大切な人
「…………戸波くん」
肌寒い夜風が僅かに吹き込む、仄暗い空間にて。
そう、彼の背後で呟く。彼女の言葉の真偽、その詳細――それは、私には分からない。……ただ、もし本当であれば、私のすべきことは――
「……それで、なんで俺を返してもらおうと? こんな最低な男、あげると言われても願い下げだと思うんすけど」
すると、ほどなくそう問い掛ける戸波くん。うん、至極尤もな質問だ。真偽はどうあれ、自身が最低と認識している元恋人とヨリを戻す理由なんて皆目ないように思うのだけど。
そして、どうやらその問いは想定していたようで、クスッと笑いこちらへ近づいてくる中野さん。そして――
「……うーん、それがね。確かに、あれにはほんとびっくりしたし、酷いとも思ったんだけど……でも、よくよく考えたらあれって私のためだったんだよね。だったらまあ、そろそろ許してあげてもいいかなって」
「…………は?」
直後、冷えた声が洩れる。戸波くん――ではなく、私の口から。……は? 許す? 勝手に軽蔑して勝手に離れたのは貴女でしょう? なのに、いったいどの口がそんな――
「――高月ちゃん、だよね? 今までお疲れさま、私の代わり。でも、もう貴女の役目は終わり。良かったね、小夜から解放されて。だから、これからは新しい恋でも見つけ――」
「…………へっ?」
すると、ふと彼女の言葉が止まる。そして、ポカンと声を洩らす私。と言うのも――
「……すみません、先輩……そろそろ、限界だったみたいっす」
そう、低い声で呟く戸波くん。と言うのも――彼の拳が、目を疑うほどに彼女の頬を思いっ切り捉えていたから。
「………………え」
ややあって、ポカンと呟く中野さん、いったい、何が起こったのか――まさしく、そういった表情を浮かべていて。……まあ、おおかた察せられるけど。よもや、『この自分』が殴られるなどとは露ほども思っていなかったのだろう。
「……まあ、そうなりますよね。俺自身、未だにちょっと驚いてます。あの時も、そして今も――こんなことをしても、何の反省も後悔もない血も涙もない自分に」
「……っ!! な、なんでよ小夜! やっぱり怒ってるの!? 私が、貴方を振ったことを!! でも、それはもう――」
「――ああ、そんなことじゃないっす。むしろ、それに関しては申し訳ないと思ってるくらいですから。今更ではありますが、あの時は軽蔑させてしまい――最低な男と付き合わせてしまい、本当にすみませんでした」
「……っ!? じゃ、じゃあなんで――」
「――なんで? そんなの、決まってますよ」
すると、そんな応酬の後ふっと息を吐く戸波くん。そして――
「――貴女は、明確に牙を剥いた。俺にとって、誰より大切な人である高月先輩に。それに耐えられず、最低な俺は思いっ切り殴った――ただ、それだけのことです」




