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下書き  作者: 矢久 勝基
第三節 葛藤
13/18

その13

 シン……と静まり返った森に雨が音もなく降っている。雨の粒は大きくはないが、それでも一人、霊苞庭れいほうていの複雑な模様を描くミカエルをしたたかにぬらした。

 霊苞庭とは読者にも馴染みある言い方をすれば魔方陣のことだ。ただ、黒魔法のそれとは原理も仕組みも異なるため、エルフの学者たちは明確にその線引きをしている。

 今ミカエルが描いている霊苞庭はその中でも特に複雑で、かつ、配置を間違えるとまったく効果を生さない類のもので、その慎重さは熾烈を極めている。タイムリミットが迫る中、雨を気にかけてる余裕もなかった。

「こんなことやってられるかやぁぁぁぁ!!!」

 隣の小屋からガンギレで飛び出してきたのはメィファである。手には親指と人差し指で円を作ったほどの大きさのオレンジ色の石が握られていて、それを彼のほうへ投げつけんばかりの剣幕だ。

「ワタシャ裁縫とかああいう地味で細かい作業が苦手なんじゃぁぁ!!!」

 だがミカエルは意に介さず、雨で頬に張り付いた自慢の白髪はくはつをかき上げてゆっくりと視線を上げる。

「裁縫じゃないでしょう?」

「裁縫とも比べ物にならんくらい地味なんじゃぁぁぁ!!!」

「じゃあやめますか?」

 言いたい。自分もこのような突貫作業はめまいがしそうだ。

 だが彼はメィファから視線を落とすと再び自分の作業に取り掛かった。

「メルビルさんのためでしょう?」

「……」

「あと三日しかない……」

 ヴェンドゥルヴォーチェをあるタイミングで呼び出さなければならない。そもそもアレ自体、呼び出すのに条件がいる。その条件を満たして、かつ、メルビルたちが飛んだ別の時空が接触する時間でなければならないとなると、その条件に合うのが三日後。それを逃すと次にいつになるかが簡単な計算ではできない。もしかしたら天文学的時間がかかるかもしれない中で、妹を助け出すチャンスは一度しかないと思えば、ミカエルの集中力は研ぎ澄まされた。

 今そこでストライキを起こしかけているメィファの力も必要不可欠だ。彼女の得体の知れない潜在能力ポテンシャルこそが別の時空に行って帰ってを実現させるかもしれず、この際あの小憎たらしいデスペラードをダシに使っても彼女をその気にさせなければならなかった。


 メルビルのため……彼女は小屋に戻ると再び石を右手に包んで額の前に持って行き、目をつむって心を落ち着けている。手の血管とその石が溶け込んで身体の一部となるような感覚を得られるようになるまで、その状態を続けなければならない。

 なぜこんなことをしていないといけないのか。……自分に不向きなことへの不満が当然の疑問を浮かび上がらせる。

 メルビルのため……自分はなぜそれほどメルビルを想っているのか。運命の出会いだとするならば、自分は"運命"などという自分自身とは別の意思を体現するだけの人形なのだろうか。

 好き……好きってなんだろう。自分が苦しくても相手のためを思いやる気持ちだろうか。そんな苦しいものか。

 好きって……なんだろう……。

 ……普段動ききって落ち着かない身体が止まっている分、メィファの頭は珍しくくるくると回転している。


 メィファはこの精霊石を精製する作業を二度繰り返さなければならなかった。

「行きに一つ、帰りに一つです」

 ミカエルの計算ではどうしても二ついる。時空を飛ぶのだ、途方もないエネルギーが必要であった。

 シミュレートにも限界があるために、算出された出力数値ギリギリでは不安が残る。

 すると普通の精霊石の容量をはるかに上回るものとなるため、その限界も考えれば二つ必要になるというわけだった。

 この、干上がったダムにバケツで水をあふれるまで注ぐような途方もない作業を、メィファはしかし数日で一つ行った。これだけでも驚異だが、終わったと思った途端に新たなダムを用意されたらメィファでなくても投げ出したくなるだろう。

