19 レオナード視点-4
※レオナード視点
宿の部屋は、想像をはるかに下回っていた。壁の塗装はところどころ剥げ落ち、窓の桟には埃が積もり、床板は歩くたびにギィ、と軋む。ベッドの寝具は薄汚れていて、どこか湿ったような匂いがした。
「ちょっと……このシーツ、本当に洗ってあるの? 汚らしいわ!」
「食事もこれだけ? しかもこのスープ、具が全然入ってないじゃない!」
「まったく、これでお金を取るなんて。商売の良心がないんだねぇ」
ソフィアもその両親も、顔をしかめながら文句ばかりを並べ立てる。
僕はもはや返す気力もなく、ただ黙ってスープを口に運んだ。
ぬるく、味気ない。
だが、これが今の自分たちの身の丈なのだと、嫌でも思い知らされる。
翌朝。まだ夜明け前の薄闇の中で、ソフィアの母がため息をついた。
「はぁ……寝心地が悪くて、ちっとも熟睡できなかったわ。マリアがいた頃は、ピナベーカリーも繁盛していたし、もっとマシな宿に泊まれたのに」
まるで呪文のように繰り返される『マリアがいた頃』という言葉が、耳障りで仕方がない。
(そのマリアに、一番ひどい仕打ちをしたのはお前らだろう……!)
僕は何も言わず、荷物をまとめて乗り合い馬車に乗り込んだ。三人の不平不満を、ただ右から左へと聞き流し続ける。馬車が揺れるたびに腰に鈍い痛みが走り、ため息が漏れた。どこまでも続く道のりが、果てしなく遠く感じられた。
昼を過ぎたころ、ついにサンテリオ侯爵領の領境門が見えてきた。磨き上げられた白い石造りの門には、精緻な彫刻がびっしりと彫られている。
門の前では、領境を守る騎士たちが静かに警戒の目を光らせ、役人が乗客の荷物を手際よく確認していた。僕たちの荷物も調べられたが、特に問題もなく、すんなりと通してもらえた。
そして――サンテリオ侯爵領の門を抜けた瞬間、思わず息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは、まるで別世界の光景だった。磨き上げられた石畳の大通りには、色とりどりの商店が軒を連ね、どの店の窓も華やかに飾られている。ショーウィンドウには、宝飾品やバッグ、靴、香水、化粧品――見る者の目を奪うものばかりが並んでいた。
人々はみんな、洗練された装いで通りを行き交い、魔導馬車が風を切るように滑り抜けていく。路地の奥からは焼き菓子の香ばしい匂いが漂い、魔導スピーカーからは軽やかな音楽が流れていた。
笑い声と商人の呼び声が混ざり合い、街全体がひとつの華やかな舞台のように輝いて見える。
「すごい……これがファッションの都、サンテリオなのね!」
ソフィアが、子どものように目を輝かせた。
一番賑わう大通りの先――その中でもひときわ目を引く建物があった。
五階建ての大理石の外壁が陽光を受けて白く輝き、磨かれた窓ガラスがきらめく。
まるで貴族の邸宅のようなその建物こそ、『サンテリオ服飾工房』だった。
金の看板には、優美な筆致でその名が刻まれていた。
入口には花が飾られ、豪奢な魔導馬車が何台も横付けされては、上品な客たちが乗り降りを繰り返していた。女性たちは流行のドレスを身にまとい、男性もまた仕立ての良いスーツを着こなしている。
「これが……マリアが働いているサンテリオ服飾工房……」
僕は思わず、息をのんだ。
胸の奥に、熱いものがこみ上げる。
(マリア! 君のためにはるばるやってきたよ。そうさ、僕は被害者なんだ。きっちり謝れば、優しいマリアのことだ。きっと、許してくれるに違いない)
そんな思いを胸に、受付のカウンターへと向かう。
「すみません、マリアさんにお会いしたいのですが……」
僕がそう言うと、受付嬢は一瞬だけ眉をひそめ、丁寧な笑みを作った。
「恐れ入りますが……ご予約のないお客様はお通しできません。マリア先生は現在、ウィルミントン侯爵夫人を接客中です」
「待ってください、そんな冷たいことを言わないで。私は妹なんです。ソフィアが来たと伝えてもらえれば、きっと会ってくれるはずです!」
ソフィアは胸の前で両手を組み、潤んだ瞳を上目づかいに向けた。大きなピンクダイヤのような瞳が涙を含み、淡いピンクブロンドの髪が艶やかに揺れる。
誰が見ても愛らしく、計算された『庇護すべき妹』そのものだった。しかし、そんな見た目だけ可愛い仕草など、受付の女性には全く通用しない。
「……困るんですよね、そういう嘘をおっしゃる方が多くて。サンテリオ服飾工房のトップデザイナー、マリア先生にどうにかして会いたくて、身内を名乗る方が後を絶たないんです」
受付の女性は、事務的な口調で冷ややかに言い放ち、眉をひそめた。