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妻の日記を読んでしまった結果

 アレクトは馬車に乗り込む妻の背を見て、ため息をついた。


(一年経ったが、いまだに彼女のことが何もわからない)


 アレクトには昨年、政略結婚した妻がいる。

 名はセリスティーヌ。

 アレクトの五歳下の二十三歳。とても美しい女性だ。

 こぼれそうなほど大きな青の瞳、瞬きをするたびに震えるまつ毛。

 透けてしまいそうなほど色白で、柔らかで癖のある金の髪はいつも輝いている。

 その儚い見た目から、社交界では「幻の精霊姫」と呼ばれていた。

 ヴァルモント公爵家の末娘で、皇族との結婚も噂されるような人だ。

 そんなすべてを持った公爵令嬢が、しがない伯爵家であるアレクトの元に嫁いできた理由は正直よくわからない。

 彼女の父であるヴァルモント公爵とは、アレクトが十代のころからの既知だった。


『まだ結婚相手が決まっていないなら、うちの娘はどうだ?』


 そんなふうに結婚を提案されたのが二年前。

 二十六歳になっても浮いた話一つないアレクトのことを、ヴァルモント公爵は心配したのかもしれない。

 最初は冗談だと思っていた。

 しかし、あれよあれよという間に話は進んで、昨年、セリスティーヌはアレクトの妻となった。

 多くの男たちが涙をのんだ中、アレクトは美しい妻を手に入れたのだ。

 だが、一つだけ問題があった。

 アレクトが超がつくほどの奥手だということだ。


「たしか、セリスティーヌはお茶会だったか?」


 アレクトは家令に尋ねた。

 尋ねる必要はない。彼女の予定はしっかりと記憶している。しかし、家令の口から何か新しい情報が出るのではないかと、つい予定を尋ねてしまうのだ。


「はい。ご親戚の方が帝都にいらっしゃるため、ヴァルモント公爵家にお出かけになられました」

「ああ、そういえばそう言っていたな」


 アレクトは思い出したふりをして頷く。

 この話は二十三日前にセリスティーヌ本人から聞いていた情報とまったく同じだ。

 それは朝食の席だった。


『従姉が訪ねてくるそうですので、実家に行ってきてもよろしいでしょうか?』

『構わない。君の好きなように』


 愛らしい声で尋ねられ、アレクトができた返事はそれくらいだ。

 十六歳のときに両親をはやり病で亡くし、それから結婚するまでの十年間、がむしゃらに働いてきた。

 恋愛などする暇もなく、同世代の女性の扱いなどわからない。

 友人から恋愛のあれこれを聞くことはあったが、両親から継いだ伯爵家を潰さないことに必死で、別世界のことのようだと聞いていた。

 そんなアレクトに、美しい妻を前にしていまさら何ができようか。


 自身の不甲斐なさを感じながら、アレクトは妻を乗せた馬車が小さくなるのを見守った。


 ***


 アレクトは屋敷に戻ると、悶々とした気持ちを抱えたまま歩く。

 セリスティーヌは恩義のあるヴァルモント公爵家の末娘。

 そして、ヴァルモント公爵は早くに両親を亡くしたアレクトをここまで導いてくれた恩人だ。

 この一年、アレクトはセリスティーヌとの距離の取り方に悩んでいた。

 アレクトが経験豊富であったならば。そう考えることも多い。しかし、今までの人生を悔いて何になろうか。


(セリスティーヌもこんな男よりも、もっといい男と結婚したかったのではないか)


 アレクトは小さくため息をつく。

 世の中にはアレクトよりも地位が高くスマートないい男がたくさんいる。

 セリスティーヌほどの美人であれば、選びたい放題だっただろう。

 考えすぎるのは悪い癖だとわかっているが、アレクトは思考を止めることができなかった。

 ひとり屋敷の廊下を歩く。

 考え事をするとき、アレクトはよく屋敷の中を歩いていた。


(そういえば、よくここでセリスティーヌと鉢合わせていたな)


 この先には庭園が一望でいる部屋がある。

 亡き母のお気に入りの場所で、今はセリスティーヌが気に入って使っていることが多かった。

 ふと、気になってアレクトはその部屋へと足を向けた。

 いつもであればこの部屋に訪れることはない。

 安心して扉を開けることができるのは、セリスティーヌが不在だからだ。

 廊下で出くわしただけで、なんと声をかけていいのかわからないのだからしかたない。

 彼女がいるかもしれない部屋に堂々と入る勇気はアレクトにはなかった。

 扉を開けた瞬間、花の香りに包まれる。


(外に出たみたいだな)


