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一章 厩ノ長 上

「犬にぃ! 犬にぃはいる?」

 なじみの厩にかけこむと、厩者たちが顔をくもらせた。

「小夜ちゃん。悪いけどな、長には会わないほうがいい」

「どうして?」

「ものすごく、ものすごくごきげんが悪いんだ。今日も小梅さんに手をあげたし。なぁ?」

「小梅さんを殴った?」

 厩者たちはばつの悪そうにそっぽを向いて、それぞれ竹ぼうきを手にしたり、飼い葉おけを洗う作業に戻っていく。小夜は何がなんだかわからず首をかしげた。

 そんな小夜を、馬房から思いっきり首を伸ばした馬の一頭がつっついた。昨日村で会ったばかりの馬、奔翔だ。その隣は騰霧。鹿毛の奔翔は全身が赤茶色で、たてがみが真っ黒な馬。栗毛の騰霧は全身栗色の馬だった。

「昨日はごくろうさま、二頭とも。とってもかっこよかったよ」

 二頭はぴくんとうれしそうに耳をたてると、小夜の手を舌でなめまわしたり、鼻をちかづけて息のにおいをかごうとしたりした。

 ぶるる、とほかの馬が不満そうに鼻を鳴らす。小夜はにこにこしながらそちらを振り返り、真っ黒な馬のひたいをなでてやった。小夜の一番の友達、絶影青毛だ。

「ごめん、嫉妬した?」

 絶影は気持ちよさそうに目を細め、してやったり、とばかりに奔翔と騰霧を横目で眺めた。小夜は苦笑して手を止め、その横の真っ白な翻羽葦毛をなでてやる。この厩には、すばらしい名馬が五頭もいた。残る喩輝河原毛、黄土の毛並みに黒いたてがみの馬をなで、それからやっぱり大好きな絶影の前に戻った。

 小夜が七歳のときだったろうか。このあたりを治める大名さまに、村で織った絹を父のおつきで納めに行ったことがある。小夜の父は病で亡くなっているのだが、このときはまだ健在だった。首尾よく絹を納めた後、小夜の父と、当時仲のよかった門番がついつい話しこんでしまった。いつまでたっても話が終わる気配がない。ほったらかしにされ、ひまでひまでしようがなかった小夜は、今から思えば無礼にもほどがあるが、大名さまの庭を散歩してみようという気になったのだ。

 だが、小夜はやっぱりひとりで知らない場所を散歩するには幼すぎた。帰り道がわからなくなり、とほうにくれていた小夜が迷いこんだのが厩。小夜を助けてくれたのが厩ノ長である犬にぃこと犬野武丸と、その妹、小梅だった。以来、十四歳になる今まで小夜はこの厩に出入りしている。この厩で育ったといっても過言ではないほどだ。

「仕事は終わったか」

 ざっ、と厩者たちが声の主をかえりみた。

 厩ノ長、武丸。どんな人間でも馬でも相手にするたくましい腕、馬に乗るには適さないが、筋肉質でがっしりとした体つき。獣にたとえれば、ごうごうとおそろしい吠え声をあげる山犬といったところか。が、そのわりに太い眉の下にある目はやさしく頼りがいのある光がやどっている。

 だが、それは普段の話だ。今はその武丸の目にひどく暗い、行きどころのない怒りのようなものが誰の目にもわかるほど、くっきりと浮かびあがっていた。

「来ていたのか、小夜」

 武丸の声が鋭く、けわしくなる。厩者にたいしては珍しいことではないが、小夜や妹の小梅に対しては馬に関するイタズラでもしない限り、武丸は決してこんなおそろしい声を出さなかった。

「小梅さんを殴ったんですって? ひどいじゃないの!」

 それでも小夜はひるまず小梅のことを抗議したが、武丸は悪びれるどころか逆に目つきを鋭くし、ぐっとこぶしを作った。

「小夜、お前にやってもらうことがある」

 武丸が手に持ったムチを鋭く鳴らす。さすがに恐怖を感じ身をすくめた小夜に、武丸はムチを投げつけた。びっくりして目を見ひらいた小夜のすぐわきに、ムチは砂利をけたてて転がった。

「このムチで、馬を一頭ずつ、三回殴ってからすぐに帰れ。もう二度とここへ来るな」

「犬にぃ、そんな。私、何かした? 悪いことをしたなら、あやまる。なにをしたの、私?」

「お前はなにもやってない。だが、わかったか。すぐにやるんだ。はやくやらないと夜が来るぞ」

「長!」

 さすがに止めに入った厩者のひとりに武丸は「お前は黙れ!」と怒鳴り、その厩者が後ろへ倒れこむほどの勢いで頬を張りたおした。

「小夜を止めた者はムチ打ち五回。やさしい声をかける者も同じだ。小夜はそこにいないと思ってふるまえ。わかったな!」

 武丸が小夜につめより、恐怖のあまり白く骨ばってしまった指にムチをにぎらせる。

「馬を思いきり殴って、知っている限りの言葉でののしってやれ。蹴ろうが噛もうがかまうんじゃない。やつらは馬房の中だ。鼻面をなぐってやればおとなしくなる。わかったな。すぐにやるんだぞ」

