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三章 試験の真相 下

     **


 母の喜びようといったらなかった。たった二日でげっそりやせてしまった母は、帰ってきた小夜を幽霊でも見るような目で見た後、しっかりと抱きしめ、泣いた。

 それから大喜びで村中に小夜が帰ってきたことを伝えに行き、またあの豪華な雑炊を用意してくれる。そのうえ、たくさんの人を家に招いてみんなに雑炊をふるまった。

 小夜はどんな顔をしていいかわからなかった。小夜が帰ってきたかわりに、小梅が山の神の犠牲になってしまうのだ。

「小夜、考えていることはわかるよ。気持ちも、わかる」

 裏のおばあさんが小夜の肩をぽんぽんと叩いてくれた。武丸にひどいことを言われた帰り、最初にのぞきにきてくれた人だ。そして、長老につぐ長寿のおばあさんでもある。

「でも、萩野の思いもわかってやっておくれ。二十四年前、山の神にささげられた巫女は、萩野のお姉さん、小夜の叔母さんにあたる人なんだよ。もう、二度と大切な人を奪われる思いは、したくなかったんだろうねぇ」

 小夜は、ぐっと唇をかみしめた。小梅だって、小夜の本当に大切な人なのだ。

「おばあさん、巫女を助ける方法って、何かあるの?」

「聞いて、どうするんだね」

 小夜はうつむいた。はしゃぐ母が目の隅に映っている。小梅を助けたら、次は小夜が、巫女にならなければならないのだ。

 おばあさんが湿っぽい息をついた。

「萩野には、黙っておいてあげよう。小夜、先の先までしっかり考えなさい。それでもやるというならば、私は応援するつもりでいる。教えるだけは、教えてあげよう」

 そっとおばあさんが小夜の耳に手を当て、口を近づけた。

「巫女を巫女でなくするための方法は、いくつかある。ひとつは、死ぬことだ。死んでしまったらどうにもならない。次は、大怪我。馬に乗れなくなったら、お山に登れないからね。もうひとつはね、結婚することだよ。お狐さまに聞かれたろう。婚約していないか、恋人はいないかって。恋人のいる娘は、巫女になれないんだよ」

 小夜は黙って雑炊の入ったお椀を手でつつみこんだ。

 どうすれば、どうすればいいのだろう。小梅を失えば、小夜がつらい。小夜が巫女になれば、母はものすごく悲しむ。母が悲しむことを考えれば、もちろん小夜もつらい。

 しゃん、と遠くで鈴の音が鳴った。聞き覚えのある音に小夜はびくっと顔をあげる。

 しゃり、しゃりん。クマよけの鈴の音が近づいてくる。馬蹄の音が混じる。小夜は立ちあがった。馬蹄の音が小夜の家の前で止まる。その場の全員が音に気づき、何事かと顔を見合わせた。

「小夜、小夜はおるか!」

 狐の声に、ざわ、と周囲が鳴った。そのざわめきをかき消すように引き戸が音を立てる。息を乱した狐と、奔翔鹿毛が扉を開けたそこにいた。

「お狐さま、こんな夜分にどうなされたんでさ。小夜はここにおりまする。むさくるしい席ですが、どうぞ中へお入りください。白湯なりと」

「いや、けっこうだ。小夜、どこにおるか」

 戸口にひざまずいた老人には目もくれず、狐は目で小夜を探しあてた。

「小梅が巫女の資格を失った」

 場が凍りつく。

「へへ、お狐さま、冗談でございますよね?」

 狐は黙っている。ざわざわと小夜の周りが鳴りはじめた。

「萩野からお姉さんだけじゃあなく、娘まで奪おうって、そんな酷な話があるもんか!」

「一回前は萩野の姉さん、二回前はそこの婆さんの妹さんだ。三年続けてこの村からですかい。ちぃと酷な話ではないですか!」

 村人たちの抗議を、狐は、悲しげな目をして受け止めている。目だけは、ひたと、小夜を見すえていた。恨まれるのはわかっている、そうしてくれて構わない――。奔翔の手綱をにぎった狐は、無言で小夜に語っていた。