 窓の外には庭園の花々が咲き誇っている。

 春という季節もあってか、色とりどりの花が視界に広がった。

 そして、部屋の中の花瓶にも花が飾られていた。結婚前にはなかった光景だ。セリスティーヌが望んだのだろう。


(花が好きなのか)


 アレクトは部屋に飾られている花をまじまじと見た。

 花のことはよくわからない。しかし、彼女の好きなものであるのならば少し知識を入れようと思った。

 アレクトは部屋の中を歩き回る。

 調度品の多くは変わらないが、少しずつセリスティーヌの好みが反映されていた。

 窓際の小さなテーブルに本が置かれているのを見つけて、アレクトは足を止める。


「これは……」


 見たことのない装丁だ。

 表紙にタイトルはない。

 書庫のほんだろうか。

 アレクトはなんとなしにその本を開いた。


『今日の旦那様も尊い』


 アレクトは一行目の文字を読んで、思わず本を閉じる。


(今のは……なんだ?)


 アレクトは再びゆっくりと本を開く。


『今日の旦那様も尊い。なぜこの世には音を記録する道具がないのかしら? もしもそんな素晴らしい道具が発明されたら暁には、旦那様の「そうか」を一番に記録しようと思うわ』


 アレクトは何度も目を瞬かせる。


(記録……? これは……日記なのか?)


 美しい字体で書かれている。この字には見覚えがあった。――セリスティーヌの字だ。

 しかし、その内容は目を疑うようなものだった。


『昨夜も睡眠チャレンジ大成功。今日は旦那様の頬を三度も突いてしまったわ。わたくしの勝ちね。こんなにドキドキしたのは初めてで、なかなか眠りにつけなかったわ。でも、旦那様の頬は柔らかかったからまたチャレンジしようと思う』


 アレクトは再び本を閉じた。

 理解が追いつかない。


(睡眠チャレンジ……?)


 アレクトは己の頬を撫でる。

 もちろんセリスティーヌに頬を突かれた記憶はない。

 アレクトとセリスティーヌは別の寝室を使っていた。

 しかし、寝室同士は隣だ。鍵のついていない扉でつながっているため、互いに行き来をすることは容易い。

 アレクトは一度も出入りをしたことはなかったが。


(これは本当に彼女が書いた日記なのか?)


 この屋敷で日記の持ち主など一人しかいない。

 使用人が日記を書いていたとして、こんな場所には持ち込まないだろう。

 しかし、日記の内容があまりにもセリスティーヌのイメージとかけ離れていたのだ。

 彼女はいつも穏やかで静かだった。

 信じることができず、アレクトは再び日記を開く。


『旦那様とレストランに行ってきたの。とてもおいしかったし幸せな時間だったわ。やっぱり旦那様のお顔を見てとる食事は最高なの。お母様方に晩餐を誘われるけど、断ってしまうほどよ』


 書かれた日付の日、たしかにアレクトとセリスティーヌは二人でレストランに行った。彼女の父――ヴァルモント公爵に勧められたレストランだ。


(私の顔に何があるんだ……?)


 アレクトは何度も鏡に映った己を見る。母親譲りの黒い髪と父親譲りの赤い目。どこにでもいる男の顔だ。これを見て、セリスティーヌは楽しいのだろうか。

 彼女くらい美しいならわかる。アレクト自身、セリスティーヌとの食事は緊張するものの、幸福なじかんだからだ。

 しかし、アレクトは彼女ほどの美貌は持ち合わせていない。だから、意味がわからなかった。

 日記には続きがあった。アレクトは目を通す。


『帰りに見た屋台がずっと頭から離れないの。一度でいいから食べてみたいわ』


(屋台のほうを見ていたが、そういうのが気になっていたのか)


 セリスティーヌは由緒正しき公爵家の令嬢だ。屋台の料理など口にしたことはないのだろう。


(今度、誘ってみるか)


