感情が味で分かる令嬢は、偽りの愛を見抜きます~婚約者は腐った生ゴミ味、冷酷な第二王子は極上の味でした~
「シャルロッテ嬢、君は今日も美しいね」
「あ、ありがとうございます……」
「そのきらめく銀色の髪は、月光に照らされた女神像のような神聖さを感じさせるよ」
「お、お上手ですこと……」
婚約者の愛の囁き。
二人きりの甘い空間。
本来ならば胸がときめく時間だが、シャルロッテ侯爵令嬢にとっては拷問と言っていいほどの苦行の時間だった。
そんなシャルロッテの心の中など知らない婚約者のエドゥアルト第一王子は、彼女の艶のある髪の束を取って優しく口づけをする。
「僕はいつでも君のことを想っているよ」
「そんな……。わたくしには勿体ないお言葉ですわ」
シャルロッテは、ほんのり上気した顔を少し俯かせる。
「ははは。そんなに照れないで? 君は僕の大切な婚約者だからね」
「……」
シャルロッテの端正な顔が、ますます赤く色付いた。その様子は、愛しの婚約者の愛の囁きにはにかんでいる令嬢そのものだったが……。
(も、もう限界……。息が……!)
「おや」
その時、エドゥアルトが柱時計の針を見て、少し目を見開いた。
「もうこんな時間だね。僕は生徒会の仕事があるから、もう少し学園に残るよ」
「承知いたしました。では、わたくしは王宮にてお妃教育がございますので、お先に失礼いたしますわ」
シャルロッテは上品な笑顔で婚約者を見送る。
エドゥアルトは少しも名残惜しそうな素振りを見せず、早足で校舎の中へと戻って行った。
すっかり彼の姿が見えなくなると、
「っぷはああぁぁぁ〜〜〜〜〜っっ!!」
シャルロッテは大きく息を吸って、ずっと止めていた呼吸を再開した。
「今日の殿下の味も、ゲロマズでしたわぁ〜〜……」
◆
シャルロッテ侯爵令嬢は、誰にも言えない特殊能力を持っていた。
それは、会話をしている相手の本当の感情が、味となって舌の上に広がる能力だ。
彼女に好意を持っている者の味はとびきり美味しく、逆に嫌悪を抱いている者の味は非常に不味かった。
例えば、冷淡な態度の者の言葉が甘い綿菓子のようであったり、笑顔で優しい言葉を放つ者が痺れるほどに苦かったり。
舌をつたう味は、相手の隠している感情を正確に表現していたのだった。
なので、相手が本音を隠していても、彼女には全てお見通しだ。
婚約者のエドゥアルト第一王子は、生ゴミを数日間生暖かい場所で放置して腐敗が進んで虫もわいて、腐った魚や発酵した動物の死骸や、何年も風呂に入っていない浮浪者の体臭やドブの匂いが混じったような……とにかく筆舌に尽くしがたい味だった。
即ち、超超超超超ゲロマズである。
その答えが示すものは、エドゥアルトがシャルロッテのことを心の底から嫌っている……という証左だった。
彼女としても、自分を嫌う者と一生を添い遂げるのは塗炭の苦しみである。
なぜなら、死ぬまでくっっっそゲロッマズッッ!!な味を摂取し続けなければいけないからだ。
(そんなの、あんまりですわ……)
シャルロッテの肺の中に新鮮な空気が満たされて、彼女はやっと落ち着きを取り戻した。
これまで何も意識してこなかった大気という見えない存在が、今ではとても愛おしく感じる。
貴族子女の義務である学園に通っている今、彼女は毎日エドゥアルトと顔を合わせていた。
婚約者なのだから、当然いくらかの会話もかわす。その度に悶絶するような地獄の苦しみを味わって、婚姻後はこの苦痛がもっと増えるのだろうかと考えると、絶望した気分になるのだった。
◆
二人は完全なる政略結婚だ。
余程のことがない限り、王太子妃になる未来は避けられない。
シャルロッテは高位貴族なので、国や家門のためにも愛のない結婚を受け入れるつもりだった。それは高貴なる者の義務だと考えている。
だが、あの壮絶な生ゴミ以下の味は耐えられない。
