その15
あてもなく、結局先ほどの丘から動けない三人。挙句メィファはゼリーに蝕まれた身体の疲労を思い出したようにあのまま深い眠りについてしまった。ゼリーは乾いていくことはないのか、メィファの全身を重く濡らしたままだ。
「洗い流してあげたほうがいいのかしら……」
「寝てるからねぇ……」
起きると手がつけられない幼児を見るような目で二人はメィファの寝顔を覗き込んでいる。それこそ幼児のように表情は無邪気でかわいらしい。そういう存在を見るとつい心がほころんでしまうのはエルフも人間も変わるまい。
「無茶な子だな……まったく……」
メルビルの目はしかし、ただかわいらしいものを見ているものではなく、もっと深い感情に彩られているように思う。
「いくら助けるっていったって時空まで越えてくるかな普通……」
自分の希望のためには何の危険も顧みない性格が、彼女をここまで導いたことは間違いないが、それは義勇心ではあるまい。
メルビルのような朴念仁にもいい加減メィファが自分に抱いている想いは伝わってきている。いや、ラナの告白から彼はようやくそういう視点で彼女を見て、それを理解するというまだるっこしい手続きを踏んだ。今まで自分の運命にしか頓着のなかった彼の目を、ラナが覚ましたとも言える。
メィファの気持ち……それが自分の運命とは相容れないものであるとしても、すべてを無碍にあしらうことができないほど、彼女は自分のために身を切ってきた。
ラナは彼の、彼女を見る瞳にそのような湿ったものが混ざっていることが気になる。
「疲れてはいませんか? ここは私が見張りますからすこしお休みになっては……」
「ありがとう。大丈夫だよ」
その目がラナのほうを向いた。ラナにしてみれば一度は抱くことをすらせがんだ男だ。メィファを見る彼の心の鼓動にほだされて、彼女の心はにわかに沸き立っている。
「命知らず様は、もしもとの時空に戻れたらどうされるんですか?」
「どうするって?」
「旅を続けるのですか?」
「ああ、そうだね。僕はデスペラードだから……」
「なぜそのような危険なことを?」
「それは……あまり話したくないな」
「お話くださいませ。私にできることがあればお手伝いしたいのです」
「いや、ないよ」
メルビルはあっさり、そしてキッパリと言い放った。ラナは半ば呆気にとられたように目を見開いたが、すぐにその目を伏せる。
彼は今まで、自分に対してなにかを求めてくれたことがない。女としてはそれは無視されていると思うより他がなく、原因はおそらく目の前に転がっている娘だ。
「それはメィファさんがいるから?」
聞きたくないのに、つい言葉に出た。メルビルは意外そうな表情を浮かべてラナを見つめている。静寂が訪れるとまるで相手の心臓の音が聞こえるのではないかと思うほどに静かな場所で、ラナはその鼓動を徐々に速くしていった。
しかし、メルビルがなにかを言い出すことはなかった。この時空の太陽の光を浴びて、彼ら二人をさえぎるような影が、突如浮かび上がったのである。
メィファであった。様子がおかしい。彼女は二人の膝の高さくらいまで身体を浮かせると、にわかに光を放ち始める。さらに精霊術の印を結びつつ突き刺さるような声を降らせた。
「貴様!! なぜここにいる!!!」
彼女の顔には表情がない。以前酒場でそうであったように、首から先が折れて眠ったままのようになっている。
精霊術は、それを扱えるメルビルやラナが事実を疑うほどの速度で完成した。水竜の形をした水柱が彼女を取り囲んで二本舞い上がり、唸りを上げてラナに襲い掛かる。
「あぶない!!」
一瞬メルビルの反応が早い。水柱が彼女を貫くほんの少し前に、彼は彼女を抱えて横倒しになりつつも難を逃れた。
「バルトス!! かばうな!!」
メィファの目が薄く開き始める。その眠たそうな眼差しに怒りは感じられなかったが、まるでラナを射すくめるような鋭さを帯びた。
「!!」
ラナの表情が一瞬、心臓が止まってしまったのではないかというほどの驚愕に包まれる。しかし、それはすぐに光にかき消された。
「ペィキュリー!!」