「どうするんだね、小夜」

 カタリ、とおばあさんが湯飲みを置いた。

「逃げたければ、逃げればいい。お前は巫女をおろされたんだ。代役は、巫女と違って断れるんだよ」

「断れるの?」

「断れる。だけれども、そうすればもう一人の候補、茜に番が移るだけさ。もっとも、私は茜にも同じことを言うがね。茜が断ればまた別の娘が選択を迫られるよ」

 おばあさんが、すーっと立ちあがった。

「もう一度言おう。先の先までしっかり考えて、答えを出しなさいよ、小夜。おばあさんも、そうするから」

 そのまま部屋にぎっしりと座りこんだ村人たちのなかへ姿をくらましてしまう。小夜はうつむいたまま横目でおばあさんを見送った。

 それまでずっと小夜を探していた母の手が小夜をぐっと強くだきしめる。

「わたさない、わたしませんとも。相手が武士さまでも、大名さまでも、小夜をわたすものですか。一度帰ってきたわが子を、もう一度、山の神へささげよというのですか!」

 かなり無礼な物言いだが狐は言い返さない。ただ小夜の返事だけを待っている。

 小夜は何も言えないでいた。先の先までしっかり考えて。そうは言われても、こう急な話では頭が回るはずもなかった。ただ、ただ。

「私、怖い……」

 小夜の口からもれた言葉を母は断りの言葉と解釈したようだ。

「よく言ったわ、小夜。お聞きになったでしょう。小夜はもう、巫女ではない。お引取り願います」

 狐がうなずいた。ゴザのにおいをかいでいた奔翔の手綱を軽く引っ張り、鞍にまたがる。

「き、狐さま」

 喉にひっかかる声をやっとのことで小夜は押し出した。

「小梅さんは、なぜ、巫女の資格を失ったのですか」

 ふぅっと、狐が悲しげにほほえんだ。

「傷ついたわけではない。安心せよ。兄たっての願いでな、結婚することになったのだ」

 小梅が死んだとか、大怪我をしたわけではないのだと小夜はほっとしてから、ざーっと血の気が引くのを感じた。

 兄たっての願いということは、武丸がそれを望んだということなのか。小夜が次の巫女になるのを知っていながら。しかも断ることのおそろしさを話したということは、巫女になれと釘をさしたということではないのだろうか。

 奔翔が急に狐に耳を向けた。狐が脚をいれたのだろう。次の巫女候補である茜のところへ行くのだ。

「小夜、もし気が変わることがあれば、五重塔へ来るがいい。いつでも、私は待っておる」

 狐が馬腹を蹴った。母が、小夜をしっかりとだきしめる。鬼女のように食いこんでくる指と爪の力に、小夜は震えた。

「小夜、お母さんが守ってあげる。巫女になんて、ならなくていいんだよ。山の神にささげられるなんて、そんなおそろしい役目を、あなたに任せるなんて……」

 小夜は顔をあげておばあさんを探した。でも、おばあさんはどこを見ても姿が見えなくなっている。

(私、どうしたいんだろう)

 狐をののしる村人たちの間で、小夜はぼうっと考えをめぐらせた。

(小梅さんを助けたい。巫女になるのは怖い)

「お母さん、放して」

 小夜はうめいた。

「一人になりたいの。お願い」

 母がためらいながらも、おずおずと手をはなしてくれた。小夜は泣きじゃくりながら表へ飛び出す。無意識のうちに大名さまのお屋敷、厩へ足を向けていることに気づき、小夜は震えた。家を飛び出したところで小夜には家と厩しか行く場所がないのだ。

 真っ暗な夜道を、小夜は駆ける。明かりのともった五重塔。あの中に小梅は、今、いるのだろうか。それともすでに、結婚相手の家に行ってしまったのだろうか。命を守るため無理やり結婚した相手の家へと。