高級料理の味は叶わなくともせめてカチカチの黒パンくらいの味になればと、シャルロッテはエドゥアルトとの距離を縮めようと頑張ったが、腐った味は全く変化しなかった。
どうやら、エドゥアルトは途轍もなくシャルロッテのことが嫌いらしく、その感情が覆るとこはなさそうだ。
もうお手上げ状態の彼女は、その『余程のこと』を探すことにしたのだ。
お誂え向きにも、エドゥアルトはローゼ男爵令嬢という秘密の恋人がいた。婚約者は不貞をおこなっていたのである。
ここを攻めればなんとか婚約解消に持っていけないかと考えたが、必ず後継が必要な王族は第二第三の夫人を娶ることが許されている。
抜け目のない彼は、きっとシャルロッテとの婚姻後に不妊やら何らかの理由をつけて、男爵令嬢を側妃として迎え入れることだろう。
(だったら、最初から男爵令嬢と結婚すればいいのに……)
そんな風に今日も悩んでいたら、近くから聞き覚えのある声が聞こえてきた。もうあの声を聞くだけで地獄の味の記憶が蘇って、彼女は思わず柱の陰に隠れた。
シャルロッテの前を、弾んだ男女の声が通り過ぎていく。
視線で追うと、王太子とその取り巻き、そして男爵令嬢が楽しそうにお喋りしながら歩いていた。
「あ……」
不意に、エドゥアルトがローゼの名前を呼んだ。
同時に、爽やかなミントチョコの味が微かにシャルロッテの舌に乗った。それはもう、愛情のこもった極上の味で。
「……」
シャルロッテは、物欲しげな様子で彼らを見送る。
正直、彼女自身も婚約者を愛する気持ちは全くないのだが、あんな風に毎日美味しい味を貰えると思うと羨ましかった。
「無様だな」
「っ……!」
その時。
シャルロッテの頭上から、ポツリと低い声が落ちた。
一瞬、甘い飴が振ってきた気がして弾けるように顔を上げると、そこにはアルトゥール第二王子が立っていたのだ。
彼はエドゥアルトの腹違いの弟で、さらに兄とは同い年だった。
国王が気まぐれに手を出したメイドの子で、正妃の怒りを買い生まれた頃より凄まじい冷遇を受けていた。
幼い頃から暗殺未遂も多く、そのせいか本人もすっかり冷淡で周囲から恐れられる存在になっていた。
シャルロッテも彼とはほとんど面識がなかった。お妃教育などで王宮に赴いた際に、遠目で見かける程度だ。
彼女としては未来の義弟なのだからもっと親しくなりたかったが、王妃や第二王子本人によって徹底的に避けられていたのだった。
(わたくしは兄弟どちらからも嫌われてしまったわ……。この先やっていけるのかしら……)
アルトゥールの鋭い視線が彼女に注がれる。
幼い頃は天使のように可愛らしかった造形も、今では精悍な顔立ちになっていた。
彼の決して笑顔を見せず誰も寄せ付けないクールな姿が、密かに令嬢たちからの人気を集めていた。
「ご機嫌よう、第二王子殿下」
沈黙の圧に耐えきれず、シャルロッテはカーテシーをする。
アルトゥールは沈黙を貫き、彼女の様子を少しの間しげしげと見つめてから口を開いた。
「実に無様だ」
彼は不快そうなしかめっ面で一言だけ呟いて、静かに去って行っていく。
「えっ……?」
次の瞬間、シャルロッテは信じられないといった顔で大きく目を見張り身体を硬直させた。
(なに……この味……!?)
アルトゥールのたった一言だけの冷ややかな声音は、彼女がこれまで体験したことのない極上の味をもたらせたのだ。
それは滑らかな舌触りで、香ばしさが鼻孔をくすぐり、濃厚なチョコレートの味が口の中をこれでもかと言うくらいに撫で回していた。
「美味しい……美味しすぎますわぁっ!!」
シャルロッテの口腔内には、いつまでも甘美な味が残っていた。
◆
「シャルロッテ嬢、今宵は本当に美しい。君はここにいる誰よりも輝いているよ」
「あ、ありがとうございます……」
今日は王宮主催のパーティーが執り行われていた。
当然、シャルロッテは婚約者であるエドゥアルトからエスコートを受けて会場入りしたのだが……。
(今夜も超ゲロマズですわーっ!!)
