その12
冗談を言う余裕がないのはむしろ残された三人だ。少々おかしなことになっている。
「どういうことか説明せんかぃニカエル!!」
どうしたらいいのかわからず、必死な形相でミカエルを攻めているのが人質であるはずのメィファで、
「ミカエルです……」
間違いを正しながらどうしたらいいかわからないまま半ば放心状態のミカエル。
「おいお前、それだけかょ」
そのミカエルが何のアクションもしないのでどうしたらいいのかわからないマムール。
……三者三様にどうしたらいいのかわからず、無為に時間が過ぎている。緊張感が渦巻くはずの場は、間延びして滑稽な雰囲気が漂っていた。
「だいたいお前は何しにきたんだぁぁ!!」
「え……」
助けに来たつもりのミカエルを言葉で一刀両断に斬り捨てたメィファの隣で、マムールに至っては疎外感すら感じていた。
「とりあえず、ワイは帰るぜ」
「まてっ! とりあえずメィファさんだけは置いていけ!」
「ハァ? なんでワレのとこにおらんといかんのじゃ!!」
「あの……僕、メィファさんのことを助けにきたんですが……」
「助かっとるわぃ!!」
そもそもメィファ自身は自分が操作されていることも人質になっていることも気づいていないわけで。
「それよりメルビルに何をしたぁ!!」
「嬢ちゃん、時空妖精だょ」
「妖精じゃないです。厳密には精霊です」
間違いだけは必ず正すミカエル。
「なんじゃその時空ナントカって……」
「まぁ簡単に言うとょ。あの野郎はここにいたヤツラを丸ごと次元の穴に突き落としたってことょ。あのデスペラードも含めてだぜ」
「なんだとぉぉぉぉぉ!!」
メィファは詰め寄りたいが身体が重い。代わりに旺盛な声だけがあちらこちらに火花を飛ばしている。
「オヤジィ! 要するにコイツはワタシたちの敵ってことかぁぁ!!!」
「まぁ少なくともあのデスペラードを葬りにきたことは間違いないょ」
「くっっ!!」
メィファの瞳が一瞬怒りに燃える。右手が一瞬複雑な動作をすると風を切るようにその腕を払った。
(無駄だょ……)
ペンダントの呪縛は彼女の力を封じることも行っている。この娘の力が多少強力だとしても……
「なっ!?」
悪巧み妖精の涼しかった表情が驚愕に変わる。隣の少女の髪が、ないはずの風に煽られた。と思うと、渡したペンダントがその風に煽られ不自然に波打ち、まるで内側から膨らまされたようになって、一瞬で爆ぜた。
同時にメィファから光が生まれ、まるで煽られた風に揺られるような蛇行を見せながらミカエルに襲い掛かる。
「精霊石よ!!!」
だが一瞬だけミカエルの動きのほうが早い。メィファの気性から危険を察知した彼は守護方陣に使えるありったけの精霊石に力を込めていた。
音もなく八方へ拡散する光。その光量は、まともには目が開けていられないほどだったが、すべてが落ち着いたとき、場はメィファが爆発する前と同じ状況のままになっていることを、三人ともが知った。
今のは光の上位精霊ペィキュリーである。彼女があまりに簡単に呼び出すので容易に召喚できるものと勘違いされそうだが、存在としては神に近く、本来なら特殊な儀式を用いて、数名にのぼる精霊使いがようやく呼び出せる代物である。一介の精霊使いが下僕代わりに呼び出せる存在では到底ない。
その力が彼女一人の力で再び集まりつつある。
「まってください!!」
必死になって叫ぶミカエルには、メィファが次に今と同じ規模の力での攻撃を行ってきた場合、防ぐ手立てがなかった。先ほどの一撃で防御に使える精霊石を一気に使い切っていたのだ。
「くっ……!!」
彼は反射的に攻撃用の精霊石に力を込めた。
人の多くは自分が死んでも相手を守るという回路は持ち合わせてない。自分が助かるために、この際攻撃はやむをえない……ということをミカエルの身体は本能的に行った。
「精霊石よ! 戦乙女の制裁を持って悪を突き抜く槍と成せ!」
精霊石はすでに精霊力が充満されている状態であるために、後出しにもかかわらずメィファよりも術の完成が早い。突如三人の間に現れた女戦士が左手に持つ弓を引き絞ると、まるで光の残像のようにいくつもの引き絞られた弓が彼女の周りに現れて、それが同時に無数の矢を解き放った。
「やべぇ!」
まるで矢の濁流である。放射状に放たれているために少し右や左に動いただけではとても避けられる飛礫ではなく、マムールの瞬間移動でもとても距離が足りない。
