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七章 山の神、あらわる 中

     *


 小夜と絶影はもう、山にゆったりとぐろをまく龍のうろこの一枚だった。山の神を木陰や木のうろからひっそりとおがむ獣たち、米つぶほどの小さな虫さえ小夜には見わけられた。目が鷹のように鋭くなり、しかも馬のように広く見わたせるように変わったのだ。耳は風のうなる音から獣たちの声、はては村々の雨への賛歌にいたるまで、何であろうとはっきりと聞けるようになった。口を開けば馬とまったく同じのいななきが出せる。小夜がいななくと、鞍の下で絶影もこたえていなないた。無数のいななきがあちらこちらから返ってくる。

「いって、しまった」

 はるか下でぼうぜんとつぶやく小梅の声が聞こえた。ずっと絶え間なく続く嗚咽は武丸のものだ。武丸が泣いている。小夜も絶影もこんなに幸せなのに、武丸も、小梅も、母も、村のみんなも、暗い嘆きの目でこちらを見あげている。

 ふいに、この場に似つかわしくないかぼそい、くぐもった鳴き声が聞こえだした。みぃ、みぃ……。猫の子でも鳴いているかのような。

 狸が騰霧の背を降り、ほこらの中へ入っていった。さほど時間をおかず、小さな生き物を腕に抱いて戻ってくる。耳も立たず、目も開かない獣の子。

「子ダヌキ?」

 つぶやいた萩野の声がふいに驚きの声へと転じた。子ダヌキのかぼそい鳴き声が、人間の赤ん坊の、世界が今にも終わるのではないかと思うほど激しい泣きかたに変わったのだ。

「次の、『狸』じゃ」

「どういうことです」

 狸がただ一枚落ちていた絹布に赤ん坊をくるみこむ。翔次郎が鞍上からそれをのぞきこんだ。

「我々コックリは人にあらず。狐田どのも、犬野どのも、こうして生れ落ちたのじゃ。だから、我々にはヘソがない」

「まさか」

「まともな生まれ方をして、ヘソがないなどありえぬではないか」

 狸が含み笑った。

 武丸を乗せていた喩輝が前触れもなくさおだったかと思うと、武丸を振り落とし、全速力でどこかへ駆け出した。振り落とされた武丸は、体勢を崩さず地面に足をついている。危なげなく、すとんと。前もって予期していたかのように。

「うたがうならば、吠えてみるがよかろう。山犬のごとく……どうじゃ!」

 山犬の遠吠えが空を揺るがす。小梅がかんだかい悲鳴をあげた。

 黒から琥珀色へ変わってゆく瞳、伸びてゆく鼻づら。手を地面につけば、みっしりと毛がはえ指がちぢむ。耳がのび、牙がはえ、あごががっちりと変わり、太く長い尾がはえた。

「武丸ッ!」

 武丸、いや武丸だったモノは翔次郎に向けて跳ねあがったかと思うと、ぐわっと牙をむき出した。奔翔の首に噛みつこうとする。奔翔が悲鳴をあげて棹立ち、前足でそれを蹴りつけた。翔次郎は刀を抜くこともできず呆然とそれを見つめている。

「これが、こやつの本性だ。我らは人にあらず。こやつだけでなく、わしも、そなたもな。我々は山の神の眷属、文字通りの狐、狗、狸が変化した姿じゃ」

 鋼色の山犬が宙をにらんだ。敵意を含んだ視線で山の神の頭部を見すえる。次の瞬間には、山犬の足は地を踏んでいなかった。

 だん、と地を蹴り空へ舞い上がる。小夜の周りの透明な獣たちがざわめき、その背が、翼が、たてがみが、さざなみのようにきらめいた。

「犬にぃ!」

 山犬はすさまじい速さで小夜らに迫り、透明な獣たちに襲いかかる。小夜はて全力疾走する獣の群れの流れに逆らい、絶影の鞍上から手を伸ばした。山犬に姿を変え、天を駆けてまで小夜を迎えに来てくれた……。

 だが、その顔つきを見て小夜は息を呑んだ。あまりにも獰猛なあごと牙。らんらんと輝く黄金の瞳は憎悪と敵意にあふれていて。

 胸の奥から寒気が巻き起こった。

――狗よ!