彼女の口の中は限界に近かった。
だが彼女は王太子の婚約者としてなんとか耐え抜き、挨拶回りをやってのけた。笑顔を崩さず、積極的に話題を振って、立派な未来の王太子妃として演じきった。
そして、悔しいことにエドゥアルトも少しも瑕疵のない王太子として振る舞っていた。
婚約者のエスコートもスマートにおこなって、シャルロッテは苦々しい思いで彼の隣にいたのだった。舌の上は苦いどころではなかったのだが。
挨拶周りも終わり、ダンスまでまだ時間があるので一度外で美しい空気を補給したいとシャルロッテが思っていると、エドゥアルトが急にソワソワしはじめたのに気付いた。
不可解に思い、彼の視線を追うと……。
「っ……!」
その先には、エドゥアルトの恋人のローゼ男爵令嬢が王太子の取り巻きと共に談笑している姿があった。
(下位貴族なのになぜ今日のパーティーに参加できているの?)
その理由を、シャルロッテはすぐに理解できた。
おそらく、王国でも屈指の高い身分の者が許可を出したのだろう。それは、己の隣に立っている人物に違いない。
(もう隠さなくなったのね……)
何よりも外聞を気にするエドゥアルトが、わざわざ場違いな恋人をここに呼び寄せるなど驚きだ。
彼は本格的に自分を排除するつもりなのだろうかとシャルロッテは首を傾げたが、その方がこちらとしても好都合だと静観することにした。
「エドゥアルト様。わたくし、少し疲れてしまいましたので、お庭で休憩してもよろしいでしょうか?」
シャルロッテが眉尻を下げて申し訳なさそうに言うと、
「あぁ、気付かずに悪かったね。貴族たちの相手は僕に任せてくれ」
エドゥアルトは爽やかな笑顔で彼女を送り出した。
表情に反比例して、味はゲロマズだった。
◆
エドゥアルトは頬を緩めて軽い足取りで取り巻きたちの元へ向かい、シャルロッテは一人とぼとぼと王宮の庭を歩いていた。
(男爵令嬢を迎え入れるつもりなら、早くわたくしを開放していただきたいですわ……)
深いため息が絶え間なく出てくる。
エドゥアルトは腐った生ゴミ以下を吐き出すほどにシャルロッテのことが嫌いなはずなのに、未だに手元に置いたままの理由がさっぱり分からなかった。
たしかに二人は政略結婚ではあるが、過去には他にも候補に上がった令嬢もいたのだ。
なにもこんなに過剰に嫌悪する令嬢より、少しは好意を持つ令嬢を選べばいいではないか。
「おい」
そのとき、棘のある声が頭上に落ちたと思ったら、甘くこうばしい味がふわりと漂った。
「アルトゥール殿下!」
我に返って正面に焦点を合わせると、アルトゥール第二王子がまたもや険しい視線を向けていた。
「ご、ご機嫌よう」
慌ててカーテシーをしようとしたが、彼は煩わしそうに手を挙げて制止させる。
「なぜ一人でここにいる? 兄上はどうした?」
「っ……!」
次の瞬間、またもや滑らかな甘味がシャルロッテの舌の上に広がり、大きく目を見開いた。
「聞いているのか?」
「ひゃ……ひゃいっ!」
剣呑な声音にシャルロッテはビクリと肩を竦ませる。硬質な声と同時に降り注ぐ甘美な味わいは、彼女の心をひどく揺さぶった。
(な……なんですの、この極上の味は……!? 美味しすぎますわぁっ!!)
これまでに味わったことのないほどの旨味に、シャルロッテの心は激しく高揚した。
それは王宮の料理人が提供する超一流の晩餐よりも絶品で、一口だけで天にも昇る心地になるのだ。
「お、おい! 大丈夫か?」
突如、プルプルと小刻みに身体を震わせながら俯いたシャルロッテに、アルトゥールは驚いて彼女の両肩を支えようとした。
だが間髪を容れずに彼女は彼の腕をがっしりと掴み、パッと勢いよく顔を上げる。
「おっ……」
シャルロッテはひどく物欲しそうな、それでいてはにかむような視線をアルトゥールに向ける。そこはかとなく色気の滲んだ表情に、思わず彼の脈が跳ねた。
「お……?」
彼はおそるおそる続きを尋ねる。
彼女は少しのあいだ躊躇する素振りを見せたが、欲望を抑えられずに口を開いた。
「おかわりを……くださいっ…………っつ!!」
「はぁっ!?」
普段の立派な侯爵令嬢にあるまじき意味不明な言動に、アルトゥールは目を白黒させた。
一拍置いてはっと我に返ったシャルロッテは、零れ落ちそうな涎を我慢して、表情を隠すように礼をした。
「しっ……失礼をばいたしましたわ。わたくし、第一王子殿下のもとへ戻ります」
「あ、あぁ……。お前、どこか体調でも――」
「はうわっ!」
アルトゥールが少しでも口を開く度に極上の美食の味わいがシャルロッテの舌に溶け込んで、彼女はもう頭がどうにかなりそうだった。
「ご機嫌ようっ!」
彼女は顔を真っ赤にさせて、生まれたての子鹿のような足取りで逃げるように去っていった。
「お、おい!」
アルトゥールが手を伸ばした時には、シャルロッテの姿はもうなかった。彼は不可解そうな顔で、彼女が去った道のりを見つめる。
◆
(ど、ど、どうしましょう!)
