2 行軍、あるいは美しき蹂躙
異世界の太陽は元の世界のそれよりも少しだけ青みがかって見えた。どこまでも続く草原。吹き抜ける風は瑞々しい草の香りを運んでくるが、俺の前を歩くアイリスから放たれる空気は北極圏の吹雪よりも冷たかった。
「なあ、アイリス。さっきからずっと三歩後ろを歩いてるんだけど、しばらく前から全力で刺さる視線が痛いんだ。せめて殺気だけでも収めてくれないかな?」
いや、違う。そもそも初対面の俺に背後を歩かせるのがおかしいのだ。アイリスはなにかしらの方法で前を歩いているように見せて俺の背後にいる。
「返事くらいはしてくれよ?」
俺が振り返らずに言うと背後から鈴を転がすような、けれど毒のたっぷり染み込んだ声が返ってきた。
「あら、気付いてしまいましたか? あなたの鈍重な神経系でも死の予感だけは察知できるのですね。感心しました。ミミズが震動を感知して地表に出てくるのと同じくらいには生物としての本能が残っているようですね」
「例えが酷いな……さっきからなにを見てるんだよ?」
「貴方の歩き方です。右足と左足が交互に出るという、あまりにも原始的で退屈な運動。それを眺め続ける苦行を強いられている私の精神的苦痛を想像したことがありますか? 貴方の歩行は真っ白なキャンバスに泥を塗りたくっていく作業に等しい」
「歩くだけでそんなに言われるのかよ?」
俺は溜め息を吐いた。
アイリスは見えないレッドカーペットの上を歩いているかのように優雅だ。草原の凸凹など存在しないかのように、その足取りは滑らかで、純白の鎧は一点の曇りもなく輝いている。
対して俺は支給品の安っぽい靴で必死に歩を進めるエラー物質だ。
「それで、アイリス。この先に街があるって言ってたけど、あとどれくらいかかるんだ?」
「私の歩速なら――あと数分で到着していたでしょう。ですが貴方の重力に逆らうのが精一杯といった風情の足取りに合わせているせいで、到着予定時刻は絶望的に遅延しています。貴方が吐き出す二酸化炭素の分だけ、地球温暖化が進まないか心配でなりません。あ、この世界に地球はありませんでしたね。失礼しました」
「アイリスってさ、俺のことが嫌いなのか――それとも全人類が嫌いなのかどっちなんだ?」
ふと気になって尋ねるとアイリスは足を止め俺の顔を正面から見据えた。透き通るような紅の瞳。その美しさに一瞬見惚れそうになるが、直後に放たれた言葉は、期待を裏切らない鋭利な刃物だった。
「勘違いしないでください。私が嫌っているのは不純物です。そして今の私の視界において、貴方以上に純度の高い不純物は存在しません。もし貴方が今すぐその場で分子レベルまで分解されて消滅してくれるなら、私はこの世界をもう少しだけ愛せるようになるでしょう」
「なるほど……つまり俺がそれだけ特別な存在だってことだな。光栄だよ」
俺が無理やりポジティブに解釈して微笑むと、アイリスは心底不快そうに顔を歪めた。
「その……腐った沼の底から湧き上がる気泡のようなポジティブさ。それこそが貴方の最も醜悪な点です。私の言葉を都合よく翻訳するその図々しさは歴史的に見ても一種の才能ですね。その才能を少しは戦闘に活かしてはいかがですか?」
「いや、俺は運に全振りしたからね。戦うのは君の仕事だ。俺は君の美技を特等席で眺める代表として精一杯応援させてもらうよ」
「ふふ、面白い冗談ですね。もし次の戦闘で貴方が情けない声を上げたら、その口を永遠に縫い合わせて差し上げますわ」
アイリスは冷たく言い放ち再び歩き出した。
次の瞬間。
街道の先、丘の向こうから地響きのような音が聞こえてきた。それと同時に野生の獣が上げるものとは明らかに違う禍々しい咆哮が空気を震わせた。
「……なんだ?」
「ようやく現れましたか? ただ私の退屈を殺すための供物にしては少々質が低そうですね」
アイリスは視線を先へと向け、面倒そうに腰の魔剣の柄に手をかけた。丘を越えて現れたのは巨大な体躯を持つオークの群れだった。その数、およそ二十。一般的な冒険者なら即座に撤退を選択するレベルの数だ。先頭の一体は俺たちの姿を見つけると、血走った目で巨大な棍棒を振り上げた。
「おい、アイリス! あれ、さっきのゴブリンより全然デカいぞ! しかもあんなにたくさんで徒党を組んでいる」