 ともあれ、彼女の集中力がもつかがこの挑戦の鍵ともいえた。

「"好き"ってなんだと思う……?」

 彼女は数日にわたる拷問のような作業中、一度だけミカエルにそんなことを聞いたことがある。ファズという木の実をこねて作ったパンのようなものをかじっていたミカエルは顔を上げた。

「すきってアレですか? スキあり!! のスキですか?」

「ちゃうにきまっとるじゃろ!! 好きって言ったら男女がこう……恋に燃えるっていうか……」

「……ごめんなさい。あなたがその好きについて聞いてくるなんて、夢にも思わなかったもので……」

「逆にスキあり!! をワレに聞くわけなかろうがぁぁ!!」

「アハハハ、確かにその通りですけど……」

 ミカエルはこのような朗らかな心境にはないが、メィファの唐突な質問を受けて心が緩み、懐からなにかを取り出した。

「"好き"はですね。 1、心が引きつけられる感情のこと。2、自分が思うとおりの行動を行うこと。3、興味を抱いて……」

「辞書引いて答えんなやぁぁ!!!」

 学者というヤツはどうも機械的なところがある。

「まぁだから、好きっていうのはそういうことなんじゃないですか?」

「うーん……」

 そうなんだろうが、それで片付けられては今行っている拷問作業には耐えられない。

「じゃあニカエルは恋をしたことないの?」

「ミカエルです。恋ですか。ありますよ。例えば……」

 あっけらかんと、さわやかにいう。

「メィファさんのことを初対面の時はいいなと思いました」

「え……」

 その言葉はメィファにとって新鮮な驚きであった。少し間をおいておずおずと口を開く。

「初対面の時は……ってことは……今は……?」

「アハハハ」

 明らかな作り笑いでお茶を濁されて、メィファには思うところがある。

「ねぇ……」

 それは、スレッドと話している時にも思わされたことだ。

「わたしって、女としてダメ……?」

 それは、彼女がメルピアットを立ってから、一番変わった心境の変化だったのかもしれない。

 以前も述べたが彼ら……メルビルやミカエル、スレッドと会うまでは自分のことをかわいいと思っていたし、心の中は純粋に乙女であることは今でも信じて揺るがない。

 だがそういう内面の部分をスレッドは一切認めなかった。彼といた短い間、彼は自分メィファのことをまるで凶暴な小動物であるかのように言い、律しようとする場面も多かったように思う。

 それはつまり、自分が思っている自分自身と、他人の見方が乖離しているのではないか……?

 今になって彼女は、自分を真剣に振り返り始めている。

 その心境の変化が何を表しているかは彼女自身は気付いていないが、王子様を追いかける上で、底の抜けたバケツのようではいけないという漠然とした気持ちが、彼女を真剣にさせていた。

「えと……」

 口ごもるミカエル。「えっとー……」と、なにかを求めるように小屋の隅から隅へ目を泳がせながら、ある一つの逃げ道を見出した。

「僕の髪、きれいじゃありませんか?」

「そんな話はしてないんじゃ!!!」

「いえいえ、この髪は僕の自慢だし、髪を大事にする人が好きなんです」

 メィファはその宝をあっさりと切り落とした。あの瞬間はミカエルにとってショックが大きかった事は間違いない。

 ただ……、と、この男は同時に思っている。

 ショックは彼女があっさり髪を切り落としたことなのか。それとも、それほどの髪を切り落としてまでもメルビルという男に賭けたその心に、なのか……ここが、ミカエルの中で実は整理できていない。