シャルロッテは速まる鼓動を抑えられなかった。
あんなにも甘美な味わいは生まれて初めてだったのだ。普段は婚約者によってゲロマズな生ゴミ以下の味を嫌というほど摂取している彼女にとって、全身を激しく震わすような衝撃的な味だった。
(美味しすぎますわ……!)
シャルロッテの顔が、どんどん熱くなる。アルトゥールの極上の味が今も鮮明に舌の上に残っていて、快楽で頭がふやけていきそうだ。
アルトゥールと顔を合わせる時、彼は常に眉間に皺を寄せていてひどく不機嫌そうな顔でシャルロッテを睨みつけていた。
それは己が彼の天敵である王妃派閥にいるからだと思い込んでいたのだが……。
(あの味……。少なくとも、アルトゥール殿下はわたくしのことを嫌っているのでは、ない……のよね?)
シャルロッテの舌に伝わる味覚は、相手の愛情や敵意の度合いを表している。
いつも美味しい味の家族や乳母よりも、第二王子のほうが遥かに美味だった。
だから、きっと彼は自分のことを嫌いではないはずだ。
そう考えると、彼女の頬は自然と緩んだ。
王太子妃になったら、毎日が地獄のような苦しみだろう。だが、義弟にも頻繁に会えるはずだ。
エドゥアルトの味に耐えられなくなったら、口直しに彼のもとへ向かえばいいと思った。
◆
しかし、シャルロッテの描いていた未来は、儚くも崩れ去ろうとしていた。
「和睦の祝杯……ですか?」
婚約者のもとへ戻った彼女は、開口一番そう言われ、やや赤みがかった琥珀色の液体入ったグラスをエドゥアルトに渡されたのだ。
「そうだよ。僕たち兄弟がいつまでも不仲だったら、政治の不穏に繋がるからね。王太子妃を娶る前に、兄弟の親密を貴族たちに示しておかなければ」
エドゥアルトはアピールするように笑顔で深く頷いてから、再び話を続ける。
「パートナーが王宮へ来る頃には、安心させておきたいからね」
あくまでも微笑みを崩さない婚約者だが、シャルロッテの舌はビリリと痺れて、背筋にぞっと寒気が走った。
(これは……!? 嘘をついている味だわっ……!!)
忘れもしない、幼い頃から何度も味わっている味覚だった。
エドゥアルトは、事あるごとに嘘をついていた。
勉強の進捗がシャルロッテより先をいっているだとか。さっきまでローゼ男爵令嬢と密会していたのに、学友たちと一緒だったとか。
そんなときに彼女の舌の上をピリピリと這うあの感覚が、今まさに口腔内で繰り広げられていたのだった。
自然と表情が固くなっていく。婚約者に興味のない彼は、何かを期待するように彼女を見つめていた。
(どれが嘘なの……?)