 彼女が屋台の食事を口にする場面は想像もできない。

 だが、彼女が希望するのであれば、誘うのも悪くないと思った。

 アレクトは日記をそっともとの場所に戻し、部屋をあとにした。


 ***


 セリスティーヌはティーカップを持ち上げて微笑んだ。

 ベルガモットの香りに包まれると、いい気分になる。久しぶりに帰ってきた実家は結婚前と何も変わらない。

 セリスティーヌが気に入って使っていたティーカップで飲む紅茶は格別だ。

 専属のパティシエが作ったスイーツも文句なしのおいしさだった。


「どう? 新婚生活は」


 テーブルを挟んで向かいに座るセリスティーヌの二歳年上の従姉――マルセラが尋ねた。

 彼女は母方の従姉で帝都から離れた領地に住んでいる。

 社交シーズンになるとこうしてヴァルモント公爵家に泊まりに来るのだ。

「今年こそいい男を捕まえる!」が彼女の口癖だった。何件もの見合いを断り、最高の夫を探しているのだとか。

 彼女の王子様はいまだ現れていない。

 地方に住む彼女と会うのはセリスティーヌの結婚式以来だ。

 セリスティーヌは笑みを深めた。


「毎日とても楽しいわ」

「本当に? セリスティーヌは皇族と結婚するものだと思っていたから、婚約したときも結婚したときもびっくりしたわ。今もびっくりしているくらいよ」

「わたくしには皇族の妃だなんて務まらないわ」

「そんなことないわよ。あなたの美貌なら、ただ隣に立っているだけでじゅうぶんなくらい」


 マルセラはときどき面白いことを言う。

 立っているだけで皇族の妃は務まらない。

 セリスティーヌは末娘。甘やかされて育った自覚がある。だから、妃という責任が伴う役割は荷が重すぎるというものだ。


「みんなが言っているわ。セリスティーヌには伯爵夫人ではもったいないって」

「あら? そんなことないわ」

「それに、あなたの旦那様ってとっても堅物だって聞いたわ。大変ではなくて?」

「とても真面目で優しい方よ」


 セリスティーヌはにこりと笑った。

 セリスティーヌの結婚を心配するのはマルセラだけではない。友人たちや社交界で顔を合わせる人には同じような質問を何十回とされている。

 しかし、セリスティーヌにはわからなかった。夫のアレクトはとても真面目で、とても優しい人だ。

 みんなは堅物と言うけれど、政略結婚であるセリスティーヌにも誠実で浮いた話一つない。

 浮気症の皇子たちに比べたら十分すぎるだろう。


(それに……わたくしの好みど真ん中ですもの)


 セリスティーヌはアレクトのことを思い出し、うっとりと頬を緩めた。

 切れ長の目にはまった神秘的な赤の瞳。黒く艶やかな髪。

 彼の唇が薄いところもセリスティーヌの好みだった。

 長めの前髪のせいで、みんな彼の目鼻立ちが整っていることに気づいていないのだ。

 しかし、それはセリスティーヌのみが知っていればいいと思う。余計なライバルが増えては困る。


(何より、あの柔らかな頬……)


 先日の夜のことを思い出し、セリスティーヌは身もだえた。


「セリスティーヌ、どうしたの? 大丈夫?」


 心配そうにマルセラが顔を覗き込む。


「あら、いやだわ。わたくしったら」


 セリスティーヌは慌てティーカップを口につけた。


「伯父様も伯父様よ。セリスティーヌにはもっと相応しい人がいたと思うの」

「そんなことはないわ。お父様はわたくしのことを思ってくれているもの」

「セリスティーヌは昔から優しい子ね」


 マルセラはセリスティーヌを過大評価する癖がある。

 セリスティーヌはいつだって望みどおりの人生を送っているというのに。


「わたくしのことより、マルセラお姉様のお話が聞きたいわ。今年の成果はいかが?」

「あら? 聞いてくれる? それがね、一昨日の夜会で―─……」


 お喋り好きのマルセラは、それから時間が尽きるまで語った。

 セリスティーヌのお尻が痛くなるまで。

 紅茶でお腹がたぷたぷになるまでである。


 ***


 セリスティーヌは慌てて帰路についた。


(遅くなってしまったわ)


 家族やマルセラから晩餐に招待されたが、断った。

 やはり、食事はアレクトの顔を見てとりたい。彼の顔を見ながらの食事ではないと採れない栄養があるのだ。


(待っていてくれているかしら? でも、無理はしてほしくないわ)