 閃光と共に数千のドラと大太鼓を打ち鳴らす音がとどろいた。小夜は知るよしもなかったが、数十年に一度、山の神が激怒したときだけに落とすといわれる雷の音だ。地上では桑の実村の村人たちが神威に打たれ、土砂降りの中、泥の中にひれ伏した。

――我が眷属でありながら、なにゆえ我に牙を向けるか!

 ぐぅん、と雷をいっぱいに溜めこんだ龍の頭が迫ってくる。立て続けに雷が落ち、空気を、小夜の鼓膜を、山じゅうを激しく揺さぶった。だが、山犬がおそれるそぶりは微塵もない。ぐわっと口を開き、咆哮で応えた。その視線の先には山の神の一部となった小夜もいる。山犬は小夜にさえ憎悪を向けていた。

 涙がこぼれた。もう武丸は、完全に獣だ。小夜の知っている武丸ではない。

 小夜は絶影の手綱を引いた。力の限り引いて、空中で強引に絶影を止めた。天を駆けていた楽しい気持ちはきれいさっぱり消えている。天災も罰も頭にない。恐怖も畏怖もはね飛ばしていた。

「天へは昇りません!」

 最後に残ったのは、本当の気持ちだ。心から叫びたかった気持ち。小夜は真正面から龍神と向かい合った。

――行かぬというか。

 雷の音に混じった低い低いうなり声。かげろうのような獣たちが形作る山の神。はがれ落ちたうろこの一枚、小夜を囲み、とぐろを巻く巨大な龍。

――汝が天女となるのは宿世に導かれた幸運ぞ。不死の身を捨て、仙力を捨て、ともに天翔ける喜びを捨ててまで、地上にとどまるというか。

「こんな犬にぃを残して行けるはずがない。天へは昇りません。犬にぃを元の姿に戻して。私を地上に帰してください」

――歯向かうものは罰する。狗を赦すわけにはいかぬのだ。

 ぐるぐると龍の喉が鳴った。思わず鳥肌の立つ不穏な音。

――罪業が汝を引くならば連れてゆけぬ。ならば、そちらの娘よ、我らと共に来るがよい。

 龍の視線の先にいるのは青ざめた小梅。その前に翔次郎が立ちはだかった。

「小梅を行かせはせぬ。どうしてもというならば、わたしも妖狐となってそなたを噛もうぞ!」

 翔次郎は気づいているのかいないのか。その体に巨大な狐の尾がはえて翻羽ごと小梅を包みこんだ。小梅がおそるおそるその尾に触れる。

「やむをえん」

 狸が立ちはだかったのは桑の実村の娘たちの前。小梅がだめなら、と山の神が言い出すのをおそれたのだ。

「ここまで来れば後には引けぬわ。わしとて好きこのんで娘らを行かせたわけではない!」

 山の神の喉から発せられる雷鳴が次第に強くなっていく。ぴりぴりと空気が帯電し、小夜の髪が、絶影のたてがみが逆立った。

――狐、狸。ぬしらも我に歯向かうか!

 雷鳴! 地響き!

 閃光は天をつらぬき、地をつらぬく。地面が揺らぎ始め、数瞬のうちに激しい地震へと変じた。村人たちがあわててひれ伏し、許しをこいねがったが、地鳴りはやまない。地表が裂け、山に落ちた雷が木々を焼く。

 山犬が激しくうなり、牙をむいて龍神に飛びかかった。龍神もぐわっと大口を開け迎え撃つ。

「犬にぃ、やめて! かなう相手じゃない!」

 叫んでも小夜の声は山犬に届かない。龍神の巨大な尾がしなり、雷がたてつづけに落ちた。今のところ雷が落ちるのは山の中だけだ。だが、これが山の外、村や大名さまのお屋敷までおよんだら。

 雷鳴! 雷鳴! 雷鳴!