シャルロッテはエドゥアルトのさっきの言葉を振り返ってみる。
彼は『王太子妃』や『パートナー』などの一般的な固有名詞と言っており、決してシャルロッテの名を口にしなかった。
なので、未来の王太子妃を守りたい気持ちはあるのだろう。
ローゼという名の王太子妃を。
と、なると――……。
「承知いたしましたわ、エドゥアルト様」
シャルロッテは笑顔で頷きながら、ワイングラスを受け取った。
その瞬間、微かに波打った液体からは、甘ったるい果実ような香りが広がった。
「こちらは、貴腐ワインでしょうか?」
「あぁ。弟が生まれた年にできたものを用意させたんだ」
「それだけの年月が熟成されていると、かなり濃厚なお味が楽しめそうですわね」
貴腐ワインは甘みが強く、複雑な香りも特徴だ。シャンデリアに照らされた琥珀色は、宝石のように美しかった。
「あぁ。きっと弟も喜ぶだろう」
その時、エドゥアルトは口元に弧を描いてニタリと笑ってみせた。すると、シャルロッテの白い肌が粟立った。
同時に、またぞろ口の中にピリピリと電撃が走る。
(やっぱり、そうなのね……)
琥珀色の液体の中には、何かが入っている。
お妃教育で聞いたことがある。無色透明で、微かに匂いと味の漂う――王家秘伝の、何かが。
◆
貴腐ワインを手にして会場に舞い戻ったシャルロッテは、すぐにはアルトゥールのもとへ行く気が起きなかった。意味もなく、会場内をうろついてしまう。
これから婚約者が何を行おうとしているのか手に取るように分かって、彼の凶悪さに震えと冷や汗が止まらなかった。
(わたくしもアルトゥール殿下も、破滅するしかないの……?)
右手にあるグラスの中の液体には、おぞましいものが入っている。
これまで学んだ知識を総動員させると、おそらく即効性のある毒薬だろう。
王族を害した罪は重い。
シャルロッテはその場で捕えられ、弁明の場を与えられぬまま処刑台へ送られるだろう。
そのまま第二王子が毒殺されれば、第一王子は王位継承の危機に怯える必要もなく、学園卒業後になんの障害もなく立太子だ。
仮にアルトゥールが生き残っても、毒薬の後遺症が残る可能性が高い。
そうなると、彼に玉座は荷が重い王位継承からは外されるし、第二王子を支持していた勢力も解散するだろう。
まさしく、エドゥアルトと恋人のローゼだけが得をする素晴らしい筋書きだ。
(わたくしは……これまで、なんのために……)
不意に涙がこぼれ落ちそうになったが、侯爵令嬢としての矜持が、感情の決壊を押し止めた。
「……」
少しして、俯きがちだった顔をパッと上げる。彼女の瞳には、諦念や絶望の文字は映っていなかった。
(今夜でもうエドゥアルト様との関係は終わったも同然ね。わたくしがどうなっても、何の罪のないアルトゥール殿下だけはお守りしなければ……!)
少ししか会話をしていなが、アルトゥールの言葉からは感動を覚えるような味しかしなかった。
これは、彼は自分に対して好感を持っている証拠だろう。
対して婚約者のエドゥアルトの味は、これまで出会った人物たちの中で、これ以上酷い味はないくらいの超絶ゲロマズ。
どちらを選択するかと問われたら、そんなの、もう決まっている。
◆
「アルトゥール殿下」
賑やかな会場で、シャルロッテはまるで内緒話をするかのように、アルトゥールの耳元で囁いた。
「どうした?」
「うっ……!」
僅かな一言でも美食の波が襲ってくるようでとろけそうになるが、彼女は歯を食いしばって話を続けた。
「こちらのワインは、エドゥアルト様からです」
「兄上から?」
アルトゥールの眉間が微かに動いた。
「はい。兄弟の和睦の印に、と。ですが……」
彼女は警戒するように周囲に視線を動かしてから、さらに声を落とした。
「中には毒薬が入っておりますわ」
「っ……!?」
アルトゥールの顔が強張る。しかしそれは一瞬だけで、彼はすぐに貴人らしいポーカーフェイスに戻った。周囲に悟られないように、自然な素振りで会話を続ける。
「最近、兄上の側近たちが何やら怪しい動きをしているとは聞いていたが……」
彼はすぐに兄の計画を理解した。
澄まし顔の下には、激しい怒りがみなぎっていく。
もとより、兄と王妃が己を害そうとしているのは分かっていた。現に、幼少の頃より度重なる暗殺未遂を経験していた。
彼らの悪意を跳ね除けるのはもう諦めていたし、もう何の感情も湧かなかった。
だが。
