに会えばいい。
そのためにメルビルの一族は生き続けてくれなければならないが、鍵になるメィファ……幸い二人はそろって時空を越えた。
(まだ望みはある……)
そう思えた。思えたから、この絶望を受け入れられる。
彼女の血液は、この世界に溶けるように穏やかな鼓動を刻み始めていた。
(兄者…………ごめんね……)
ただ……いつも過保護なほどに自分を気にかけてくれていた兄のことだけ……その穏やかな流れを割く小石のように彼女の心にポツリと浮かんでいる。
どこまでも続く黒いだけの大地。アダムを失ったイヴの瞳の色は、決して絶望のみに彩られてはいない。
彼女が次に喜びの涙を流すのはいつになるか。
……また数え切れないほどの月日が、ラナを待っている。