メィファが水の上位精霊の力を具現化したまま、別の上位精霊を召喚したのである。通常成せるはずのない非常識を事もなげに行った彼女の生み出した強い光がすべての目を焼いた。
少し浮いたままの彼女はさらに大地の精霊タムタムを呼び出してメルビルをラナから引き離すと、光の塊となっているこの空間で二匹の水竜を彼女に容赦なくたたきつけた。
しばらくして、静寂が辺りを包む。
水竜を背中に従えたまま、大地を見下ろすメィファは相変わらず無表情に見える。……薄く開かれた瞳で、傷一つついていないラナの姿を冷たく見据えていた。
「こしゃくな……」
ラナは腰が抜けたように地面を這いながら、それでも次に何をしてくるか分からないメィファから目を離せずにいる。視力を回復したメルビルが立ち上がってその姿をかばうように前に立ちはだかると剣を抜いた。
「やめろ」
「バルトス下がっておれ! この女が何をしたか忘れたか!」
「……」
剣尖はメィファを捉えたまま、メルビルは彼女の言葉の表すところを必死に探っている。
この女が何をした……。
……初めてラナと出会った時、自分は彼女の顔を知っていた。ただの空似じゃない。心が、震えたのだ。あれほどに動揺したことはこの"命知らず"にはなかった。だがその女がいったい何をした。そしてバルトスとは誰のことなのだ。
わからない。わからないが、今、このままこの不思議な光を帯びた娘に好き勝手をさせてはいけない。……メルビルの剣は力を失うことなく、彼女の色に染まる大地をせき止めている。
「この子がなにをしようとも、今みたいな形で決着することは僕は望まない。メィファ……いや、君はメィファじゃないのか。一度引いてくれ。僕は君を斬りたくない」
メィファの薄く開かれた目はピクリとも反応せず、うつろな瞳はどこを向いているのかまったく分からない。しかし、これがもし、先ほどと同じ動きを見せた場合、メルビルが取れる行動は一つしかない。
すなわち、風の精霊に最大の力を発揮させて鉄砲玉のような加速で一直線にメィファを貫くこと……でなければ勝機はないだろう。
しかしラナを守りメィファを失うことが正義か。……彼はメィファが動き出すまでの刹那の時間、突き落とされたような葛藤の中にいた。
それは彼にとってまるで糸の両端を突如ものすごい勢いで引っ張ってぶっつりと切れたような……そんな緊張と、弛緩が入り混じった刹那の時間であった。
メィファはまるでスローモーションがかかったように地面に膝をつき、再び気を失ってしまう。そのまま、再びささやかな寝息を立て始めた。その呼吸があまりにも安らかで、今しがたの出来事はまるで彼女の夢にメルビルたちが入り込んでいたのではないかという錯覚すら受けた。
いや……"夢"は、二人の中ではまだ終わっていそうにない。
メルビルの剣を下げることができず、剣尖はまだメィファを追っている。そしてラナも彼女に魂を奪われたかのように凍りついたままだ。……それほどに強力な威圧感が今まで熱波のごとく吹き付けていた。
(何が起こった……)
にわかに理解ができない。まるで白日夢のように通り過ぎていった一瞬が焼きついて、腰を深く沈ませたままのラナに手を貸すことすら忘れているメルビルがいる。
そんな彼の視線を感じて、この白髪の少女は先に、わずかながら動いた。
「命知らず様……」
腰が抜けたまま手だけでメルビルを求めているようにも見える彼女の上目遣いがすがるようだ。手を差し伸べてやらなければ消えてしまいそうな儚さがみえて、メルビルは少しあわてて彼女の元へ駆け寄る。
だが、ラナの頬の色がメルビルの眼球に飛び込んでくるなり、脳裏にあの"声"が、そして"顔"が、蘇った。
~~ 貴様!! 裏切るというのか!? ~~
メルビルは息をのむ。この娘は……。
……この娘は、自分の一族に呪いをかけた女と、同じ顔を持っていた。
確信はない。一瞬、メルビルの頭にそういう思考が駆けぬけただけだ。そもそも一族に伝わるのは精霊術のタブーによる神の制裁だったはず。
「メルビル様……?」
一方、直前まで来て手を差し伸べてくれない彼のことが、ラナはもどかしかった。
「君は……」
ラナが自分を求めている。わかる。が、気持ちではわかっても、身体が動いてくれない。
……この女が呪いを……?