 そもそもあのデスペラードがこんなに小憎たらしいのはなぜなのか。……彼は、さまざまな理由をつけてその辺りを整理していないのだ。決して素直な人格ではない。

「……メィファさんは髪の毛切っちゃいましたからね」

「ワタシの価値はイコール髪の毛かい!!」

「アハハハ」

 ただ笑っている。その笑顔があまりに無邪気で、まるで弟に面白いことをしてウケたような気持ちになって、彼女の気持ちはすっと落ち着いてしまった。

「メルビルもそう思ってるかナァ……」

 髪型というのは魅力の一つだと彼女も思っている。髪型が与える人への印象は大きい。

「ねぇ、わたし髪の毛短いと、かわいくない?」

しかも今だけ言えば前髪……というか、耳の脇を通り過ぎていく部分だけがぞろっと長い。乱暴に髪をつかんで切り落としたときにここだけは手の内に入らなかったからだ。

「これも切りそろえたほうがいいかな……」

 だが今やここだけが美しいグラデーションを描いているのだ。メィファも切りそろえることに迷うほどに、その色の流れは気に入っていた。

「後悔してるんですか?」

「後悔?」

「髪を切ったこと」

「かわいくなくなったんならね。どうなの? わたし、かわいくなくなった?」

「……」

 その答え云々より、ミカエルにとっては彼女がそんな女性的なことを気にする性格であったことに少し驚いている。彼女を正面に見据えれば、妹ラナよりも幼くて柔らかい雰囲気の漂う、まごうことない美人であり、長い時間そうしていると変な気を起こしそうなほどだ。

「まぁ……」

 ミカエルは唇を硬くして多少目をそらすと言った。

「それは僕が答えても仕方のないことでしょう? メルビルさんに聞けばいい」

 そして会話を自分でさえぎるように早口になる。

「僕は今、メィファさんという女の人じゃなくて、メィファさんという"人"に興味があります。前にも言いましたがあなたは普通のエルフじゃない。あなたが何のために生まれてきて何をする人なのか、研究者としてあなたのそばにはいたい」

 そして彼はさらに続けた。

「変な声を聞いたって言ってましたよね。あれについて聞かせてもらえませんか?」

「待って、その前に……」

「ん? また尿漏れですか……?」

「ちがわい!!!」

 彼女は、髪の毛をかわいく切りそろえてほしい。


 結局「好きはなにか?」ということについて、彼女の中で結論は出なかった。メルビルに会う……それがすべてを教えてくれる。そう思うことにした。深くものを考えるのは苦手だった。

 召喚準備が整った当日も雨が森を濡らしていた。連日の作業にやつれた二人もその雨に晒されながら霊苞庭をはさんで向かい合って立っている。髪をショートに切りそろえた少女はその手に二つの精霊石を持ち、青年はその頭に知識を叩き込んで臨んでいた。

 ただし男のほうの顔には無念が浮かんでいる。悲壮な顔つきでメィファの方を半ば睨むように見つめながら言った。

「妹を、くれぐれもよろしくお願いいたします」

 彼は、独自の計算と仮説によりここに残らなければいけなくなってしまったのだ。最後、彼女たちが戻ってくる際に彼が灯台となってこの時空を見失わないようにナビゲートしないといけない。

 「いいですか。メィファさん。この世界は何層かのチャンネルを持っています」

 一本の串を支柱にして、仮に六つの円盤が回っているとしよう。それはそれぞれに異なる速度でコマのように回っていて、さらにその支柱を上下にも動いている。円盤は例であり、実際物体ではないので、互いに互いをすり抜けながら一定周期でその串の端から端までを行き来している。としよう。実際はもう少し複雑だ。