当然その恐怖はメィファも感じ、彼女は同時に二つの声を上げた。
「ほげぇぇぇぇぇ!!!」
「こざかしいわぁぁぁぁ!!!」
メィファの術が一度止まる。そして新たな印が結ばれ、それを矢が到達する直前に完成させた。彼女とマムールを取り巻くようにらせん状に吹き上がった二つの水柱が襲い掛かる矢の嵐に対してかき分けるようにして広がっていく。先ほどの力が矢の濁流であれば、これは水の竜巻のようであった。
そして勢いは後者が圧倒的であり、彼らの中間に位置していた戦乙女ヴァルキリアを一瞬で飲み込んでミカエルに襲い掛かる。
もっともらせん状に広がっていく水勢は戦乙女の矢ほど高速で向かってくるものではなく、ミカエルは必死に後ろに走ることによって逃げおおせた。
やがてそれが衰え、元の何もなかった荒野に戻れば、震源地には唖然とした少女がミカエルのほうすら見ることなく凍り付いている。
「ちょっとタンマ」
メィファは自分で自分を止めるようにつぶやいた。ミカエルはずっと向こうで転んでいるし、水柱のらせんの中にいたマムールは呆気にとられて動かない。メィファが止まればひたすらに静かな荒野だった。
「何今の……」
「え?」
マムールに聞いてみるが、メィファも彼が答えを持っていないことくらい分かる。
今のは、自分の力ではない。水の力は使えても下位精霊ェクフィーユを呼び出せる程度で、今のような術はェクフィーユの力では百ぺん呼び出しても具現化できるものではない。
「……」
やはり最近の自分はなにかヘンだ。あの"声"を聞いてからの自分になにかが起きている。少なくとも今ほどの脅威はデビルカースに襲われたときも感じたが、反射的にあんな力が出るような気配はまったくなかった。
あの"声"は一体なんなのか。メィファは自分が自分でない時があることをはじめて腹の底に受け止めていた。
「メィファさん! とにかくあなたは悪巧みの妖精なんかと一緒にいるべき人じゃない!」
メィファの圧倒的な力を否応なしに見せ付けられて、ミカエルはある意味で正気に戻った。
「あなたはただのエルフじゃない。その力は何のためにあるかは僕にはまだ分かりませんが、少なくとも誰かに利用されるためのものではないはずです!」
先ほどの水の力もあのような短時間で呼び出せるような精霊ではない。水神ヌール=ベグの使徒である上位精霊ティティの放った水竜だ。精霊学者の彼でさえ、本物は初めて見た。
「きっとあなたはエルフたちになにかをもたらすための生なんだ。さぁ、僕らの世界に戻りましょう」
……しかし、ミカエルが必死になるほど、メィファには意味が分からない。
「……わたしのこと、くどいてるの?」
「違います!!!」
「騙されんなょ嬢ちゃん。さっきあの男は同族のエルフを消し去ったんだぜ?」
「そうだったぁぁ!!!」
「確かにワイらは悪巧みの妖精とか呼ばれてるが、嬢ちゃんの熱意にほだされて必死であの男を追ったつもりだょ」
「うん」
少なくとも事情を知らないメィファにはその通りだった。
「アイツが余計なことを吹き込もうとしてるのがうっとうしいならワイも加勢するぜ。やっちまうか」
「うん!!」
「まって!!」
叫びながらもミカエルは構え、精霊石のストックを手探りで確かめた。戦うことはできる。ただ、目の前の精霊使いは自分とは桁違いである。
彼は再び目の当たりにすることになるであろう恐ろしいほどの精霊力におびえながら、デスペラードをやっかみすぎて冷静さを失っていた自分にいまさらながらに後悔していた。
「お取り込み中わりぃけど」
が、その導火線に火がつきかけたそのとき、そんな空気にはおおよそ似合わないおっとりした声が聞こえて、三人は反射的に振り返った。
「お前は!!」
「スレッド!?」
ミカエルとメィファの声が交錯する。そこにいるのは借金にあえいでいた大男スレッドであり、マムールも気づくなり、うんざりしたように眉をひそめた。
「何でお前がここにいるんだょ、ピータン」
「そりゃぁご挨拶だなマムール。お前の望むものを手に入れてきてやったのに」
「なにぃ?」
スレッドは懐から一枚の紙を取り出す。
「朱の契約書。これだろ?」
「な……どうやったんだょ!」
それもそうだし、それ以前にこの場所をどうやってかぎつけたのだろう。
「遊び呆けてた俺の経験も無駄じゃなかったってことよ」
スレッドはにんまりと含んで笑った。