そんなはずがあるわけなかった。そもそも呪いをうけたのは数え切れない年月をさかのぼった自分の先祖であり、如何にエルフの寿命が人間よりも長いといってもラナがその場に居合わせるはずがない。だいたいなぜ呪いをかけた女の顔を自分が知っている?
「君は、バルトスという名前を知ってる……?」
「いいえ、存じません」
ラナはそう言った。今の彼女の心の変化はメルビルには読みにくい。素直にうなずいた彼に、彼女はメィファに目をやり、続けた。
「怖かった……」
「怪我はない?」
「大丈夫です」
「そうか……」
「手を……」
貸してくださいと、ただ自分を見下ろしているメルビルにじれたラナは言った。
「あぁ、ごめん」
そしてようやく彼のぬくもりに触れた彼女は大きく深呼吸をすると
「私とお逃げくださいませ」
「え?」
「……このままいたらきっと殺される。私も、命知らず様だって……」
「……」
メルビルもそれを否定できる材料がない。あのメィファという娘はただ強力な力を宿した精霊使いというわけではない。メィファではない"なにか"が魂に混在しているようだ。その魂は途方もない存在であり、自分たちの魂を触れることもせずに握りつぶすことすらしかねんほどの威圧感を感じた。
そしてその存在は、確かにラナを敵対視している。二人を視界に入る位置においておくことは危険だというのは彼も同感だった。
「でも、どこへ?」
「あの石を……」
ラナはメィファを見て言った。
「私思うんですけど、あの方がこの時空に渡ってきた場所であるなら、そんなに遠い距離ではないのではないかと……」
この時空に渡り、メィファがどれだけ歩いたは分からないが、自分たちが歩いた軌跡は大体分かる。目標も定まらず、ゼリーが四六時中襲い掛かってくるこの場所で、少なくとも二人はまっすぐ歩いたわけではなかったし、それはメィファも同じ心理だったと思う。
「だとすると、実は比較的近い場所にその時空を渡る光は現れると思うのです」
ラナは風になれる。もしその光が少しでも長く持ってくれれば、あるいはその最大速をもって間に合うかもしれない。
メルビルはその意味を察した。つまり彼女は精霊石を寝ているメィファから奪って、時間が来るまで身を隠せと言ったのだ。
「この子をこの時空に置いて行くってことか?」
「……」
ラナは口をつぐんだ。が、すぐに別のことを言う。
「……間に合わなければ私はこの時空で生きてもかまいません。あなた様が一緒にいてくれるなら、それでいい」
「分かった……」
メルビルはメィファのポーチから精霊石を取り出した。それをラナに渡し、言う。
「君だけでも帰るんだ。兄貴が待ってる」
「な……」
息が詰まるようなメルビルの答えに、ラナはめまいすら感じた。メルビルを想ってから今まで、ふつふつと沸いてきた血液が濁流のように心臓に押し寄せて、もう気持ちが止まらない。
「なぜですか!! 私、そんなに魅力ありませんか!? この場所にとどまるのは私とはいやでもその方とならいいんですか!!」
胸に手を当てて身を乗り出し、彼の視界を自分で埋める。
「私を見て!! なぜいつも……」
「いつも……?」
彼女は質問などするなとばかりに首を小さく振りメルビルの胸に飛び込むと、嗚咽交じりに続けた。
「あなた様が好き。メルビル様をお慕いしております。お願い! 私と一緒に逃げてくださいませ!」
「ラナ……」
「お願い……」
そのまま、哀れなほどに小さく、そして硬く、彼の服にしがみついているその手は、決して彼を離そうとはしなかった。