 垣根の穴を通り抜け、茂みをかきわけ木立をぬって小夜は突っ走る。厩へ飛びこむと馬たちがつぎつぎ馬房から顔を出し、なにごとかと小夜を見つめた。闇の中でぼうっと浮かび上がるように白い翻羽。そして、闇の中に沈みこむように、しかし目だけは月か何かの光を反射してよく見える真っ黒な絶影。闇に輝くでもなく溶けこむでもなく、ひょこんと顔を突き出しているのは全身栗色の騰霧だ。

 小夜は絶影の首を抱きしめ、そっとなでさすった。耳の後ろをかいてやると、顔をかたむけて気持ちよさそうに目を細める。あんまりにも無邪気なしぐさに、思わず小夜も頬をゆるめた。

 少し草でもあげよう、とあたりを見回し、小夜は、空っぽの馬房に気がついた。狐と一緒にいる奔翔、そしてなぜか喩輝がいない。馬房の暗がりで眠っているのか、はたまた扉を破ってそのあたりで草を食べているのかと見回してみるが、どこにも見あたらない。

 と、喩輝のかわりに、こちらへ向かってくる明かりが見えた。

「犬野め、嫌なやつだとは思っていたが、ここまでとはな……」

 厩者がふたり連れ立ってこちらへ歩いてくるようだ。小夜はぎょっとあたりを見回す。厩者たちは夜の決まった時間に馬の様子を見に来るのだ。が、今日はいかんせん遅すぎる。とっくに終わっていると思ったのに。

 小夜は絶影のひたいをなで、馬栓棒(馬が馬房の外へ出られないよう、入り口にかませる棒)に足をかけ梁に手をかける。えいやっと力をこめ、梁の上におどり出た。梁の上には板がわたされており、餌置き場に置ききれないワラが置かれている。小夜はカサカサ音をたてながらワラの中にもぐりこんだ。馬たちが驚き、白目をむいて小夜をふりあおぐ。小夜はそっと唇に指をあて、静かにね、とささやいた。

 馬たちが鼻を鳴らし、厩者たちにワラの夜食をもらうべく馬房から顔をつきだした。それと同時にふたりの厩者が馬房の前にやってくる。厩の副長とでもいうべき地位にいる鳶と、その息子の小太郎だ。

 小夜はワラのかげで身を小さくした。小太郎はともかくとして鳶が苦手なのだ。声はでかいし身なりはまるで山賊だし、おまけに手の速さときたらたまったものではない。歳も奉公している年数も上だから自分の方が厩ノ長にふさわしいと公言してはばからないので、武丸とはすっかり犬猿の仲だ。武丸のおまけということで小夜や小梅も目のかたきにされていた。

 小太郎が厩の裏手にあるワラ置き場へ向かい、鳶が水桶の水を足していく。

 小夜の真下にいる絶影がひょこんと首を下げて、足元に落ちたワラを食べ始めた。小太郎はまだワラ置き場から戻ってきていない。小夜が屋根裏にのぼるとき落としたワラだ。小夜は内心とびあがった。鳶が気づきませんように……。

 鳶が「ん」と小さく声をあげ、小夜のいるあたりをにらむ。小夜は声を出さないようぎゅっと口を手で押さえた。

「父さん、どうしたの?」

 ワラを両手いっぱいにかかえて戻ってきた小太郎に、鳶がにやりとした。

「ネズ公がいるみたいだぜ。ワラと馬が大好きな、きったねぇネズ公が」

 ワラ置き場の奥にできるだけ引っこもうとしたがもう遅い。口を押さえたときにワラが鳴ったのか何なのか知らないが、もうごまかせなかった。鳶は馬栓棒に足をひっかけ、あっという間に小夜の襟首をつかんでしまう。

「なんでお前がここにいるんだ、小娘!」

「小夜じゃないか。どうして!」

 そのまま引きずられて地面にたたきつけられる危険を感じ、小夜は悲鳴をあげた。屋根裏から地上までは、小夜の身長の倍ほども高さがあるのだ。

「自分で降りる! 降りるから、やめて!」

「ネズミがぴぃぴぃ騒いでら。おにーちゃん、助けてよってなぁ! 残念ながら、お前の大好きな兄ちゃんは、もう助けてくれねぇよ!」

 ゆかいそうに笑いながらも手を離してもらえたので、小夜は悔しさと怖さでべそをかきながら屋根裏から降りた。

「どうしたよ、大好きな兄ちゃんがあんなだから、さびしくってさびしくって、あったかな馬に泣きつきにきたってとこかい? 残念だったなぁ、そんなことしても、むなしいだけなのになぁ!」