暗殺にシャルロッテを巻き込むのだけは、どうしても許せなかった。
自分の、憧れの令嬢を。
「……んか! アルトゥール殿下!」
シャルロッテの呼び声で、アルトゥールはハッと我に返る。見下ろすと、切羽詰まったような表情のシャルロッテが、彼を見つめていた。
「あぁ……。悪い」
「殿下が動揺なさるのは仕方のないことですわ。ですが、ご安心ください。わたくしに考えがありますの。殿下は絶対にワインを口にしないでくださいましね」
「待て、君が危険な目に遭うのでは――」
シャルロッテはアルトゥールが制止する間もなく、ワイングラスを握った右手を高く掲げて、朗々と声を張り上げた。
「紳士淑女の皆様ぁ〜っ! ご注目くださいませ〜っ!!」
にわかに、水を打ったように場内が静まり返った。第一王子の婚約者に相応しい、淑女の鑑と言われる侯爵令嬢の大音声に、貴族たちは驚きを隠せなかった。
「おいっ」
アルトゥールが小声でシャルロッテを咎めるが、彼女は行動を止めなかった。
「本日は素敵な催しがございますの! これから第一王子殿下と第二王子殿下が兄弟として和睦の杯をいたしますわぁ〜っ!」
少しの静寂のあと、会場内に割れんばかりの拍手が鳴り響いた。王位継承が原因で内乱が起こるのではないかと危惧する者も多かったのだ。
「シャルロッテ! 一体、どういうことだっ!?」
次の瞬間、腐敗した味の洪水がシャルロッテを襲った。
どろどろに腐った空気に目を向けると、エドゥアルトが目を吊り上げ顔を真っ赤にして彼女のもとへ近づいてきたのだ。
「あらぁ〜、主役がいらっしゃいましたわ〜。皆様、どうか盛大な拍手を!」
再び大きな拍手が沸き起こる。既にこの空間は、シャルロッテが支配していた。
「本日の和睦は、こちらのエドゥアルト第一王子殿下のご発案ですわ。殿下はこの日のために、アルトゥール第二王子殿下が生まれた年の貴腐ワインをご用意されたのです!」
「っ……!」
エドゥアルトの肩がビクリと震えた。
そして、みるみる顔が青白くなっていく。
シャルロッテはにこりと微笑むと、給仕に空のワイングラスを持ってくるよう命じた。
彼女はグラスを持った両手を顔の前に伸ばし、パフォーマンスをおこなうように空のグラスに半分移した。
「やはり同じワインを飲むことが重要ですわね」
シャルロッテは琥珀色の液体の輝くワイングラスを、第一王子と第二王子の眼前に差し出した。
「どうぞ?」
アルトゥールは、にこやかにグラスを受け取る。
一方、エドゥアルトは俯き加減で身体を小刻みに震わせていた。
「エドゥアルト様? どうなされたのですか?」
シャルロッテは大仰に首を傾げながら、婚約者の顔を覗き込んだ。
国の未来を明るく照らすめでたい場であるはずなのに、微動だにしない第一王子に貴族たちはざわつき始める。
「わたくし、エドゥアルト様の寛容な御心に感動したのです。不仲が噂されたお二人が、ついに手を取り合うなんて、なんて素晴らしいことでしょう! この国の未来も、きっと輝かしいものになりますわ」
「私も嬉しく思います、兄上。さぁ、共に祝杯をあげようではありませんか!」
シャルロッテの意図をすぐに理解したアルトゥールは、嬉しそうに声を弾ませてグラスを高く掲げた。
その瞬間、貴族たちは再び盛り上がり、わっと歓声を上げる。
「あ、あぁ……」
エドゥアルトはぎこちなく頷くが、頑なにグラスを受け取ろうとはしなかった。
「さぁ、どうぞ?」
痺れを切らしたシャルロッテが、強引にグラスをエドゥアルトの手の中に収めた。すると、自然と大きな拍手が起こる。
だが第一王子は、まるで蝋人形のように固まったままだった。
アルトゥールが一歩前に踏み出し、素知らぬ顔で再び乾杯の音頭を取ろうとする。
「私は、この日をどんなに待ちわびたことだろうか。兄上が王位を継承し、私が支え、共に国を発展させる。素晴らしいことだ!」
第二王子の事実上の王位継承辞退宣言に、貴族たちの興奮は最高潮に達した。波濤のような盛り上がりが、ホール中に響き渡る。
血筋は良いが、諸々問題のある第一王子。
血筋は悪いが、優秀な第二王子。
互いに欠けているものを補うことによって、国政は安泰するだろう……と。
「では、我々王族と、我が国の栄誉を願って……乾杯!!」
乾杯――と、貴族たちの声が重なった。
アルトゥールがグラスを口元に近づけ、シャルロッテがぎょっとして目を大きく見開いた次の瞬間。
――ガシャアァァァンッッ!!