 小夜は歯をガチガチいわせながらムチを胸にかかえこんだ。

「やれ。早く!」

 激しい声に、小夜は歯を食いしばって武丸にムチを叩きつけた。

「犬にぃのばかっ! ばかばかばかっ!」

 きびすを返し、小夜は泣きながら駆け出した。


     *


(犬にぃのばか。もっとムチでなぐってやればよかった)

 誰よりも馬が好きだったのに。寄ってきたアブをはたくときですら、馬の背中で殺すのを嫌ったほど馬を大事にしていた武丸なのに。

 小夜は泣きじゃくりながら走っていた。小夜の村までは遠くない。七歳の小夜でもひとりで通えた距離だ。道は馬が走りやすいよう整えられた一本道。大名のお屋敷からは小夜の村の火の見やぐらが、村からは大名のお屋敷の中にある高い塔がずっと見えていたから迷いようもなかったのだ。

(犬にぃ、どうして)

 なぜ、急に。小夜がよっぽど悪いことをしたにしても、記憶にない。そんな、あれほど武丸が怒ることなら、まちがいなく覚えているだろうに。

 桑園を走りぬけて畑をずんずん横切り、小夜は自分の家に入って布団につっぷし、声をあげて泣いた。畑仕事をしていた近所のばあさん連中が心配して何人も来るほど、大声で泣いた。

 誰かがそっと部屋に入ってきて、小夜をなぐさめてくれるだろうと思った。けれど、誰ひとりとして、戸口のところで悲しげに見守っているだけで、小夜のそばへは来てくれなかった。

 そしてとうとう、桑園から母が呼びだされたのだろう。ご迷惑をおかけしまして、と聞きなれた声がしたが、母は小夜のそばへは来ず、ごくごく普通に夕飯のしたくをはじめてしまった。それをさかいに、戸口のところに立っていた人々が、ひとり、またひとりと、帰っていってしまう。

「大名さまの厩へ行ってきたんだろう」

 母が口をひらいたのは、お粥からあたたかい湯気と香りがたちのぼってからだった。

「犬、にぃ、が、ね。ひどかった、の」

 しゃくりあげながら訴えると、母は粥をよそっていつも小夜の座るムシロの前に置いた。馬のことに夢中になって厩で日暮れをむかえてしまったとき、武丸はよく小夜を家まで送ってくれたのだ。だから母は武丸の顔も人柄もよく知っている。もっとも、母はなぜか武丸を毛嫌いしていて、そのつど鬼でも見るかのような目つきで武丸をにらんでいたのだが。

「わかっているよ」

 母の返事は淡々とすらしていた。

「小夜、これから、絶対に大名さまの厩へ行ってはいけない。軍馬の厩はいいけれど、犬野さまの神馬の厩へは、絶対に行かないでちょうだい」

「どう、して」

 小夜はしゃくりあげた。

 大名さまのお屋敷の中には、軍馬と神馬、ふたつの厩がある。どう違うのかと武丸に聞いてみれば、軍馬は戦のときに武士が乗る馬で、神馬は山の神様のための馬だと答えが返ってきた。偉い人たちを背中に乗せて、大名さまのお屋敷の北側にある聖なるお山の頂上まで運ぶ役目をするんだよ、と。

「犬野さまは、正しいことをしたのよ」

 嫌っているはずの武丸を「犬野さま」とわざわざ敬称をつけて呼ぶのに違和感をおぼえ、妙に悲しくなって、小夜はしゃくりあげを繰り返す。

「馬を、ムチでたた、く、ことが、正しいの?」

 母は味方になってくれると思った。そもそも武丸のふるまいは最初から理不尽だったのだ。小夜がこんなにいじめられる理由など、どこにもない。それなのに、普段は武丸を嫌っている母が今日に限って武丸の肩を持つ。

「それは、きっと違うわね。でも、あなたが厩へ行かないことは、正しいことなの」

 小夜の母は粥をよそった木椀をそっと包みこんだ。だが、口をつける気はなさそうだ。

 小夜は布団を頭からかぶった。これはきっと、ひどい夢だ。はやく覚めてしまえばいい。きっと目が覚めたら武丸はいつもの通りやさしくなっていて、妹の小梅や厩者たちと、いつも通りに笑っているはずだ。

 しばらくして、母がふたつの木椀によそわれた粥を鍋に戻す音がした。

「どうして、どうして神馬と関わりなんて持ってしまったの。こんなことになるなら孝太郎が小夜を連れてお屋敷に行くなんて、絶対に許さなかったのに。この日が来るなんてこと、ちょっと考えをめぐらせば、すぐにわかったのに……」

 孝太郎とは小夜の父の名だ。どういうことかと母に尋ねたくなったが、もう口をききたくないという気持ちが勝って、小夜は布団をひっかぶったまま目を閉じる。

 ぎぃ、と、機織りが鳴る。夜になってから母が機を織るのは珍しかった。機の音を聞きながら、ただひたすら寝ようと思って身を縮めているうち、機織りの音は母のひとつだけではないことに気がついた。周りのいくつもの家で、そうやって機を織る音がする。

 貴重な油で火をともし、夜通しで機織を動かして、白い上等の絹を織ってゆく音だった。



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