 山犬が雷を避け、小夜に向かって駆けてくる。龍神を説得するのは無理、となれば山犬をなんとかするしかない。

「絶影、お願い。私に任せて」

 おそれのあまり耳をぴったり後ろにつけていた絶影がひょこんと小夜に耳を向けた。脚を入れる。山犬に向けて宙を突っ走った。

 武丸なら、これが本当に武丸なら、小夜と絶影を襲うことは絶対にしないはずだ。心まで山犬になりきっているならあきらめよう。そんな犬にぃ、見たくない。

「犬にぃ! いきなり馬をムチで殴れの後は、しんみりして、一人でいらいらして。その次はだんまりで、今度は山犬に変身するの? いいかげんにしてよ!」

 思いっきり山犬の頬に平手打ち。牙をむいていた山犬がぎょっとしたようにうなるのをやめた。激怒するかと思いきや、山犬はそのままぽかんと小夜を見つめるだけ。その目に覚えがあった。小梅に平手打ちを食らったときとまったく同じ目つきなのだ。

 犬にぃ。

 叫ぼうとした瞬間、特大級の雷が小夜と絶影、山犬に襲いかかった。山犬がだん、と絶影の背を蹴って垂直に飛躍する。雷が龍に見えたのか、それとも小夜を守ろうとしたのか。牙をむき、激しくうなりながら。

「そして次は死んじゃうの? もういや。大嫌い! 大っ嫌いなんだから!」

 雷で視界が真っ白になった、そのとき。

――ひぃいいいぃん!

 絶影がいなないた。

――ひぃいいいぃん!

 無数のいななきが返ってくる。それとともに、山犬に当たる寸前で雷が宙に消えうせた……。

――龍神よ、鎮まりたまえ――

 龍のとぐろが眼前に迫っていた。そのとぐろの中でおよぐ白い羽衣、黒と白の馬。羽衣を手にした天女たち、小夜の遠い祖母たちが小夜と絶影、そして山犬を囲んでいる。

 龍の頭が、その鉤爪のついた四肢がゆらぎ、溶け、四散していく。その頭を形作っていたうろこ、天女たち天馬たちがその場を自ら離れたのだ。溶けてただ帯のように長く長く、頭も腕もなく長く伸びて、つむじ風のように小夜らを囲むその姿は。

――我が母も泣いた

  我が父も泣いた

  その嘆きを知らぬ我らと思うてか

  共に天かけるよろこびも

  その悲嘆の前には消え失せよう――

 天女たちが舞っている。神馬たちとまさしく人馬一体になって、獣たちの吟じる歌にあわせ、鳥のように蝶のように天上の舞を舞っているのだ。

 ゆぅらり、ゆうぅらら、ゆぅぁらり……。雷鳴が遠ざかり、地震がゆっくりと鎮まってゆく。怒り狂った竜神はいまや巫女たちの形作るとぐろを巻いた帯、つむじ風へと姿を変えている。雷鳴は風に。ただ紫の雲を呼ぶ風となって。

――子等よ、我らが一族よ

  龍神は災禍を抑えぬ

  だが、我らがその怒りを鎮めよう

  龍神の怒りを封じ、天にとどめよう

  しかるば旱ばつも、豪雨も

  この地を襲う災禍の全てをその手で治めよ――

 天女たちが羽衣に手をかけた。次の瞬間、羽衣が、もとは狸が一人で運んでこられる量だったにもかかわらず、視界の全てを覆いつくさんばかりの羽衣が天女たちの手を離れ、天から地へ純白の大瀑布をつくった。

 舞のあまりの美しさに心をうばわれ、思わず一緒に行こうとした小夜の肩を天女の一人が押さえた。葦毛馬の鞍上から小夜を抱きしめる。透き通った姿をしているのに、目元がぬれているのがはっきりわかった。

「菊野姫。叔母さま……」

 抱擁をとかれた瞬間、すとんと体が重くなった。菊野姫の手にはつい今まで小夜の肩にあった羽衣がある。それも一瞬のことで、羽衣はすぐに糸くずと化して消えてしまった。

 菊野姫は馬腹を蹴り、人と馬とは思えないほどの軽やかさで天へ駆けあがってゆく。小夜は思わず天女の行方を目で追った。

――帰るがよい、そなたの生まれ育った家へ

  帰るがよい、愛するもののいる土地へ

  そして願わくば――

 舞い落ちてくる無数の絹布に視界を覆いつくされ、上も下もわからなくなって目がくらんだ拍子に、体がぐらりと傾いた。

――我らを想い、舞い歌え!――

 絶影が細い、笛の音に似た悲鳴をあげる。天女の力を失い、重力にとらわれてしまった小夜は、絶影と武丸もろとも中空からまっさかさまに落ちていった……。



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