 アレクトがお腹を空かせてセリスティーヌを待っている姿を想像するだけで胸が痛い。

 それならば、一人で食事をとったほうがましだと思えた。

 セリスティーヌは馬車を降りると、人影を見つける。―─アレクトだ。

 屋敷の前で佇んでいた彼は、セリスティーヌを見つけるとゆっくりとセリスティーヌのもとへと歩いてきた。

 セリスティーヌの胸が高鳴る。

 夕日に照らされる彼が、とても素敵だったのだ。まるで一枚の絵画だ。

 なぜ、セリスティーヌには絵の才能がないのだろうか。見たままを描けたら、毎日が幸せだっただろう。


「旦那様、どうなさったのですか?」


 いつもであれば食事をしている時間だ。

 もしくは、仕事中か。

 落ち着いた声でアレクトが言う。


「君を待っていた」

「わたくしを……?」

「今日はご実家で晩餐を?」

「いいえ、辞退してまいりましたの。もともと予定にはございませんでしたし」

「これからは君が好きなようにしたらいい」


 アレクトは優しい。

 おそらくセリスティーヌが実家で食事をとって帰ってきても怒らないだろう。

 しかし、少し寂しくもあるのだ。


(お食事を一緒にとりたいと思っているのはわたくしだけなのかしら?)


 セリスティーヌは眉尻を下げた。


「だが、一人だと味気ないから、君が帰ってきてくれてよかった」


 アレクトの言葉に胸が跳ねる。

 セリスティーヌは思わず顔を上げた。アレクトの顔がわずかに赤い。夕日のせいだろうか。


「旦那様はどうしてこちらに?」

「君がご実家で食事をしてくるなら、外で済ませてこようかと思ったんだ」

「まぁ……! そうでしたのね」


(入れ違いにならなくてよかったわ)


 セリスティーヌはホッと胸を撫で下ろした。


「……今日は久しぶりに街の屋台にしようと思ったんだが、どうだろうか?」

「屋台……? いいのですか?」


 セリスティーヌは目を見開いた。

 セリスティーヌは屋台で食事をとったことがない。

 幼いころからずっと気になっていたのだ。


「ときどきああいう食事が食べたくなるんだ。君の口には合わないかもしれないが、今日は付き合ってもらえないか?」

「はい。よろこんで」


 セリスティーヌは目を細めて笑った。


(屋台……。しかも、旦那様と。今日は素晴らしい日だわ)


 セリスティーヌはアレクトを見上げる。

 長い睫毛が影を作る。

 前髪に隠れた横顔が美しい。


(今日の旦那様はいつもの千倍優しいわ)


 いつもだってとても優しいのに。こんなに優しくなったら、セリスティーヌはまた恋に落ちてしまいそうだ。


「そのかっこうでは目立つから、着替えてくるといい」

「ええ、急いで着替えてまいりますから、お待ちくださいね」

「急がなくていい。ゆっくりで」


 アレクトがわずかに笑う。

 千倍、いや一万倍は優しい。思わずうっとりと、別世界に行ってしまいそうになるのを堪える。

 セリスティーヌは慌てて屋敷へと戻った。


 ***


 アレクトはセリスティーヌの背中を見送る。


(誘ってしまった……)


 今日は一日中誘い文句を考えていたような気がする。

 屋台に行く口実を考えるのは難しかった。しかも、彼女に日記を見たと悟られてはいけないのだ。


(怪しまれてはいなかったな)


 嬉しそうに笑った彼女の顔を思い出す。


(誘ってよかった)


 アレクトは屋敷を見上げる。

 最上階の窓からセリスティーヌが手を振っていた。

 アレクトはぎこちなく手を振り返す。

 思わず、アレクトから笑みがこぼれた。


 FIN

最後までお読みいただきありがとうございました^^

最後に★で応援していただけると作者の活力になります。

感想もお待ちしております。

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― 新着の感想 ―
えっ!おわり!? もっとつづきを!!!!と思わせるとてもホッコリできるお話でした。 このちょっと読み足りないもどかしさがたまらないです。
 ある種の両片想いストーリーですね。堅物でその気も無かったところに降ってきた縁談の裏側には、ヒロインの等身大の憧れがあって、隠されていた想いに気付いた時主人公の一歩踏み込んでいこうという気構えに繋がる…
電車の中なのに、ニマニマが止まらない!久しぶりに恋愛ジャンルで続きが読みたくなりました!是非、作者様の機会があれば連載希望です!
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