「父さん!」

 それまで目を白黒させていた小太郎が止めに入ったが、鳶に脳天をガツンとやられて、へたりこんでしまった。

「何様だと思ってんだ、小太郎よう。俺に指図する権限なんざ、お前にはねえだろうが」

 ガツン、ゴツンとさらに二度殴る。さすがにこれはやりすぎだ。小太郎が頭を腕でかばってあとずさる。

 ここでやっと小夜はあたりがすっかり酒くさくなっていることに気がついた。運の悪いことに鳶は一杯ひっかけてきた後らしい。鳶の酒癖の悪さは手の速さと同じくらい悪名高いのだ。

「小夜、今日のところは帰れよ。父さん、こんなんだからさ。また、もうちょっとうまく忍びこんだらいいだろ。いてて」

 小太郎が言い終える前に、鳶が小太郎の頭をごつく。

「いいのかい、小太郎。んな、こいつに優しい言葉をかけたら、こわーい長にムチでしばかれんだろ? 俺はお前を助けてやってるんだよ、ありがたく思えや」

 鳶は笑いながら酒ににごった目を小夜へ向けた。小夜はごくっと息をのむ。

「小太郎ついでに、いいことを教えてやろうなぁ、ネズミちゃんよ。なに、こんな時間にこそこそしてるネズ公には昼間のうわさが入ってこんだろうからな。ちょいと、おじさんが耳に入れてやるさ」

 にやにやしながら鳶がにじりよってくる。小夜はあとずさろうとしたが、それを察した鳶が小夜の腕をつかんだ。悲鳴をあげかけた小夜の口をおさえ、鳶がふぅっと酒くさい息を吐く……小夜の耳にむけて。ざわざわと腕に鳥肌が立った。

「お前の大好きな兄ちゃんはなぁ、小梅の姉ちゃんを狐田とかいう武士に売っ払っちまったんだよ。今日はみんなで、きれいなべべ着た姉ちゃんの見送りしたところさ」

 耳に吹きこまれる不快感に、小夜は反射的に身をよじった。鳶がにたにたと、いやらしい笑みを向けてくる。

「うそ。小梅さんが、売られた? そんな。結婚したって聞いたよ」

「表向きはなぁ。武丸ときたら重苦しい顔で別れの言葉のひとつもかけてやらない。姉ちゃんの悲しげな顔、お前に見せてやりたかったなぁ。そんな顔で、結婚したなんて言われても、誰も信じやしないさ。賭けたっていい、あれは売られたんだよ」

 ふぅっとまた酒臭い息を吹きかけられる。今度こそ耐えきれなくなり、小夜は思わず鳶の横顔をひっぱたいていた。

「なにやりやがる、小娘!」

 しまった、と身をすくめた瞬間、鳶の横殴りが襲いかかってきた。声すら出ず、ましてや身を守ることも頭にのぼらず、頬を張り倒されて倒れこむ。小夜の胸ぐらをつかんで引き起こそうとする鳶の手を、あわてて小太郎がひきはがした。

「やめて、父さん! 女の子なんだから」

「なに言ってんだてめぇ。このネズ公は今、俺を殴りやがったんだぞ。ちょいとは痛い目を見せなきゃならんだろうがぁ!」

 鳶の馬鹿力に少年の小太郎がかなうはずがない。なすすべもなくタコ殴りにされる小太郎を小夜は震えながら見つめた。逃げなきゃ、助けを呼びに行かなきゃと思うのだが、腰が抜けてしまったらしく動けない。助けて、誰か来て、と念じるのだが、こんな時間では馬の様子を身に来る当番の者しか来るはずがなかった。今日の当番は目の前のこの二人だ。