「約束だ。メィファを返してもらおうじゃねえか」
「なにをいまさら……」
「いまさらもクソもあるかよ。まだ期限は過ぎちゃいねえだろ」
「……」
だがもうメィファのことは人買いに晒している。勝手な言い分ではあるが、ともかくマムールにとっては『いまさら』であった。
「実際ホンモノなのか……ちょっと見せてみろょ」
彼もいきなり予期もしなかった展開に対応に窮し、苦し紛れにそう言った。しかしその動揺が、この用心深い小男に心の隙を生じさせることになる。
「ああ、いいよ」
契約書を受け取るために不用意に近づきその小さな右手を伸ばした時、
「!!」
スレッドは紙を放り投げるとその手で彼をすくい上げ、もう片方の腕で思い切り殴りつけた。何メートルも吹っ飛ぶその小さな身体。勢いは止まらず二転三転してようやく草の根に引っかかって止まる。
「ただしニセモノだけどな」
そしてメィファのほうへ振り返り、
「ほれ、王子様がまた助けに来てやったぞ」
「助け……」
ミカエルも「助けに来た」と言った。メィファはこの事情もよく飲み込んでいない。自分でない自分と、自分の知らない自分の状況……メィファの心は混乱するばかりだ。
「とりあえずコイツが目覚める前にどっか遠くへいこう」
スレッドはのびてしまったマムールを捨てたままメィファの手を引いた。
「まて! オヤジは味方じゃないんかい!!」
一応最後の抵抗をしてみるものの、
「後で説明してやるから早く来い!」
と言われるとその通りにするしかない。
少しスレッドのことを語りたい。
この人間の大男は街の女を利用して情報を調べつつ、朱の契約書を偽造することに時間を費やした。放蕩生活を送っていたころの社交性がここで生きたわけだ。
テレビなどのメディアもないこの世界、情報は吟遊詩人などが運んでくるが、その街々のゴシップネタに限ってはさまざまな男を相手にする遊女が明るい。
幸い……といえば失礼かもしれないが、ロールの街のダウンタウンに朱の契約書に縛られた女が働いており、彼女の証言が偽造の精巧化に一役買った。
偽造書と情報を手に入れたスレッドはメルビルやミカエルが到達する前からこの荒野に潜み、様子を窺っていた。
(まぁ、あの神隠しがなければ出てはいけなかったけどな……)
半ば放心状態の彼女の手を引きながら、その手の暖かさが今、自分の手を温めていることについて、ある程度の満足をしている。
自分が飛び込める状態まで様子を見てから飛び込んだのだから、姑息といえば姑息だ。だが、この結果は自分が『変わろう』と思わなければなかったものだった。
たしかにあのマフィアの渦の中にメルビルのように顔色一つ変えずに飛び込むことができれば、それほど格好のつく勇気もなかっただろう。が、彼にはそんな浮世離れした実力も勇気もあるわけではない。というか人一人が何十名の殺気立った男の渦中に飛び込むことなどは非現実的ではないだろうか。
そういう意味で彼は非常に人間臭い男気と勇気をもった現実的なヒーローとして一人の娘を人買いたちから遠ざけた。
方法やタイミングなどはどうでもいい。かっこよくなくても彼女を救ったことには間違いない。……それは自己満足かもしれなくても、自分が振り絞ったほんの少しの勇気に対して、見損ないかけた自分に少しの養分を与えていた。
「メルビルは……?」
手を引かれて歩くメィファの思考がようやくそこまで追いついてきたらしい。
メィファは今、混乱の極にある。自分自身が知らない自分、自分自身が知らない自身を取り巻く状況……自分の意思とは関係なく過去や現在、未来が勝手に形成されて、その上を「ただ歩け」といわれているような感覚が気持ち悪い。
そんな彼女が、自分の意思で未来へ歩くための指針。
(……そうだ、メルビルを追っていたんだ……)
それにすがる勢いでポツリと声を上げた。だから今、メルビルが目の前で消えたことを知りつつも興奮することはない。
「……」
白髪のエルフの青年はばつが悪そうに唇を噛んでいる。彼も反射的にスレッドについてきたが、心は妹のことばかりを追っていた。メィファにとっては敵のように思えた彼が当然のようについてくる意味も分からないのだが、先ほどのスレッドの「後で説明してやるから……」を信じて黙っている。きっとそれも説明してくれるに違いなかった。
「わたし、メルビルのところにいく」
「行くったってどうやってだよ」