 その原理が元になって、自分たちの時空は常に別の何らかの時空と接触している状態になっているのだ。

「ヴェンドゥルヴォーチェはその時々で重なっている一番近い時空を行き来させる能力を持っています」

 メィファ、すっかり目が点である。でも今のより詳しい説明をしている、聞いている時間は彼らにはなかった。

「ようするに、今から三十三分後に接触している世界が、メルビルさんのいる世界なんです。その瞬間ヴェンドゥルヴォーチェの力を借りれば同じ時空に飛ぶことができます」

 よく計算したものだが、ミカエルはメルビルたちを消し去ったあの時間を元にそれを割り出した。

「問題は帰るときで、今から三十三分を境にその後接触する気配がないんです。そのまま力を使うと、接触している別の時空に飛ばされてしまう」

 そこで、ミカエルが灯台になる必要がある。光の道で帰る場所を指し示すとヴェンドゥルヴォーチェはそちらを優先するということが文献とシミュレートの結果分かってきた。

「ただ、僕が作る光の距離なんてたかが知れてますから、時空が再接近した瞬間にしか届かないと思います」

 それが、十一日後の某時間に当たる。

「その時間が分かるように特殊な砂時計を作ってみました。振っても逆さにしても同じ方向にしか流れません」

 それが落ちきる時に浮かぶ、時空を繋ぐ橋へ飛び込んで精霊石を発動できれば、理論的にはこの場に戻ってくることができる。

「橋は数分持つかもしれませんし、ほんの一瞬かもしれません。僕も全力は尽くしますが、できる限り余裕をもって今から転送される場所に戻ってきてください」

「……」

 目を、ぱちぱちとしばだたせて必死で今言った言葉を追っているメィファ。しばらく葛藤じみた挙動不審な動きを見せた挙句、

「メモに書けぇぇぇぇ!!!!」

 逆ギレした。


 時空を飛ぶ。

 その瞬間、霊苞庭を中心に黒い火柱が立った。それは雨の降り注ぐ雲を突き抜けて一瞬で夜空に溶ける。と同時に複雑な幾何学模様の上にいた少女の姿は消えてなくなっていた。

 見送った青年は結果に胸をなでおろしつつも決して笑顔ではない。自分が同行できなかったことと、妹の運命を任せざるを得なかった少女の性格がこの試みの前途を明るいものにはさせていないことは、どのような楽天家にも瞭然であった。時間も他の方法もなかったとはいえ、今からでも別の手段はないかと彼の眉間のしわが問うている。

 もちろん実際にそのような手段はなく、彼ができることは彼女"達"が帰ってくる道を照らす準備だけだ。

 その光の道が三体の影を映すよう、今は祈るしかなかった。


 メィファは先日メルビルが見たものと同じ風景、すなわち灰色の宇宙を体験していた。

 もっともこの場所はすでにミカエルが答えを出している。

「メィファさんが時空を飛んでまず初めに目に入る光景は"時空の踊り場"と呼ばれる場所です。どちらでも好きな方向へ走っていってください。どこへ走っても同じ場所に出ます」

……慣れない感覚の空間を泳ぐようにして走り、視界が白んで、その時空本来の姿を現した時、世界は朝の装いを見せていた。それはいい。

「なんじゃこりゃぁぁぁ!!!」

 思わず彼女が叫んだように、光景が異様であった。

 目、目、目……。数え切れない程の視線がメィファを取り囲んで一点、彼女に向けられていたのだ。

 群衆といっていい。だが人ではなかった。

 身体が透き通って向こうが見える。ゼリーというかスライムというか、ゲル状のなにかが揺らめきながら、人のような形態をかろうじて保って立っている。それも数はちょっと一瞬では把握しきれないほどで、それぞれがだらんとけだるそうに肩を落としてメィファを見ていた。目だけは普通の人間のようにギョロついていて、

「気持ち悪いがやぁぁ!!」

 その目に吐き気すら覚えた彼女が、とっさに描いた精霊術の印は雷神アンティァーナの眷属を呼ぶものだった。が、"それ"が術の完成まで待ってくれるわけではない。

「うぎゃぁぁぁ!!!」

 背中から覆いかぶさるように組み付かれて悲鳴を上げるメィファ。……だけではない。その太い腕は彼女の身体を覆うところでは止まらず、そのまま彼女の身体を飲み込み始めたのだ。

「なんじゃぁぁぁ!!!」

 まるでそのゼリーの中へ取り込まれていくように、みるみるうちに『食われて』ゆく。

「アンティァーナぁぁ!!!」

 が、溺れかけたメィファの術が間に合った。現れた雷神の眷属が彼女の頭上で火花を散らしながら放電すると、ゼリーはまるで内部から破裂させられたかのように粉々にはじけ飛んだのである。投げ出されて転ぶメィファ。彼女を拘束するものはなくなったが、ぬめりを帯びた液体が彼女を濡らし身体を重くしている。それを他のゼリーたちが無機質に眺めていた。

 眷族『フィクシー』はまだ消えていない。メィファはやけに疲労のたまった身体でばっと起き上がると、

「やっつけて!!」

 とだけ言った。本当に身体が重い。まるで一日駆けずり回ったあとのようだ。先ほど飲み込まれそうになった影響なのだろうか。とすれば、何度か飲み込まれたら立ち上がる気力さえ失うだろう。