「数える必要はありません。ゼロになにを掛けてもゼロであるように、ゴミをいくら集めてもゴミの山にしかなりませんから。それともなにか? あの醜悪な肉塊に抱き締められて、その無価値な一生を終えたいという性癖でもお持ちなのですか?」
「あるわけないだろ! 助けてくれ!」
「はあ……本当に手間ばかりかかりますね」
アイリスは一歩前へ出た。オークたちが獲物を見つけた興奮で涎を垂らしながら突進してくる。大地が揺れ、土煙が上がる。
だが、アイリスは抜刀すらしない。ただ近づいてくるオークの群れを退屈な夕景でも眺めるかのような冷めた目で見つめていた。
「アイリス! 早く剣を!」
「うるさいと言ったでしょう。静かにしていなさい。私の美学を汚す不浄には剣を抜く価値すらありません」
最前列のオークがアイリスの頭上から棍棒を振り下ろす。直撃すれば華奢な身体など一溜まりもないはずだ。
ぱちん。
アイリスが指先を鳴らした。その瞬間、周囲の空気が凍りつくような魔力の圧壊を起こした。
「剣気・千界塵殺」
攻撃と呼ぶにはあまりにも静かで、あまりにも一方的な消去だった。
アイリスを中心に目に見えないほど細かな剣の気が全方位に爆散した。オークたちは悲鳴を上げることすら許されなかった。巨大な体躯が目に見えない彫刻刀で一瞬にして削り取られたかのように賽の目に――そしてさらに細かく解体されていく。
突進の慣性すら置き去りにして、肉の塊は空中で赤い霧へと変わり、地面に届く前に消滅した。後に残ったのは不自然なほど静まり返った街道と、一点の汚れもないまま立ち尽くす一人の少女だけだった。
「あ……ありえない」
俺は唖然として光景を眺めることしかできなかった。二十体のオークが指先一つで消えたのである。アイリスは抜刀すらしていない。ただ気を放っただけで存在そのものを否定したのだ。
「ふう……見てください。空気が少しだけ綺麗になりました。あのような汚物は視界に入るだけで網膜への冒涜ですからね」
アイリスは優雅に髪を掻き上げると、何事もなかったかのように俺の方へ歩いてきた。そして俺の足元に落ちていた唯一の燃え残りであるオークの牙を不満そうに蹴った。
「さて、エラー物質。今の光景を見てなにか建設的な感想はありますか? もし『すごーい』などという知能指数を疑うような言葉を口にしたら次の標的はあなたの心臓になりますが?」
「えーっと……そうだな。掃除の効率が良過ぎて家政婦としての才能も最高級だね……とか?」
俺が冷や汗を流しながら答えると、アイリスは一瞬、本当に殺すかどうかを迷うような目で俺を凝視した。数瞬後、彼女は深い深い溜め息を吐いた。
「貴方のその……死を怖れない無知ゆえの不敬。ある意味では神に愛されているのかもしれませんね。もちろん、その神というのは酷く悪趣味な神なのでしょうけれど」
アイリスは踵を返すと再び歩き出した。
「ほら、さっさと歩きなさい。この先にあるのがランタナという名の街です。人間が集まって無意味な喧騒と汚物を作り出している場所ですが――今の私には休息が必要です。あなたの顔を眺め続けて蓄積された精神的な毒素を浄化するための休息がね」
「はいはい。宿代は俺がなんとかするからさ」
「当然です。貴方が私のために働き私は貴方の代わりに敵を殲滅する。本来なら不平等な取引ですが、私が慈悲深いばかりに成立してしまっているこの現状に、毎日感謝の祈りを捧げなさい。もっとも貴方の祈りが届くのは地獄の底でしょうけれどね」
毒を吐きながらもアイリスの歩幅は、ほんの少しだけ俺が歩きやすいように調整されているような気がした。いや、単に彼女が歩くのを面倒臭がっているだけかもしれない。というか表情を見る限り後者の確率が圧倒的だ。
丘を越えると――ようやく人の営みを感じさせる石造りの街並みが見えてきた。活気ある市場、行き交う馬車、そして冒険者たちの姿だ。
「ようやく街か……まずは飯だな。アイリス、なにが食べたい?」
「贅沢は言いません。貴方の存在を一時的に忘れさせてくれるほど強いアルコール。それから私の肌に触れても許される程度の清潔なシーツ。それ以外を提供するようなら、その場で街ごと切り捨てますわ」
「物騒過ぎるだろ! まあ、頑張って探すよ」