エドゥアルトは手元のグラスを勢いよく床にぶつけて叩き割った。
大ホールは、しんと水を打ったように静まり返る。貴族たちの熱気は一気に下がり、冷ややかな視線が第一王子に注がれていた。
エドゥアルトは悔しそうに拳を握って、貴腐ワインで濡れた床を睨み付けている。その様子を見て、シャルロッテは深くため息を付いた。
失望と軽蔑。
彼女は、己の選択は間違えていなかったと確信した瞬間だった。
少しの沈黙のあと、シャルロッテは意を決したようにきりりと顔を引き締めて真正面を見た。
「実は、わたくしはエドゥアルト様から、こちらのワインをアルトゥール様だけに飲ませるように言われていたのです。……この中には、毒薬が入っておりますわ」
◆
侯爵令嬢の毒薬発言のあとは大騒ぎになった。
直ちにワインの中身が調査され、本物の毒薬と分かると第一王子は衛兵に捕らえられた。
速やかに証拠品も確保されて、男爵令嬢をはじめ第二王子毒殺未遂に関わった者たちは全員が罪を問われた。
全てが終わった今、学園卒業を待たずに王太子となったアルトゥールは、兄の元婚約者と王宮で茶会を開いていた。
「全部君のおかげだ、シャルロッテ嬢。本当にありがとう」
「お……恐れ入りますわ、殿下」
相変わらずアルトゥールの放つ言葉が暴力的なまでに極上の旨味を運んでくる。シャルロッテはふやけそうな表情をかろうじて押し止めていた。
アルトゥールは思案するように少し視線を彷徨わせてから、改めてシャルロッテを真正面から見つめた。
「その……一つ聞いていいか?」
「なんでしょう」
「君は兄上の婚約者だった。……だが、なぜ兄上ではなく私の味方をしてくれたんだ?」
「そっ……それは、その……」
言い淀む彼女に、彼の視線が純真なまでにまっすぐに貫いてくる。強い双眸に、彼女の脈がどきりと跳ねた。
「も……も、元・第一王子は、わたくしを犯人に仕立て上げようと……」
早口で言い訳を並べようとするが、アルトゥールの真摯な視線にシャルロッテの中にある何かが吹っ切れた。
すんと居住まいを正して、彼を見つめ返す。
「いえ……。あの、信じられないお話かもしれませんが、聞いてくださいますか?」
「もちろんだ」
「実は、わたくし、他人の感情が味覚として感じる異能を持っているのです……。それで、アルトゥール殿下の感情を読み取ってしまいまして……」
その瞬間、アルトゥールは目を見張って表情を凍らせた。
シャルロッテははにかむように頬を染めたあと、唇を引き結んで彼を見つめた。
「わたくしは、エドゥアルト様ではなく、アルトゥール殿下を信じようと思いましたわ」
「っ……!」
数拍の沈黙のあと、アルトゥールは手で赤い顔を覆いながらシャルロッテに尋ねた。
「……私の言葉の味は、どうなんだ?」
「それはもう、これまで味わったことのない究極の旨味でしたわ」
「……ちなみに、兄上は?」
「腐敗した生ゴミを煮詰めたような超超超超ゲロマズでしたわ」
「そうか…………っぷ、くくっ……」
アルトゥールは顔を伏せ、肩を揺らしていた。
「笑いごとではありません。わたくしにとっては、死活問題だったんですから」
仮にエドゥアルトと婚姻すると、毎日腐った食材を無理矢理口の中に突っ込まれる生活を送るはめになったのだと、シャルロッテは力説した。
アルトゥールはついに我慢できずに、はははっと声を出して笑った。
二人のあいだには、すっかり穏やかな空気が流れていた。
「では、シャルロッテ嬢は私の気持ちを既に知っているということだな」
「えっ……」
「ならば、話が早い。改めて私の君への想いを聞いてほしい」
「それは、その……」
シャルロッテの脈がどんどん速くなっていく。頭の隅で漠然と考えていたことが実際に現実に起こりそうで、にわかに顔の熱が上昇した。
アルトゥールは、シャルロッテの長い髪を優しく耳にかけながら囁く。
「私は、貴方のことを愛しています」
次の瞬間、シャルロッテはこれまで生きていて経験したことのない美食の大洪水に呑まれて倒れた。
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