 フィクシーと呼ばれる不恰好な丸い鶏はしかし、その気持ちを汲んだかのように縦横無尽に働き始めた。

「ごげぇぇ!!!」

 鳴き声はかわいらしさのかけらもないが、その姿からは想像もつかないような俊敏な動きを見せつつ、稲光を纏ったような姿でメィファにのそのそと襲い掛かるゼリーたちを次々に貫き粉砕していく。彼らは個体としては非常にもろく、フィクシーはまるで何もない野原を飛び回るかのように速度を緩めることなく次々と新たなターゲットめがけて襲い掛かった。

 メィファはその様子に感謝したが、表情は硬い。

(きりがない……)

 とにかく数が多すぎる。フィクシーは充電式の電池のようなもので、蓄えてきた電力を使い果たすと眠りについてしまう。いままでの経験から言っても、とてもこの数のゼリーをすべて捌く力はない。

 とはいえ、他の精霊では切り抜けられない事も分かっている。彼女お得意の光の精『ペイキュリー』の光を圧力に変える能力にしても、この集団をすべてひっくり返すような力はなかった。というか、そもそも光の精霊というものは一般的に攻撃に適した精霊ではない。

 とすれば……。

「一直線に飛んで!!」

 逃げる道を確保するしかない。丸い鶏は短い羽をばたばたとはためかせると一際大きな放電を見せた。途端、びりびりという耳が痛くなる高周波の音が響き、メィファの視線の先が飛び散るように割れる。

 そのままアンティァーナの眷属の姿は消えてしまったが、メィファにとっては活路を見出した瞬間だった。


(きりがない……)

 その心のうめきを別の空の下、メルビルももらしている。

「こっちだ!」

 ゼリーが大地に沸きかえっている。どちらにいってもそれが無数にうごめいている丘陵地帯で、包囲環の一端をこじ開けたメルビルはラナを突破させて、再び二度三度と剣を振るった。

「大丈夫?」

「生きてます」

 丘の死角に滑り込むと二人は息をついた。汗が土煙を吸っているせいか黒ずんで見える。二人がここに来てからずっと這いずり回っている証拠であった。

「疲れましたか?」

「大丈夫だよ」

 彼は無口なのだ。こういう胸をなでおろす瞬間があっても必要以上のおしゃべりがラナの耳に届くことがない。それがラナにはじれったかった。彼が何を言い出すかを知りたい。もっと知りたい。

 例えばこんな話題はどうだろう。

「私がなぜ巻き込まれてここに飛ばされたか……聞きたいですか?」

「ん?」

 しかしそんな話題ですらメルビルは首を振る。

「会ったときは聞こうと思ったけどやっぱりいいよ」

「……」

 彼女にとって切り札であったのにこれだけで会話が途切れてしまう。

(私のことなどには興味はないのだわ)

 メルビルはラナの立場が不利になることに対して気を使ったのだが、それに気づかぬラナはやや唇をかみ締めた。

「もし……」

 娘は、男の底知れない腹の内にメスを入れるつもりで言った。

「本当に帰れなかったらどうしましょうね」

 少しムキになっている。この男の心が揺れる様を見てみたい。

 彼女は太陽が当たっているはずなのに木も花も丘も大地もすべてが黒で塗りつぶされた不思議な世界を仰いで続けた。

「こんな魔境で私たち、本当にアダムとイヴかしら」

「君は巻き込まれただけだろう? 必ず帰るんだ」

「あら、どうやって?」

「どうやってもだよ。方法は必ず探す。来れたんだから帰れるはずだ」

「あなたは?」

「僕はどうでもいいよ」

「こんな場所で死んでもいいということ?」

「ああ。君が帰れるなら僕はいい」

 ラナはそこで黙った。

「……そんな親切はうれしくない……」

 その不機嫌そうな顔。メルビルにはなぜかやけに懐かしかった。


 一方のメィファは包囲網を抜け真っ黒い木々の下で荒い息を深呼吸で溶かしている。

 疲労が濃く、いつもよりも数段鈍い身体は何度もあの得体の知れない透明人間の手にかかりそうになったが、今のところ彼女のバイタリティが勝っているようだ。

(メルビルは?)