「ごめん、ごめん、小太郎……」

 小太郎は答えない。答えられなかったのだろう。だが、小太郎の答えのかわりに小夜の耳に固い物音が聞こえた。馬蹄だ、とわかった瞬間、むっと汗くさい風が吹きつけてきた。

「何をやっている!」

 怒号とともに小太郎と鳶の間に一頭の馬が割りこんだ。馬房にいなかった喩輝とその背にまたがった武丸だ。喩輝は興奮しているらしく、しきりに鼻を鳴らしては落ち着きなく足踏みしている。武丸もまたいらだっているようで、うろうろする喩輝の手綱をしぼって押しとどめもせず、ぎらぎらする目でその場の三人をにらんでいた。人馬ともに汗だくだ。遠駆けにでも行っていたのだろう。

「間合いよく現れやがったな、ヘソなしめ。ここで会ったが百年目よ」

 鳶が舌なめずりをした。

 ヘソなしとは、厩者が親愛の情をこめて、鳶に限っては侮蔑の言葉として呼ぶ武丸の代名詞だ。武丸はよく酔っ払って腹踊りをする。飲み会のたびにやる十八番なのだが、奇妙なことに武丸の腹にはヘソの穴がないのだった。

(俺がちっちぇえころ、カミナリさまに持っていかれたんだ。でもな、ヘソを取られた子どもはすぐ死んじまうというが、俺はこの通りピンピンしている。だから俺は強い子で、今となっては強くて丈夫で格好いい兄ちゃんなのさ)

 そう笑ってぐびりと酒をあおり、こっけいな踊りでみんなを笑わせるのが常だった。常だったのだが、今の武丸だけを見て、そんな陽気な人物をだれが想像できるだろう。急にまた恐怖がこみあげてきて、小夜はたじたじと後ずさった。

「何をしている、と聞いたんだ。馬の様子を見に来る時間はとうに過ぎているはずだぞ」

 あぁ? と、鳶がいかにも柄悪く詰め寄る。鳶につかまれた手を武丸は鋭く振りほどき、小太郎に目を向けた。

「仕事は終わっているのか」

「は、はい。一応は」

「ならば、鳶を連れて今すぐ家へ帰れ。馬を休ませるべき時間に、ここで騒ぐな」

 申し訳ありません、と小太郎が震え声でわび、頭を下げた。鳶の手を引く。が、鳶はそうそう簡単に引き下がる気はなさそうだ。

「なぁ、犬野よぅ。お前、ちぃと年長者に対する礼儀ってものを忘れてないかよぉ?」

「鳶、よほどケンカがしたいと見えるな」

「おうよ。ここで黙って帰れるほど、俺はお人よしじゃないんでな」

 普段ならここで武丸が殴りかかるところだ。小夜と小太郎は思わず息を呑んだが、予想に反して武丸は恐ろしいほど静かだった。

「俺はとても、ケンカできる気分じゃない。さがってくれ、鳶」

 ぎらぎらした目をし、喩輝は地面を足で踏み鳴らしているのに、口調があまりに静かすぎる。むしろ声を荒げてくれた方がいい。つかみかかってくれた方がいい。何か途方もないいらだちをこらえているのが傍目にはっきりわかるだけに、何倍も、何十倍もこの方がおそろしかった。さしもの鳶もぽかんと口を開けている。