神隠しはスレッドも見た。あのような状態で一体どこへ探しに行けというのだ。
そしてそれはミカエルの答えでもある。彼の研究は時空妖精ヴェンドゥルヴォーチェを精霊石に込められることを知ったというところにとどまっており、その精霊がどういう働きをして、どういう限界があるのかまでを知っているわけではない。
メルビルは……妹ラナは、帰ることのできない時空に迷い込んだ可能性が高いのだ。同じところに助けに行けるものなら自分だって行きたい気持ちがミカエルの沈黙の中にある。
「なんとか妖精のヴォンデージムスメに頼めばいいんでしょ?」
「ヴェンドゥルヴォーチェです」
「そう、それ」
「ぜんぜん覚えてねえじゃねえか……」
名前などはどうでもいいのだ。
「召喚の仕方を教えて」
「……」
ミカエルはこの素っ頓狂な申し出に、しばし思案した。
ヴェンドゥルヴォーチェは自然界で会うことのできる精霊ではない。当然普通の方法では制御することはできないのだが、この娘ならあるいは……。
「わかりました。ヴェンドゥルヴォーチェは特殊な方法でしか呼び出せません。ついてきてください」
ミカエルの進んでいた方向が急に左に折れて、メィファはそれに従おうとしたが、手を引いている男のほうが立ち止まって戸惑った。
「どうしたの?」
「いや、俺はここまでかなってよ」
「え?」
彼にはついていく理由がない。多少でも惹かれたこの娘と別れたいわけではないが、彼女は好きな男を追うのだ。その尻を追いかけるのは無益というか惨めというか……。
「……」
一方でメィファはといえば、意外に気の合うこの人間とせっかく再会したのに、このまま別れるのはうすらさびしく感じる人懐っこさを持っている。
それでも、あの田園風景で彼の気持ちを聞いた以上、メルビルをあくまで追いかけようというのに彼に『ついてきて』とは言いづらかった。
お互いがほんの少し名残惜しい気持ちを引きずりながら、顔を見合わせて黙っている時間が短く過ぎた。
「剣……」
「ん?」
「少しはうまくなったの?」
「いやぁ、あれから一つも練習してないわ」
「なーんだ。それじゃいつまでたっても、わたしにも勝てないよ」
「その時間の分お前助けようと必死だったからな」
「それ……」
メィファが指を差して指摘したいところだった。
「「後で事情を教えてくれる」って言った」
「ん? うん」
スレッドは微妙な笑みを浮かべ、やや肩をすくめてみせる。
「まぁ……いいんじゃねぇか? お姫様は下々のことを知らなくてもよ」
「教えんかい!!」
「カッカッカ!」
スレッドは笑うばかりだが、メィファは必死だ。
「最近どんどん自分が自分じゃなくなっていくの。知らないうちにわたしは助けられることになってるし、呼んだこともない精霊が飛び出してくるし、変な声は聞くし……」
「変な声?」
スレッドがオウム返しすれば、そっぽを向いていたミカエルも無言で反応をした。
「男の人と女の人がいてそれが……男女間の縺れ(もつれ)っていうか……」
うまく説明できない。
「とにかく、だから教えて」
できないので、とりあえず強引にまとめてみた。必死な瞳にまつげが揺れて、抱きしめたくなるほどにかわいらしい。
そう思える娘の手前、首謀者の一人であったスレッドは真実を言いたくなかったし、彼の性格から責任をすべてあの悪巧みの妖精に押し付けるような嘘をつくのも嫌だった。
「じゃあ……アイツをやめて俺にするってんなら教えてやる」
「ハァ? さっき教えてくれるって約束したじゃろが!」
「約束守らなきゃいけねえほどの義理もねえんだよ」
「うーーーーーー」
悔しそうな表情でにらみつけるメィファ。だがなんともならないことはスレッドの口笛を吹きかねんおどけた表情からも見て取れる。
「じゃぁ……」
左手の指を三本立てて言った。
「三分だけスレッドにするから教えて」
「あほかぃ!!」
彼はもちろん、自分に可能性はないことを前提にモノを言っている。であればすべての面目が保たれるのだ。
それを保ちたいのは彼の安いプライドの高さでもあったが、それ以上にこの天真爛漫な娘がかわいらしくてしかたがなくなっている。
……彼女に軽蔑されるような人格を、彼は晒したくない。
「……元気でな。あんま無理すんなよ」
「いっちゃうの?」
「俺のやることはやった」
「ちょっとさびしいナァ……」
「カッカッカ!!」
彼の手は自然と彼女の頭をなでていた。