 彼女は木にもたれかかってへたり込むと、ここに来た理由を再確認するように頭で反芻した。本来はミカエルから妹の捜索も頼まれているのだが、人間の動きにくい服を脱ぎ捨てて彼女の服を借りたにもかかわらず、そのことはもはや記憶の外である。

 堰の切れた息をそのままに、彼女はベルトポーチから砂時計を取り出した。十センチほどの小さなものだが、ミカエルが言ったように振っても横に倒しても一定の勢いでさらさらと流れ続けている。逆にしても下から上へ流れ続けていて少し面白い。

 その黄土色の粒の流れを見る限りではまだ時間は十分にあるが、このような場所でどうやって彼を探せばいいのか。

「!?」

 そのとき、枯れ枝を踏むザザッという音が木の向こうでして、メィファは飛び上がるように立ち上がった。

「誰!?」

 とは聞かない。先ほどのゼリーたちであることは容易に想像がついた。重い身体に鞭を打っても逃げるしかない。が、

「まって!」

 不意にその音のしたほうから、声がした。

「メルビル!?」

 振り返る先、黒い木と木の間には確かに簡素な皮のブレストアーマー(胸当て)をつけた男が立っている。

「ああ。来てくれたのか」

「……」

 メィファは突然のメルビルに卒倒しそうな様子であったが、かろうじて持ち直す。そして力いっぱい拳を握って

「ワレは王子様なんじゃろ!?」

 意味不明なことを言い出した。

「なんでいつもいつもいつもいつもいつもワタシが危ういのに助けに来てくれんのじゃ!!!」 

 メィファはうれしいのだ。会えた。やっと二人きりで話せる瞬間に巡り会えた。でも、どうしていいのかわからない。つい、叫んでしまっている。

「おいで」

 メルビルは言葉少なにそう言った。むしろ彼のほうが待ちきれずかゆっくりと近づいてくる。

「まて!! 止まれ!! ワタシの心臓を壊す気かぁぁ!!」

 とはいえメルビルである以上、逃げるわけにはいかない。し、逃げたいわけでもない。メィファはただただ、小動物のように身をちぢこませ下を向いて目を硬くつむり、彼の吐息が自分に触れるのを待っていた。

 やがて左の肩に暖かさが広がっていく。彼の手のぬくもりを感じながら、メィファの脳裏には『告白せよ』という花占いのお告げと、先日考えていたことが浮かび上がった。好きってなんだろう。

 自分はこの男のことを追いかけ、追いかけ、追いかけた。それは本当にこの男のことが好きだからなのか……。

 わからない。わからないが、会うたびに全身の血液が沸騰してしまいそうな感覚があふれてくるのは彼を置いて他にいない。

 それが好きという感覚なら、胸を張って言えるじゃないか。

「メルビル」

 彼女は花占いの通り、自分をゆだねることにした。強い意思を持って両目を開けて……。

「ワタ……ほぎゃぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

 だが開いた口が愛を語ることはなかった。


 目の前のメルビルが溶けている。ついでに彼の右手に触れられている肩は水膜のような透明のなにかに没していて、その部分が今まさに顔へと広がりつつあった。

「ア! アンティァー……ぎゃぁぁぁぁ!!!」

 反射的に精霊術を準備しようとした右手をもう一つの腕で押さえられる。透明な水の膜のようであるそれは脆いはずなのに、力で振りほどこうとしただけではどうにもならない。右手から左手から急速に溺れていく中で、メィファは体中の水分が吸い取られていくように感じた。

(動けない……!!)

 水の中なのに干上がっていく全身の筋肉が、まったく言うことを聞いてくれない。身体は鉛のように重く感じられて、なんだか眠くもなってくる中で、メィファの先では、すっかりゼリー化したメルビルが無機質な目をこちらに向けていた。

(助けて!!!)

 もはや声にもならない。いつも期待しても期待しても一度も助けに来てくれない王子様の顔が一瞬浮かび、恨めしく思えた。

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