「お、おい、てめぇ何かあったのか。小梅のねーちゃんのことが気になるのはわかるんだが」

「今は、何も言わずに行ってくれ。明日の朝、餌の時間に遅れるなよ」

 鳶がぶるっと身震いした。

「気味悪ぃや。小太郎、帰って飲みなおすぞ」

「う、うん」

 鳶がぐるっときびすを返して厩の出口へ歩いていく。小太郎もたじたじと後ずさり、ぺこんと頭を下げて鳶の後を追った。

 武丸が喩輝の鞍からやっと降り、ハミを口からはずして柵につないだ。腹帯をゆるめ、鞍をおろす。むっと汗がにおった。

「あの、犬にぃ、私」

 武丸がやっと小夜に目を向ける。ぎらぎらした目に見つめられ、小夜は居心地悪くもじもじした。

「帰れ」

 ぴしゃりと鋭く言われ、二の句が告げられなくなってしまった。

「今すぐ家へ帰れ。でないと引きずっていくぞ」

「もう二度と殴ったりしないって言ったじゃない」

 なんとか反論したが、ぎらぎらした目ににらまれ口調が尻すぼみになってしまう。

 武丸がずいっと一歩を踏み出す。あとずさろうとしたところで腕をつかまれた。武丸に引っ張られ、つんのめるようにして歩き出す。

「犬にぃ、痛い。離してよ。自分で歩くから」

 わずかに腕がゆるんだ気がしたが、離してはくれなかった。武丸にひきずられ、喩輝をつなぎっぱなしにしたまま厩を出る。

「犬にぃ、犬にぃったら」

 その後は、何を言おうが武丸はまったく答えてくれなかった。顔をのぞきこみたかったが武丸がずんずん大またで歩いていくので、引きずられた格好の小夜からは武丸の後姿しか見えない。結局、無言のまま東の門まで引っ張られ、そこでやっと手を離してもらえた。

「もう来るな。まっすぐ家へ帰れ」

 やっと武丸が声を出した。

「帰りたくない」

「帰れ」

「帰りたくないの!」

 小夜は叫んでしゃがみこんだ。

「そんなに言うなら犬にぃ、村まで送っていってよ。遅くなった日はいつもそうしてくれてたじゃない」

「それなら一晩中ここにいろ!」

 低くどなり、武丸はきびすを返した。

「厩へ戻ってきてもむだだぞ。俺は喩輝の世話をしに戻るからな。帰るんだ」

 後ろを向いたまま続けて言い、そのまま大またで歩いていってしまった。

「犬にぃのばか、ばか、ばか」

 じいっとうずくまり、小夜は膝に顔をうずめた。武丸なら、今までの武丸なら戻ってきてくれるはずだ。少なくともどこかからそっと小夜の様子をうかがっていて、ちゃんと小夜が帰ったか見届けてくれているはず。小夜はそろそろ顔をあげ、人の気配をうかがった。武丸の気配どころか夜の御門に人気はまったくない。小夜は怖くなって立ちあがった。

「こんなところに置いてくなんて、犬にぃのすることじゃない。どうしちゃったのよ。ばか。もう知らないんだから。置いていくなら置いていくでちゃんと見張っててよ。じゃないと私、厩に帰っちゃうよ」

 わざと声をはりあげたが、物音ひとつ返ってこなかった。

「帰っちゃうよ。帰っちゃうからね」

 ずんずん厩へ歩いていく。武丸が飛び出して止めてくれる気配はまったくない。小夜は馬場を大きく回りこみ、庭木の間から厩へ近づいた。

 武丸は小夜のことなど見ていなかった。厩に明かりをともし、てきぱきと喩輝の手入れをしている。湿した手ぬぐいで全身の汗をぬぐい、蹄の裏に詰まったごみをかきだし、腫れや熱がないか点検する。やさしく喩輝をなでるしぐさは今までの武丸と何一つ変わりなく、それがかえって不自然で、なつかしくて、小夜は思わず泣きそうになった。

 手入れの終わった喩輝を馬房に戻して馬房の鍵がちゃんと閉まっているかをたしかめ、武丸は馬房を出て厩の裏、餌置き場のほうへまわった。武丸は厩のすぐ裏にある小屋で寝起きしているのだ。

 小屋に明かりが入ったのが見えてから、小夜はかさこそと隠れていた場所を出た。

 馬たちが馬房の中からひょっこり顔を出して小夜を見つめている。小夜は絶影の馬房に入りこみ、その足元でうずくまった。近づいてきた絶影の首を抱き、ふさふさしたたてがみの中に顔をうずめる。絶影は小さく鼻を鳴らしただけで抵抗せず、じっと小夜を受け入れてくれた。



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