「どうしても一緒にいてほしいってんならアイツ諦めろよ」
言って、思わずスレッドは自分で笑った。
気持ちではすでにこの娘を諦めているのに、いざ手の届く距離で彼女の吐息を感じてしまうと、ほんの少しの可能性に賭けようとしてしまうのだ。
それほど真剣に彼女に想いを寄せていたわけではない……などと心の中で強がりつつ、本当はそれを認めたくないだけなのかもしれない。
「おいおい」
メィファが伏し目になるのを嫌うかのように、いや、自分自身が伏し目な気持ちになることを嫌うかのようにスレッドはおどけた。
「冗談に決まってんだろ馬鹿。いつもみたいに食いついてこいよ。張り合いがねえだろ」
彼は彼女の頭をなでていた手をやや乱暴にして、彼女の髪形を崩す。
「お前みたいなオコサマラブには付き合ってらんねえんだよ。ちょっとからかっただけですぐマジになるんだからかわいいもんだよな」
「やめんかぃ!!」
「いてぇぇぇ!!!!」
腕に噛み付くメィファ。くしゃくしゃになった髪を手櫛で整えながら男の元を一歩離れた。
それに微笑みかけるスレッド。いい男でもないのに、潔いその表情がやけに涼しげだった。
「メィファ」
「なんじゃ!!」
「……悪かったな……」
「そうだ反省せいや!! 純粋な乙女心をガキ呼ばわりしやがってぇぇ!!」
「そんなんじゃねぇよ……」
自分は、このいきいきと透き通った娘が迎えるはずの未来を、暗い闇に閉ざそうとしていたのだ。
自分の都合で。自分の弱さのせいで……。
「俺……もっと強くなるわ。まだまだやり直せる。強くなって……もう二度と今までの馬鹿はくりかえさねぇ」
メィファはその言葉に首を傾げたが、ややもして見当違いな言葉を接いだ。
「ワタシには勝てるようになれや」
「カッカッカわかってねぇ、お前も相当の馬鹿だよなぁ」
「馬鹿じゃないわい!!」
この馬鹿の行く末も心配だが、それがどんなものでも自分とはかかわりのないものだろう。メルビルを諦めるまで待つ……ようなことはプライドが許さない。おこぼれを狙って彼女の周りをうろつく気もなかった。
スレッドは笑いながら、彼女の髪にもう一度手を伸ばした。強気な声を振りまいていたわりにメィファはそれをおとなしく受け入れる。前髪だけが長く残されたままのアンバランスな髪型だが、その美しさは決して色褪せず、翠から蒼へと流れていく色彩はまるで太陽を浴びてキラキラと輝く川のせせらぎのようだ。
「イタァァァァ!!!」
不意に、その美しい髪の持ち主の絶叫が、そのせせらぎを激しく揺らした。
「何すんじゃぃ!!!」
「ま、これくらいの餞別はあってもいいだろ?」
メィファの頭を離れたスレッドの手には数本の髪の毛が握られている。
「い、言えば髪の毛くらいくれてやるわい!!」
少し涙目のメィファにスレッドは笑いかけた。
「お前に頼むと前髪全部よこしそうで怖かったからよ」
「するかぁぁ!!」
「カッカッカ、悪かったな」
本当は、頼んで拒否されるのが怖かった。これは本心からほしかった。
……この髪を見るたびに強くなろうと決意した日を思い出そう。強くなろうと思うきっかけをくれたこの娘を思い出そう。
「……じゃあなメィファ」
彼はきびすを返した。人間の世界へ戻ろうとする彼の足取りは力強く、決意に満ちている。
強くなることは容易ではない。このような平凡な男を物語が取り上げてもさしたるインパクトもありはしなかっただろうが、人の多くはメルビルのように浮世離れした強さも、無謀さ、潔さも持ち合わせてはいない。弱くて、ずるくて、変わろうと思っても変われない人間というものが等身大で変わっていくのには、このようなまだるっこさが必要なのだと思う。
この物語が彼を追うことはもうないが、この小さな別れが彼の大きな未来を造ることになったことだけは書き添えておきたい。
「さぁ、行きましょうメィファさん。急いだほうがいい」
「ワレは結局ワタシの敵じゃないのかぁ!」
寂しさ紛れに声を荒げるメィファだが、実際はもうそんなこともどうでもよかった。
まったく理解できない現状に立ち止まるよりも、メルビルだけを追いかけて走り続ける未来があればいい。彼女の本来は、そのように単純明快であった。
「まぁええわ。早く案内せんかい!!」
彼に会えればすべてが解決する……そう考えることにしたメィファの心は時空を越えて遠く、メルビルの姿だけを映していた。